蒼紅天使のマスカレード   作:GT(EW版)

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《紅の追憶1》馴染めない帰還者

 鏡の前には濃紺のブレザーと同じ色のスカートを身に纏い、胸元の赤いリボンを締めている少女の姿が映っている。

 灼熱の炎の如き真紅の髪を肩先まで下ろした少女は、異世界召喚された未来の記憶を持つ紅井クレナである。

 

 記憶にある限り、クレナが最後にこの制服を着たのは中学校に入学して間もない新入生の頃のことだ。

 私立校としてはありふれたデザインの制服だが、「C.HEAT」能力の覚醒に伴って変質した真紅の髪が、少女の装いの中に異質な雰囲気を醸し出していた。

 事故以来のクレナはこうして鏡の前に立つことも苦痛だったものだが、火傷跡を治した今の彼女が自らの容姿に絶望することはない。身長は150センチ中盤と中学三年生女子としては平均ラインであり、かつては全身に包帯でも巻いていなければ見れたものでなかった肌にも、事故前までの潤いが戻っている。こうして並べるとナルシストのようだが、元々美形の両親の遺伝子に恵まれていたこともあり、クレナは整った容姿をしていたのだ。

 尤も、未来の記憶にある十六歳になった白石絆ほどではない。性格の清らかさが全面に出ていたあの子の姿には、幾度となく癒されてきたものだ。そんなことを考えながらクレナがぼんやりとした意識で鏡を見つめていると、不意に彼女の自室のドアを叩くノック音が聴こえてきた。

 

「久玲奈、準備は出来たかい?」

 

 ドアの向こうから呼び掛ける声は、クレナの兄である紅井(すい)の声だ。その名前から、友人達からは少佐や大佐などというあだ名で親しまれているという余談である。

 その声にクレナは「はい」とこの間よりは声を出しやすくなった喉で返事を返し、ドアを開いた。

 

 

 

 ――紅井クレナが未来の記憶を手にしてから、二週間が経った。

 

 

 あらゆる穢れを焼き払う浄化の炎という「C.HEAT」能力によりクレナの身体は健常に戻り、退院する運びとなったのだ。その際には異世界で習得した「魔法」を行使し、医者の記憶やカルテを改ざんしたりとテロまがいなことを行ったものだが、とにもかくにもクレナはそうして二年に及ぶ長い入院生活に幕を下ろした。

 

 その過程では今まで面倒を見てくれた兄や両親とも向き合い、感謝の気持ちを伝えたものだがこれが今のクレナには複雑な心境だった。

 事故以来、紅井久玲奈という少女は、家族から向けられる愛情すら煩わしいと感じていたのだ。

 それには家族に対するコンプレックスや彼女自身の気性等複雑な事情もあったが、延々と自分の殻に閉じこもっていた。そのことについてクレナは都合が良いと思いながらも謝罪の気持ちを込めて頭を下げたつもりだが、彼らからは「今までごめんなさい……!」と涙を流しながらクレナを抱き締め、逆に頭を下げ返してきた。

 これにはクレナも戸惑うばかりだった。異世界召喚されて死んでいった未来の自分の意志を受け継いでいるクレナは、正直に言って家族との距離感を測りかねていたのだ。

 

 体感時間では六年ぶりに異世界から帰って来たクレナは、本物の家庭に馴染めない自分が居た。

 

 

「二人とも、朝ご飯出来てるわよー」

 

 一階から響く母の声を聞いて部屋の時計を確認すると、現時刻は既に七時を回っていた。一時間前の六時には起きてこうして鏡の前に立っていたのだが、気付けばもうそんな時間である。

 ぼやぼやと物思いに耽りながら身だしなみを整えている間に、どうやら一時間も経っていたらしい。

 だが急いでも朝食は逃げはしない。クレナは慌てることなく階段を降りると、そのまま母の居るリビングへと向かった。

 

「おはよう、ございます」

 

 兄彗と共にリビングへと入ったクレナは、そのまま視界に映った母の背中に挨拶をする。その声に振り返り、母は満面の笑みで「おはよう」と返してきた。

 テーブルを見れば、そこには既にクレナ達二人分の朝食が用意されていた。

 ご飯に味噌汁、ハムエッグに牛乳という質素だが定番の朝食メニューである。朝起きて色とりどりの朝食が待っていることがいかに幸せなことか、禍々しいゲテモノを捕まえてきては浄化の炎で焼いて食べるしかなかった異世界での壮絶な食生活を思えば、身に染みる感激である。クレナは喜びを噛み締めながら席につくと、兄妹揃って両手を合わせた。

 

「いただきます」

「召し上がれ。ふふ、それにしてもやっぱり似合うわね、制服」

「ありがとう、ございます」

「でも折角脚が長いんだし、スカートはもう少し短くした方が良いんじゃないかしら?」

「きそくじょう、ひざよりうえにしては、いけないです」

「あらそうなの? 残念ね~」

「久玲奈のように律儀に規則を守っている生徒は、あまり居ないと思うけどね。那楼は生徒に要求される学力こそ高いが、その分自由な校風だから」

 

 もはや懐かしくもある母の手料理を美味しくいただきながら、クレナの着ている制服――私立那楼(なろう)学園中等部の学生服を話題に会話を弾ませる。因みにこうしている間にもクレナは白石兄妹の様子を送り飛ばした「使い魔」の目から監視しており、その情報は確認している。彼らにもしものことが起こった有事の際は、いつでも発進出来る態勢になっているのだ。その白石兄妹もまた兄の方は高校、妹の方は小学校へとそれぞれの登校準備に入っており、彼らの家では今のクレナ達と同じような風景が広がっていた。

 

 ……しかし、今日から始まる自分の中学校生活を思うと不安が募る。

 異世界召喚された未来の記憶を手に入れたクレナは、その未来で今より人生経験を積んだ自分と同程度の思考性を持っていた。

 異世界で戦い抜き、最後は魔王に特攻を仕掛けて死んでいった未来のクレナは没年二十一歳。中学生どころか、日本では成人になっている年齢である。

 今ここに居るクレナ自身は十五歳の中学生で間違いないのだが、累計時間により精神年齢が未来寄りになっている自分が十代半ばの子供達が通う学校に行くことに抵抗感が拭えなかった。

 

「学校生活が不安かい?」

「……あんしんは、していません」

 

 母が作ってくれた美味しい御飯には十分すぎるほど満足していたが、その表情は優れていなかったのか兄彗が心配そうにクレナの心情を窺ってきた。

 トラック同士の衝突事故に巻き込まれ、入院生活が始まったのは中学に入学して間もない頃だ。

 今日のクレナは、それから二年ぶりに復学するという形である。いつ復学しても良いように、入院中もずっと学校に籍を残してくれるよう取り計らってくれていた両親には感謝するしかない。

 彼らを裏切らぬ為にも、今のクレナにはもちろん登校しないという選択肢は無かった。

 最低でも義務教育までは済まさなければ、彼らに申し訳が立たない。

 

「久玲奈なら大丈夫さ。いきなり三年生の授業になると言っても、病院でも勉強は続けていたんだろう?」

「ひまつぶしていどには、やっていましたが……」

「元々久玲奈は賢いものねぇ。小学六年生の時、那楼に入る為に久玲奈がずっと頑張っていたこと、お母さんは覚えているわ」

 

 ……確かに、勉強が着いていけるかも不安ではある。入院生活ではリハビリ以外にすることがなかったクレナは暇つぶし程度に学校のテキストをめくったりしたこともあったが、しかし今のクレナの頭ではそんな記憶は濃厚な未来の記憶に圧されて随分と薄れてしまっている。

 しかしクレナにとって最も問題なのは、やはり勉学以上に対人関係の方だろう。異世界で六年間修羅の道を歩んできたクレナが、今更まともな学生達に馴染めるかと思うと自信が無い。

 尤も事故前のクレナが周りに馴染んでいたかと言えば、そうでもないのだが……元々のひねくれた気質故か、彼女は他人とのコミュニケーションに興味を抱かなかったのだ。

 過去の自分の荒みぶりを客観視すると、思わずため息がこぼれてしまう。

 

「大丈夫さ……那楼はクセは強いが、優秀な生徒の集まる学校だ。誰も、君を除け者になんてしないさ」

 

 そんなクレナを安心させるように語る兄の声は、やはり聞き心地が良かった。

 

 

 それから十五分ほどで朝食を食べ終えたクレナ達は、学校指定の鞄を持って玄関へと向かう。

 クレナにとって感慨深い二年ぶりの……体感時間では八年ぶりとなる中学への登校であったが、それに対しては母にも思うことがあるのだろう。気のせいでなければ、その瞳は嬉し涙で潤んでいるように見えた。

 玄関先まで見送りに来てくれた母に向かって、クレナはいってきますと手を振りながら家を出た。

 

「行ってらっしゃい」

 

 表情筋は思った以上に上手く働かず、恥かしながら随分とぎこちない笑みになってしまったが、母はそんなクレナに対して満面の笑みで送り出してくれた。

 

 クレナの兄、紅井彗の所属校もまた那楼学園高等部であり、同じ敷地内だ。ほとんど転校生に近い妹の立場を心配してか彼は一緒に登校すると言い、こうして二人並んで学園への通学路を進むことになった。

 しかしこの変質した紅い髪を持つクレナと、未成年離れした美形の彗が並ぶとやはりそれなりに目立つのだろうか、心なしか周囲の視線がこちらに集まっているような気がした。

 

「緊張しているのか?」

「……はい」

「僕もだ。今日からまた久玲奈の学校生活が始まると思うと、君に悪い虫が付かないか心配になる」

「じょうだん」

「冗談ではないさ。君にとっては不本意かもしれないが、未成熟な若さの中に憂いの影を持った少女というものは、多感な男子の目には魅力的に映るものだ」

「にいさん、きもちわるい」

「そ、そうか? それはすまない」

「……でも、ありがとう。ほめてくれたのは、つたわった」

 

 こちらの緊張を察し、子気味いい冗談で和ませようとしているのだろうか。そんなことを思いながらクレナは隣を歩く兄の言葉にまんまと乗せられることにして、この肩の力を抜くことにした。

 

 まるで未知の敵と戦おうとしていたように、クレナの心は強張っていたらしい。

 

 

 

 

 

 

「あかい、くれなです。じこのえいきょで、いまはうまく、しゃべれませんが、よろしくおねがい、します」

 

 訪問した職員室から担任の鈴木一郎先生に引率されて入室した、「三年G組」と割り当てられた教室の中。

 朝のHRでは我ながら肺活量と筋力が足りていない残念な声を出しながら、クレナはこれから学友となるクラスメイト達に自己紹介を行っていた。

 クレナがこうして中学校の教室に入ったのは二年ぶりであり、その時は大半の人間が新入生故に顔と名前が一致していない時期にまで遡るだろう。

 その為彼らはクレナのことを知らず、クレナもまた彼らの顔は誰一人として覚えていなかった。

 知人や友人が居ない分、病院に居た時のように記憶の改ざんを行う手間が省けたのでクレナにとっては都合が良かったが、関係をゼロから構築するに当たって掴みとなる自己紹介は必須だった。

 入学時はみんなと一緒だったが、事故によって長らく入院していた為二年間登校出来なかったというクレナの事情は先生の方から事前に知れ渡っていたらしく、教壇の前に立つクレナの方へ向いているクラスメイト達の視線は男女共に同情的なものだった。そんな彼らの気遣いに感謝しながらクレナが一礼すると、彼らから妙な間を空けてざわざわと怪しい雰囲気が伝わってきた。

 

「髪の毛、紅い……」

「地毛? 地毛なの?」

「めっちゃ美人……」

 

 魔法を使っていないこの時のクレナでは、聖徳太子のように彼らの声を全て拾うことは出来なかったが、雰囲気的に侮蔑の色は感じなかったので、今回の自己紹介は概ね成功したと判断して良いだろう。

 それから彼らから掛けられた趣味愛好と言った簡単な質問を捌いた後、一郎先生に指定された空席へと向かい、クレナは外面上は行儀良く、思考の内では使い魔の目で監視中の白石兄妹の様子に意識を傾けながら初めての授業に取り掛かった。

 

 

 その後、一時間目の授業は無難に切り抜けたクレナだが、このクラスメイト達とは思っていたよりも上手くやっていけそうだった。

 それもその筈、私立那楼学園中等部はエスカレーター式に高等部に上がる仕組みになっているものの、三年生と言えば受験生である。この学校にも年度末には中学での集大成として学力試験が控えており、そんな事情もあってか教室内は想像よりも随分と落ち着いていた。周りの若いテンションに着いていけないのではないかと心配していたクレナだが、流石は県下有数の名門校である。精神年齢諸々の心配をするには失礼だったようだと、クレナは彼らに対する認識を改めた。

 とは言うものの、不良の居ない教室の中で紅の髪をしたクレナの姿は目立つらしく、休み時間にはそれなりの人数が会話を求めてきて、自己紹介の時以上の質問を浴びることにはなった。

 その話の中には「先輩とはどんな関係!?」という、兄と一緒に登校していた姿を見掛けたのであろう噂好きそうな女子生徒から彗との関係を訊ねられたりもしたが、クレナが彼とは兄妹だということを正直に答えると、心無しか教室内の空気が変わったような気がした。主に「安心」や「希望」と言った正の感情が強まったような、そんな心の動きをクレナの魔力は感じていたのだ。

 大方、兄に恋人が居るわけではないのだと安心し、それならばと希望を抱いたりでもしたのだろう。クレナの兄彗は非常に整った容姿をしており、学力、運動共に完璧を絵に描いたような男だ。後輩の異性から関心を寄せられるのも納得の話だ。

 男子の何人かからも同じ反応を感じた気がしたが、兄ほどの人物ならば同性から慕われているのも十分に理解出来た。

 

 ……尤もそれほど優秀な兄を持っていたからこそ、この記憶を得るまで紅井久玲奈は拗らせてしまっていたのだろうが。

 

 

 

 

 次の休み時間からは、近くの席から話しかけてくる者が増えた。

 隣の席に座っていたメガネの男子はこのクラスの学級委員長を務めているらしく、何かあったら頼っていいという頼もしい言葉を貰ったが、その直後の授業で早速お言葉に甘えさせてもらうことになったのはクレナの落ち度である。

 

 ――と言うのも、数学の授業が大分わからなかったのである。

 

 因数分解とは、リザードマンの中にあるトカゲの因子を分解するのではないのか? それならば浄化の炎で焼き払えば簡単に出来る。しかし数字を分解するにはどうすればいいというのか。

 ……という馬鹿な話をしてしまうが、こんなクレナでも小学生時代は優等生で通っていたし、成績は良かった。入院生活でもまた、暇つぶし程度にはテキストを開いたりしていた記憶もある。

 しかし、ここは県下有数の名門校である私立那楼学園だ。累計八年のブランクがあるクレナの頭脳では、わからない問題はあまりに多かった。

 

「よし、じゃあこの問題は斎藤の右の……紅井の妹だったか。解けるか?」

 

 横の席から順に答案者を指名していく数学教師の目に留まり、答えのさっぱりわからないこの状況下で遂にクレナの番へと回って来てしまった。

 教師も教師でクレナの立場を察して気遣ってくれているようではあったが、どうやらクレナにも初日で無様を晒したくないというちっぽけなプライドがあったらしく、意を決して席を立つことにした。

 

 ――その瞬間、クレナは異世界での戦いで培った「強化魔法」を発動。

 

 強化の対象は手でも足でもなく、クレナ自身の空間認識能力である。

 そうして通常の何倍にも跳ね上がった高度な空間認識力を発揮したクレナは、教壇の方を向きながらも隣の席へと意識を集中し、一瞬にして委員長が開いているノートの全貌を掌握した。

 

「に、ぷらすまいなす、るーとなな、です」

「正解。なんだ、着いていけるじゃないか。ちゃんと勉強してたんだな」

「ありがとう、ございます……」

 

 クレナが言い放った委員長ノートの答案は正解していたらしく、数学教師は感心した様子でクレナを褒めた。

 しかし当のクレナとしては、魔法で強化した空間認識力を行使し全力で委員長の答案を盗み見ると言うマジカルかつスタイリッシュなカンニングをした手前、彼から贈られる賞賛の声や思いのほか向けられてきた周囲の眼差しは激しく居た堪れなかった。

 

 ……やはり、卑怯なことはするべきではない。

 

 モンスターや魔王軍が相手なら闇討ちだろうが死体蹴りだろうが何の慈悲も無くやっていたクレナだが、体感時間八年ぶりの授業は殺し合いよりも礼節を重んじる必要があるとクレナは実感した。

 

「いいんちょ、ごめんなさい」

「えっ……?」 

 

 授業が終わった後、無断でノートを覗き見させてもらった委員長に対してクレナは頭を下げたが、当然ながら彼の方は何が何やらと戸惑っている様子だった。

 精神年齢二十一歳が聞いて呆れる……この平和な日本での生活も、前途多難であった。

 

 

 

 

 

 ――結局のところ、その日はクレナにとって平和に馴染めない自分に苦笑するしかない一日だった。

 

 何気なく登校し、わからない授業を受け、取り留めのない会話をして帰宅する。そこに命のやり取りなどと言う物騒な要素は微塵も無く、時間が経つに連れてクレナはここに居て良いのだろうかと居心地の悪さを感じていた。

 自分が生まれた筈の長い時間を過ごしてきた筈の世界に、クレナには自分の存在が異物に思えてならなかったのだ。

 

 極めつけは昼休み、そんな居心地の悪さから気分転換を図る為に、何気なく校舎の屋上で屋外の風に当たろうとした時のことだ。

 

「好きです! 付き合ってください!!」

 

 その言葉が聴こえた瞬間、クレナは反射的に身を隠した。

 先にこの屋上に来ていたのであろう男の声は、当然今この場に来たばかりのクレナに対して向けられたものではない。

 物陰からそっと様子を窺ってみれば、そこには真剣な眼差しで小柄な女子生徒と向かい合っている一人の男子生徒の姿があった。

 何という間の悪さか、気分転換に屋上を訪れたクレナを待っていたのは、男子生徒が女子生徒に愛の告白をするという青春の一コマだったのである。

 

 気付かれぬよう魔法で気配を隠したクレナは、物陰に身を隠しながらそのまま彼らの動きに注視する。

 何となくではあったが、名前も知らない男の告白が実るのかどうか興味があったのだ。

 ……しかし、彼の告白の相手は随分と小柄だった。

 腰まで下ろした黒髪の少女は少し離れたこの距離からもわかるほど顔立ちが整っていて、白石絆ほどではないが愛らしい容姿をしているとクレナは思う。しかしその身長は140センチもあるかどうかと言ったところで、小学生に見間違うほど小さく華奢だった。

 あれほどまで勇気を出して告白に踏み切った男の趣味をとやかく言いたくないが、兄の好みが実は「母性に満ちた年下の小さな女の子」というタイプであったこともしかり、最近はああいった容姿の少女が人気があるのかもしれない。

 

「……それは、女の子として……志亜が好きって、こと?」

「そう!」

「どうして? 志亜は身体も器も、小さいのに……」

「そんなことないよ! 双葉さんは頑張り屋で優しくて、俺の母になってくれるかもしれないと思ったから好きなんだ!」

「ぇ……」

 

 その少女は彼からの告白におっかなびっくりと言った反応で目を見開くと、彼の言葉の意図をたどたどしい口調で聞き返す。

 彼の洗いざらい語り過ぎではないかと思うほどの告白に対して戸惑いながらも真摯に向き合っている姿を見るに、案外脈はあるのかもしれないと思いながらクレナは事の成り行きを見守る。

 彼とは方向性が違うが、クレナにも愛する人は居た。そんなシンパシーからか、勇気ある少年のことを少しだけ応援している自分が居たのだ。

 それから長考に入った少女は顔を上げると、体格差から見上げる形になりながらも少年の顔を真っ直ぐに見つめ、そして頭を下げて言い放った。

 

「ごめんなさい……志亜は貴方の思い、応えれない」

「ごふっ……!」

 

 心底申し訳なさそうに、彼の心を最大限傷つけないように気遣った様子で少女は彼の想いを拒んだ。

 その言葉を返された少年は足元から崩れ落ち、両手をついてうなだれる。残念ながら、彼の恋は実らなかったようだ。

 余程悲しかったのだろうか、激しいリアクションで落ち込む彼の姿は哀愁漂っていて、告白を拒んだ側の少女の方があわあわと狼狽えていた。

 あれでは午後の授業も受けられそうにないなと他人事だから許される軽い同情を胸に、クレナは踵を返して屋上を去っていく。

 チープな告白の言葉は格好良いとは思えなかったが、彼が本気だったことはわかる。

 

 隠れ見ておいてなんだが……人の恋路が砕け散る光景は、見ていて気持ちの良いものではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな若さ溢れる青春の一コマを傍観することになったクレナは、考えすぎかもしれないが今後の生活に不安を感じた。

 

 不思議な話である。こちらで生きた年数は十五年で、それと比べればあちらの世界で生きた年数は半分にも満たない六年だ。生きてきた年数は明らかにこちらの方が多い筈なのに、クレナは自分があちらの世界の住人のように感じてしまう。

 あんなろくでもない世界に未練など無いし、あちらの世界で記憶に残っている良い思い出と言えば、白石兄妹と会えたことぐらいだというのに。

 

 ……ああ、だからか。

 

 結局未来のクレナにとっての世界はあの二人だけで完結していて、ずっとあの兄妹に依存していたのかもしれない。あの二人の存在こそが未来のクレナが生きる全てであり、光だったのだ。

 

「どうした? 久玲奈」

 

 一日の授業が終わった下校時刻の帰り道、帰路を歩きながらそんなことを考えていたクレナに声を掛けたのは、兄の紅井彗だった。

 二年ぶりに登校したクレナの体調が心配だったのだろう。彼の方が高等部からわざわざ駆けつけてくれて、一緒に帰る運びになったのだ。

 

「だいじょうぶ、です……すこし、つかれて」

「そうか……まあ、追々慣れていけばいいさ」

 

 何も言わないクレナの様子を見て心配そうな表情をする彼にそんな言葉で誤魔化せば、彼は真摯に思いやって微笑する。実際、初対面の者ばかりを相手にして疲労感が無いかと言えば嘘になる。思っていた以上に授業が難しかったこともあり、帰ったら勉強漬けだなと思いながらクレナは帰宅後の予定を考えた。

 尤も、今この時でも行っている白石兄妹の警護を怠る気は無いが。

 

「そういえば、にいさん、せんせーからゆうめいだった」

「中等部で僕のことがかい? ……確かに、色々問題を起こしたからね。特に体育の土鶴先生には」

 

 頭の中はいつまでも落ち着いていないクレナだが、せめて表面上だけはこの日常に溶け込むべく取り留めのない世間話を行う。そうすれば同じ中等部の出身である兄からはやれあの先生は頼りになるとか、あの先生はあまりこれをするとヤバいだとか耳寄りな情報を聞くことが出来た。

 兄自身の近況も色々と聞けて、充実した一時を過ごすことが出来た。

 今まで無視していた分、心の距離は離れているかもしれないが……それでも彼らに余計な悲しみを与えないぐらいには、こちらから歩み寄っていきたいと思った。

 しかし、そんな平穏な時間は砕け散った。

 銃刀法さえも管理されている平和な日本の町で、クレナは「異世界」を見たのだ。

 

「――っ」

「久玲奈? 大丈夫か……?」

 

 ドクン……と心臓が跳ね上がるような感覚に、クレナは胸を押さえてうずくまる。

 この世界に突如として現れた「異物」の存在が、異質な魔力の流れとしてクレナの精神に伝わってくる。

 未来のクレナの記憶の器となった今のクレナなら、その程度の力は平然と受け流せる筈だった。しかしいざ現実に体感すると易いものではなく、記憶は所詮、記憶に過ぎないのだと実感する。

 

 そうか……これが「異世界」。未来のクレナと白石兄妹達が強制的に戦わされ、命の奪い合いをしてきた「敵」か。

 

 クレナは迫り来る気配に顔を上げると、人気の無くなった(・・・・・)路地裏から出てきた異形の姿を確認した。

 

「な……なんだ、あの化け物は……っ」

 

 同じくその姿を見た彗が、驚愕に目を見開く。

 無理も無いだろう。まるでファンタジー映画に出てくる怪物そのものと言える異形の姿を見れば、彼の反応は至極まともだった。

 

 ――そこに居たのは、人間ではなかった。

 

 そして、この地球の生物ですらない。

 全長は三メートルをゆうに超え、その巨体を四本の長い脚で支えている。

 両腕の部分にはその怪物最大の特徴である二本の大鎌が広がっており、頭部には血のように赤い複眼が怪しく光っていた。

 あまりにも巨大だが、この地球の生物では昆虫のカマキリに似ているその怪物の名前は――キラーマンティスと言う。

 奇しくもそれは、異世界召喚された未来のクレナが戦ったことのある「異世界」の「魔物」と同じ姿をしていた。

 

「キシャアアアアッッ!!」

 

 二本の大鎌を振り上げた怪物は、クレナ達の姿を見つけるなり迷わず四本足を走らせて襲い掛かって来る。

 それと同時に兄彗がクレナの手を掴むと、全力でその場から後退していった。

 

「逃げるぞ!」

「あ……」

 

 ファンタジー世界の怪物と出くわし、命を狙われる。妄想の中でなければ想像も出来ないその状況の中で、クレナの兄彗は冷静だった。

 冷静な判断でクレナを連れて逃げ出したその手は強く固く、絶対に離すものかという彼の執念さえ感じられた。

 彼とて未成年で、この状況において恐怖に身を竦めてもおかしくはないのだ。しかしそれでも、クレナの兄は強かった。

 ……彼はこの期に及んでも、完璧な兄だったのだ。

 

「こっちだ!」

 

 突き当りの曲がり角を迷わず曲がりながら、クレナの手を引く兄は全速力で走る。

 逃走しながら人を見つけて助けを呼ぼうとするが……人通りの多い筈の場所に出てきても何故か、そこはもぬけの殻だった。

 

「どういうことだこれは……誰か居ないのか!?」

 

 それは、あまりにも不自然な風景だった。

 背後からはカマキリの怪物が追い掛けてきて、周囲にはクレナと彗以外の人間が誰も居ない。クレナは強化した空間認識力を行使して人の気配を探ってみたが、ここだけではなく、クレナ達の居る町には何故か人ひとりとして存在していなかったのだ。

 

 ……これは、結界だ。

 

 白石兄妹に意識を移していた為か、それともクレナが平和ボケしていたからか。どうやら知らぬ間にこの町は「敵」の結界に覆われていたらしい。

 対象を時空から切り離す魔法の名は、「封鎖結界」――それに閉じ込められたクレナ達は、完全に狙われていた。

 

「……久玲奈、先に行け」

「え……?」

 

 怪物の足はその巨体からは考えられないほど速く、クレナ達に隠れる時間すら与えてくれなかった。

 無人の不気味さの漂う商店街の交差点まで躍り出た兄さんはクレナの手を離すと、何を思ったのか化け物の方へと振り向いた。

 

「これが夢やB級映画なら、木の棒でも持っていれば助かるんだがな……もはや、あれが着ぐるみである可能性に賭けるしかないか」

「にいさん……?」

「僕がちょっかいを掛けている隙に、お前は逃げるんだ」

 

 無謀なことに、彗は無手で怪物を食い止め、クレナを逃がそうと言うのだ。

 ……だが、クレナは知っている。

 これは映画の撮影でも何でもなく、あそこに居る怪物は「魔物」であると。

 人を超えた力を持ち、その鎌で多くの命を奪ってきた。とてもではないが高校生男子一人に止められる相手ではない。

 兄も今自分達を襲っている摩訶不思議な体験が、信じ難くとも現実であることを悟っているのだろう。

 しかしそれを承知の上で、彼は自らの命を盾にしてまでもクレナを逃がしたかったのだ。

 

「行け!」

 

 それはただ純粋に、妹を……クレナを助ける為の行動だった。

 これまでにクレナが見たことがないほど必死の形相でそう叫ぶ彼の声とその背中は、まるでクレナが恋焦がれた本物の(・・・)勇者のようで。

 

 ……だからこそクレナには、こう応えずには居られなかった。

 

「ぜったいに、いやだ」

 

 もう二度と、勇者を死なせるものか。

 私からもう二度と、奪わせるものか。

 心の底からどす黒い炎が燃え上がってくるような感覚を覚えたクレナは、彼の懸命な叫びに抗うと、彼の背中にトンッと魔力を込めた人差し指を押し当てた。

 

「久玲奈……! な、何を……?」

「ごめん……」

 

 その瞬間、虚脱感に襲われた紅井彗の意識はクレナの姿を慄然と見つめながら刈り取られていった。

 力無く倒れていく兄の身体を受け止めたクレナは素早く上着のブレザーを脱ぐと、それを枕代わりに彼の頭の下に敷くなり一回り大きい身体をそっと横たわらせた。

 

 ……散々、心配を掛けてきたのだ。この分野ぐらいは、私に良い恰好をさせてほしい。

 

 気絶させた兄を背後に、そう思いながら前に出たクレナは、向かってくる怪物の姿を見据えた。

 あの「魔物」も狩りを楽しんでいるつもりなのだろう。獲物が逃げないとわかると、わざわざ恐怖を与えるようにその足をゆっくり進めてクレナの前へと出てきた。

 

「キラーマンティス……」

 

 地球には存在しない生命体、「魔物」の一種であるキラーマンティス。それはかつて未来のクレナが仲間と共に召喚された異世界、「フォストルディア」にのみ生息している怪物である。

 クレナの視線を受けたキラーマンティスは赤い複眼を光らせると、黒光りする羽を広げて彼女を威嚇してくる。

 出会った者には死を与え、異世界の民からは森の殺し屋と恐れられていたものだ。あまりにも禍々しいその姿は、この日本で平和に暮らしている人間であれば恐怖に震え、発狂してもおかしくないだろう。

 実際、この種族に殺された仲間も何人か居た。何十体ものキラーマンティスに取り囲まれながら、恐怖に泣き叫びながらその身体をズタズタに引き裂かれ、捕食されていく。その光景はあまりにも無惨で、目を覆いたくなるものだった。

 しかし、

 

「それがどうした……」

 

 今のクレナにとって怪物の威嚇は、内に伏せていた激情を爆発させる引き金にしかならない。

 この魔物とは、未来のクレナも数え切れないほど戦った経験がある。

 所詮は昆虫だからか仲間同士で連携を取ってくること以外に大した知能は無いが、人の気配を感じれば真っ先に喰らいに来る習性があり、非常に獰猛で危険な魔物である。倒せば倒すほど無数に沸き出てくる軍勢には顔を見るのも嫌になり、うんざりとした記憶だけが蘇ってくる。

 そうなれば、否が応でも思い出してしまう。

 彼ら魔物に対する、激しい憎しみと怒りを。

 

「なんで、おまえたちがいるんだ……」

 

 クレナの身体を、紅蓮の炎が覆い尽くす。

 適性のある地球人が異世界フォストルディアに渡った時、発現する「C.HEAT」現象――その固有能力。

 正式名称はクリムゾン・ヒート。異世界召喚された勇者だけが扱える異能だ。

 個人別に異なる能力として発現する「C.HEAT」は、使えば使うほどその力を増していく。しかし使いすぎれば代償として何らかの副作用を受けてしまうのが大きな欠点ではあるが、今のクレナにとって自身の異能の代償は大した問題ではない。

 クレナに発現した「C.HEAT」能力はあらゆる穢れを焼き払う、「浄化の炎」。その穢れ、という定義は酷く曖昧なもので、クレナ自身が反吐が出るほど汚らわしいと思ったものならば大概のものは焼き払えるらしい。

 この力を手にした当初、未来のクレナは自分自身が汚らわしいものだと認識していた為、危うく自分を焼き殺しかけたこともあったが……そんな致命的な欠陥は白石兄妹のおかげで克服したと言うこっ恥ずかしい過去がある。そんな自分語りだ。

 

 未来のクレナが知る白石兄妹は、ここに居ないというのに……隙があれば思い出してしまう。

 それが尚更、今のクレナの心に激情を掻き立てた。

 

「あのひとたちはこのせかいの……どこにもいないのにっ!」

 

 この世界に居ない愛する人々のことを思いながら、クレナは一瞬にして「C.HEAT」で生成した「炎の剣」を右手に携える。

 浄化の炎が剣という物質としてあしらわれたその武器は、未来のクレナが最後まで愛用していた自分だけの愛剣である。

 クレナはその炎の剣を構えると、怒りを込めてキラーマンティスの巨体を睨む。

 地球上のどの昆虫よりも巨大なキラーマンティスだが、この怪物はクレナが知る同種の中でも大きめに見える。それは、単に今のクレナが未来のクレナよりもやや身長が低いからというわけではないだろう。

 どうやらこの魔物は、キラーマンティスの中でも優良な個体らしい。

 対峙する怪物の標的が、自分で良かったと安堵する。このような怪物が街中で他の人間を襲えば、どんな被害になることか考えたくもない。

 

 睨み合うこと数秒後、キシャア!と鳴き声を上げてキラーマンティスが飛び掛かってきた。

 

 ――瞬間、シュッと空気を裂く短い音が鼓膜に触れる。

 

 人間だった頃のクレナでは、その動きに対応することは出来なかっただろう。キラーマンティスの姿が幽霊のように掻き消えたと思えば、次の瞬間、その大鎌でクレナの身体を真っ二つにしようと振り下ろしてきたのだ。

 キラーマンティスはその巨体に見合わず動きも俊敏だ。戦闘力は魔物の中で中位程度。しかし数が多く群れる為、異世界に召喚された間もない頃の勇者達は幾度も手を焼いたものである。未来のクレナもまた、危うく彼らに殺される寸前まで追い詰められたことがあった。

 

 ――だが、六年間の実戦で鍛え上げられた未来のクレナの記憶を持つ、今のクレナは違う。

 

 伊達に白石兄妹を守ろうとするほど、ヤワなつもりはなかった。

 

 

「キシャアアアッ!?」

 

 キラーマンティスが、人間で言うところの悲鳴にも似た叫びを上げる。

 激痛にのたうち回る彼の右腕には、先ほど振り下ろした筈の大鎌の姿が無い。

 一閃の交錯にして、クレナが振り抜いた炎の剣が怪物の大鎌を斬り落としたのだ。

 キラーマンティスとしては予想外の光景だろう。無力だと思っていた獲物を斬り裂こうと大鎌を振り下ろした次の瞬間、逆に自分の右腕が斬り飛ばされていたのだから。

 

「いたいか、がいちゅう? このぐらいで、しんでくれるな」

 

 もがき苦しむカマキリ型の魔物の姿に、クレナは冷徹な声でそう吐き捨てる。

 キラーマンティスは見た目の割には素早いが、それはあくまでも普通の人間と比較した場合である。

 仮にも前の世界では魔王にさえ一矢報いた今のクレナにとって、雑兵に過ぎないキラーマンティス如き敵ではない。攻撃を見た後で回避に成功すれば、炎の剣でカウンターを決めるだけの簡単な作業だった。

 

 ――元より現在問題なのは、この魔物の存在ではないのだ。

 

 最も大きな問題はクレナの目の前に居るキラーマンティスではなく――キラーマンティスとクレナの戦いを陰から眺めながら、高みの見物を決め込んでいるもう一つの存在にあった。

 

「……でてこないなら、みせてやる。つぎは、おまえがこうなる」

 

 キラーマンティスが目の前に現れた時から……いや、その前からも。

 白石兄妹を無人トラックが襲った時点で、クレナはその可能性に気付いていたのだ。

 

 この地球に……キラーマンティスを召喚した、異世界の「召喚師」が居ることに。

 

 

 

 召喚魔法――地球の存在を異世界へと召喚するこの魔法には、多数の種類がある。

 その中で最も強力なのが、魔法陣式の召喚魔法だ。召喚対象者の足元に転送装置のような魔法陣を展開し、対象者を直接術者の元へと送り飛ばす。習得難度は恐ろしく高いがその成功率は高く、一斉に複数の対象を召喚することが出来る為に効率も良い。そして何より、召喚師が違う世界に居ても召喚することが出来るというのが最大の利点だった。

 かつて未来のクレナは病室の中に居た十五歳の冬、この魔法陣式の召喚魔法によって地球から異世界フォストルディアへと連れ去られた。それが時を同じくして召喚された白石兄妹達との出会いであり、悪夢の始まりだったのだ。

 

 そして先日白石兄妹を襲った出来事もまた、おそらく召喚魔法の一種である。

 

 魔方陣式とは違うその召喚法の名前は「物体式召喚魔法」――わかりやすく言えば、トラック召喚である。

 対象者の視点では「トラックに撥ねられたら異世界に居た」という突拍子も無い状況が生まれるこれは、仲間の誰かが言うには創作の世界などでは頻繁に見かけるシチュエーションであろう。しかしこれはクレナの召喚された異世界において、実在する召喚方法だったのだ。

 召喚対象者を直接魔法陣に飲み込んで異世界に召喚するのが「魔法陣式召喚魔法」だが、これに対して「物体式召喚魔法」は召喚魔法陣の効果を物体に付与し、その物体と召喚対象者との接触を通して対象者を召喚する方法である。例えるなら蛇口から吹き出した水を直接浴びせるのと、蛇口から吹き出した水をバケツの中に入れて、その水を浴びせるかの違いである。

 この「物体式召喚魔法」の方は魔法陣式よりも手順が回りくどく、手間が掛かる。加えて召喚対象者と接触させる物体はトラックのような重量物――対象者の体重に対して約150倍の重量(60kgの対象者に対しては9t程、70kgの対象者に対しては11t以上の重量物)でなければならない等の制約がある為、使いどころが難しい。

 そしてこの召喚魔法には、もう一つ重大な欠点があった。

 

「ぶったいしきのしょうかんまほうは、いせかいからではつかえない……」

 

 かつてあの憎き召喚師がクレナ達を召喚したように、レベルの高い魔法陣式召喚魔法は召喚師が違う世界に居ても召喚することが出来る。

 しかし物体式の召喚魔法は召喚効果をトラックに付与し、そのトラックを対象者と接触させるまで遠隔操作をしなければならないという大きな手間が発生する為、遠く離れた異世界から扱うには消耗が激しすぎて扱えないのだ。それは王宮最強の召喚師である、「あの男」と言えども。

 

 だが召喚師が異世界からではなく、現地で発動するとなれば話は別だ。

 

「ねぇ? そこにいるんだろう?」

 

 現地に――召喚師がこの町に居るならば、トラック召喚のような物体式召喚魔法を簡単に発動することが出来る。

 そうだ……どうして今までその可能性を考えなかったのだろうか。

 フォストルディアの召喚師が自ら、この世界に乗り込んできた可能性を。

 

「ころしてやるから、でてこいよ」

 

 気付いていた筈なのだ。

 しかしそれはあまりにもおぞましくて、考えたくもなかった。

 

 ――クレナ達の生まれたこの町に、召喚師が潜んでいるなんてことは。

 

 

 このキラーマンティスもまた、自分の意志でこの地球に訪れたわけではない。

 この怪物を異世界フォストルディアから召喚し、クレナにけしかけてきた召喚師が居るのだろう。

 都合よくクレナと兄さん以外の人間がこの町から消されているのは、人払いする為の「封鎖結界」をその召喚師が張っていたから。

 つまり、その人物は今もこの怪物がクレナを殺すところを見ているのだ。

 自分達による勇者の異世界召喚を妨害しうる、この紅井クレナを。

 

「ははは」

 

 その時、クレナの心に浮かび上がってきたのは大きな高揚だった。

 おそらく、今後の学校生活でも得られないような気分の昂ぶり。

 思わず笑い声を漏らしながら、今もクレナを襲おうとするキラーマンティスの鎌を避け、斬り飛ばし、蹴り飛ばす。炎の剣でもう片方の腕を刈り取ったクレナは跳び上がって怪物の頭を蹴り、その片目を潰したのである。

 

「グォ……ッ」

「ははは、はははははははははは……!」

 

 スカートを翻しながら跳躍したクレナは、武器を失った怪物の背中へと飛び乗って馬乗りに跨る。右手に携えた炎の剣を逆手に持ち、その背中をザクザクと突き刺した。

 何度も何度も滅多刺しに、一撃で仕留められるところをあえて加減していたぶっていく。

 怪物の背中から返り血として噴き出してきた緑色の体液が、クレナの頭から全身に渡って覆い被さってくる。その異臭の中で尚も、クレナは高らかに笑っていた。粘りつくようにベトベトした怪物の体液には毒が含まれているのだろう。纏わりついた部分から身体中の神経が痺れるような感覚を催したが、今はその痺れが性感帯に触れたように気持ち良く、焼き払う気になれない。

 

「あははははははハハハハハハハハハハハハハハハッ!」

 

 自分でも何故ここまで込み上がって来るのかわからない高揚に酔いしれながら、クレナはロデオのようにのたうち回るキラーマンティスの身体を徹底的に痛めつけていく。

 触角をもぎ取り、羽根をむしり取り、複眼を一つずつ丁寧に潰していく。

 戦意を失い逃げようとすれば背中から飛び降りてその足をバラバラに斬り飛ばし、崩れ落ちていく様を見て恍惚とした表情を浮かべる。道端の昆虫を無邪気に虐殺する幼子のように、クレナは残酷な笑みを浮かべていた。

 地に伏した体勢でもはやピクリとも動かず、原型さえ留めなくなった怪物の姿を見下ろしながらクレナは――ようやくその首を跳ね飛ばしてとどめを刺した。

 そうして足元に転がり落ちてきた巨大カマキリの頭部を、振り上げた右足でぐしゃりと踏み潰す。

 戦いを終わらせたクレナは、服に染み付いた体液を太腿から滴り落としながら天を仰いだ。

 

 ……どうだ召喚師? これが、お前の作り出した化け物だ。お前達が好き放題召喚した勇者の、成れの果てだ。

 

 眼下に広がる凄惨な光景は全て、何処からかこちらの様子を見ているであろう召喚師に向けたものだ。

 自慢のペットが為す術も無くやられていく姿は、さぞ悔しかろう。

 そんな召喚師の狼狽えた顔を想像する度に、クレナは快楽の絶頂を感じていた。

 

 やはり自分は、どうあっても平和には馴染めないらしい。

 

 外側ばかり着飾っても、とっくにこの心は壊れていたのだ。

 

 周りの人間に申し訳ないと思いながらも、未来の記憶と力を手に入れたクレナは「弱い者いじめをする」この時間こそが、何よりも充実していた。

 

 

 


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