双葉 志亜、十五歳、高校一年生。
自らの前世の記憶を持って生まれた彼女は初めて友人を得た中学時代以来、以前よりも格段に明るくなっていた。
そんな彼女の変化を小さな頃から間近で見てきた少年――
双葉というその苗字からわかるように、千次は志亜の家族の一人であり――彼女と同じ日に生まれた、双子の弟である。
故に必然的に彼女と多くの時間を過ごしてきた彼は、彼女の本質を理解している希少な人間の一人でもあった。
彼女が前世の記憶を持っている「転生者」だということも、彼は知っている。しかし、それでもなお千次は双葉志亜という存在を実の姉として認めており、心から慕っていた。
これは、そんな彼の日常の一コマである。
「千次、朝。起きて」
――早朝、朝6時三十分前。
ぐーすかと気持ち良く寝息を立てて眠っている千次をベッドから起こすのは、彼よりも一足も二足も早く先に起きていた姉の志亜だ。
早起きな志亜が就寝中の千次の耳元で囁くように呼びかけ、彼に起床を促す。こう言った朝の始まり方は小さい頃、彼が物心ついた頃からもずっと続いていることだ。
「……ん、もう朝か……」
「おはよう」
「ああ、おはよう姉さん、助かるよ」
昨夜は遅くまでゲームを――流行りのVRMMORPGを遊んでいた為に睡眠時間は短かったが、聴き当たりの良い姉の声のおかげか千次の寝起きは快調な気分だった。これが目覚まし時計で起きる時などは鬱屈した気分で二度寝に入るのだが、現金なことに姉の声で目覚めた時はパッチリと目が覚めるのだ。
……実は昔、小学生の頃に千次は一度だけ彼女に起こされた時もまだ眠いからと構わず二度寝を決め込もうと布団に潜り込んだことがあったのだが、その際に「せんじ、たいちょうわるい?」「おこしにきて、ごめんね……おやすみなさい」と千次の体調を勘違いし、青ざめた顔で心配する彼女にとんでもない罪悪感を感じた為に、千次は今後彼女に起こされた時は絶対に起きようと心に誓った過去がある。
あの時は、健気に起こしに来てくれた姉にいじわるをするなと父からきつくお叱りを受けたものだ。しかし、申し訳なく思う一方でオロオロした姉の姿が不覚にも可愛いと思ってしまったのはここだけの話である。
双葉千次、十五歳。彼は思春期真っ盛りな年頃の少年としては珍しく、姉思いな男だった。
起床すれば真っ先にすることは着替えと洗顔、そして歯磨きだ。千次はそれらを済ませて居間に顔を出すと、ベランダの向こう側で我が家の愛犬「イッチー」に餌をあげている志亜の姿を見つけた。
「イッチー、いつも食べてくれて、ありがとう」
イッチー。犬種は大型犬のゴールデンレトリーバーで、今年で八歳になるシニア犬だ。千次と志亜が小学生の頃から双葉家に居り、共に成長してきた家族の一員である。
ゴールデンレトリーバーの性質に漏れず温厚で人懐っこい性格だが、飼い主である志亜の身に何かがあれば真っ先に駆けつける忠犬であり、かつては志亜を誘拐しようとした変質者を千次と共に追跡し、拘束したというドラマめいた出来事があったものだ。その一件こそが千次の性格が今に至るまでの大きな影響を与え、彼が巷の小児性愛者(ロリータ・コンプレックス)を激しく憎むようになったきっかけでもあるのだが……それはともかく。
大型犬は通常の犬種と比べ、寿命が短い。八歳のイッチーとて、あと四年も経てばゴールデンレトリーバーの平均寿命である。双葉家は裕福な家庭である為に日頃から質の良い餌を口にしているが、それでも我が家の愛犬の老い先がそう長くないことは確かだった。
だからか、志亜は無意識なのかもしれないがイッチーに餌をあげたりする時は必ずスキンシップを取り、イッチーの命を肌で感じようとしていた。イッチーもそうされると嬉しいのか、決して拒む素振りを見せることはなく、それどころか尻尾を振って彼女の抱擁を受け入れていた。
我が姉と愛犬ながら、朝っぱらから何とも心温まる光景である。
「姉さん、いつも言ってるけど制服でイッチーに抱き着くのはやめなよ。イッチーの毛で凄いことになってるよ」
「あ……大丈夫、志亜は気にしない」
「でも、また麗花さんに怒られても知らないよ?」
「……着替えてくる」
「そうしなよ、まだ時間あるし」
家族の一員として共に育ってきたイッチーは、千次にとっても志亜にとっても兄弟のようなものだ。だからこそいずれ来るであろう別れの日が心苦しく、感傷的にもなる。
イッチーの背中を上から下へと撫でながら、千次は考える。VRゲームで仲間と過ごす時間も楽しいが、一番大事なのはリアルでの生活だ。世界でたった一匹の愛犬との時間も大切にしなくちゃな、と――改めて自分の時間というものを見詰め直すことにした。
居間のテーブルには、既に姉の作った朝食が並んでいた。
双葉家の朝食は普段母が作っているのだが、今朝は用事があって留守にしており、姉が代わりに作ってくれるのだ。料理が出来ない千次は制服を着替え直して戻ってきた小さな姉に対して感謝の言葉を伝えると、彼女の作った豆腐の味噌汁を口に運んだ。
家庭的で温かみのある味に満足すると、千次はふと、彼女に訊きたいことがあったことを思い出した。
「あ、そうそう、「HKO」はどうだった?」
千次が常日頃から愛好しており、最近は姉も友人の令嬢様と共にプレイを始めたVRMMORPGについての話題だ。
志亜は中学二年生の頃からその友人の影響によってかゲームを趣味にしており、以来、その友人とゲームのことで話をすることが多いらしい。
一方で千次はと言うと、こちらも昔からゲームが好きだったわけではない。中学時代までは模範的なスポーツ少年であり、室内で遊ぶよりも外で運動をすることが多い生活をしていた。
そんな彼も高校二年生の今では訳あって運動に対する情熱を失っており、福引で「HKO」を当てたことを期にVRMMORPGを主な趣味とする立派な帰宅部員となっていた。
「綺麗だった」
閑話休題。
千次が問いかけた
「綺麗だよね、HKOの自然は。始まりの森にはもう行った? 姉さん植物とか好きだし、きっと気に入ると思うよ」
「最初に行った場所、そこだった。自然だった……本物と同じ」
「はは、仮想現実だって言うけど、あれじゃ現実と変わらないよね。俺なんてウインドウを開くまで本当に異世界に行ったのかと思ったよ」
「異世界……うん、そうだね」
「あ……ごめん」
世界初のVRMMORPGである「HKO」ではバーチャル・リアリティ(仮想現実)の名の通り、限りなく現実に近い形でゲームの世界を体感することが出来る。現実でありながらも現実世界とは違う非現実的な体験は、まさしく少年達の誰もが空想した異世界そのものだった。
ゲームに対する最大級の賞賛としてそう言った千次だが、言った直後でその言葉が姉にとってNGワードの一つであることに気付き、慌てて頭を下げた。
千次にとって異世界とは漫画やアニメのような「夢の世界」であるが、志亜にとっては違う。彼女にとっては前世の自分が現実として体験してきた「地獄の世界」なのである。それがどれほど悲惨な記憶なのかは千次には想像することしか出来ないが、事実として姉が今でもフラッシュバックとしてその心を悩ませている以上、千次の発言は明らかな失言だった。
「頭を下げるの、駄目。もう、終わったこと……千次は悪くない」
「ごめんよ、姉さん……」
「千次の言う通り、あそこは異世界。この地球とは違う、もう一つの世界」
姉さんを悲しませてなるものか、せっかく姉さんが早起きして作ってくれた朝食を空気の重さで不味くしてなるものか。千次は普段は活気のない脳細胞をフルに稼働させると、自らが作り出した重い空気を変えるべく即行で次の話題を切り出した。
「……そう言えば、姉さんはキャラメイクどうしたの? 名前とか種族とか、クラスとか」
「名前は「フィア」。種族は、人間」
「やっぱり、シアと響きが似てるんだ。でも人間かぁ……姉さんならエルフとか似合いそうだね」
「志亜は志亜。人間以外にはなれない」
HKOのキャラメイクではプレイヤーキャラクターの名前とアバター、種族とクラスを決めることが出来る。特に種族とクラスは各ステータスの伸び方やゲーム中のイベントに深く関わる為、最重要な要素となっている。
志亜が選んだ種族は最も標準的なステータスでバランスの良い「人間」らしいが、喋り以外は大概器用にこなせる姉ならばそれも向いている種族だろうと千次は思った。
「種族も姿も、志亜じゃなくなるのが怖かったから……」
「……姉さんらしいね。ってことは、もしかして、姿も声も姉さんのままだったり?」
「うん」
「わーお」
弟として志亜のことを見続けてきた千次には、彼女の性質をそれなりに理解しているつもりだ。
志亜は本人にどれほどの自覚があるのかはわからないが、行動原理の一つとして自らのアイデンティティーを失うことを過剰に恐れている節がある。高校生になっても自分のことを名前で呼び、志亜は志亜という言葉を口癖にしているのもその為だろう。
しかしそれは即ち、双葉志亜という存在を彼女が自分の手で、自分の意志で守っているということと同義だ。
それが意味することは、やはり彼女は本質的には怖がりで、寂しがりな人間だということだろう。
彼女の友人である城ケ崎麗花も、そんな彼女だからこそ構いたがるのかもしれない。
麗花本人の前で口にする気はないが、つくづく姉は良い友人を持ったものだと思う。最初はなんだこの悪役令嬢はと思ったものだが。
「駄目だった?」
「……駄目ってことはないさ。珍しいとは思うけどね」
怖がりなのも寂しがりなのも、気丈なのも悪いことではないと千次は思う。彼女がどんな人間であろうと、千次にとって彼女が双葉志亜というたった一人の姉であることに変わりはないのだから。
……さて、それはともかくとして志亜がリアルと同じ容姿でゲームを始めたとなると、選んだ種族がまだ「人間」で良かったとかもしれないと千次は思った。
HKOにおけるプレイヤーの種族は獣人やエルフ、吸血鬼等とバリエーションに富んでいるが、この姉の容姿にそれらの属性が追加されるところを想像すると、弟として危惧を抱かざるを得ないからだ。
猫耳やエルフ耳にでもなってみろ。絶対ロリコンが寄って来る。
「HKO」では人間の他にも吸血鬼や鬼人族と言った亜人でプレイすることが出来るのだが、ファンタジー世界特有のフェチ野郎共がそれらの属性を手にした姉を前に、欲望を抑えられるとは思えない。
全くもって嘆かわしい。
ロリコンなんてみんな死ねばいいのにと思いながら、シスコンの弟は溜め息をつく。
「千次?」
「……なんでもないよ」
「大丈夫? 考え事なら、志亜、相談に乗る」
「いや、本当になんでもないんだ。ついボーっとしちゃって」
「本当?」
「ほんともほんと」
憎しみに染まり、暗黒面に堕ちそうになった千次の心は、心配そうに顔を覗き込んできた志亜の言葉によって浄化される。
双葉千次、十五歳。彼は妙な意味で姉離れ出来ない弟だった。
「千次、そろそろ時間」
「……ん、早いね。じゃあ、行こうか」
「一緒に登校、久しぶり」
「帰宅部になってから、朝練が無くなったからね」
「千次……」
そうこうしている間に時計の指針は回り、登校の時刻となった。
小学校時代は同じ学校に通っていた双葉姉弟だが、今では千次の学力不足故にそれぞれ別の学校に通っている。
志亜の通っている高校は、地元の中高一貫校である「私立
対して千次が通っている高校は彼女とは違い、自宅から少々離れた町にある「
家から出れば別々の高校に登校する二人であったが、意識的な差か志亜の登校時刻が通常より早めであり、逆に千次がギリギリまで家に居るほど遅めということもあり、玄関から出て途中までは同じ道を歩き、方向を違えるバス停にて別れた。
初めて彼女の存在を知った時、城ヶ崎麗花は第一に「気に入らない」と思った。
日本経済をリードする城ヶ崎グループ――その会長次女として生まれた麗花は両親からも存分に可愛がられ、幼少から欲しいものがあれば大抵の物は我が儘一つで手に入れることが出来た。
美形の両親から受け継いだ容姿の端麗さも周りの子供達の中で群を抜いており、おまけに頭脳も明晰と来ている。麗花はさしたる努力をせずとも、学業の成績は小学校の頃から常に優秀だった。
家柄にも容姿にも頭脳にも恵まれ、もはや天から二物以上の物を与えられたとしか思えないような彼女には、周りの者達もこぞって麗花様麗花様とはやし立て、そうすることが当然のように敬意と畏怖を持って取り巻いていた。
しかし、性格までは完璧ではなかった。
なまじ周りの環境に恵まれすぎていたが為に、麗花は傲慢かつ自己中心的な性格に育ってしまい、幼い頃の麗花の言動によって振り回され、困り果てた人間の数も少なくはなかった。
いかにも少女漫画の悪役として登場しそうな、高飛車なお嬢様。中学校に上がってから間もない頃の麗花は、まさにその典型例と言える問題児だったのだ。
そんな彼女の日常に変化が訪れたのは、中学最初の学力テストの成績が廊下に貼り出された時のことだった。
中学生にもなればテストの内容も急激に難しくなり、不覚にも麗花は小学生時代よりもやや点数を落としてしまった。しかし、それでも周りのクラスメイト達と比べればその成績ははずば抜けて高く、今回も一位は頂きましたわと麗花は余裕の気分で掲示板を眺めていた。
そして、麗花は気づいたのである。
《1位 双葉志亜 100.0》
これまで自身の定位置だと思っていた一位の座には、見知らぬ女子生徒の名前があったのだ。横に並んで記されている平均点は100点。それは全ての教科で満点を取ったことを意味しており、麗花や取り巻きのみならず掲示板を見た全ての生徒達からざわめきが広がった。
――その瞬間、麗花は戦慄を覚えた。
完膚なきまでの敗北。
滅多に味わったことのない屈辱。
こんな気分はオンラインゲームの対戦で名前も知らない廃ゲーマーに打ち負かされた時以来だと、少々令嬢らしからぬ愉快な趣味を持つ彼女は声を上げて悔しがった。
城ヶ崎麗花はプライドが高く、負けず嫌いな性格だ。
しかし彼女がここで乙女ゲームの悪役令嬢よろしく自身に屈辱を与えた「双葉志亜」に対して何らかのちょっかいを掛けることをしなかったのは、彼女のそのプライドが良い方向に働いた結果だった。
いかなることにも常に勝者たり、勝者には相応の敬意を払う。それが城ヶ崎家の家訓であり、麗花にとっての行動原理でもある。
今回のテストの敗北は自身の学力が及ばなかったからの一言に尽き、全ては持って生まれた才能にあぐらをかき、今まで勤勉を怠ってきた自らのおごり高ぶりが招いた結果だと、彼女自身もこの敗北には納得していたのである。
しかし、それでも彼女の意に反して数人の取り巻き達が要らぬ気遣いを働き、「双葉志亜」に対して下賎な嫌がらせを働こうとしたことはあった。しかしそのような愚行は、麗花が直々に睨みを効かせることで制止させた。
『貴方達は引っ込んでいなさい。この落とし前は、この私、城ヶ崎麗花の手で着けます』
そう言って事を起こす前に麗花が取り巻き達を退けたことは、今も双葉志亜は知らないことだ。
名家として気高い誇りを持つ麗花は、姑息な輩を好まない。
敗北の屈辱には、自らの手で正々堂々とリベンジを果たす。彼女の思考は、至ってシンプルだった。
しかし、努力も虚しくその後も麗花の成績が双葉志亜の成績を上回ることはなかった。
次のテストも。そのまた次のテストも。
大好きなゲームの時間をも削って勉学に打ち込み、万全の体制で臨んでも、城ヶ崎麗花の成績は双葉志亜に対して常に一歩及ばなかったのだ。
ここまで来ると麗花の心から以前までの余裕は消え去り、焦燥感を抱き始めた。
そして、城ヶ崎麗花たる自分を何度も打ち負かすこの双葉志亜という生徒は一体何者なのか、もしかしたら自分以上の天才なのではないかと、恐れを含んだ興味を抱いたのである。
今まで挫折という挫折を味わったことのない麗花にとって、双葉志亜という壁は興味深く、ある種の執着心を芽生えさせるに足る存在だった。
……意を決して実際に会ってみると、当初イメージしていた人物とは掛け離れていたわけだが、だからこそ彼女の中にあった執着心はいつの間にか友情に変わっていたのかもしれない。
接していく内に、彼女のことが何だか放っておけなくなった。自分の中にある母性的な何かを刺激されたのかもしれない。
尤もこんな小っ恥ずかしい話は、余程のことがない限り本人の前では言わないだろうが。
(最初は気に入らなかった……この私よりも優秀でありながら、いつも何かに怯えている貴方が)
城ヶ崎麗花は自他共に認めるナルシストである。自分が何よりも一番だと考えている、まごうことなき自己愛者だ。
双葉志亜はそんな麗花とは対照的に、自己否定の強い少女である。
自分には他の人間よりも価値が無いと思っており、どれだけ周りの人間が口を酸っぱくして言っても、彼女は自分の意志で自分を大切にしようとしない。
それが、麗花には腹立たしかった。
彼女は自分が気に掛けるほどの優れた人間だ。ならばこそ、麗花には志亜に堂々として欲しかった。自分の認めたライバルとして、相応しい立ち振る舞いをして欲しかったのだ。
そんな気持ちで、いつだったか麗花は彼女に怒りをぶつけたことがある。
それが、弾みで友達宣言をしてしまった、中学二年のことである。
閑話休題。
麗花は目蓋を開けると、自らの意識を回想から目の前へと移動した。
昼休みの教室の中、心配そうな目でこちらの顔色を覗う小柄な少女に対して、麗花は小さくため息を吐く。そうすると目の前の彼女は子犬の尻尾のようにしゅんと目尻を下げ、心の底から申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい……」
基本的に無表情で、高らかに笑ったり、声を上げて泣いたりすることは滅多にないのがこの双葉志亜という少女だ。そんな彼女だが、このように自分が悪いことをしたと思った時などは諸に表情に出す。良いことは隠して、悪いことばかり前に出していく態度は出会った頃から何も変わっていない。
尤も、彼女がこう言った表情を浮かべる時は、大抵本当の原因は彼女の他にあるものだが。
今回の謝罪もまた、それに当たる。
「何故、貴方が謝るのです?」
麗花にとって、志亜の謝罪など要らないのだ。麗花は志亜から何か悪いことをされたわけではないし、謝罪される謂れなどどこにもない。このような「意味の無い謝罪」という小市民的な行動は、麗花が嫌悪する行動の一つだった。
しかし、志亜とて意味もなく謝罪する人間ではない。彼女には彼女なりの考えがあって、自らに否があると感じているのであろう。
双葉志亜という少女は、出会った頃からそんな人間だ。あまりにも変わらない卑屈な姿勢を前に、麗花は思わず出会った頃のことを回想してしまったほどだ。
「麗花、怒っている。志亜が、悪いことをしたから、怒ってる……?」
「貴方は本当に……本当になんなんでしょうね」
「ごめんなさい、麗花。ごめんなさい……」
「……いえ、私は別に志亜さんに怒っているわけではありませんよ」
彼女の洞察力は高く、他人の感情の揺らぎに対しては人一倍敏感だ。誰かが落ち込んでいる時などは進んで声を掛け、彼女なりに力になろうと相談を受けようとする。時々、その行為が迷惑かもしれないと引き下がることもあるが、実際に迷惑だと感じた者はこの教室には居ないだろう。
そんな彼女が指摘するように、今の麗花は確かに怒っていた。それはもう、昼休みであるというのに教室のクラスメイト達が静まり返って麗花の様子を注視するほどに、麗花は激しい怒りを感じている。
志亜もまた麗花の怒りを感じ取り、その原因が会話をしている自分にあると判断したからこそ謝罪をしたのだろう。それは麗花とてわかっている。
だが、違う。違うのだ。麗花の怒りの理由は彼女ではなく……
「そのPK、キラー・トマトと言いましたね。よ~く覚えておきましょう」
この昼休みで志亜の口から聞いた「HKO」の話で出てきた、ゲーム内の志亜に対して悪事を働いたという不届き者についてのことだ。
志亜の語りでは精一杯彼らを弁護する言葉が並べられていたが、麗花には彼らの事情など知ったことではない。麗花が悪者だと判断したら、それは全て悪者なのである。
判断基準が自己中心的であるが故に、麗花の出す結論は常にわかりやすかった。
――そうだ、報復をしよう。
京都に出掛けるような感覚で麗花の中でメラメラと怒りの炎が燃え上がり、既に頭の中では彼らに対する十数パターンもの報復手段が浮かんでいた。
「それと、その方の仲間も同罪ですね。今回は志亜さんを助けてくれたようですが、自分のギルメンの管理すら出来ない方々など粛清するべきです」
昨日その場に自分が居合わせていなかったのが、実に悔やまれる。
世紀末なプレイヤーによって森が焼かれ、そのプレイヤーと志亜が対話し、和解したところで今度はキラー・トマトという変なPKに横槍を入れられる。キラーはPK仲間の裏切りやその日志亜のフレンドになったコウテイペンギン達によって撃退され、焼かれた森も志亜によって封印を解かれた新たなヘブンズナイツ「フィフス」によって元の姿へと復活を遂げた。
……昨日だけで、随分と濃いプレイ内容である。その頃ハーメラスの図書館に篭って延々と「魔法」を習得し続けていただけの自分とは偉い違いだと、志亜に対して嫉妬が沸かないこともない。
「私としてはそのペンギンさんのことも気に入りませんね。ペンギンさんではなく私がその場に居れば、面倒なことになる前に全て片付けて差し上げましたのに」
尤も麗花のこの怒りは、その場に自分が居合わせていなかった間の悪さに対する八つ当たり的な感情に近いのかもしれない。
このような面白そうなイベントを近くに居ながらもみすみす見逃してしまったことに対して、ゲーマー令嬢たる麗花の心の中は口惜しさに溢れていた。
そう、だからこの報復はそんな自らの鬱憤を晴らす為のものであり、決して志亜の為に行うのではないのだと、麗花は誰に言うでもなく己の心に言い聞かせた。この令嬢、妙なところで素直ではなかった。
「麗花」
「なんですか?」
「全部、昨日終わったこと。だから、誰も憎まないで」
「憎んでいるのではありません。腹が立っているのです」
「怒りは、憎しみになる。憎しみは、悲しみ……悲しいは辛いから、怒らないで」
「……まったく、貴方という人は」
表面ににじみ出ていた麗花の邪悪な感情を察知したのか、志亜が彼女なりに饒舌な言葉で止めに入る。
その言葉から伝わってきた志亜の必死さに麗花の頭は幾分落ち着いたが、麗花としてはそれでも納得行かなかった。
「志亜さんは甘すぎます。そうやって下手に出てばかりいるから、どんどん自分が不利になっていくのですよ? 貴方は何とも思わないのでしょうが、私には貴方が有象無象の雑魚共に侮られるのが気に入らないのです」
誰も憎まない、傷付けまいとする志亜の信念は立派だとは思うが、戦闘がメインとなるHKOでは折角の力を無駄にしてしまう弱点になる。
彼女がその気にさえなれば、相手がPKだろうと森を焼いたプレイヤーだろうと、面倒なことになる前に即座に叩き潰すことが出来た筈だ。
麗花は双葉志亜という友人の実力を非常に高く評価している。
呆れ顔を浮かべながら自身の意見を述べる麗花に、志亜はほんの少しだけ嬉しそうな顔をする。自分が麗花に心配されていると感じ、申し訳なさの他に確かな喜びを感じているのだろう。表情自体はあまり変わっていないが、彼女は喜怒哀楽に関しては人一倍激しい人間なのだ。
それも、麗花が友人付き合いをするようになってから知ったことだが。
「志亜のこと、心配してくれてありがとう」
「そ、そういうのではありませんわ、ええ。貴方が侮られることで私まで侮られた気分になるのが不愉快なんです。そこは勘違いなさらずに、ええ」
麗花は志亜のことを、対等な友人としてよく見ている。
しかし妙なところで素直になれないのが、城ヶ崎麗花の数少ない欠点だ。麗花は他人が見てもわかるほどに、志亜に対して嘘をつくのが下手だった。
友人付き合いを始めた頃はこのような照れ隠しを志亜が間に受けてしまい、鬱々と落ち込んでしまう彼女の誤解を解こうと奔走するラブコメのような事件が発生したものだが、今となっては志亜の方も麗花の言葉の真意を理解しており、このような見え透いた悪意無き嘘は微笑み一つで流せるようになっていた。
「志亜も、麗花が悪いことをされるのは嫌。麗花は、大切な友達だから」
「っ……あ〜もう! 調子狂いますね、貴方は本当に!」
「ごめんなさい」
「だからなんで謝るんですか! もういいですよ、今回の件に関して私は一切手を出しませんっ」
「ありがとう、麗花。麗花は優しい人。志亜は大好き」
「……面と向かって言わないでください」
そんな麗花に対して、志亜の方はいつまでも幼子の心を忘れぬ素直な人間である。
面と向かって話すには小っ恥ずかしいことも、彼女は平気な顔で言い放つ。何一つ曇りのない穏やかな表情で。
想像するに、彼女の「前世」とやらはさぞ天然な女たらしだったのだろう。志亜が女の子で良かったと、麗花はやや頭痛を催しながらそう思った。
「志亜さん、今日は私に付き合ってください」
「ん……麗花に?」
気分が悪い。
ああ、気分が悪い。こんな日はVRMMOに限ると、麗花は放課後の活動方針を変更する。
「そろそろ町を出ようと思いましてね。まずは外のフィールドを探索しながら、ハーメラス以外の町に行くつもりです」
城ヶ崎家の名に賭けて、麗花は一度交わした約束を違えることはしない。昨日の志亜の周りで起こったことには一切手を出さないと約束した以上、件のキラー・トマトらに対する報復は諦めざるを得なかった。
しかしそれでは腹の虫が収まらないというところだ。故に麗花は、他の方法で鬱憤を晴らすことに決めたのだ。
「今日は、麗花と一緒?」
「ええ、そう言っているのです。一応確認しておきますが、そちらの都合は問題ありませんよね?」
「一緒は大丈夫。都合は、志亜が合わせる」」
お互いゲームを始めてからまだ日は浅いが、共にパーティを組むのはこれが初めてになる。
仲が良い筈でありながらも常日頃から二人で行動しないのは、麗花の意地のようなものである。友人関係ではあるが、麗花にとって志亜がいずれ超えなければならない宿敵であるという点は変わっていないのだ。常にライバルと一緒に行動をするという選択は、麗花のプライドが許さなかった。
「麗花と一緒、楽しみ」
一方で志亜の方にはそのようなプライドは欠片も無く、友人との冒険を心から楽しみにしている様子だった。
微かに頬を弛緩させて穏やかに笑む小さなライバルの姿に、麗花は毒気を抜かれる。
「苛立ちとか怒りとか、いつもこうやってどうでもよくなるのですよね……」
「?」
「HKO」の世界には「ヒール」という相手の傷を癒す魔法が存在するが、彼女の場合は現実世界でもその魔法を使えるようだ。彼女と話していると疲れやら負の感情やらが薄れていき、気づいた頃には綺麗さっぱり無くなっている。遠巻きにこちらの様子を眺めていたクラスメイト達も皆、一様に午前の授業の疲れが吹き飛んだような温かい笑みを浮かべていた。
……やはりまだ、今の自分では勝てないようだ。
学園一の令嬢である自分を差し置いて、誰よりも教室に強い影響を与えているライバルの姿に麗花は複雑な思いで苦笑した。