クレマンティーヌ:ズーラーノーン十二高弟のひとり。衛生管理は隠れ家の外で。
カイ:自称鬼畜の助平おやぢ。ブルーシートがやけに落ち着く。
カジット・バダンテール:ズーラーノーン十二高弟のひとり。隠れ家の住み心地に疑問あり。
◇◆◇
カジットと従者はクレマンティーヌとカイの後に続いてズーラーノーンの隠れ家に入った。
「大したおもてなしはできないよー」
クレマンティーヌはいつものように軽い調子だがその視線に油断はない。
カイは無言で目を伏せている。
隠れ家は依然殺風景で、前回カジットたちが訪れたときとそう変わりはなかった。
いくつか見慣れない棚がカジットの目に留まる。
おそらくは食料庫なのだろうと見当をつける。
他の変化といえば二つあった筈の寝台がひとつしかないが、特に問題だというものでもない。
クレマンティーヌが棚の開き戸を開け水差しを取り出す。
直接水差しから水を飲むと、カジットたちに笑顔を見せた。
「水だったらあるけど……飲む?」
その視線に油断はなくカジットと従者の挙動を注意深く観察している。
カジットが小さく手を振り不要の意を示すと、クレマンティーヌは残念そうな顔をして水差しを棚に片付けた。
「きれーな水がいつでも飲めるっていーよねー」
落ち着いた様子のクレマンティーヌだが、壁を背にして立っておりカジットたちへの警戒感を隠さない。
そして彼女が警戒する意味をカジットは理解している。
ズーラーノーンにおける今のクレマンティーヌの立場は不確かなものだ。
冒険者のモモンに殺されたと聞いたがいつの間にか蘇っており、彼女を蘇らせたという怪しげな男と共に、短い期間で国を跨いで大移動している。
その足取りは
(エ・ランテルではスレイン法国からすぐにでも逃げたい口振りだったが……?)
聞けば帝国貴族に作らせた下部組織と連絡を取り儀式を観覧したという。
加えて
「長く
「んー? そんなに長居してたっけ?」
クレマンティーヌは指を曲げて数を数える振りをする。
「言われてみりゃ、けっこー住んでたわ。住み心地が良いからかなー。さっすがズーラーノーン」
元漆黒聖典でもあるクレマンティーヌの身体能力は高い。
彼女が十全の状態にあれば、スレイン法国を除く周辺国家への工作活動は容易く行える筈だ。
漆黒聖典の第九席次だったときと同じように。
問題はこの英雄級の力を持つ性格破綻者を使役するには、その人格の根本を捻じ曲げる必要があるということだ。
忠誠や使命といったものはクレマンティーヌから最も遠い事象だ。
金や権力といった実利も、快楽殺人者であるこの女の行動を縛ることは出来ない。
最も現実的な手段は精神魔法で支配することだが、そのためには相応の能力を有する術者が必要になる。
バハルス帝国には逸脱者であり
帝国魔法省の
そんなパラダインが皇帝ジルクニフからの命を受け、この女を支配して使役していると考えれば納得が行く。
長く
そこまで考えてカジットはもうひとつの不明要素であるカイを見る。
カイは暗い部屋の隅で、革でも紙でもない滑らかな青い布に腰を降ろして考え事をしている。
その様子は都市の裏道に住み着く浮浪者のそれだ。
たとえば、この中年男が実はパラダインの弟子か何かであり、クレマンティーヌの目付け役として行動を共にしているのだろうか。
先に見せられた
帝国の信仰系
それでも帝国――皇帝ジルクニフが国家の切り札として秘匿していた可能性はある。
そんなカイはクレマンティーヌと違ってカジットたちに対する警戒感を見せていない。
ただ自分の思考に没頭しているだけのように見える。
(
カイの背後に居て何かを企てている者が皇帝なのか、あるいは別の存在なのかは分からない。
それでも
その後のクレマンティーヌとカイの動きを見れば、背後に隠れている者の姿が推測できる。
それがズーラーノーンと盟主の方針だった。
「――んでー。帝国は今年、どんな言いがかりをつけて王国に喧嘩を売ったのかなー?」
軽い調子でクレマンティーヌが聞いてきた。
その様子からは精神支配を受けているとは思えない。
カジットは王国に届いた帝国の宣言の内容を簡潔に伝える。
帝国がアインズ・ウール・ゴウン魔導王率いるナザリックを国と認め同盟を結んだこと。
エ・ランテル近郊は元来アインズ・ウール・ゴウン魔導王の地であり、その返還を要求すること。
かの地を本来の所有者の元に取り戻すため、帝国は義に従い王国に侵攻すること。
これはズーラーノーンが王国貴族から得た情報である。
無論、カジットは
「ナザリックねぇ……」
クレマンティーヌが忌々しげに呟く。
「どうした? クレマンティーヌ」
カジットが反応したが、彼女は小さく
「……うんにゃ。でー。そのアイ……アインズーゴー? ってのは何者?」
「アインズ・ウール・ゴウンだ」
うろ覚えをカイが強い調子で訂正した。
憮然とした表情でクレマンティーヌがカイを見るが、中年男はそれ以上何も言わない。
僅かの沈黙の後にカジットが説明を始める。
「この法国風の名を持つ
「……王国戦士長って、ガゼフ・ストロノーフ?」
クレマンティーヌの紫の瞳が目敏く光るがカジットは無視した。
周辺国最強と噂される戦士の名が気になったのだろうが、元漆黒聖典の暴力欲求に付き合う気はない。
「……報告によれば、エ・ランテル近郊の農村で、法国の特殊部隊と思しき集団の襲撃を受けた際、慈悲深い
「それがアインズ・ウール・ゴウン?」
カジットは頷いた。
「法国の特殊部隊って、
「戦士長の私見で六色聖典と語られただけだ。部隊名についての情報は得られておらん」
「ふーん。暗殺だったら火滅だろうけど場所が屋外っぽいから陽光かなー」
「……それが元漆黒聖典の読みか?」
「さーねー」
カジットもクレマンティーヌと同じスレイン法国出身であるが、特殊部隊に関する知識は元漆黒聖典ほどは持ち合わせていない。
たとえ雑談程度でも得られる情報は重要だ。
「その
クレマンティーヌは涼しい顔で物騒なことを口にする。
「
「……逃げられた、ね」
そのクレマンティーヌが明らかに納得していない様子で呟く。
言葉こそ返さなかったがカジットは彼女の読みに感心した。
報告には戦士長の私見として、実は法国の特殊部隊を殲滅させたのではないか、と書かれていたからだ。
アインズ・ウール・ゴウンという名は記憶には勿論のこと、カジットがこれまで読み調べてきた文献にもなかった。
その名をカジットが初めて耳にしたのは、あのエ・ランテルの墓地だ。
カジットを死に至らしめた第七位階の魔法を使うメイドが従い忠義を尽くす存在と言わしめた名前。
前に
必要以上の情報を渡すことを避けたのだ。
だが今回は違う。
「アインズ・ウール・ゴウンの名が
今度はクレマンティーヌの紫の目が輝く。
「……で? それだけじゃないんでしょー。カジっちゃんが掴んでる“
「ふん。
クレマンティーヌがニヤリと笑う。
カジットは少し考える振りをしてから
「……
「
「皇城に
「なんかそーゆー噂は聞いたね。与太話だと思って聞き流しちゃったなー」
クレマンティーヌはぺろりと舌を出す。
彼女の言葉に納得はしなかったが情報の裏が取れたと安堵した。
帝都に
「その
「
クレマンティーヌが戸惑う様子を見せる。
それはそうだろう。
「
「それって……皇帝はアインズ・ウール・ゴウンの居場所を知ってたってこと?」
「そう判断して間違いないな。ちなみに皇帝が向かった先はナザリック地下大墳墓という遺跡だそうだ」
「墳墓……遺跡……」
クレマンティーヌの笑顔が顰め面に変わり、カジットは笑みを浮かべる。
「最近発見された未踏の遺跡でな。どうやらアインズ・ウール・ゴウンの住処はそこらしい。……どうしたクレマンティーヌ? 何か心当たりでもあるのか?」
顰め面のクレマンティーヌが無言のままカイを見た。
我が意を得たりとカジットは言う。
「そうだ。そこの男が監視しておった遺跡だ」
カジットは言外に
そのことに気がついたのかクレマンティーヌがカジットを睨みつけ、カイは無言で自分の思考に埋没していた。
カジットは話を続ける。
「その遺跡の主と謁見した皇帝は謝罪をし、詫びとして建国の手助けと、それに伴う帝国との同盟を提案したのだ――」
そして次の言葉こそがクレマンティーヌに渡すべき情報だった。
「――アインズ・ウール・ゴウンと名乗る
クレマンティーヌの目が驚愕で見開かれた。
「
「ああ。なんでも墳墓の奥深くにある水晶の玉座に座った
目が見開かれ顔を蒼白にしたクレマンティーヌ。
その唇は小刻みに震えている。
彼女の様子を見てカジットは確信した。
「……ふん。その様子では間違い無さそうだな。そうだ。アインズ・ウール・ゴウンはおぬしを殺した漆黒のモモンの正体よ」
恐怖、嗜虐、観察、思考。
様々な感情が渦巻く中、沈黙がズーラーノーンの隠れ家を支配した。
しばらくの沈黙の後、ようやくクレマンティーヌが口を開く。
「……
「おや?
「でなきゃ、こんな
クレマンティーヌの強い口調は明らかな虚勢だ。
「
カジットは視線を逸らすことなく言う。
クレマンティーヌが怒りと、そして恐怖に顔を歪めるのが分かった。
たとえ今のクレマンティーヌにカジットを殺せる力があるとしても、それを実行する愚に彼女は気づいたのだろう。
その上、ズーラーノーンとアインズ・ウール・ゴウンなる
「……
「まだ分からん」
クレマンティーヌがズーラーノーンを身内と呼んだことを意外に思いながらカジットは嘘を
「
実はズーラーノーンとしての対応は決まっている。
だが、この二人にそれを教える必要はない。
現時点では、クレマンティーヌは外部の人間なのだ。
「ところでカイ、よ――」
カジットの問いかけに珍しくカイが興味を含んだ視線を向けた。
「おぬしはどうだ? アインズ・ウール・ゴウンという名を知っている様子だが、おぬしが捜している者と関係があるのか?」
カイはしばらく沈黙した後に口を開く。
「……その名前には聞き覚えがあるぜ。だがなぁ、それは人や
「じゃあ何の名前?」
クレマンティーヌの問いにカイは返事をしなかった。
彼女は不満げに頬を膨らませる。
「よくある名ではないのか?」
カジットは名前の法則や傾向の全てを知っている訳ではない。
それでも地域毎の特徴や由来が存在することくらいは知っている。
“アインズ・ウール・ゴウン”が一般的な名詞として機能している地域がないとは言えない。
そう考えたがカイの鋭い視線に貫かれ、思わずカジットは息を呑んだ。
だがカイは何も言葉を発しない。
「そうでないなら――」
言い訳をするようにカジットが言葉を続ける。
「――人の物ではない名を持つ
その言葉は苦し紛れだったがカイの意識には引っかかったらしい。
カイはおもむろに視線を下げると再び沈思黙考し始めた。
そして、そんな中年男の反応に
カジットは己の目的のため、男女の感情を捨てていた。
そんなカジットであってもクレマンティーヌとカイの間に漂う湿った関係性は判る。
それは性行為という肉のつながりだけに拠るものではない。
共犯者である一方、クレマンティーヌはカイに依存し、その依存が元漆黒聖典の性格破綻者を安定させているように見える。
二人の年齢差から親子の情を連想し、カジットの胸にわずかばかりの郷愁の念が宿った。
「……ふん。まあ良い。どうやらおぬしの相方には考え事があるようだな」
そう言うカジットをクレマンティーヌが睨みつけた。
だがその視線に力はなく、かつての狂気も殺意も感じられない。
カジットはフード姿の従者をちらりと見た。
従者が小さく頷くのを見て、カジットは踵を返す。
「……帰んの?」
「
スレイン法国風の慣用句にクレマンティーヌは顔を顰め、カイは反応をしなかった。
カジットは不敵に笑うと従者と共にズーラーノーンの隠れ家を出る。
帝都の共同墓地は夜が明けつつあった。
盟主の指示通りに情報は流した。
カジットが抱えている不安は大きいが、それはどうすることもできない。
後はクレマンティーヌたちがどう動くのかを見るだけだ。
◇◆◇
カジットとその従者はズーラーノーンの隠れ家を去った。
彼らの気配が完全に消えるのを待って、クレマンティーヌは寝台の縁に腰掛けた。
今は明け方近くだと体内の感覚が教えてくれる。
しかしクレマンティーヌの頭は恐怖に満ち寝ようとする気にならない。
カジットたちに漆黒のモモンの吸血鬼討伐や大悪魔撃退について聞く余裕はなかった。
モモンの正体である
その
クレマンティーヌはあの
知っているのは彼女の背骨を抱き締め
(まさか
クレマンティーヌには確信があった。
その被害は千や二千で留まるとは思えない。
五千か、あるいは一万を超える人の死が、あの
皇帝が戦争を仕掛けた狙いはおそらくそこだ。
アインズ・ウール・ゴウンの脅威を内外に知らしめること。
(あの皇帝のことだからね。狙いはそれだけじゃない、か……)
そう。
どこまでいっても
どれほど強大であろうとも生者を憎む存在と同盟を結べば、その国は周辺国からの強い反発を受けるだろう。
バハルス帝国内であれば鮮血帝と称されるジルクニフの強権で反発を抑えられる。
それでも、その権力は周辺国にまでは及ばない。
下手をすれば背後に位置するカルサナス都市国家連合が敵に回り、帝国は王国を飲み込むどころではなくなる。
そしておそらく最も大きく反発するのは、周辺国で最強の軍事力を誇るスレイン法国だ。
いかな皇帝といえど法国に敵対するとは思えない。
(となるとモモンに関しては
たとえ周辺諸国と仲違いしたとしても帝国の版図拡大に有用だと皇帝が判断したのだろうか。
あるいはアインズ・ウール・ゴウンの魔法によって皇帝が操られているのか。
どちらもありそうだとクレマンティーヌは思う。
(
バハルス帝国とリ・エスティーゼ王国との戦争に、スレイン法国が直接関与した事はない。
だが、今回は
アインズ・ウール・ゴウンは法国の虎の子である特殊部隊を敗走、若しくは全滅させたとカジット・バダンテールは言っていた。
そんな
それがなくても法国にとって
最強の特殊部隊、漆黒聖典か場合によっては神人や先祖返りを動かしてでもアインズ・ウール・ゴウン討伐に向かう。
法国にとっての人類至上主義はそれほどまでに大きい。
アインズ・ウール・ゴウンとスレイン法国が争うということは――。
(あれ……これって美味しくね? もしかして運が向いてきた?)
クレマンティーヌの口元が緩む。
自分と敵対した
自分を追っている大国は
その間にクレマンティーヌは
だが、もしスレイン法国がアインズ・ウール・ゴウン討伐に動かなかったら――。
(……ありえない。
クレマンティーヌはその考えを打ち消した。
いずれにせよバハルス帝国は
アインズ・ウール・ゴウン――モモンの敵であるクレマンティーヌは帝国にとっても敵となる。
クレマンティーヌはズーラーノーンの隠れ家をぐるりと見回す。
薄暗いが食べる物も飲む物も寝る場所もあって、室内は暑くも寒くもなく快適だ。
だが、法国があの
クレマンティーヌは寝台から降りると考え込んでいるカイの傍らに立つ。
「どうやらキナ臭くなりそうだねー。しばらく
カイの返事はない。
「
「……クレマン。お前ぇの肉壺ガイドは終わりだ」
「どうせ向こうだって私らの動きを見ながら、どこにひれ伏すか探ってるだけだろうし……え?」
カイの言葉に思わず言葉が止まる。
「お前ぇの仕事は終わったんだよ。後は好きにしな」
クレマンティーヌは強張った笑顔でカイの顔を覗き込んだ。
不健康そうな中年男の表情には、いつものヘラヘラした雰囲気はない。
「……なに? 寝不足で頭おかしくなった? ローブル聖王国とかさ。まだ行ってない国あるよ? あそこだったら聖王女とか聖騎士とか
クレマンティーヌはカイが興味を惹きそうな言葉を並べる。
それでもカイの顔は緩まない。
「まさか――」
クレマンティーヌは驚愕に目を見開いた。
「――まさか行くつもり!?
「ああ。その
「や、止めたほーがいーよ。殺されるって、絶対」
「……そうかも知れねえなぁ」
そう言ってカイが目を伏せるが、思い留まる雰囲気ではない。
「ゼッタイ罠だってば。名前を知ってる奴をおびき出そうとしてるだけだよ。カルボマーラ――様を捜すのは私も手伝うから。ほら。王国や帝国に居なかったんだからさ。きっと南の方だよ。南にはカイちゃんみたいな顔した人が住んでるって聞いてるよ」
饒舌に、そしていつにも増して懸命にクレマンティーヌは語った。
単なる噂話で良い。
嘘八百で構わない。
いつものヘラヘラ顔に戻ればいい。
それでこの話はお仕舞いになる。
だが、カイの顔はいつもの顔には戻らなかった。
クレマンティーヌは自分の顔が引き攣っていくのが分かった。
何故だ。
何故、欲しいものが指の隙間から零れ落ちてしまうのか。
今まで自分は何も手にすることはなかった。
親の愛情も、行動の自由も、生きる目的も。
唯一の拠りどころだった強ささえ持ち合わせてなかった。
手に入るものは殺した物だけ――。
「仕方ねえな……」
そう呟いたカイが懐に手を入れて黒い紐の塊を取り出した。
「こいつをくれてやる。退職金にはちと高ぇがな」
それはエ・ランテルの宿屋で見た魔法の
今、使っている魔法の
怒りでクレマンティーヌの視界が真紅に染まった。
「馬鹿にすんなあああぁぁぁ!!!!」
クレマンティーヌはカイの手を払った。
マジックアイテムが部屋の隅まで弾け飛んだ。
クレマンティーヌの剣幕に驚いたカイが目を見開いている。
「だぁかぁらぁ、このクレマンティーヌ様が行くのを止めろって言ってんだよぉ!」
カイが静かに目を伏せる。
下種な中年男のしおらしい仕草がクレマンティーヌを更なる怒りへと誘った。
「あの
そう言いながらもクレマンティーヌは頭の隅で自嘲する。
己の力がカイに遠く及ばないことは充分すぎるほど理解していた。
それでも言葉にするしかない。
「ちょっとばかり強いからってなぁ――」
腰に下がっていた
何人もの命を奪った魔法武器が薄暗い室内で紅く煌めいた。
だが、その輝きはあまりにも頼りなく見える。
「何でも好きにできると思うなあああぁぁぁーーー!!!」
クレマンティーヌは
カイが煌めくその刃を掴む素振りは見せない。
<疾風走破><流水加速><能力向上><能力超向上>。
クレマンティーヌはありったけの武技を発動させた。
何度も何度も
目を伏せた助平親父がダメージを受けた様子はない。
「この糞ったれがっ!」
クレマンティーヌは
鋭い金属音が暗い石造りの室内に響き渡る。
「アンタの
それが間違いだと知っている。
そして次の攻撃が効かないことも。
クレマンティーヌは絶叫を上げながらカイに拳に叩きつけた。
敗北感を、無力感を、恐怖感を拳に握り込んで中年男の顰め面に叩き込む。
何度、拳を叩きつけてもカイの顔は傷つかない。
「ちぃっ!!」
クレマンティーヌの指の骨が折れた。
折れた骨が皮膚を突き破って両腕とカイの顔を血塗れにする。
カイから貰った能力を隠す指輪が更なる激痛を生んだ。
それでもクレマンティーヌは殴り続ける。
そんな自傷行為を止めるようにカイが彼女の両手首を握った。
拘束するでもなく制御するでもなく、ただ柔らかく
自分を気遣うその握り方が、強者の余裕が、クレマンティーヌには気に入らない。
「はっ。私がアンタに惚れてるとでも思ったのかよ? なんでも言うことを聞くって?」
カイの血色の悪い顔を正面から見据える。
いつもヘラヘラと人を小馬鹿にするように歪んだ口元が、今は固く引き結ばれていた。
そんな強者の苦しんでいる素振りにクレマンティーヌは虫唾が走る。
「私が満足してるとでも思っていたのかよ! あぁっ!!」
額をつき合わせてカイを怒鳴りつけた。
その声は酷く掠れていた。
クレマンティーヌは上半身を大きく後ろに反らせると、全力でカイに額を叩きつける。
眼前に火花が散った。
遠慮も加減も無しの一撃に自らの頭皮が破れ、頭蓋が砕けたのが分かった。
激痛が、流れる血が、クレマンティーヌの視界を遮る。
僅かに見えるカイの顔に傷がついた様子はない。
それでもなお攻撃を、感情を、止めることができない。
「手前ぇの粗チンなんざ、これっぽっちも気持ちよくねぇんだよ!」
もう一度、血塗れの頭を叩きつけようとして、クレマンティーヌの身体がカイに引き寄せられた。
クレマンティーヌは自分がカイに抱き締められたことを理解する。
血の滲んだ視界に映るカイの顔は険しく歪んでいた。
「なぁめぇるぅなあああぁぁぁ!!!」
カイの顔にクレマンティーヌは歯を立て、全力で噛み締めた。
両顎の前歯が何本も砕け飛ぶ。
カイは反撃をしなかった。
そしてクレマンティーヌを抱き捕らえ逃がすこともしない。
ただ彼女の攻撃を受け止めているだけだ。
もがく度にクレマンティーヌの両腕から、額から、口から、大量の血が流れ落ちた。
この増長を咎めればいい。
この間違いを正せばいい。
殴られていることに怒ればいい。
怒って、怒り狂って自分を殺してしまえばいい。
陰毛を剃り落としたあの短剣の切れ味なら、肉体だってバラバラに切り刻めるだろう。
「くそぉ、くそぉ、くそっ、くそっ、くそおおおぉぉぉっ!!!」
どれだけの間、殴りもがき続けたのか。
クレマンティーヌの身体がついにその動きを止めた。
身体をカイに預けるようにして、血塗れで折れた骨さえ見える両腕はだらりと下がる。
金髪を血に染めたクレマンティーヌは、その腕を上げることも己の身体を起こすこともできなかった。
そんな彼女をカイは静かに寝台に横たえる。
クレマンティーヌの荒い呼吸音だけがズーラーノーンの隠れ家にしばらく響いた。
「……カイちゃんはカルボマーラ……様が、大事なんだ……」
クレマンティーヌは切れた唇を動かし、折れた歯から抜ける息の中、かすれた声でカイに尋ねた。
「当たり前だぁ」
「私……よりも?」
「……当たり前だ」
「そう……」
分かっていたが聞きたくない答えだった。
これは嫉妬だ。
怒りも、敗北感も、無力感も、全てはカイが捜すカルボマーラに対するものだ。
エ・ランテルで生き返ってから、共に戦って食べて眠って情を交わして何度も殺そうとして、今も殺そうとした関係。
それでもカイは自分の物にならなかった。
目の前にカルボマーラが居たら文句を言っただろう。
武器を振るって返り討ちにあって殺されても納得できた。
だが、その怒りを向ける相手は見つからず自分が欲したカイに剣を向けた。
死ぬくらいの怪我はしたとクレマンティーヌは思う。
このまま死んでも良かった。
だが、カイの治癒魔法は
割れた頭蓋が、折れた指が、砕けた前歯が元通りとなり、痛みが違和感と共に消えていく。
横になったままカイに尋ねた。
「あの遺跡に……カルボマーラ――様が居るの?」
自分の声がやけにはっきり聞こえた。
傍らに立つカイが答える。
「……さあな。だが初めて掴んだ手がかりだ。確認しなくちゃあ先がねえ」
「別に確認しなくていーじゃん……」
「
言われてみれば宿屋の酒場でそんなことを言っていた。
口から出任せばかりの癖に無駄に義理堅いものだとクレマンティーヌは感心する。
その義理堅さで出来れば願いを聞いて欲しかった。
「……カイちゃんさー」
「なんだぁ?」
「遺跡に行くの、法国が……スレイン法国が、どう動くかだけ待ってくんないかな?」
法国がどう動けばどうするのか、はっきりとそれを決めた訳ではない。
ただ決断するための時間が欲しかった。
「ああ。いいぜ」
しばらくの無言の後、カイが提案を受け入れてくれた。
「……ありがと」
初めてクレマンティーヌはカイに感謝した。
◇◆◇
クレマンティーヌは濡れた髪をタオルで拭いながら扉を開けた。
ズーラーノーンの隠れ家の冷えた空気が火照った肌に心地良い。
「やっぱ、お湯で身体が洗えるってサイコーだわ」
クレマンティーヌは先ほどまで自分が入っていた小部屋を見る。
薄暗い石造りの室内に、軽くて硬い象牙色の板で組み立てられた小部屋があった。
カイが所持していた魔法の
中にはバスタブとトイレが設置されており、バスタブではお湯で身体が洗えるという優れものだった。
これの設置によってズーラーノーンの隠れ家には弱点がなくなったとクレマンティーヌは思っている。
外はもう日が暮れているのか外出していた筈のカイがブルーシートに座り込んで食事をしていた。
クレマンティーヌはカイの傍らに置いている水差しを取り上げ、自分の喉を潤す。
「おかえりー。風呂上りの水は美味いねー」
クレマンティーヌは一糸まとわぬ裸身だがもはや気にするつもりはない。
バハルス帝国とアインズ・ウール・ゴウンが同盟を結んだと聞いて、クレマンティーヌは帝都の取締りが強化されると思っていた。
彼女はアインズ・ウール・ゴウンの敵であり、それを同盟国が許す筈がないからだ。
しかし、帝国はそれまでと同じく平穏で、帝国騎士団が捜査や取り締まりに奔走しているという話はついぞ聞かなかった。
しばらくの間、潜伏していたクレマンティーヌも、ちょくちょく外に出るようになり、やがては
つまりは元の安穏とした生活に戻ったのだ。
クレマンティーヌは夜に帝都の全域を散策しながら、たまに人殺しを行っていた。
カイは昼にどこかで路銀を稼ぎながら、武器屋の女主人に振られ続けているようだ。
昼型のカイが隠れ家に戻ってきたということは、外はクレマンティーヌの時間になったということだろう。
クレマンティーヌは自分の寝台で横になると、シャツとズボン、そして
いずれのアイテムもカイが買ってきた<
これで今夜、出かける準備は整った。
「なんか変わったことあったー?」
クレマンティーヌは
興味を惹く話があれば、それが出かける理由になる。
カイは食事の手を止めた。
「ハイドニヒのおっさんに会ったぜ」
邪教の神官をしていた帝国貴族の名前だ。
あのインチキ儀式以来、カイが国の情報を集めるために利用しているようだ。
「スレイン法国が帝国と王国に書状を送ってきたってよ」
「……なんて書状?」
クレマンティーヌは軽く尋ねた。
動揺を表に出すつもりはない。
「『法国に記録はなく、判断することができないが、もしアインズ・ウール・ゴウンが事実その地をかつて支配していた者だとするなら、その正当性を認めるものである』だとさ」
カイはそう言うと食事を再開した。
それを聞いてクレマンティーヌは驚き、安堵した。
驚きは、敵対行為を行った
安堵は、自分を殺した
スレイン法国が敵対を避けるほどの相手であるならば、自分が成す術もなく敗北したとしても仕方がないと慰めることが出来る。
スレイン法国もアインズ・ウール・ゴウンもその力を少しも失うことなく残ってしまった。
共倒れか、あるいはどちらかが致命的な被害を受けるというクレマンティーヌの予想と願いは裏切られた。
(どんだけ足掻いても、こうなるんだね……)
欲しい
そんな自分の宿命にクレマンティーヌは自嘲の笑みを浮かべる。
カイはアインズ・ウール・ゴウンに会うために、あの遺跡に行くだろう。
そして自分は何をしたら良いのか。
もそもそとシロメシを口にするカイを眺めながらクレマンティーヌは決断した。
◇◆◇