HEATスキル「蒼の領域」の効果によってフィアが最初に読み取ったのは、複雑怪奇な混沌だった。
思考に触れたことでわかったことだが、フィアが心をつないだサメ型モンスターの種族名は、「シャドー・シャーク」と呼ぶらしい。しかしその心理に踏み込んだ時、フィアが最初に感じたのは意味をなさない情報の奔流だった。
大声で泣き喚き続けているような、暴力的な思考の嵐である。
しかし、そんなシャドー・シャークの思考の中からフィアが本質を見抜くことができたのは、フィア自身が理解することを諦めなかったことに他ならない。
故にフィアは、シャドー・シャークの思考という現実の人間であれば正気を失いかねないような禍々しい狂気性に当てられながらも、最後まで混乱することなく彼の思いを受け取ることができた。
蒼の領域の名の通り、蒼穹の如き美しい晴れやかな空間の中で、シャドー・シャークの思考を辿らせてもらったフィアは翼を折りたたんで彼と向き合う。
この反則染みた能力によって初めて知ることができた情報に対して、フィアが最初に抱いたのは悲しみの感情だった。
「貴方達も、異世界から来たんだね……」
それは、シャドー・シャークが辿った過去である。
かつて、西の大陸を治める「フィクス帝国」にて、数百体もの海洋生物が異世界から召喚された。
その生物の名前は「オリジン・シャーク」。異界の海に生息する身体の大きな肉食魚類にして、シャドー・シャークやオクト・シャーク達のルーツたる「原型」に当たった。
――彼らの正体は皆、フィクス帝国の召喚師によって異世界から召喚され、その肉体を生体兵器として改造された存在だったのだ。
それはあまりにも理不尽で、壮絶な過去だった。
この蒼の領域でそれを知った瞬間、フィアは堪らず動き出す。
今にも暴れ出しそうな様相を晒している彼の頬に、その手を差し伸ばしたのである。
シャドー・シャークの白い頬に触れた瞬間、指先から痺れるような感覚が走る。彼の鮫肌によって、ダメージを受けているのだ。これが現実の肉体であれば、フィアの手はたちまち無惨に傷つき赤く染まっていたことだろう。
だが、それでも。
それでも構わず、フィアは彼の口元に身を寄せながら、その頭の先をゆっくりと撫でていった。
苦しかったね、辛かったね、と……そう言って、彼の未成熟な心を労わるように。
「貴方達は、帰りたかったんだね……元の世界に」
「…………」
サメの姿をしていながら、背ビレの横からコウモリのような黒い翼を生やしているシャドー・シャーク。フィクス帝国によって改造された肉体には翼を扱った飛行能力の他に、「物体の影に入り込み、奇襲を掛けることができる」という暗殺目的に与えられた能力が備わっていた。
船を襲ったサメ達はそれぞれに姿は違えど、どれもが生体兵器としてフィクス帝国から与えられた能力を備えており、サメと形容するのが違和感を覚える肉体を持っていたが……彼らとて最初からこのような身体で生まれてきたわけでも、望んでこうなったわけでもなかった。
オリジン・シャークと呼ばれていた頃の元々の姿は、それこそ現実世界のホホジロザメのような姿をしていて、至ってまともな生き物だったのだ。
それがフィクス帝国の召喚師――ゼン・オーディスを主導とする彼らの魔術によってこの世界に召喚されたことで、全てが歪められてしまった。
帝国の実験から生体兵器としての改造を施された彼らは、その有り余る力を持って研究室を脱走し、自然界へ解き放たれて今日に至る。
やがて海のギャングとして人々から恐れられることとなった彼らの存在だが、その行為に悪意は無かった。
改造されてもなお帰巣本能を残していた彼らは、ただ故郷の海を探し求めて今日まで彷徨い続けていたのだ。
驚くべきことに、人や船を積極的に襲っていた行動さえも「この世界に住んでいる人間や船の形が故郷で見たものと似ている」からという帰巣本能の一貫に過ぎなかった。
彼らは本能的な部分から、自分達が襲う人間や船の存在に遠い故郷を感じていたのである。
しかしそのような行動を幾度となく繰り返していくうちに、彼ら異界のサメ達の間では少しずつ「心」というものが芽生え始めていた。
肉体に受けた改造やこの世界の海の暮らし、そして故郷への帰巣本能が、彼らの生態に独自の進化をもたらしたのである。
フィアが「蒼の領域」を発動した相手であるシャドー・シャークもまた、そういった経緯を経て心が芽生え始めていた個体の一つだった。
なおかつ彼が対話に応じてくれるだけの知性を持ち合わせていたのは、奇跡的な幸運だったと言えるだろう。
「フィアも、手伝う。一緒に、帰る方法を探そう……だから、みんなを襲うのはやめて」
対話してみてわかったのは、彼らは飢餓に苦しんでいたわけでも、人が憎くて襲っているわけでもなかったということだ。
自分達を改造した人間という種に対しても、彼らは何ら恨みを抱いていたわけではない。尤も憎しみや恨みを抱くといったところにまで「心」が育っていないのかもしれないが、フィアはそれを彼らの本質的な穏やかさ――優しさなのだと受け取っていた。
だから、そんな彼らのことを助けたいと思ったのだ。
異世界召喚の闇に巻き込まれ、運命を狂わされた彼らに対し、ユウシの心が感情移入してしまったのも理由の一つである。
そしてその対価として、フィアは彼らに人々のことを襲わないように求めた。
それこそがこのHEATスキルを持つ自分が、真に果たすべき役割だと思ったのである。
そんなフィアの言葉に、シャドー・シャークの思考が応えた。
――おまえは、たべない。たべたいとおもわない……これはなんだ?
「それは、貴方の優しさ」
――やさしさ?
「フィアは嬉しい……貴方と話せたこと」
――うれしい? それは、なんだ?
「優しくしたいと思うこと……フィアはそれも、嬉しいこと、だと思う」
――おまえをたべたくないおれは、やさしい? やさしいはうれしい? おれは……おまえにやさしい?
ふふっ、とフィアの口元から笑みが零れる。
シャドー・シャークから伝わってくる思考が、最初は混沌だったそれが少しずつわかりやすく、明確な感情に変化していくのがわかる。
それはまるで、泣くことでしか気持ちを伝えられなかった赤ん坊が、少しずつ成長していく姿のようで……どこか微笑ましく、フィアは自分事のように嬉しくなった。
「迷子だったんだね……フィアと一緒で、迷子の子。でも……もう、大丈夫だよ」
こうして見ると、凶悪そうに見えたサメの顔も迷子の子供にしか見えなくなるから不思議なものだ。
フィアは自身の何倍も大きな体長を持つ彼に向かって、小さな子供を諭すように言った。
「フィアが貴方達の居場所、探すから……今は休もう。貴方達はきっと、疲れている」
――……うみに、にている。おまえは、おれたちをうんだ、うみのようだ。
「海……? フィアは、お母さん?」
――おかあ、さん……それは、なんだ?
「優しくて、強くて、信じてくれる人。温かくて、導いてくれる人……かな」
――おまえは、おれの、おかあさん?
「ううん、フィアはフィア。貴方は?」
――おれは……
思い込みや先入観も取り払った今、フィアの心にはもう彼らと敵対する気はなく、彼もまたフィアに牙を向けることはなかった。
「それで、一緒に集まってきたこの子達は?」
「この子が……ガーベラが、呼び掛けてくれた。みんなに、一緒に休もうって」
「ガーベラ?」
「この子の名前。付けてほしいと、頼まれた」
「フィアちゃんが名付けたんだ。かっこよくて、いい名前だね」
ガーベラ――それが、現在フィアの隣から厳つい眼光でフィフスの姿を見据えているシャドー・シャークの名前である。
名前の由来はリージアの時と同じく花の名前から取っており、ガーベラの花言葉である「優しさ」や「温かさ」、「前進」、「希望」などの意味を込めて彼に名付けてあげた。
そのガーベラ――シャドー・シャークは「蒼の領域」の効果時間が切れるなり、フィア達に対する攻撃を止めて、自身の仲間達へと呼び掛けたのである。
――おれは、おかあさんについていく、と。
これも改造によるものか、彼らの間では自身が取得した情報を仲間に発信する能力が備えられていた。
それによって形成されたサメ独自のネットワークによるつながりからか、そんな彼の意志は船を襲っていたサメ達相手だけではなく、この世界に生息する全てのサメモンスター達へと伝わっていった。
もちろん、だからと言って全てのサメがガーベラの思考に同調したわけではない。
寧ろ、ガーベラが思考を発信した後もその意味を理解できず襲撃を続けているサメ達の方が圧倒的に多数派であり、ガーベラと思いを同じくするサメ達などは全体から見ればごく僅かに過ぎなかった。
しかしそれでも、頭数としては六十九匹ものサメモンスター達がガーベラの思考に同調する結果となった。
ガーベラの発信した情報に興味を持った「心」のあるサメ達が、おれもおれもとばかりにフィアの元へ集まってきたのである。
「えっと……フィアちゃんはこの子達が故郷に帰る方法を探すことに決めて、それが見つかるまでここで休ませてあげたい……っていうことでいいのかな?」
「勝手なことを、ごめんなさい。でも、フィアは……」
「どうしても助けてあげたかったんだよね。そういうことなら、私も手伝うよ」
捨て猫を拾ってきてしまった子供のような顔でしゅんとした顔をするフィアに、これまでの話で概ねの事情を理解したフィフスが目尻を落としながらも許可を出す。その返答に、フィアが緊張を解いたように安心した表情を浮かべた。
異界から呼び出され、改造され、故郷を探す為だけに海を泳ぎ回っていたサメモンスター達。
彼らは確かに人々に対して甚大な被害をもたらす凶暴なモンスターであったが、その本質は迷子の子供に過ぎなかったのだ。
「……サメも、見た目によらぬものじゃのう」
「だね」
ボボが呟いた声に、フィフスが苦笑を浮かべる。
フィフス視点からは改めて見回してみると、ガーベラと同じく、彼に同調してここまで同行してきた六十九匹はどこか、自分達の母親を見るような目でフィアを見つめているような気がしないでもなかった。
彼女は何か、他の者にはないものを持っていると感じていたフィフスだが……そんな彼女でも、流石にこのような展開までは予想できない。もはや彼女の行動を賞賛すればいいのか、呆れたらいいのか反応に困るものだった。
「あっ、フィアちゃん怪我してるね。エクスヒールっと」
「ん……ありがとう、フィフス」
事情がわかったことでサメ達への警戒を解いたフィフスは、今のフィアが甚大なダメージを負っていることを見抜くと、手早く回復魔法を掛けて治療を済ませる。
ガーベラと接触した際に受けた鮫肌のダメージによって、フィアのHPは尽きかけていたのだ。
なんだか放っておくと自分が倒れるまで他者に寄り添ろうとしてそうな彼女の姿に、フィフスは優しさを通り越した危うさを感じていた。
そんなフィアから目を移し、フィフスはガーベラ達七十匹のサメ軍団へと言い放った。
「貴方達の事情は理解しました。皆さんがここのルールを守ると約束するのなら、生命の騎士フィフスは貴方がたの移住を受け入れましょう」
生命の泉におけるルールと言えば、共存する者達の命を食事目的であろうと奪ってはならない一点に尽きる。
フィフスの与えた「生命の加護」がある限り、泉にいる者達が餓死することはない。自然界としては歪なルールであることは承知の上だが、フィフスはこのルールを肉食動物であろうと関係なく遵守させていた。
そして遵守することが可能であるからこそ、望み通りの楽園が築かれているのだ。
そんなフィフスの言葉に対して、シャドー・シャーク――ガーベラがサメ一同を代表するように、咆哮を上げて同意を返した。
「あれ? この子は……その内、言葉を話せるようになるかもしれないね」
「えっ」
フィアが与えた一匹のシャドー・シャークへの影響を悟り、フィフスが呟く。
フィアが彼らの本質を理解したのと同じように、彼もまたフィアの本質を理解したのだろう。
そうしてわかりあった一人の少女と一匹のモンスターの間には今、ある可能性が芽吹いていた。
しかしまずは第一歩の形として、七十匹のサメ達との間に和平を成立させることとなった。
それが、武器を使うこと無く終わらせた――フィアによる「戦い」の一幕である。
【朗報】フィア、サメ達の母になる【単身赴任】
次回は今回のを含めた掲示板回をやる予定です。
足りなかった描写なんかも補完していければと。