双葉志亜はまどろみの中にいた。
いや、まどろんでいると言うよりも、ゆらゆらと意識の海の中を漂っている。
ふと目を開けた時、視界に飛び込んできたのは透き通るような美しい「蒼」だ。
蒼穹――自分のちっぽけさと醜さを教えてくれるこの綺麗な色が、志亜は好きだった。憧れを抱いていたとも言える。
それは、見覚えのある景色だった。
それは志亜がまだ生まれる前――「白石勇志」だった頃、16歳から22歳の生涯を終えるまで過ごしていた、異世界フォストルディアの空だ。
――フォストルディア……ああ、あのゲームの世界も同じ名前だった。
視線を地表に転じると、石造りの町が広がっていた。
思い出している――ここは、一時期の間世話になった「聖地ルディア」の町だ。
本来であれば幻想的な美しい景観であったのであろう町は戦乱によって破壊され、廃墟と化している。
呆然と廃墟に立つ竦む
砂ぼこりと一緒にどこからか花びらが風に舞う。
紅色のフリージア。
色はやや違えど地球にも生息している鮮やかな花は、同名のものが幾つもルディアの地に咲き乱れていた。
フォストルディアにおいて、その花言葉は「狂おしい愛情」。全てを捨ててでも愛したいと、そのような意味を込めて想い人に贈るのが一般的だと言う。
フリージアの咲く花畑を目にした志亜が再び前に視線を移した時、周りの風景が変わっていた。
どこかの広間のようだった。
聖堂の中らしき広間の中では、12人もの人々が円卓を囲んで座っている。
何かの会議を行っている様子だった。
その12人に交じって、気づけば志亜は空席になっていた13番目の席に座っていた。
夢でも見ているのだろうか?
他の12人はみな色とりどりの騎士甲冑や戦装束を纏っており、私服の軽装をしている
にも拘わらず、誰も志亜に注目していないのだ。
まるで、そこに双葉志亜など存在していないかのように。
夢のように現実感に欠いている。
しかし、それが現実に
これはかつての現実であった、ユウシの人生におけるターニングポイントの一つだった。
――ああ、懐かしい顔ぶれだ。
円卓を囲む12人の
魔王ソロ。
アカイ・クレナ。
リライブ・クロノクル。
シライシ・ユウシ。
シライシ・キズナ。
ゼクス・ゴリダルマン。
マキリス・サーバエル。
シドウ・ミカ。
アオキ・ツバサ。
クリス・テンペスト。
イレヴンス・スライリン
ヴォルフ・ロード。
地球人と異世界人、魔族に亜人にモンスターと、生まれも種族も関係なくまとめられた12人の騎士団。
それは
――知っている。
生まれも種族も関係ない。誰もが穏やかに共存できる世界を創る為に――そんな壮大な理念を掲げていたあの頃の「ソロ」に協力して。
隣を見れば、彼女もいた。
そんな二人の和やかな姿を見つめているのが、灰色の青年ソロと、彼の隣に座っている紅の少女――アカイクレナだ。
――ソロ……俺の幼馴染で、最初の友達だった男。
――クレナ……その心の熱に惹かれて、俺が初めて好きになった女性。
二人のことも、全て思い出した。
そして同じく勇者の役割を捨てて騎士団に入った二人――
――ミカさんもツバサも、
二人は前世でも頼りになる優しい仲間で……最後はその命を捨ててまで、ユウシ達を守ってくれた。
――マキリス……本当の名前はキメリウスで、元は魔王軍の一員だった男。そんな彼は魔王軍を裏切りソロに協力し、この騎士団に参加した。
クレナに惚れていたこの男は、
他の騎士達のことも知っている。
リライブは狂信的なソロの信者で、ゼクスはカッコいいゴリラ。クリスは白虎の守護精霊を操るのじゃ口調の対魔師少女で、イレヴンスは最弱モンスターだったスライムとゴブリンが融合し、幻魔を超える力を手に入れた究極の合体戦士だ。ヴォルフは狼モンスター、コボルトの王。ソロの理念に感銘を受け、世界平和の為に最後まで忠誠を捧げた盟友だった。
――ああ、懐かしい……五人以外の召喚勇者が全滅して、絶望の中に居た俺達を彼らは受け入れてくれた。
この時の俺は、俺達を救ってくれたソロ……そしてロラ・ルディアスの為に、彼らの願いを叶えたいと思っていた。
ソロがつくった神巫女の騎士団――「ヘブンズナイツ」の夢を。
だが……拡大していく戦火の中で、そんな居場所さえ俺達は失ってしまった――。
ふと我に返った時、再び風景が変わっていた。
今度は戦場だ。
各所で爆音と火花が散っていく、荒れ果てた荒野である。
「敵」が発令した人類抹殺作戦によって、空から落とされようとする「月」を止める為、ヘブンズナイツの面々が総力を結集して挑んでいる。
その中に、散っていくヴォルフ、マキリスの姿が見えた。
クレナやユウシ達もまた額から真っ赤な血を垂れ流しながら、敵の親玉である「バアル」と激戦を繰り広げている。
だが、決して有利な状況ではないのだろう。騎士達の表情は苦悶に満ちていた。
そしてその様子を彼方から高みの見物を決め込んでいる男が一人――召喚師ゼン・オーディスが居た。
次々と場面が切り替わり、仲間や敵達の苦闘や喜悦の様子を志亜の目に映し出す。
だが、
その風景が、全て過ぎ去った過去であることを知っているから。
過去に失った命は取り戻せないと、知っているから。
だから、
何も……何も、出来なかった。
この場には、自分の存在を感じない。
まさに違う世界から、隔たりの外で現実を見ている感覚だった。
それが自分だ。
この記憶を取り戻した時、
きっと何者にも、自分はなれないのだろうと。
「どうして……」
次に
真っ暗な闇の中を、悄然と歩いている。
何故悄然としているのかもわからず、思考も覚束ない。
それでも双葉志亜は何かを求めるように、足を引き摺るようにして闇の中を歩いた。
そんな自分の横を、一人の青年が追い越していった。
それは前世の――
半壊した黒い鎧を纏い、その手に神聖なる槍を携えて駆け抜けていく。
向かっているのだ。全てを奪った
青年の行き先を見送った
紫藤美夏と青木翼――二人とも、死んでいた。
頭や胸から血を流して。
違う。
殺されたのだ。
理不尽な異世界召喚に巻き込まれ、ソロに助けられ、ヘブンズナイツとして戦い――異世界の理不尽に殺された。
それでも二人は満足だったとでも言うように、安らかな顔で息絶えている。
そんな二人の遺体を見下ろす志亜の足元には、いつの間にか多数の屍が散らばっていた。
召喚勇者の仲間達と、ヘブンズナイツの仲間達。かつて守れなかった
そしてその横で、一人の少女が立っている。
神巫女ロラ・ルディアス――巫女装束を纏った少女が悲痛な面持ちで首を振り、とある方向を指す。
そこにあったのは崩壊した城だった。
シライシユウシと裏切り者である「大魔王ソロ」。二人の戦いで崩壊し、瓦礫の山となった「魔王城」の前で――悲壮な決意を固めた目で志亜の姿を見る紅の少女がいた。
『ユウシ……貴方は私に勇気をくれた、希望の光でした』
そう言って彼女――アカイクレナはその身体を炎の巨鳥へと変えて、天に昇って消えていった。
結局――誰も、救われない。
死が充満していると、
ここで見た全てが、悪夢のような全てが現実だった。
記憶が戻った志亜の目にはかつての仲間達の――大切な人達の死だけが鮮明に映った。
それらを見た時、
もしここが地獄につながっている門であり、そこから彼らを引き戻せるのなら、力ずくでも引き戻したいと願う。
しかし、それは叶わない。
仲間達に触れようとして伸ばした腕は、指先から広がってぬるりとした感触に支配される。
自分の手のひらを見てみれば、そこには赤黒い粘着性の液体がべったりとついていた。
それが手首を流れ、肌の上を滑って肘から滴り落ちる。
死の臭いが、鼻孔を刺激したように感じた。
赤黒い液体が皮膚に染み込み、肌をどす黒く変色させ、それが腕中に広がっていく。
腕だけではない。肘から肩に、肩から胸へと伝って身体中を浸食していく。
「……どうして、俺なんかが幸せに生きているんだ……」
ひくっと、涙声に喉を鳴らして
前世の記憶を取り戻した今の
優しい人ばかり、いい人ばかりが救われず死んでいったのに、どうして自分がこの生を謳歌しているのかと。
惨めさと虚しさに苛まれ、闇の中に沈みながら
狂乱しながらも吐き出した……
「どうして俺が生まれ変わったんだ! なんであいつらの元に逝かせてくれなかった!?」
聴かせる相手は誰もいない。それをわかっていても、志亜は――ユウシは、叫ばずにいられなかった。
「罰だからか!? それがあいつらを守れなかった罰だって言うか!? 俺には、地獄に落ちる資格もないってことなのか……!? だから生まれ変わったのか!?」
生まれ変わりたくなどなかった。
こんな汚れきった自分が幸せになるなど、受け入れたくはなかった。
自分のように生まれ変わらなかった人々のことを思えばこそ、
「こうやって苦しむことが……償いになるって言うのか……」
力なく、
答えてくれる者などいないと、そう思っていても。
しかし、鈴を転がすような声が、後ろから響いた。
「違うよ、兄さん」
不意に懐かしい声が聴こえ、
それはユウシがユウシだった頃、自分自身の存在意義のように思っていた守るべき者。
青髪の少女が、当時と変わらない姿でそこに立っていた。
「……キズナ……」
ゲームの世界で出会ったフィフスではない。
そこにいるのが紛れもなく彼女本人だと、あの世界で死んだ妹であることが、
困ったように笑いながら、前世の妹が言う。
「みんなはね、兄さんに感謝しているんだよ? 誰よりも頑張り屋だった兄さんに。そんな兄さんだったから、幸せに生きて欲しいと思ってる」
「みんなが、俺に……?」
迷子の幼子を励ますように。導くように。
キズナは赤黒く染まった
「生きることは罰なんかじゃないよ。……間違った命なんて、きっとないものだから」
「でも……」
「いつかまた、私やみんなとも会えるから。今は生きよう、兄さん」
「俺に……そんな資格……」
「クレナさんだってそこにいるんだよ? あの人だって、一人は嫌だよ」
「クレナが……」
だから、ね?――そう言って、キズナが微笑む。
長い別れを惜しみながらも、兄の背中を押すように。
「兄さんは生きているの。双葉志亜として、そこに。そんな貴方を見ている人だって、いっぱいいるんだよ?」
「あ……」
赤黒く染まった精神を浄化していくように、彼女の言葉がすっと志亜の心に入り込んでいく。
そしてその時こそ、志亜は思い出した。
この人生の中で得た、大切な友の言葉を。
『どんなことがあっても、貴方は双葉志亜で、私のライバルであり、友人であることに変わりはありません。今までも……これからも』
その言葉があったから、志亜は戻れた。
赤黒く染まった身体は光に包まれ、次の瞬間にはいつもの自分がいた。
不器用で、いつもオドオドしている……
「……志亜はずっと、生きていちゃいけないと思ってた」
懺悔するように志亜は語る。
これまでの、本当の気持ちを。
「最初は……申し訳ないから生きていた。家族のみんなや、大切な友達を悲しませたくなかったから……」
「うん」
「誰かの為に生きないと、生きる資格なんかないって、思っていた……」
「うん……わかるよ。兄さんの気持ち」
志亜がポツポツと語り、キズナがその手を握りながら相槌を打つ。
妹でありながら包み込むような母性を持つ彼女との接触に、志亜は懐かしさと共に居心地の良さを感じる。
しかし志亜は自身の甘えを振り切るように顔を上げ、言い放った。
「……でも、それは嘘だった」
前世の記憶を取り戻して。
シライシユウシとしての自分を見つめ直して。
それでも……その上で抱いた、傲慢かもしれない本心を。
「志亜は……生きたい。シライシユウシじゃなく、双葉志亜として……幸せに……なりたい」
何度も言葉を詰まらせながら、志亜は言い切る。
そして不安そうに目尻を下げながら、最愛の妹に訊ねた。
「……幸せに生きて、いいか? キズナ」
ユウシ時代の口調で、志亜は彼女と向き合う。
そんな志亜の言葉を聞き出して、聞き出せたことに安堵するようにキズナは微笑んだ。
「そんなの、決まっているでしょ。兄さんってば、本当に……下手なんだから」
「……ありがとう」
――もう、大丈夫だね。そう言って、キズナは志亜の手を離す。
徐々に、キズナの姿が遠ざかっていく。
生きている間には、もう会えない彼方へと。
名残惜しさはあった。しかし腕を伸ばし掛けた志亜の耳に、彼方から声が聴こえた。
『次に会うのは兄さんが……志亜ちゃんがおばあちゃんになって、幸せに生きた後なんだからね!』
「……うん。その時はまた、お前に会いに行く」
生きている。
双葉志亜は双葉志亜として、まだ生きている。
妹の言った言葉を噛み締めるように何度も反芻し、志亜は彼方を背にして前を向く。
「その時はユウシとして、みんなのところへ帰るから」
しばしの別れだ。
だけど、約束は必ず守る。
そう言い残して、志亜は再び歩き出す。
その時、不意に小さな光が弾けた。
光は吹き抜ける青い風となり、志亜の目の前で一枚の花弁を舞い踊らせた。
聖地ルディアで見た、紅色のフリージア。
志亜はその花びらに手を伸ばし――そして、掴んだ。
ぎゅっと握った感触が予期していたものと違い、志亜はゆっくりと目蓋を開いた。
最初に視界に飛び込んできたのは、眩しいぐらいの白い天井。
魔王ソロと話をしていた、「SOLO」の社長室の天井だ。
ゆっくりと首を動かし、感触の正体を探す。
そこに、紅色の髪があった。
紅色の髪の少女――
志亜の右手を大事そうに両手で包み込み、彼女が傍らに膝をついている。
クレナの顔は、両頬が涙に濡れていた。
その彼女が、驚いたように志亜の目を見つめていた。
「ユウシッ!」
「ん……っ」
抱き着かれた。
彼女の腕の温もりと、首筋に掛かる吐息が、志亜に現実の実感を与えた。
――クレナも、ここにいる。
――
だったらどうする?
そんなの、決まっている。
彼女のことを……自分のことも幸せにする。
みんな一緒に、幸せになるのだ。
だから――。
志亜はクレナの髪を撫でるように左手を添え、そして言った。
「……もう、大丈夫だ……」