「……ダメでしたか。これでも俺、かなり強くなったんですけどね」
ハハ、と笑っているが、人の心の機微に疎いシグナムでさえ健が悔しさを隠しきれていないことがわかるほど、声に元気がない。
「やっぱり、シグナム先生は強いなぁ」
「当たり前だ。私はそう易々と負けることはできん」
「そうですか。でも次こそ絶対勝ちますから! これからもっと練習して、もっと強く……」
「進藤」
健の言葉をシグナムが彼女にしては低い声で遮る。
健にとってシグナムは厳しくも優しい先生だった。
だから今発せられた、底冷えするような冷たい声を聞くのは初めてで。
少しビクリとする。
それは健だけでなく、ヴィータとシャマル以外の者も同様だった。
遥か昔の、「道具」だった時の、無感情な声にも聞こえた。
「最後の一撃の意味を理解出来なかったか?」
先ほどと同じ抑揚で健に問いかける。
シグナムの言葉の意味を理解出来たのは、付き合いの長い守護騎士達、主である八神はやて、そして教導官という立場にいる高町なのはの4人だけ。
「意味って……意味なんか……」
健には理解が出来なかった。
いや、理解したくなかった。
それを理解しまったら、彼の信念が、理想が、全てが。
シグナムは残酷にも、続けた。
「お前では私に勝てん。未来永劫、な」
唇を咬む。
じわりと血の味が口全体に広がった。
「先の一撃で私とお前の力の差は理解出来ただろう。出来ないほど未熟でもあるまい。それとも本当に理解出来なかったか? だとしたら、見下げたぞ。進藤 健」
健には、言い返せない。
シグナムの言う力の差は、絶対的なものだと分かっているから。
努力どうこうの話ではない。
なにしろ何をされたのか、試合が終わった今でも分かっていない。
いくら努力しても、目を凝らしても、目に映るのは水面に映る月。
その月の裏側を見ることなど、到底叶わない。
そして彼女は続ける。
「お前の生半可な信念では私に勝つことは不可能だ。悪いことは言わん。私のことは諦めろ」
はっきりとした、拒絶の言葉を。
たまらず、健は逃げ出した。
道場を飛び出し、走る。
後ろから誰かの声が聞こえたが、健にはシグナム以外の声は、耳に入らなかった。
「あの、シグナム。さっきのは言い過ぎじゃ……彼だって努力してるんだし……」
「努力でどうにかなる話ではないだろう、テスタロッサ」
道場に取り残された部隊の人々。
健が道場を飛び出し、誰も声を発することなく時間が過ぎていったが、先陣を切ったテスタロッサ。
だがあっさりと切り捨てられてしまう。
「良かったん? シグナムの大事な教え子やったんやろ?」
「えぇ。これで良いのです。少しばかり遅くなってしまいました」
上を見る。
映るのは道場の天井のみだが、彼女の目に映るのは、果たして。
「私は、あいつの10年を、奪ってしまった」
逃げ出してから長い間走った。裸足で飛び出したものだから足は傷を負っている。
靴を履く余裕さえなかったというのに、今も竹刀を握りしめているあたりば、さすが長年の習慣と言えるだろう。
たどり着いた公園のベンチに座り、息を整える。
辺りはだんだんと暗くなり街灯がつきはじめ、太陽の時間の終わりを告げるかのようにカラスが鳴いている。
月の時間の訪れだ。
だが月は、まだ見えていない。
息を整え終えたところで立ち上がり、その場で竹刀を振るう。
聞き慣れた、心地よい風切り音が聞こえる。
いったいいくつこの音を聞いただろうか。
あの日から、素振りを欠かしたことはない。シグナムに勝負を申し込んだ、あの日から。
風邪を引いた時も、修学旅行の時ですら。
だがその努力は、全くの無駄だった。
追い付けると思っていた。
道場での動きを見ていた限りでは。
だが実際は彼女の力は、思っていたより遥か上。
何故あれ程の力を持っていながら、大会に出てこないのかは分からないが、とにかく、一生をかけても届かないことを理解してしまった。
健は、最近の自身の力の伸びなさについて悩んでいた。
高校の半ばまでは体の成長と共に竹刀の速度が上昇していたが、成長の終わりで前ほどの伸びがなくなっていた。
今の成長速度では、間に合わない。
シグナムを諦めたくない。
でも、どうしたら良いのだろうか。
ただこうして竹刀を振るだけでは……。
その時、背後で草の根を分けるような音がした。
振り返ったところにあったのは
――なんだこれ? 動いてるけど……
丸く、ぷよぷよとした物体が縦に跳ねている。
新しい玩具なのだろうか。
手に取って見てみようとしたら、それは跳ねて健の元へと飛んできた。
そして、何故か発光し。
「いっ………づぅ……!」
同時に、頭に激痛が走る。
そして「どこかで見た景色」が健の頭の中で映しだされる。
先ほどのシグナムの打ち込み、バニングス等と出会った時のこと、インターハイで戦った相手。
過去の記憶だ、と健は判断する。かなり鮮明に思い出されている。中には夕食で食べた料理の種類の味、匂い等もだ。
――これが、走馬灯というものだろうか。
だんだん痛みが全身に広がり、更に深く記憶を掘り起こされる。
シグナムとの戦いの15回目の黒星。
9回目の黒星。
3回目の黒星。
そして、初めての黒星。
健の意識が途切れる寸前、彼の脳に浮かんだ映像は。
師範に打ち込んだシグナムの、大きく弾んだ、彼女の胸だった。
八神はやて達一行が探していたロストロギアを見つけたのは、とある公園だった。
道場を出てしばらくして、スーパー銭湯に入ろうとした時のこと。
散布していたサーチャーから発見の知らせが送られてきた。
ただちに現場へ向かい、封印処理をしようとすれば、近くで倒れ意識を失った健の姿。
健の保護、ロストロギアの封印処理を終えて現在、テスタロッサの義母、リンディ・ハラオウン家で健の目覚めを待っている。
シャマルが彼の身体を診察した結果、異常はないそうだ。
今回、探していたロストロギアは報告によると人の魔力を喰らい、過去の記憶を見せるだけの危険度の低いものだ。そろそろ目を覚ましてもいいころだと思うが……。
そこに部下のエリオが報告を入れてきた。
健が目を覚ました、と。
近くにいたテスタロッサと共に、健が眠っていた寝室へ向かう。
「気が付いた? 気分はどうや?」
「公園で倒れてたんだよ。どこか痛むところは無い?」
このまま異常が発見されないようだったら、わざわざ魔法のことを話す必要もあるまい。
危険度の低いものだ。
管理局には現地人が巻き込まれたことは報告しなければならないが。
ただでさえ八神はやての部隊は色々な方面から睨まれている。また厄介なことになったなぁ、と悩みながら声をかけた。
健はまだ覚醒しきってないものの、八神達の存在を認識出来たようだ。八神さんに、テスタロッサさん、と確認するように呟く。
だが急に頭を左右に振り回し初めた。どこか痛むのかとテスタロッサが詰め寄ると、今度は違う、違うと何かを否定し始めた。
八神とテスタロッサの2人が落ち着くように宥める。すると今度は謝罪を始める。
視線もどこか安定しない。
チラチラと、あっちを見たり、こっちを見たり。
大半はテスタロッサに向けられていたが。
テスタロッサはその健の様子に動揺していたが、八神は冷静に健を観察していた。
一旦、落ち着くように伝え部屋を出た八神とテスタロッサ。
何かあれば部屋を出てすぐのところにいる新人達が助けに向かうように伝える。
「ねぇはやて、あのロストロギアは危険の少ないものじゃなかったの? あの様子を見る限りじゃ、ちょっとそう思えないんだけど……」
テスタロッサの言うことはもっともだ。
アレでは見る人によっては狂人にも思える。
「過去に何かトラウマになるようなことがあったのかもしらんな。それか、性格の改変を受けたか……。なぁフェイトちゃん。進藤くんと前に話してた時、どんな印象やった?」
「印象っていうと……人の目を真っ直ぐに見る人だなって。さっきはそれが全然なかったよ」
テスタロッサの感じた印象に、八神もだいたい同意する。
だが今回は……。まるで人が変わったようだ。性格の改変を受けたように。
「ちょっと本局で診断うけなアカンな」
「そうだね。そうしたほうがいいよ」
八神が観察して気が付いたことがある。それは。
――あの時、フェイトちゃんの胸をめっちゃ見てたんよなぁ。
八神の心の呟きは、外に漏れることはなかった。
健はロストロギアの影響で全てを思い出していた。
すなわち、自分の初恋の始まりを。
「自分が本当に好きだったものを」。
そこに、テスタロッサと八神が部屋に入ってきた。
シグナムの胸の映像を思い出していたとき、似た大きさのテスタロッサが入ってきてしまったのだ。
カッと顔が熱くなるのを感じる。
違う、自分がシグナムに惚れたのは胸が理由ではない。断じて、胸ではない。
今もテスタロッサの胸に視線が行ってしまうのは何かの間違いだ、と心の中で繰り返す。
テスタロッサが近くによる。
やや屈んだときに、胸に更に目がいってしまう。
テスタロッサとシグナムに申し訳なく思い、謝罪する。
そうしてるうちに2人は部屋から退出し、健はようやく落ち着く。
――そっか、俺……
自分の不甲斐なさが、泣けてくる。
シグナムが言った、自分の「生半可な覚悟」というのは、まさしく事実だったのだ。
ふぅ、と息を吐く。
シグナムには諦めろと言われた。
自分の動機は、極めて不純だ。諦めるほうが、2人の為なのだろうか。
でも、例え不純な動機だとしても健はシグナムを愛している。
諦めることは、出来ない。
伝えよう。諦めないと。
シグナムと一緒にいた2人がここにいるのだ。彼女もここにいるはずだ。
そう考え、戸を開いた。
そこにいたのは、八神はやてと、道場で顔合わせした4人。
「もう大丈夫なん? ちょぉ、話があるんやけど、えぇか?」
出鼻は、挫かれた。
八神達は全てを話した。
自分達が魔法の世界、ミッドチルダから来たこと。
今回は地球で発見されたロストロギアを封印処理するためにきたこと。
健がそのロストロギアの影響で倒れていたこと。
健にとってはあまりに荒唐無稽。
そばにいる少年少女、エリオとキャロの遊びに付き合っている、ということだろうか。
健は演技が下手であるし、子供の遊びに付き合うのは少々恥ずかしい。
どうしようか悩んでいると、頭に響く声。
(どや、これで信じてくれるか?)
声の主は八神だ。健にもそれはわかる。
だが耳で聞いたというより、頭に直接聞こえたように感じた。
(これは念話ゆーてな、テレパシーみたいなもんって考えてくれてえぇよ)
再び聞こえる八神の言葉。注視しても八神の口は、少しも開いていない。
「腹話術、ってわけじゃなさそうですね……」
(あはは……まぁ急に信じろって言われても困りますよね)
続いてスバル・ナカジマも同様に念話を送る。それでも健はなかなか信じない。
その後、色々な魔法を見せてようやく魔法の存在を認めた。
一番の決め手となったのは、妖精とも思えるほどの大きさの、リインフォースの存在であった。
八神は健に、現状の説明をする。
健がロストロギアにより、心に悪影響を与えている可能性があり、その診察の為にミッドチルダに連れて行きたい、と。
悪影響というのがなんであるかは健には分からなかったが、ここで1つ、疑問に思っていることを口にした。
「あの……シグナム先生も、魔法に関係する人なんですか?」
「あぁ、そのことなんやけど……」
「そうだ。ちょうどいい。お前に私のことを全て話そう」
八神が頷く前に、いつから会話を聞いていたのか不明だが、シグナムが割り込む。
そして語る。彼女の全てを。人間ではない、シグナムという存在のことを。
そうすれば、健は自身のことを諦めるだろうと考えた。
人の身でないシグナムには、「普通の恋愛」は出来ない。
だから健には、自分のことを諦めて欲しかった。
10年かかったのは彼女に恋愛の経験、知識がなく上手く伝えられなかったことと、魔法のことは話せなかったことが関係している。
今日やっと伝えることが出来る。シグナムは心の中で謝罪しつつ、語った。
語り終えたところで、シグナムも、健も、そこにいた人物は皆口を開かない。
「すまなかった。お前をずっと騙してしまって」
ようやく口を開いたのはシグナムで、出たのは謝罪の言葉だった。
健には、その謝罪が許せなかった。何故、謝るのか。
そのことに言及しようとも、口が動かない。
シグナムのことは、好きだ。
それは話を聞いた今でも変わらない。だが、心は理解を拒絶する。
好きになった人は、人間ではなかった。
それだけで前に踏み出せない。
謝るべきは、自分だ。
健は、シグナムではなく、自分自身を許せなかった。
「……すみません。今日のところは帰ります」
「あ、進藤くん!」
「すみません八神さん、診察の件はお願いします。また明日、ここに来ますから……」
結果、健はまた、逃げ出した。
それから3日後。診察を受けて異常のなかった健は、八神はやての指揮する機動六課で預かりの身となった。
何かあればすぐに治療を受けられるように。
2日を病院で過ごし、初めて機動六課の宿舎に泊まる。
久しぶりに竹刀を振ろうと、外に出た。
――魔法、か。
力を込めて、竹刀を振る。
心地の良い風切り音と、竹刀が上段から自分の目の前に移動しただけ、という事実だけが残る。
マンガのように、竹刀から何かが飛び出すようなことは無い。
だけど、健には魔力があるそうだ。それもなかなか大きなものが。
これを使えば、勝てるのだろうか。あの、シグナムに。
この3日間で健は自身を振り返った。
シグナムの胸に惚れ、10年竹刀を振り、そのシグナムは人間ではない。
我が事ながら、ヘンテコな人生だと思えた。
――だけど、それがどうした。
健は、意外にも「強者」であったようだ。彼のたどり着いた、最終的な結論。
『シグナム先生が人間でないプログラム体ならば、俺が年をとってもシグナム先生は若いままで、あの胸も健在ではないか』。
健は、かつての自分に、返り咲いた。
「シグナム先生」
「進藤か……」
隊舎に戻り、道行く人にシグナムの居場所を尋ね、こうして対峙している。
自分の意志を伝えるために。
「俺、この世界で生きていきたいです。強く、なりたいです」
健が望むのは、力。
シグナムに勝てるだけの力。誰かを守りたいとか、そんな綺麗なものではない。
だが、健の瞳に宿る炎は勢いを増していた。
強くなるという、絶対的な意志。
シグナムはそれを見て、そうか、とだけ呟いた。
「先生。また、俺に教えてくれませんか? 今度は、魔法を」
「……空いた時間でいいならな」
そう言って健は窓の外に目を向ける。
浮かぶのは、大小の2つの月。
あらためてここが地球とは違う場所なのだと感じさせる。
「ねぇ先生」
「なんだ?」
呼び掛けておいて、それっきり何も話さず月を見続ける。もう一度シグナムがなんだ、と問う。
すると大きく深呼吸をしてようやく口を開く。
「月が綺麗ですね」
と。
「月? あぁ、地球から見える月とは違うが、こちらの世界のものもなかなか雅なものだろう」
健はクスクスと笑い、そうですね、と言った。
こちらの世界でも、月は、綺麗だ。
「へぇ、見かけによらず進藤くん、ロマンチストやね」
「ロマンチストって、どの辺り? シグナムと進藤さんが仲直りしてくれたのは良かったけど」
「フェイトちゃん、それはね、進藤くんが月をじっと見つめながら言ったでしょ? あれは『あなたは月みたいに綺麗です』ってことなんだよ、きっと」
「そうなんだ。2人とも物知りだね」
「……あぁ、うん。ありがとう。
……すすがちゃんが恋しいわぁ」
綺麗な会話してるだろ……ウソみたいだろ……おっぱい目当てなんだぜ、それで。
というネタを遣りたかったですが、あんまり綺麗にまとまらなかった。おかしいなぁ。
次回からやっとOPI戦士になれる……。ただ六課襲撃編はある程度できているものの、そこに至るまでが全く考えてませんでしたので更新は遅くなるかも。
ちなみにはやてはロストロギアの影響でOPI好きになったと考えています。これがどう影響するのかは作者でもわかりません。無駄な伏線。
「月が綺麗ですね」は有名な話ではありますが、一応補足。
夏目漱石がまだ学校の教師をしていた時代、「I love you.」を生徒が「我君ヲ愛ス」と訳したのに対し、「日本人はそうは言わない。月が綺麗ですね、とでも訳しなさい。それで伝わりますから」とか言ったそうです。
シャイな日本人にとって素敵な訳しかたですよね。
なのはの考えも結構ニアピン?
著作権は……大丈夫なはず。作品ではありませんしっ!