蒼紅天使のマスカレード   作:GT(EW版)

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《紅の追憶2》それは天使か、それとも悪魔か

 

 ネット小説、というものがインターネット社会にはある。インターネットやパソコン通信にて書き綴られ、公開されている小説のことだ。

 このネット小説というものは誰でも気軽に執筆することが出来、ネットの海を介して大勢の人々に公開することが出来る。そう言ったシステムもあってか、作品の大半を占めるのはアマチュア作家の趣味によるものが多かった。

 しかしそのアマチュア作家が学校の教室の中でまで、包み隠さず堂々と開けっ広げにしているケースはそう多くは無いだろう。

 

 白石勇志が通う天阜嶺(てんふれい)高校には、ネット小説作家のクラスメイトが居る。

 自分の書いたネット小説を手当たり次第周りのクラスメイト達に読ませ、その感想を貪欲に求める男が居たのだ。

 そんな自殺志願者の如き無謀な男の名前は、田中正雄(まさお)と言った。

 

「さあ、読みたまえ!」

「え?」

 

 昼休みの時間、勇志が教室の机で数少ない友人である宮本と昼食を摂っていたその時、彼が自らのスマートフォンの画面を見せて唐突にそう命じてきたのである。

 勇志は別段正雄と仲が良い訳ではない。元々人見知りな性格の勇志は、日頃から友人以外の者と話すことは多くなかった。

 そんな勇志に対して妙に尊大な態度で近づいてきた正雄が強引にスマートフォンを押し付けると、同じ場所で昼食を摂っていた宮本が呆れたように「まーた始まったよ」と息をついた。

 

「なんだこれは……」

「正雄の書いたネット小説だよ。コイツ、自分の小説を完結させた時はクラスメイト全員に読ませるんだ」

「以前女子にネット小説を読んだことがあるかと聞いたら、は? キモイんだけどと言われた。ネット小説の知名度などそんなものだ。しかし俺としてはサイト内だけではない、より多くの感想が欲しいからな……作家たるもの、身近な人間の意見が必要なのだよ」

「田中は、小説家を目指しているのか?」

「左様」

「……変わった喋り方だな」

「自分のことをラノベ主人公だと思い込んでいるんだろ……精神異常者だよ」

「照れるではないか」

「褒めてねぇよ」

 

 彼のスマートフォンの画面には、ネット小説投稿サイトにおける小説のトップページが開かれていた。

 そこには「異世界で寺院を開いたけど、誰一人として僧侶が集まらない件」という奇抜なタイトルと共に長々しいあらすじ文が書き綴られている。

 

「随分、コアな小説を書いているんだな……」

「コイツが授業時間すら堂々と書いているのは有名な話だぜ?」

「ふっ、それほどでもない。歴史の授業は新しいネタに事欠かないのでな」

 

 勇志は正雄と特別仲が良いわけではないが、宮本と正雄は小学校から続く縁らしい。腐れ縁とは宮本の弁だが、勇志の目には彼らが気心の知れた友人関係にしか見えない。

 それを少しだけ羨ましいと思いながら、勇志は言われた通り画面をタップして小説のページを開いた。

 

 それから十分ほど使って速読しながら内容を把握した勇志だが、この時点での感想は何とも言えないものだった。

 物語の内容は、ある日剣と魔法のファンタジー世界にクラスメイトごと召喚された主人公タナカが王様から魔王討伐を命じられるが、彼は熱心な仏教徒である為に異世界の宗教観とはそりが合わず、パーティメンバーから外され国外追放されてしまう。その後タナカは思い切って「ならばこちらの世界で仏教を広めるまで!」と寺院を開き、世間に仏の教えを広めようとするのだが……何故か集まって来るのは歳端もいかない美少女ばかりだったという話である。

 

「このキャラ達の登場は、少し強引じゃないか?」

「美少女無くして書籍化は叶わん。しかし作品の売りである寺院要素を外すわけにはいかなくてな」

「寺院要素というが……途中から魔王軍とのバトル物になっていないか? これはこれで面白いとは思うが……」

「魔物を仏の力で消滅させているだろう! 見ろこのセリフ、「キャー! 流石タナカ様だわ! 寺生まれって凄い!!」と書いてあるではないか。主人公の能力は、寺生まれだからこそ身に着いたものだ」

「そういうものか」

「そういうものだ」

「違う、間違っているぞ……」

 

 作者からリアルタイムでの解説を直に貰いながら、勇志は正雄の小説を読み進めていく。

 登場時からやけに主人公への好感度が高いヒロイン達や、仏の力と称した謎パワーで無双していく主人公のタナカマサル。勇志が個人的に「惜しい」と感じたのはこの辺りである。

 仏教のぶの字も存在しない異世界で主人公がどのように仏教を広めていくのかと思いきや、内容は主人公が少女達を侍らせながら無双していくチートハーレム物に過ぎなかったのだ。あまりネット小説の世界に馴染みのない勇志の目にはこれはこれで新鮮だったが、タイトルやあらすじから抱いた期待からは少し裏切られる内容だった。

 

「このタイトルとあらすじは変えた方がいいんじゃないか? 本筋からぶれている気がするが……」

「ふっ、タイトルなど、読者に興味を抱いてもらえればそれでいいのだよ」

 

 勇志が率直な意見を述べると、正雄が知ったような口で答える。

 確かに本文との差異はあれど、このタイトルとあらすじから色々な想像を掻き立てられたのは事実である。この程度のことはネット小説界隈では常識なのかもしれないと勇志はタイトル改変に口を挟むのは止め、とりあえず切りの良いところまで読み進めることにした。

 ツッコミどころは多かったが、なんだかんだで続きが気になる物語だったのである。

 

 

「どうだったかね?」

 

 スマートフォンを正雄に返すと、勇志は早速感想を求められる。自分の作品を恥ずかし気もなく披露し、その感想からより良い作品に仕上げようとする姿は作家志望者としては賞賛に値するだろう。

 しかしこうして面と向かうとどう言えば良いものかと悩み、勇志は答えを窮した。

「安心したまえ、どんな感想でも真摯に受け止めてあげよう」とやけに上から目線の言葉を受けて、勇志はようやく切り出した。

 

「文章は読みやすかったし、登場人物のキャラも立っていたと思うが……クラスメイトごと召喚する意味はあったのか?」

 

 彼の作品「異世界で寺院を開いたけど、誰一人として僧侶が集まらない件」は主人公が40人のクラスメイト達と共に異世界に召喚されるのだが、その扱いは正直言って微妙なものだった。

 クラスメイト達は右も左も勝手の違う世界の中において主人公と共通点のある数少ない人物だというのに、彼らは揃いも揃って国外追放された主人公に罵詈雑言を浴びせながら見捨てていくという悪役の役回りだったのだ。

 どうやら主人公はクラスでは変人さが災いしていじめられていたらしいが、何も異世界にまで因縁を持ち込むことはないのではないかと思ったのだ。

 そんな勇志の疑問に対して、正雄が得意げな顔で答える。

 

「そこが大事なのだよ。お前はまだ八話ぐらいしか読んでいないが、次の話からはいじめっ子達への復讐編が始まるのだ」

「寺院要素は……」

「彼らを極楽浄土へ送る!」

「何か、俺の知っている仏教とは違う気がする……」

「BUKKYOUだな」

 

 クラスメイトごと召喚された仏教徒の主人公が、異世界で仏ならぬHOTOKEの力に目覚めて無双し、ついでにこれまで主人公を虐げてきたいじめっ子達をGOKURAKUに昇天させる。つまりはそういうことだろうか。

 そうして馬鹿らしいことを真剣に考えていると、勇志はなんだか頭が痛くなってきた。

 

「復讐か……異世界で新しい力を身に着けてまでそれって言うのも、何か引っ掛かる……」

「フッ、それが人間というものだ」

「良いこと言った顔してんじゃねぇよ」

「それに……召喚されたクラスメイト達、どこかで見たことあるな」

「無論、このクラスを参考にさせてもらった!」

「無断でな」

「……ああ、それでか」

 

 作中異世界に召喚されたクラスメイト達も含めて、現実のクラスメイトをもじった名前の人物や、似たような外見描写のものが多かったのだ。主人公の名前が作者と同じタナカであることからも、もはや潔くすらある。

 中には黒石勇次という明らかに勇志をモデルにした人物も登場しており、そのキャラは無駄に女キャラを侍らせながら主人公を嘲け笑う嫌な奴として描かれていた。

 

「俺は……そんなに嫌味な奴だったのか……」

「俺なんてリザードマンだぞ? 幼女をベロベロしながら食べようとするおぞましい変態キャラだ」

「作中に出てくる人物は全てフィクションだ。問題無い」

「問題だらけだよ。それを直接本人に見せられるお前の神経がおかしい」

「ふっ……」

「何勝ち誇ってんだよ……」

 

 割と真剣に気を落とす勇志と、自分の扱いに慣れているのか苦笑いを浮かべる宮本。

 そんなことを話しているうちに昼食を食べ終わった勇志は弁当箱を片付け、自分のスマートフォンを取り出してWEBサイトを開いた。

 それはネット小説の投稿サイト――先ほどまで正雄のスマートフォンから見ていたサイトだった。

 正雄の小説を読んでみて、他の作品はどんなものがあるのだろうと興味が沸いてきたのだ。

 

「……しかしこのサイトには、異世界とか転生とかいう単語がやけに多いな」

 

 投稿サイトにおける人気順を表したランキング表を見てみれば、ざっと見渡した限り半数以上の作品に「異世界」というキーワードが加わっていた。

 タイトルも正雄の書いた小説のように長ったらしいものが多く、それが上から下まで連続で並んでいる画面を見るのはなんだか脂っこいものを四六時中食べ続けているような気分だ。

 

「「転生したらスラム街」、「今日も素晴らしき世界に祝福を見せてもらったぞ!」、「鋼鉄のVRMMO ~だから! 世界にジーグのパワーを見せなきゃならないんだろう!~」、「集いし妄想が新たな進化の扉を開く ~転生召喚! 飛翔せよ、俺~」……あー、確かにタイトルだけでお腹いっぱいになるな」

「そうとも! このサイトには平凡な日本人がある日突然異世界に召喚される話が多い。それが一番読者から人気があるからな。俺の書いたクラスメイト召喚も一大ジャンルだが、トラックに撥ねられて死んだと思ったら異世界に転生していた話や、死んだと思ったら恋愛ゲームの悪役キャラに生まれ変わっていた話など、同じ異世界ものでもジャンルは多岐に渡る。VRMMOという仮装現実化したゲームを舞台にしたSF物も多いが、こちらはそろそろ現実で実現してしまうのが気になるところだ」

「ヘブンズナイトオンラインだっけ? 確かにあんなものが現実になっちまうと、空想もやりにくくなるかもなぁ」

 

 現代社会をベースにした物語が驚くほど少ないのは、それだけ読者の多くが非日常を求めていると言うことなのだろうか。

 普段こういったライトノベルの類は読まない勇志だが、こうしてランキングに載っている以上異世界召喚や転生というジャンルが人気だと言うことはよくわかった。

 見ればこのサイトでは作品の書籍化も盛んに行われているようであり、そういった作品の多くもまた異世界が舞台になっている。実際、勇志もなんだかんだで正雄の作品を楽しめた以上、需要があることは疑いようになかった。

 しかしこうしてトラックにぶつかって異世界転生や異世界召喚などという文章を読んでいると、勇志の脳裏には先日の出来事が蘇ってきた。

 

(あれは……何だったんだ……?)

 

 無人のトラックに襲われた自分と妹。

 そのトラックを破壊し、自分達を守ってくれた紅の天使。

 その体験は今も勇志の脳裏に焼き付いており、片時も忘れてはいない。

 あれは、夢や幻などではない。白石兄妹が確かに体験した、現実の非日常だった。

 

(綺麗だったな……)

 

 あの時、光の加減で目元までははっきりと見えなかったが、白衣を纏った紅蓮の姿は今まで見てきた何よりも美しいと思った。

 勇志の脳裏に蘇るのは、紅の髪色に見合う炎の如き荒々しさを持ちながら、儚く消えてしまいそうな存在感を併せ持った少女の姿だ。

 あの時は何よりも第一に妹が助かって良かったと言う思いが強かったが、時が経つにつれて勇志の感情は自分達を助けてくれた紅の天使へと向かっていた。

 それは時折、周囲から上の空に見えるほどに。

 

「おーい勇志、大丈夫かー?」

「ん……あ、ああ」

「最近多いな。また妹のこと考えていたのか?」

「……まあな」

「ほう……白石君には妹が居るのか」

「くっそかわいい妹がな。コイツにはどこのラノベ主人公かってぐらい、天使みたいな妹が居るんだ」

「……くわしく」

「やめろ」

 

 何故か話題が妹の絆のことへ向かおうとしたところで、勇志は意識を現実に向ける。

 宮本は高校生らしからぬロン毛を伸ばしたいかにもカッコつけたホストのような風貌をしているが、意外と面倒見が良く気さくな男であり勇志も信用している。しかし正雄に妹のことを知られるのは何かこう、マズい気がしたのだ。

 

「そろそろ昼休み終わるぞ。席に戻れ」

「おっ、もうそんな時間か」

「時間を取って済まなかったな、白石君。しかしお前の意見は参考になった。願わくば評価点をくれ。ではな」

「……ああ」

 

 五時限目の授業の開始が迫っていることを言い訳に、勇志は二人を自分の席から追い出す。

 しかしその時の勇志の脳裏からもまだ、紅の天使の姿は離れていなかった。 

 非日常に襲われたあの日のことが幻想でないのなら、もう一度会いたいと――そう思っていたのだ。

 尤も会って何をするつもりかと聞かれても、勇志には答えることは出来なかったが。

 

 

 ――だがこの日、彼の元に再び非日常は訪れた。

 

 

 昼休みの終了時刻に伴って、クラスメイトの全員が教室に集まったその瞬間。

 足元から突如として眩い光が広がっていき、この教室の全てを覆い尽くしていったのである。

 

「え?」

「やっ、なにこれ……なに……?」

 

 照明の光などではない、余りにも強烈で眩い光が一同を襲っていた。

 教室内はざわつき、男女問わず一同から動揺の声が広がっていく。

 勇志もまたその一人だったが、彼だけはその光の出元である足元を注視していた。

 上手く言葉に出来ないが、この光には言い知れない寒気を感じる。

 飲み込まれれば二度と現実に帰れないのではないかという、根拠の無い恐怖だった。

 しかしその恐怖に抗いながら教室の床に広がる「円」を見て、勇志は絶句する。

 

「これは……!」

 

 光で描かれたその「円」の中には、解読できない何かの文字が刻まれていた。

 その姿はまるで、ファンタジー映画に出てくる「魔法陣」のようだった。

 

 教室の窓の一部がパリンと割れて、外から小さな何かが入って来たのはその直後である。

 

「鳥……?」

 

 光の中でその正体に気づくことが出来たのは、クラスメイトの中でもおそらく勇志だけだろう。

 一羽のスズメが小鳥とは思えない力で窓ガラスを突き破ってくると、光の円の中心に飛び込むなり赤く輝いたのだ。

 そして次の瞬間、この光を上書きしていくように紅蓮の炎が顕現した。

 

「うわああ!?」

「ッ――あつ……くない……?」

 

 おびただしい量の炎が、教室中を覆い尽くしていく。

 勇志を含むクラスメイト全員が為す術も無くその炎に飲み込まれていったが、不思議なことに身を焼かれる熱さは感じなかった。

 まるで、炎であって炎ではない何かのような――それに飲み込まれながら勇志は、この不可思議な現象の中で何故か心が穏やかになっていた。

 

 まるで、ずっと前からこの炎に温められて生きてきたかのように……勇志にはこの身を包む紅蓮の炎が心地良かったのである。

 

 

 やがて数秒後、教室を覆い尽くした炎はあっさりと消え去った。

 周囲を確認する勇志だが、自身の身体が焼かれていなかったように、見渡した教室もまた一切黒焦げになっていなかった。

 そして足元に広がっていた魔法陣のような光の円もまた、始めから何も無かったように存在を消していた。

 

「……っ、宮本! 田中!」

 

 自分以外の者はどうなったのかと一同の様子を窺えば、勇志以外のクラスメイト達は皆力無く机の上に突っ伏していた。

 いずれの者にも意識は無く、勇志は頭からさっと血の気が引いていくのを感じた。

 まさか全員死んでしまったのか……と、最悪な想像が彼の思考に浮かんだその瞬間、前方から耳当たりの良い声が聴こえてきた。

 

「だいじょうぶ、みんな、ねむっているだけ」

 

 小さく、幼子のようなたどたどしい言葉。

 しかしそれは何故か、たった一言で勇志の心を安心させる声だった。

 初めて鼓膜に触れたその声色はクラスメイトの誰のものでもなく、勇志は顔を上げてその声の主へと振り向いた。

 

「……!? 君は……っ」

 

 教卓の上――一人の少女が、勇志の姿を真っ直ぐに見つめていた。

 他校のものであろうこの学校とは違う制服を纏った少女が、左脚を伸ばし、右膝を立てた体勢で座っていたのだ。

 その体勢からめくれ上がったスカートの中身は右膝を抱えた両腕によって隠されていたが、その姿には不思議と同年代の女子には無い気品があった。教卓の上に腰を下ろしているという、普通ならば行儀が悪い姿勢でありながらもだ。

 そんな少女に見下ろされながら、勇志は言い知れない感情を抱いた。

 

「あの時の……!」

 

 肩先まで下ろされた、ショートヘアーの紅の髪(・・・)

 身に纏う雰囲気も間違いなく、翼こそ生えていないもののあの時の紅の天使だった。

 紅の髪と同じ色をした真紅の瞳は今新しく見たものだが、勇志が目にしたその顔は想像していたよりもずっと美しく、綺麗だった。

 そしてそんな少女の小さな口から零れ出てきたのは、勇志にとって予想外な言葉だった。

 

「ユウシ……」

「え……俺の名前、知って……」

 

 教えていない、それどころか話したこともない少女が勇志の名を呟くと、抱えていた右膝を伸ばして教卓の上から降りていく。その際に太腿の間から一瞬だけ赤い布地が見えたが、勇志がそこに意識を割くことはなかった。

 

 ――教卓から降り立った彼女がそのまま勇志の元へと歩み寄り、何も言わずに抱き着いてきたのである。

 

「……? !?!?!?」

 

 彼の胸に当たる柔らかい感触と、鼻孔をくすぐる甘い香り。

 紅の天使が起こした思いがけない行動に思考がついていけず、素っ頓狂な声を上げることすら勇志には出来なかった。

 ただ、今の自分の顔は火が出るほど真っ赤になっているだろうなということはどうにか理解出来た。今だけは宮本やクラスメイト達が気絶していて良かったと思う。

 

 ……しかし、これは一体どういう状況なのだろうか。

 

 他人からも妹からも仏頂面と呼ばれることの多い勇志だが、その心はあくまでも健全な高校生男子である。綺麗な少女に抱き着かれて嬉しい感情はもちろんあったが、冷静さが戻るに連れて彼女の奇行を不審に思った。

 

「俺のこと、知っているのか……?」

「……っ……ッッ……!」

「ほわっ!?」

 

 もしかしたらあの日の前にも会ったことがあるのかと問おうとした矢先、こちらを抱きしめる彼女の腕がより強くなった。その力強さに間抜けな声が出てしまったが、この少女の反応はいくらなんでも尋常ではない。

 表面上は平静を取り繕うとしていた勇志だが、内心ではおちおち、おちつけ俺! れれれれ冷静になれ……と何とか普段の冷静さを取り戻そうと必死に奮闘していた。未だかつて経験したことのないこの状況の中で、彼の理性は真っ赤に燃えていたのである。

 しかしその理性は程なくして、彼女から聴こえてきたすすり声によって冷却された。

 

「……ユウシ……ユウシぃ……!」

「……泣いているのか?」

 

 噛み殺したような声を放ちながら、彼女は涙を流していたのだ。

 泣くことは許されない。だけど、この時ばかりは感情を抑えられないように。その様子はまるで、病気に苦しんでいた頃の妹の姿と重なった。

 名前も知らない少女が何故、何に苦しんでいるのかはわからない。

 しかし勇志にはどうしても彼女の行動が、ただの見知らぬ少女の奇行とは思えなかった。

 

「……っ……ぁ……」

 

 気づけば涙に震える少女の背中を、あやすように撫でている自分が居た。

 最初勇志の手が触れた時は驚いたように肩が跳ねたが、しばらくそうしていると次第に落ちついたのか勇志を抱きしめる彼女の腕が徐々に弱まっていく。

 やがて少女はゆっくりと腕を解き、勇志の胸に埋めていた顔を離して口を開いた。

 

「……どこにも……」

 

 真紅の瞳を上目遣いに見上げ、勇志と視線を合わせて言い放つ。

 

「……どこにもあなたを、いかせません……」

 

 涙の滲んだその瞳は、しかし苛烈に燃え盛る炎のように荒々しかった。

 普通の少女ではあり得ないアンバランスさに勇志は思わず目を奪われ……あの日、天使のような彼女の姿を見上げた時よりも強い高鳴りが、その胸に響き渡った。

 

「……なんだか、君とは初めて話している気がしない……」

「…………」

「って、なに言ってんだろうな、俺は……でも、俺にはさっぱりわからなくて……」

 

 気づけばナンパ師のようなことを口走っている自分が居たが、その言葉に偽りがあるわけではない。

 何故だか彼女とこうして向き合うのは初めての気がしなくて……家族とは決定的に違うのだが、それに近しいものを勇志は紅の少女に感じていたのだ。

 

「……俺達のこと、助けてくれたんだよな? ありがとう」

 

 依然心拍数は荒れているが、少し落ち着いたところで先日のことと、今のことを合わせて礼を言う。

 その言葉を受けた少女は一瞬驚き、しばし目を閉じた後、儚げに笑みながらか細い声で言い放った。

 

 

 ――愛していました……今度は私が、貴方を救います。

 

 

 その声が聴こえた途端、勇志の意識は唐突に闇へと落ちていった。

 貴方が目覚めた時、この記憶は無くなっていると……物悲しそうな表情を浮かべた少女に、そう言われながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何故、貴方はそうも強く在れるのか――未来のアカイクレナが、彼にそう訊ねたことがある。

 

 平穏な生活から切り離され、病弱な妹と戦乱の世界へと召喚され、終わりなき戦いを強制されて……そんな夢も希望も無い世界で何故そうまで明日を信じ続けられるのか、クレナにはわからなかったのだ。

 何もかも諦めきった腐った目でそう訊ねるクレナに対して、彼は困ったように苦笑を浮かべる。しかし確固たる意志を宿した目で、彼は応えた。

 

『君に強いって言われるのはむず痒いな。俺はただ、絆にとって良い兄貴で居たいだけなんだと思う』

『そんな簡単な話じゃない……いくら妹が居たって、貴方が弱みを見せない理由にはならない。見栄を張るだけで、そんな風に生きられるもんか』

『そうか? 案外馬鹿にしたもんじゃないぞ、見栄っ張りって言うのも』

『…………』

『そんな言葉で納得できるかって顔だな……まったく、君には敵わないよ』

『何が、です?』

『正直な話、空元気なところもある。魔王軍との戦いは終わりが見えないし、仲間のみんなも減っていくばかりだしな……』

 

 彼は決して、どんな困難にも挫けない無敵のヒーローだったわけではない。人並みに悩むし、人並みに落ち込みもする。

 ただ、クレナにはそんな彼の姿がいつも輝いて見えた。時々弱さを見せてくれたその時ほど、支えてあげたいと思ったものだ。

 

『君にだから言えるが、俺だって怖くて仕方ないんだ。こんな暮らしをしていたら、どんどん自分がおかしくなってきて……なんだかもう、人間じゃなくなっているような気がしてな』

『そんなこと……ユウシは人間です。私の知る誰よりも』

『……ありがとう。そうか……ああ、そういうことなのか』

『? 何のことです?』

 

 クレナとの会話の中で、彼は何かに気づいたように晴れ晴れしい表情を浮かべる。

 何年も戦い続けてもなお終わりが見えず、絆を育んだ仲間達とも死に別れていく。その日々がどんなに苦しくても、彼は希望を信じて進み続けるのだと言った。

 たどり着く場所が見えなくても、彼はただ諦めたくなかったのだ。

 その希望こそが、仲間と共にあった。

 

『兄貴としての立場だけじゃない。俺はただ大切な人を守りたかったから、ここまで戦い続けることが出来た。ただ、諦めたくなかったんだよ。地球に帰ることも、妹を守ることも……仲間のみんなと生き残ることも』

 

 彼には守るべき存在があった。そして同じ境遇の者達と共に戦っていく中で、仲間達の存在もまた家族のように大切な存在に変わっていたのだ。

 この戦乱の世界で、召喚された当初より自分の心が荒んでいるのは誰もが実感していた。だがそれでも、いつの日かみんなで故郷に帰り、笑い合う日を信じて――彼はどこまでも、純粋であろうとしていたのだ。

 

『……無理だ。最初はあんなに居たみんなも、もう五人しか居ない……それに運良く生き残ったとしても、あいつが約束を守るもんか……』

 

 悲観的に生きていたクレナは希望なんてものは最初から信じておらず、一度は彼の思想を甘ったれだと否定した。

 貴方の言うことは、ただの楽観論だと。現実はどこまでも不条理で、残酷だ。魔王軍などという世界規模の軍隊をたった数人で相手をして、全員が生き残れる筈が無い。仮に生き残れたとしても、あの性悪な召喚師が約束を守ることなどあり得ないと。

 彼の方とて、そんなことはわかっている筈なのだ。

 しかしその上で彼は立ち止まらないことを――進み続けることを選んだ。

 

『生き残るさ。オーディスのことは、俺だって信じちゃいないが……この世界には、これだけ不思議な力があるんだ。戦っている内に、いつか俺達が帰る方法が見つかるかもしれないだろう? この呪いを解く方法だって、どこかにあるかもしれない』

 

 呆れるほどに真っ直ぐで、眩しくて……しかしそれだけではなく、彼の心には現実と向き合ってもなお前に進んでいく「勇気ある者」だった。

 あの召喚師によって連れてこられた十三人の勇者の中で、白石勇志という人間は誰よりも勇者を名乗るに相応しい男だったのだ。

 

『そして俺が守りたい人の中には、君も居るんだ。頼りないかもしれないが……俺がついている。だから君も、進むことを怖がるな』

『…………』

 

 誰よりも勇気があって、誰よりも強くて。

 そして誰よりも、アカイクレナの本質を理解してくれる人だった。

 

『いつ何が起きるのかわからない。いつ壊れてしまうのかもわからない……そんな未来と向き合うのは、俺だって怖い。だから俺も、君に頼んでいいか?』

『何を、頼むんですか……?』

『俺と一緒に進んでほしいんだ。今もこれからも……同じ時間を、ずっと』

『あ……』

 

 絶望の未来しか待ち受けていないと悲観していたクレナを、いつかその腕で抱きしめてくれたあの日――彼女が抱えていた心の闇は、いつのまにか取り払われていた。

 言葉は陳腐なだけではない。彼はその行動によって、未来のクレナに道を示してくれたのだ。

 何もかもを諦めていたアカイクレナの荒み切った心を、希望の光で照らしてくれた。

 

『ユウシ……わ、私は……』

『いいんだクレナ、俺は君が……』

 

 それが異世界にて十九歳になった頃、クレナが経験した初めての恋だった。

 ムードも減ったくれもない魔物達の屍の上で抱擁を交わし、いつの日かはっきりと言ってくれた彼の言葉が今の記憶にも焼き付いている。

 彼が伸ばしてくれた手を掴み、二度と離さないと誓った未来のクレナの熱情は、今の「紅井クレナ」の心にも受け継がれているのだ。

 

 

 ――だがその光景を、この世界で繰り返させるつもりはない。

 

 何故ならば彼と彼の大切な妹も、異世界の勇者になることはないからだ。

 彼らの異世界召喚は、この紅井クレナが阻止する。

 召喚師が何度彼らを連れ去ろうとしても、何度でも妨害してみせる。

 それが未来の自分から記憶を受け継いだ、ここに居る自分の役目だとクレナは規定していた。

 

「……わたしは、みらいをひていした。だけど、たちどまるつもりはない」

 

 魔法を使って気絶させた白石勇志の身体を抱き抱えながら、クレナは彼の座席までゆっくりと運んでいく。

 三日前は、今回と同じようなことを兄の紅井彗にもやったものだ。彼のように魔力の覚醒していない一般人が相手ならば、こうして痛みを与えることなく数分間眠らせることは容易い。

 その間に認識阻害魔法の応用で記憶を封印しておけば、ここで起こった全てが何も無かったことになる。やろうと思えば、完全犯罪だって容易いものだ。

 しかし、流石は未来では最高クラスの勇者だった白石勇志である。まだ魔力が覚醒していないにも関わらずその魔法耐性は並外れており、彼だけはクレナがこうして直接手を触れなくては他のクラスメイト達のように気絶させられなかったほどだ。

 

 そう、元々クレナは、勇志を気絶させる為に彼の元へと近づいたのだ。本来ならこの場で彼と話す気も、抱き着く気も無かった。

 

 無事な彼の姿を見て、子供のように泣きじゃくるつもりも無かったのだ。

 

「……えへへ……」

 

 ……だから、違う。

 こうして彼の身体を運びながら、だらしなく頬が綻んでいるのも何かの間違いである。そう自身に言い聞かせながらも、彼の体温を感じているクレナの顔はほんのりと赤らんでいた。

 

「ユウシ……」

 

 三日前、クレナはこの町に現れた「魔物」と戦ったことで、敵を蹂躙し踏み潰すことにこの上ない充実を感じる自分の歪みに気づいてしまった。時間を置いて素に戻れば、そんな自分自身の在り様を恐ろしく思ったものだ。

 

 しかしそんな自分と比べて、今ここに居る白石勇志は平凡な高校生そのものだ。

 

 異世界に召喚されていない彼の心は当然ながらあの世界に染まっておらず、無垢なまま……勇者ではない「ただの白石勇志」がそこに居た。

 

 未来のアカイクレナさえ見たことがない、彼の姿がそこにあったのだ。

 そんな彼と目と鼻の先まで近づいてしまったら、魔物との戦い以来心が不安定だったクレナが平然としていられる筈も無かった。

 

 気づけばクレナは、彼の命を身体で感じようと抱き着いていた――そんな、先ほどの経緯である。

 

 客観的に見れば、不審者以外の何物でもないだろう。

 理性を取り戻した今になって、クレナの中では羞恥心が湧き上がっている。

 尤も彼を含めてこの場に居る者達には全員、記憶の封印を施している。起きた頃には自分達が魔方陣式召喚魔法に巻き込まれそうになっていたことも、クレナがこの場に来たことも覚えていないだろう。三日前、魔物と出くわした兄の記憶にも同じ魔法を掛けて対応していた。

 

 このような非日常を、彼らが知る必要はない。

 

 この目が届く限りこの町からは誰一人として異世界召喚させないし、異世界の存在さえも感知させる気は無い。空想は空想のまま、現実の外側に存在していればいいのだとクレナは思う。

 出来ることならば他の勇者達のことも守りたいものだが……最優先するのは白石兄妹の二人だ。未来のクレナと最後まで一緒に居てくれた二人だけには、何を犠牲にしても平和な時を過ごしてほしかったから。

 この世界ではまともな面識も無いくせに、他人の生活を縛り付ける……とんだ悪女である。そう自覚するクレナであったが、この方針を改める気は無い。

 

『……俺達のこと、助けてくれたんだよな? ありがとう』

 

 彼が言ってくれたその言葉に、クレナの頬がだらしなく綻ぶ。

 目が覚めた頃にはクレナと会ったことは覚えていないだろうが、白石勇志が状況を飲み込めていないながらも自分に感謝してくれたのは身に染みるほど伝わってきた。

 対価としては、それで十分すぎる。彼の優しくて温かい言葉だけで、クレナは未来永劫戦える気持ちだった。

 しかし出来ることならば彼とは、こんな形ではなく……勇者や異世界召喚とは関係の無い、一人の女として会いたいものだと寂しく笑う。

 

「……すすみつづけます……みらいのわたしがのぞんだ、あなたのしあわせをつかむために」

 

 気絶した勇志の身体を座席に座らせた後、クレナは去る間際にもう一度彼の頭を自分の胸まで抱き寄せて呟く。

 未来の自分が見たことがないあどけない寝顔を間近に、少しだけ優越感に浸りながらクレナは微笑む。

 

 ――彼はここに居る。ああ、どこにも行かない。どこにもイカセナイ。

 

 一生自分の傍に居ろなどと、おこがましいことを言うつもりは無い。しかし彼がどんな未来を進もうと、彼の居場所はいつまでもこの世界であるべきだとクレナは思う。

 

 ――だからこそ、それを脅かす者が許せない。勝手なことをする奴らが許せない。

 

「ふ……ふふふふ……」

 

 異世界に召喚された人間に、幸福な未来は訪れない。それが未来の自分が見てきた確固たる事実であり、この時代の自分に与えてくれた警告だと言うのなら……クレナはどんな手を使ってでも、彼らの異世界召喚を認めなかった。

 

「いちどならず、にどまでも……」

 

 勇者としての適性の高さ故か、最悪なことに白石勇志が狙われるのは宿命の域にあるらしい。

 それも今回の異世界召喚は、無駄に緻密な策が講じられたものだった。

 今回名も知らぬ異世界召喚師は、学校に居たクレナを「封鎖結界」に閉じ込めた後で、この学校に居る勇志をクラスメイトごと魔方陣式召喚魔法で連れ去ろうとしたのだ。

 クレナの動きを封じつつ、彼を奪おうとしたのである。そこには明確な計画性があった。

 結界はクレナの力を持ってすれば苦も無く壊すことが出来る強度であるが、その分だけこちらの動きが僅かに拘束されるのは間違いない。その点では、今回の手口は一見効果的に思えた。

 

 しかしこちらとて、その程度のことは想定済みである。

 そんな時の為に、クレナは彼らの見張りにスズメ型の使い魔を送り込んでいたのだ。

 

「くだらないこざいくを、しやがって」

 

 使い魔は、ただバレにくい盗撮カメラとして使っていたわけではない。スズメ型の使い魔にはもしもの時の為に、使い魔の居場所と私自身の居場所を入れ替える能力が付与されていたのだ。

 封鎖結界に囚われたクレナは、その力で自分の居場所を勇志の学校の近くに配置していた使い魔と入れ替えた。それは疑似的な瞬間移動のようなものであり、使い魔が放たれている限り、クレナには距離という概念は存在しない。

 どんなに距離が離れていようが、クレナは執念で駆け付ける。そして一度ならず二度までも勇志を狙った召喚魔法に、クレナの怒りの臨界点はとっくに振り切れていた。

 

「ぜったいに……」

 

 封鎖結界に閉じ込めたことで安心でもしていたのだろうか、間抜けなことに今回の術者は魔方陣を展開する際に膨大な魔力を放っていた。その痕跡を辿れば、術者の現在地を探知するのは簡単である。

 

「ゆるさない」 

 

 彼の存在を見つけたことに喜びを浮かべながら、クレナがそう呟く。

 敵側は気配を絶ったつもりなのだろうが、研ぎ澄まされたクレナの六感は相手の居場所をとっくに割り出していた。後は地の果てまで追い掛け、生まれてきたことを後悔させるまで懲らしめてやるだけだ。

 ユウシから身を離した後、クレナは全開に空けた窓ガラスの枠に足を掛けて身を乗り出す。

 瞬間、飛行魔法を発動し、背中から紅蓮の翼を広げる。

 校舎の三階に位置するこの場所から眼下に広がる外の景色に意識を向けたクレナは、その翼を羽ばたかせながら一気に空中へと飛び出した。

 

 

 

 ――そして数秒後、彗星のような速さで飛翔したクレナが気配の元へとたどり着く。

 

 

 そこは人気の無い、取り潰された工場の跡地だった。

 ここまでの道のりでは飛行魔法と同時に自分の姿を誰かに見られることの無いように認識阻害魔法を使ってきたクレナだが、そこは元から人の目がないまっさらな場所だった。

 四方はドブ川に覆われており、そこら中に生えている雑草も伸び放題だ。廃墟になって随分時間が経っているだろうに工事の手すら行き届いていないそこは、夜中に肝試しでもしようと思わない限り好き好んで訪れる者は居ないだろう。

 あまりにもあからさますぎて逆に罠を疑ってしまうほど、誰かが隠れるには打ってつけの場所だった。

 

「見つかった……? 気配は隠していたのに……」

 

 召喚師の気配を辿ってクレナが上空から降り立ったのは、廃工場の建屋の屋上である。そしてそこには案の定、この場所の中で明らかに浮いた存在である不審人物の姿があった。

 その不審人物はクレナが空から降りてきたことに気付くと、驚いたような声を漏らす。

 まるで自分の気配隠蔽術が完璧とでも思っていたような反応を見て、クレナの頬が歪む。

 しかし、同時に気づいた。この町に潜んでいた異世界フォストルディアの召喚師のことを、もしかしたら未来の自分達を召喚したあの性悪男なのではないかと疑っていたクレナだが……今回ユウシを狙ったのは、彼ではなかったのだ。

 

 そのことが一目でわかったのは、目の前の不審人物の身長があの男とは違い140センチ程度と随分低く、その声もまた声変わり前の少年のように幼かったからだ。

 

 ……いや、その姿はまさしく少年のものだった。

 

 年の頃は十二から十歳ぐらいであろう。小学生の白石絆と同じぐらいの身長であり、顔立ちも幼さを隠せない童顔だ。

 この世界に溶け込んで潜伏する為か、町で市販されている簡素なパーカーを着込んでいた不審人物は、しかし肌や髪の色、目の色が日本人のものではなかった。

 

 ――金髪碧眼の、白人の少年である。

 

 いざ召喚師を殺そうと戦意を高めて飛び出した矢先、出くわしたのがこのような子供とは思いがけない展開である。

 しかし気配の元を感知し間違え、人違いを犯したという線は無いだろう。

 あの時感じた気配は間違いなくこの場に居る少年から発せられたものであり、今も彼の身体からは通常の地球人ではあり得ない膨大な魔力が感じられた。

 

「……いちおう、かくにんする。さっき、しょうかんまほうをつかったのは、おまえ?」

 

 彼がどう答えようとクレナが取る行動は同じだが、自らの戦意をさらに昂らせる為にクレナは彼の正体を訊ねた。日本語がわからないのならばそれでも良かったが、金髪碧眼の少年は紅の双眸に睨まれながら数拍の間を置くと、観念したように答えた。

 

「……はい。僕の名前はロア、ロア・ハーベストと言います」

 

 ロア――すぐにこの世から消え去るであろう少年の名前を頭の片隅に入れながら、クレナは内なる魔力を高めていく。

 殺意の眼差しで彼の姿を睨んでいると、今度は召喚師ロアの方から訊ねてきた。

 

「僕の方からも聞かせてください。貴方は……貴方は一体、何者なんですか?」

 

 こちらの正体を問い掛ける言葉。それは予想通りと言うべきか、クレナにとってはつまらない質問だった。

 

「さっきの人も凄い素質でしたが、貴方の魔力はあまりにも桁違いです。貴方は……どうして貴方のような人が、この世界に居るんですか?」

 

 彼ら召喚師にとって異世界召喚とは、多少の準備は要るがこの地球から勇者となりうる適性を秘めた無抵抗な人間を狙い、自分達の世界に召喚していくだけの簡単な作業だ。

 魔力の覚醒した勇者であれば対抗することも出来るのだろうが、素質はあってもまだ覚醒していない地球人ならば簡単に送り飛ばすことが出来る。異世界召喚とは本来、地球人に邪魔される筈のない作業なのだ。

 

 しかし彼にとっては何もかもが簡単に思い通りになっていたところを、クレナは二度も妨害した。

 

 得体の知れない者を相手に恐怖を感じている少年の様子に、クレナの表情から思わず笑みが零れる。

 そして魔力を持っている者が相手ならば、地球の人々を相手にするように普通に喋る必要も無いだろうと、クレナは自らの声にちょっとした「操作」を施すことにした。

 

『そんなに意外か? この世界に、お前の邪魔が出来る人間が居て』

「!?」

 

 一転して滑舌が滑らかになったクレナの声に、ロアが目を見開く。

 彼女が今しがた使った魔法に、彼は驚いている様子だった。

 

「翻訳魔法も使えるんですか……」

『魔法を使いこなせるのがお前達だけだと思うな。お前達なんて、特別な存在じゃない。道端の虫にも劣る塵芥だ。そんな奴に、私達地球人を見下す資格は無い』

「見下してなんて、そんなこと……」

『私はお前達を見下している。頭を踏み潰して上から見下ろして、思い切り嘲笑ってやりたい。奴隷にして、散々こき使った後で殺してやりたいぐらいだ。お前のような子供でも、関係ない』

 

 自分の声に魔力を乗せることで、言語の異なる人種とのコミュニケーションを円滑に行えるようにする「翻訳魔法」。それは読んで字のごとく、術者の話す言葉を相手の理解しやすい言語に変換する魔法である。言語どころか世界すら違うフォストルディアの生活では、おそらく最も重宝した魔法であろう。

 異世界人であるロアの言葉をクレナが理解出来るのも、彼がこの魔法を使っているからだ。

 そしてクレナもまたこれを使うことによって、劣化した情けない喉でもこの熱情をぶつけることが出来る。しかし「それならば何故今までこれを使わなかったのか」と疑問を抱くだろうが、それには単純かつ明快な理由があるのだ。

 

 翻訳魔法で訳した言葉は、一定水準以上の魔力を持たない者には聞き取ることが出来ないのだ。

 

 それ故に魔力を持たないこの世界の人々との会話では、生の言葉でしかコミュニケーションを取ることが出来なかったのである。

 クレナの翻訳された冷酷な言葉を浴びたロアは、気まずそうに顔を伏せながら言葉を紡いだ。

 

「……始めは、信じられませんでした。トラックを破壊された時も、貴方の力を試す為に差し向けたキラーマンティスをあんな風に倒された時も……何かの間違いなんじゃないかって思いました」

『自慢のおもちゃを壊された気分はどうだ? だがお前達が壊してきたものは、あの程度ではない』

「……恨まれる理由は、いくらでもあります。確かに僕は、決して許されないことをしています」

『自覚があるのか?』

「人攫いに協力するような真似をして、いい気なもんですか……」

『召喚師のくせに善人ぶるな!』

 

 やはり最初に白石兄妹を襲ったのも、あのキラーマンティスをけしかけてきたのもこの少年らしい。

 ならば是非も無い。

 彼がクレナの言葉に対して申し訳なさそうに目を伏せていたことや、陰鬱な空気を漂わせて悲痛な表情を浮かべていたこと意外ではあったが、クレナには彼が今何を思い何を感じていようと知ったことではなかった。

 

『もういい』

 

 今から殺す人間を相手に、長々と会話をしても仕方が無い。

 簡潔な言葉で会話を打ち切ったクレナは翻訳魔法を解除し、この全身に昂らせた魔力へと意識を注ぐ。

 紅蓮の炎がクレナの身体を覆った次の瞬間、浄化の炎で象った身の丈ほどの大きさの紅の剣が、この右手に生成される。先日の戦いで、キラーマンティスを斬り裂いた武器である。

 

「しゃべりはおわり。しね」

 

 炎の剣を振りかぶったクレナが、今度は翻訳魔法を掛けていない素の声でもう一度殺意を浴びせる。

 しかしそんなクレナと対峙して、何を思ったのか彼は両手を上げて叫んだ。

 

「っ……ちょっと待ってください! 僕の話を聞いてください!」

「わらわせるな」

 

 命乞いなど、聞くと思っているのだろうか。いくら見た目が幼い少年だろうと、クレナの心は彼の細首を掻っ捌くことに何の躊躇も戸惑いも無い。

 対話というものは、お互いが対等な立場になって初めて成り立つものなのだ。

 

「この間のことは謝ります! だから、お願いです……! 僕の話を聞いてください!」

 

 炎の剣を持った右腕を振り上げ、いつでも彼の身体を目掛けて振り下ろせる体勢になったクレナに対して、彼は厚かましくも戦闘行為の停止を訴える。

 その光景はさながら、怯えながらも勇気を出して暴漢を説得しようとする幼子のようだった。

 召喚師風情が、妙なことを言うものだとクレナは吐き捨てる。彼はその口からクレナに対して、「謝る」などと言った。彼も翻訳魔法を使っているだろうに、その発言はまったくもって理解できなかった。

 

「あやまる? なにを? ユウシをまきこんだことかッ!」

 

 召喚師という存在は、どれだけコケにすれば気が済むのだろうか。

 真紅を宿したクレナの目が大きく開かれ、殺意がさらに昂っていく。

 

「っ……!」

 

 クレナは右腕を一気に振り下ろすと、彼の身体を目掛けて縦一文字に炎の剣を叩きつけた。

 その攻撃を焦りの表情を浮かべながら反応したロアが、バックステップを踏むような動きで後方に跳躍する。

 大振りに放った一閃は空を裂く恰好になったが、その勢いのまま下に叩きつけられた炎の剣は二人の足場となっていた廃墟の建屋を一撃で崩壊させていった。砕け散っていく瓦礫と共に、地球の重力がクレナとロアの身体を数メートル下の地面へと落下させていく。

 

「た、助けて、ワイバーン!」

 

 その瞬間、クレナは彼の右手にどこからともなくカードのような札が出現したのを確認した。

 それは全部で五枚ぐらいか、落下しながら彼は自身の手札として展開したその中の一枚を天に掲げると、光の粒子と共に札の中から猛スピードで一体の竜が飛び出してきた。

 

 ――竜である。長い首と鋭い牙、細身ながらも引き締まった肉体を持ち、トカゲのような尻尾が生えている地球外生物。その背中からは、オオワシをも遥かに凌ぐ巨大な翼が生えている。

 

 ワイバーン――ロアがそう呼んだ飛竜の怪物は落下していく彼の身体を背中に乗せると、そのまま急上昇して上空に舞い上がっていった。

 得意の召喚魔法によって、異世界から自らのしもべを呼び寄せたのであろう。あのカードのような魔術の札は、それを瞬間的に行えるようにする為の媒介に見える。

 どうやら彼は、未来のアカイクレナが戦ったことのある召喚師達とは少し気色が違うようだ。

 だが。

 

「にがさない」

 

 彼による異世界召喚は、ここで止める。もう犠牲はたくさんだ。

 ワイバーンに乗った彼に対抗するようにクレナは飛行魔法を発動すると、紅蓮の翼を羽ばたかせて上空へと躍り出る。崩れ落ちる廃墟を後にして、二人は白昼の空へと舞い上がった。 

 

 

「そうか、あの人は貴方の……くそっ、どうしていつも……!」

 

 追い掛けるクレナの姿を背後にしながら、何やら彼が呟く。

 自分が召喚しようとした白石勇志という人間がクレナにとって大切な人間だと知って、憐れんでいるつもりなのか。それとも召喚師らしく、他人の人生を弄ぶことに喜びでも感じているのだろうか。

 いずれにせよ、そんな彼の姿を見たところでクレナが彼を逃がす選択師一瞬も存在しなかった。

 

「それでも、助けなきゃいけないんだ……! 封鎖結界っ!」

 

 ワイバーンの飛行速度を超えたスピードで徐々に距離を詰めていくクレナを見て逃走は不可能だと判断したのか、彼は旋回するなり自らの魔力を解放する。

 瞬間、クレナは自分の魔力がこの町から一斉に人の気配が消えたことを感知する。彼が「封鎖結界」を張って人払いを行い、時空から切り離したこの世界に自分とクレナだけを閉じ込めたのだ。

 クレナだけを結界に閉じ込めなかったのは、今ここで戦う決断をしたからと見て良いだろう。彼は再び自らの手に五枚の札を出現させ、その札のうち二枚を天へ掲げた。

 

「来て! キラーマンティス・マザー!」

 

 ワイバーンに続いて召喚された二体目の怪物は、先日クレナと彗を襲った魔物よりもさらに大きいキラーマンティスだった。

 空で召喚されたことによってカードの中から羽根を広げながら飛び出してきた怪物は、クレナの姿を見るなり親の仇のような猛烈な勢いで鎌を振り下ろしてきた。

 クレナはその一撃を炎の剣の刃面で受け止めた後、返す一太刀を持って速攻で怪物の首を跳ね飛ばそうと剣先を滑らせる。しかしその瞬間背後から新たな気配の出現を感知し、クレナは咄嗟に身を翻して高度を下げた。

 その判断は正しかったらしく、クレナが先ほどまで居た場所にはフォーク型の鋭利な魔槍を突き出している悪魔の姿があった。

 

「スカル・デーモン!」

 

 全身が白骨に覆われた人型の怪物が、クレナに対して赤く輝いた両目を向けるなり「ゴッゴッゴッ」と解読不能な言語を口溢す。無骨な姿ながら、その表情が笑っているものだということは未来の記憶からわかった。

 キラーマンティス・マザーはキラーマンティスの群れの頂点に君臨する怪物であり、スカル・デーモンは死後の世界を司る白骨化した悪魔の怪物だ。どちらも凶悪かつ強力な力を持った魔物であり、フォストルディアの魔物の中でも討伐困難とされている存在だった。

 そんな二体の魔物を従えながら、ワイバーンに乗った召喚師ロアがクレナを見下ろしながら言い放つ。

 

「僕は貴方と戦う気はありません! 聞いてください! どうか貴方に、お願いしたいことがあるんです!」

「は?」

「こんなこと言って、勝手すぎると思っています……それでもどうか、僕と一緒に来てほしい場所が……貴方にどうしても、助けていただきたい人が居るんですっ!」

「…………」

 

 三体もの強力な召喚獣を召喚したことで、対話が出来る土俵に上がったつもりなのだろう。ロアが必死の形相で叫び、クレナに訴えかける。その内容は、あろうことか懇願だった。

 一体この少年は自分の命を狙う敵を前にして何を言っているのかとクレナは訝しんだが、彼の表情は真剣そのものだ。適当なことを喋って時間稼ぎをしているだけにしては堂に入りすぎているその言葉に、クレナは思わず足を止めてしまった。

 気を抜いたわけでは断じてないが、クレナは再び自らの声に翻訳魔法を掛けて問い質した。

 

『来てほしい場所だと? それは、フォストルディアのことか?』

「は、はいっ! 僕は召喚師としてその世界からやって来て、貴方のような強い人を捜していたんです!」

 

 フォストルディア――かつて未来のアカイクレナ達が召喚された異世界の名前を出せば、ロアが驚いた表情を浮かべる。

 なるほど、何か訳ありのような口ぶりはそういうことかとクレナは理解する。

 

 この少年召喚師は先ほど、自分と一緒に来てほしい場所があり、助けてほしい人が居ると言った。

 

 その来てほしい場所と言うのは彼の故郷である異世界フォストルディアで、助けてほしい人というのは……そこに住んでいる人々のことであろう。

 勇者である勇志達がまだ召喚されていない今、あの世界の情勢は魔界から侵攻してきた魔王軍によって劣勢に置かれている筈だ。

 

 故に、召喚師である彼は動いたのだ。

 

 強い人を捜していたというのは魔王軍と戦う為には相応の戦力が必要であり、勇志達を召喚しようとしたのと同じ理由であろう。

 彼は今にも泣きだしそうな顔をしながら、要するにこう言っているのだ。

 

 ――この紅井クレナに、自分達の為に、魔王軍と戦え、と。

 

 

「ふ、ふふふ……」

 

 それを理解した瞬間、堪えられない笑みがクレナの口から漏れていく。最初から殺す気満々で彼と対峙していたつもりだが、それでも見た目幼い少年を手に掛けるのは少しだけ抵抗を感じていたのかもしれない。この頭にあるのはあくまでも未来の自分が経験してきた記憶に過ぎず、今ここに居る自分自身が経験したことではないのだと改めて思い知らされる。

 

 しかし、今この時を持ってそんな感情は完全に無くなった。

 

 今のクレナはまるで記憶にある未来の自分と同じように、完全にクリアになっていた。

 

「ふざけるなよ、こぞう」

 

 紅蓮の炎と共に翼を羽ばたかせながら、私は急加速を持って「敵」の元へと突っ込んでいく。

 自分でも驚くほどに、その身体はハヤブサよりも速く動いてくれた。

 その動きに唯一反応することが出来たスカル・デーモンが槍を構え、主を守るように急迫するクレナの前へ飛び出してきた。

 しかしその動きさえ、今のクレナにはスローモーションに見えた。

 

「異世界召喚が……」

 

 一瞬にも満たない交錯の中、クレナはデーモンの胸を目掛けて炎の剣の切っ先を突き刺すと、その一閃は血しぶきを上げて背中まで貫き通していく。

 激痛に驚愕する悪魔の姿に獰猛な笑みを浮かべたクレナは、敵の胸を貫いた剣の柄を捻りながらその身体を高々く待ち上げた。

 自分より何倍も大きな巨体を天へ掲げながら、クレナは召喚師に見せつけるように叫ぶ。

 

「そんなに好きかあああああっっ!!」

 

 魔法に頼る必要すらなく、クレナの喉から出てきた初めての大声がこの空に響いていく。

 それと同時。

 貫いた炎の剣からおびただしい業火が放たれ、スカル・デーモンの身体を内側から焼き尽くしていく。

 断末魔を交えた爆発が目の前に広がっていき、砕け散っていく怪物の肉片と紅蓮の光が結界の中で拡散していった。

 

 いつの世も悪魔を殺せるのは、神か聖者か天使か、同じ悪魔だけだ。

 

 天使でも神でもないこの時のクレナは言うまでも無く、人を超えた力を持つ悪魔そのものだった。

 

 

 

 


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