そこには明らかに異形と分かるものがいた。人間では表情の判別すら容易ではあるまい。蜥蜴人……リザードマンと呼ばれる種族は人型のトカゲとも呼べる外見をしている。それはどことなく蛇に似通っている。
「……ザリュースさん、族長が呼んでます」
声をかけられたのは氷を切り出したかのような剣を持ったリザードマン。湖のほとりに立って何かをまいている。魚たちが顔を出してそれをぱくついている。
「何事だ? 兄貴が俺を呼び出すとはーーわざわざ人を使いに出すんだ。重要なことなんだろうな」
そう、この男の兄は族長だ。しかし本人の地位は高いわけではない。風習上、一族から外に飛び出した旅人の地位は低いのだ。それでも、その貴重な知識を頼りに呼び出されることはままあること。
あの厳格な兄だ。家族間のつまらないことで人を使いにすることはないだろうと、少し誇らしく思いながら。
「それが――なにか出たらしくて」
「何か? アンデッドか」
「いや、人間のメスみたいなんですけど。なにかおかしいらしくて」
「……人間か。これは厄介かもしれないな」
この部族――というか、リザードマンは一つのところにとどまって暮らしているため、しかもそれがトブノ大森林なんて魔境に居を構えているから人間を見たことがない。このザリュースは外の世界で見たのだ。そして、強い人間は強いのだと知っている。
ザリュース自身もかなりの使い手である。そんじょそこらの冒険者相手にも引けを取るつもりはない。構えるリザードマンの至宝『フロスト・ペイン(凍牙の苦痛)』は伊達ではないのだから。
「でも、一人ですよ? そんな、祭司長や狩猟頭まで連れてきて何を話すのやら」
「……祭司頭や狩猟頭まで? 兄者が集めているのか」
「ええ、でも――」
「急ぐぞ。兄者が危急だと判断したのだ、生半可なことではない」
「戦争が起きるんですか?」
「――兄者ならば、最善を尽くしてくれるさ」
そして、集落における一番大きな家の扉をくぐる。呼んできたものがついてくるのはここまでだ。ここに居るものは一定以上の階級の者、そして旅人の知識を期待されるザリュースのみ。
「よく来たな、ザリュース」
「ああ、こうして会議を開くくらいだ。大事なのだろうな、兄者」
「……そうだ。我らが部族の未来に関わることだ」
「何が……」
「少し待て、皆がそろってから話すことにする」
そして、小声で。
「ザリュース、お前の魚を――ああ、なんだ」
「養殖だ。育てて食べる、もう少しでうまい魚が食えるぞ兄者」
「そう、その養殖だ。今引き上げて……どれだけ喰わせることができる?」
「それは、兄者。もしやここを捨てる事態を想定して……」
「そうなるやもしれん――」
しばし話していると全員がそろった。
「では、会議を始めよう。この者が人間が東を統べる巨人を倒すところを見たのだ」
「へい。確かに見やした。あれは……悪魔です。人間とは、あれほど恐ろしいものだとは――」
見れば、彼は会議に出席するにふさわしくないほどにボロボロだ。外傷がないところを見ると直接狙われたわけでなく、命からがら逃げ帰ってきた――
「奴は、東の巨人を――」
そして、彼が見た一部始終を話す。それはグに同族をぶつけて殺す遊びだった。背筋がぞっとする、などといったレベルではない。そもそもが怪談ですらたしまない彼らのこと、もはや悪鬼羅刹かそれ以上に思える。そんなことをしようと思うような悪辣さだけでも恐ろしいのに、その気になればこの部族ごとき踏み潰せる強さを持っている。
「で、どう思う? ザリュース。俺たちは人間を見たことがない。お前だけなのだ、知っているのは」
「旅人などに聞かずとも、祭祀頭に聞けばよいのでは? 祖霊より受け継がれた知恵を持っている方々の方が信用が置けるだろうて」
「私が知っているのは人間もまた位階魔法を使うということ。そして、私が使えるのは第二位階までだが、人間は第三位階まで使える者もおるらしい。だが、第三位階では東の巨人は殺せまい。その人間が使ったという魔法が何だったかと言うのは見当もつかない。これ以上は実際に人間と関わったザリュースに聞きたい。……そのような人間が存在するのかどうか」
「……それは、難しい。一人で東の巨人を打ち倒せる人間など見たことはない。俺が見た者ではどうあがいても不可能であったと思う。だが、人間の中でも英雄級――アダマンタイトと呼ばれる強者ならば」
「それができる、と? ザリュース」
「分からん、兄者。トロールを投げて殺せるような存在など、それこそおとぎ話に聞くドラゴンくらいのものだ」
「だが、この者はそれを見たと言っている」
「--ほ、本当ですぜ。あっしは本当にこの目で見やした。あの悪魔のような人間が笑みを浮かべてトロールを投げるところを!」
「その彼女は今、どうしている?」
「それで緊急に集まってもらった。今、その人間のメスはここに向かっているらしい」
悲鳴が満ちた。
「静まれ! 仮にも率いるべき頭がうろたえてどうする。部族のため、これからどうするのかを決めなくてはならん」
「……兄者。俺に行かせてくれ」
旅人が何を――という声が上がる。
「お前を死地に送れと言うのか、この兄に」
「だが、適任は俺だ。人間は血筋を重視する。族長の弟ならば地位は兄に次ぐ位置だと思ってくれるだろう。決して不快な思いはさせないはずだ」
「だが……」
「逆に聞くが、俺以外にできるか? 人間の風習を知らない者が知らないうちに無礼を働いたとして、さらに火に油を注がないなどと誰が言える」
もちろん、ザリュースは人間であれば風習は同じというわけでないことは知っている。上の言葉は自分にも当てはまる。けれど、他者が行くよりは。
「~~ッ! 分かった。族長として命じる。ザリュースよ、その人間のメスの相手をせよ。族長の印籠を与える。飲める要求ならば全て飲んでしまえ。俺はここに居る。要求されたならばすぐに通すんだ」
「兄者、それは――」
他からも非難の声が出る。
「ならば、要求を突っぱねろと言うのか? 危険なのはザリュースだけではない。機嫌を損ねたならば、玉遊びの玉には誰がなる――もしかすると、小さなものの方が持ちやすいということはあるかもな」
場がざわついた。小さなものとは、それはつまり……
「異論はないな?」
ねめつけた。静まり返る……これ以上の案など誰にも出せなかった。
「やほー。こんにちは」
手を振る少女。だが、ザリュースはこの少女が東の巨人を屠ったマジックキャスターだと知っている。
「ああ、こんにちは。ここへは何の用で?」
内心の恐怖を押し隠す。それはお世辞にも上手とは呼べない代物ではあるが、種族が違う。顔色など、そうそう読めはしない。……魔女が相手でさえなければ。
「……ふふ」
ぞろりと唇を舐め上げる。たとえ相手がトカゲであろうが、知能を持つならば恐怖を嗅ぎ分けるのは容易だ。弱い部分を抉ることこそ魔女の最も好むものなのだから。
「--答えていただきたい! ここはトブの大森林と呼ばれる場所。冒険者であろうが大した用がなければ、いや用があったとしても部隊を組んで捜索するはずのところである。なぜ、あなたはここに来たのか」
詰問するような口調。だが、彼とて虚勢を張らねば立っていることさえできないのだ。一見、いたいけな少女に見えても己を縊り殺すことなど容易と知っている。そんな相手に平常心など保てない。
「あは。心配しないでよ、そんな顔をされるといじめたくなっちゃうわ。私はただあいさつに来ただけなの」
言葉を反芻する。
「あいさつ――とは。あの、あいさつか」
「ええ。引っ越しそばも持ってきたの。でも、ここで開けると砂が入りそうね」
「そ、そうか。では、俺の家へ案内しよう」
「んー。あなたってオス? それともまさかまさかのメスだったりするのかしら」
「いや、普通にオスだが」
「あら、もしかして私若いオスと一緒の部屋に閉じ込められちゃう?」
「……確かにあなたは人の価値観では美しい方なのだと思う。が、俺としては鱗のないメスにそういう感情は抱きにくいというか……その、謝った方がいいのだろうか」
「そこで謝るやつは女の敵ね。いらないと思うわ。で、あなたのおうちはどこ?」
「ああ、こっちだ――」
しばし、歩く。ふんふんと物珍し気に家々を見ている彼女。もしかして、観光気分なのか? と思う。
「ここだ」
「うーん、なんかどこも変わらないっていうか。壁はあるけど清潔感はないわね。ま、ゴミが転がってないから及第点にしましょうか」
一応はかなりいい部屋である。族長の弟と言うことで融通してもらえた、とザリュースは思っているが、実際には強いオスがいい部屋を取るのは当然といった考えからだ。ゆえに族長に次ぐ家を与えられた。
「ああ、気に入ってもらえたようでよかった。泊ったことはないのだが、話に聞く限りでは高級宿泊施設はすごいというのを聞いていてな。合わなかったらどうしようかと」
「ま、ボロという点ではどこも同じよ。クーラーも冷蔵庫もありゃしないらしいわ」
「クー? れい・ぞ――」
「いや、気にしなくていいわ。そう言えば、自己紹介もしてなかったわね。私の名前はルサルカ・シュヴェーゲリンよ。
「あ、ああ――俺はザリュース・シャシャ。”緑爪”族長のシャースーリュー・シャシャの弟だ」
「そう、ところで名前で長いと偉いとかあるのかしら?」
「いや、ないが」
「ならいいわ。じゃ、おそばね。はい」
テーブルの上にドンと置かれた。待て、今出したあれは噂に聞く最上級のマジックアイテム、インフィニティハヴァサックではないのか。というか、なぜ湯気が立っているのだこれは。まさか魔法の力とでもいうのか。というか、お椀自体が価値のあるものだぞ。冒険者の宿では当然食事は器に盛られて出されるが、こんなきれいな形はしていない。というか、なんでこんなに色鮮やかなのだ。いやいやまて。これをどうしろと。食え、と? この真っ黒い汁につかった細長い灰色の物体を。――ザリュースは混乱の極みにあった。
「ええと、こういうのって私も食べた方がいいのかしら」
相手を見ると首をかしげている。なんというか、聞きかじりの知識で行動した子供だ。予定を決めずに気分次第で適当になにかやっている。
「これがソバと言うものですか? 見たことがありませんね――この二本の木の枝は一体? これも食べるのでしょうか」
「あは。やあねえ。おはしは食べないわよ。こうやってつまむの」
とりあえず自分も食べるようにしたらしく、汁の中から枝を使って器用に細長いものをすする。うんうん、この味――とうなづいている。
「……う……ううう……!」
背筋に冷や汗が流れる。そう、彼は部族全ての命を背負ってここにいる。この”箸”というもの、うまく扱えなくて機嫌を損ねてしまえば――
「く……ぬぐーー」
慎重に爪に箸を乗っける。普段であれば気性の温厚な彼であっても箸を地面に叩きつける。箸の扱いと言うのは意外と難しい、しかも彼の指は長く、鋭い爪がある。不可能とすら思える難事、剣を持つ方がよほど簡単だ。
「ふぅぅぅ……ッ!」
神経を集中させ、箸を折らぬよう親指と人差し指で挟む。恐る恐る汁の中に突っ込む。ザリュースは今、全神経を集中させて箸を使おうとしていた。
「ぐ――おおっ!?」
だが、現実は非常だ。持ち上げようとしてツルリと滑った。わずかに液面から持ち上がったそばは汁の中へと落ち、かちゃんと音を立てて汁が飛び散った。顔を蒼くして恐る恐る彼女の表情をのぞき込む。
「……ぷぷっ」
笑っていた。
「あは、ごめんねえ。あまりに真剣だから面白くって。はい、フォーク。そうね、箸って使うの難しいわよねー」
「あ、ああ。ありがとう」
最初から出せ、などとは思わない。そんなことよりも安堵の方が心の大半を占めていた。これなら使ったことがある。
「……」
だが、心の余裕ができると一気にこのソバとかいうものに対しての恐怖心が湧き上がってくる。変なものを食べる、というのは実は人間も蜥蜴人もあまりしない。まずかろうといつも食べている方を食べてしまうのだ。それこそ何でも食べて、食えないならば毒抜きしてまで食べるなんてものは日本人くらいのものである。
「--はむっ!」
だが、やはりここで引くことなどザリュースにはできはしない。普段生魚をそのまま食べていて、熱なんて通さないからこういう熱いものは苦手だ。だが、やらなければならない。口に入りきらなかったそばが歯で切られてつゆに落ちる。
「これは……」
あまり口には合わなかった。というか、味が濃い。変な匂いがする。黒いのは醤油だが、そんなものは聞いたことすらもないのだ。
「あら? 口には合わなかったようね」
「い、いや。それは――」
「ま、別にいいわ。やってみたかっただけだし」
「そ、そうか」
とりあえずは大丈夫だったかと安どする。しばし、笑いあって。
「――気が変わったわ。始めはあなたたちを始末するつもりだったの。ほら、近くに変なのがいたら掃除したくなるでしょ?」
「は?」
気楽に、世間話のようにお前らを皆殺しにするつもりだったと言われて目が点になる。雰囲気にのまれて流しそうになるが、気力を奮い立たせる。忘れかけていたが、この女はグを遊びで虐殺した魔女なのだ。
「だけど、8日待ってあげる。その間にあなたたちが生きるに値するものを見せてくれたら、あなたたちを波旬とは違う”人間”だと認めてあげるわ」
席を立つ。
「ふふ。ああ――そうそう。私がここに来れたのはアレを見ていた子が走った跡を追ったの。偵察は、むしろ情報さえ得られればいいのだから処分するべきだったわね。エージェントならよく使う手よ? 用済みの味方なんて足手まといだもの、敵に情報を奪われるくらいならむしろ爆弾で追手ごと消すとかね。それだと役立つし」
気楽に最悪な作戦を言ってしまう。そんなもの、盗賊ですら考えつかないだろうとザリュースは思う。
「お、お前は――」
「頑張りなさい。それすらしないのなら、拷問して殺してあげる。自分が好きすぎると努力しなくなるのよね、ありのままの自分が好きだとかなんとか。あの小娘が言っていたように、もしこの世界があれの法の下にないのならできるはず。でないと、この森から消滅させるわよ。あなたの部族も、他の部族も」
さらりと言ってしまうのは先と同じ。だが、視覚化するほどの殺意がザリュースに吹き付ける。憎んでいる、およそ考えられないほどの憎悪を煮詰めたような漆黒の気配。……ここまで何かを憎むことができるのか? この底知れぬ怨嗟を前にザリュースごときが何を言えるのか。
「我らが部族、そして他の部族までも手にかけると? リザードマンを絶滅させる気なのか、あなたは――ッ!」
それでも、気を失いはしない。偉大なる祖霊にかけて、彼の後ろには愛すべき家族が、同族がいる。
「ふふ。うふふふ――」
黒い渦が彼女の背後にできる。突風が吹いたと思ったら、彼女の姿はすでになかった。
櫻井一家はエンリのおかげで波旬じゃない人間がいると納得しました。でも、他の面子は一定の譲歩は示しても心から彼らの判断を信じるなんてしません。実は蓮がいなければグループ毎に分解して互いに殺し合うような連中です。ちなみにルサルカはぼっち。