蒼紅天使のマスカレード   作:GT(EW版)

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隠しエリア・生命の泉

 

 その時の青年は、身体中の神経が焼き切れ、既に痛みを感じることも出来ない状態だった。

 出血は酷く、骨は砕け、四肢の大半が無惨に潰れている。辛うじて生命活動を続けているのが奇跡としか言いようのない状態で倒れながら、「彼」はそこに居た。

 

 ――死ぬのか。

 

 薄れゆく意識の中で、彼は淡々と、機械的に今の自身の状態を確認する。

 これまでに十一人の仲間の死を見届けてきた自分にも、とうとうその時が来たようだ。ここまで無様に生きながらえてきた割には、いざ死ぬ時となると存外呆気ないものだと自嘲の笑みすら浮かべたい気分だった。尤も頬の筋肉すら、今はピクリとも動かすことが出来なったが。

 

 ――これで、終わりだ。

 

 微かに残っている曖昧な視覚情報から、彼は周囲の状況を確認する。

 辺りの至るところに砕け散った瓦礫の破片が散らばっており、室内でありながらも仰向けに倒れた体勢から見上げる一点には天井の形がなく、自然のままの姿である緋色の空が剥き出しのまま浮かんでいた。

 その無惨な有様は先ほどまでここが室内――「魔王城」の中だったとは到底思えない。五百メートル以上の高さに聳え立つ威容を誇っていた城の姿は見る影もなく、彼らの戦いによって崩壊したのだ。

 まるでいつか見た怪獣映画のように、我ながら随分と派手に戦ったものだと青年は思う。

 そこまで考えた次の瞬間、彼の瞳は暗闇を映した。

 

 ――もう、何も見えない。

 

 プツンと、糸が切れるように彼の視界が消えたのである。

 心臓の鼓動も感じられなくなり、間もなく意識そのものが闇に落ちた。それは勇者として六年間戦い続けてきた男としてはあまりに呆気の無い、「彼」の命が終わろうとする瞬間だった。

 

 彼は自分が死ぬことに対して、何の感慨も沸かなかった。

 勿論、心残りはある。妹のキズナのこと――最後に残る唯一の仲間である彼女を残して、兄である自分が先に逝ってしまったことは彼女に申し訳なく思う。

 

 だが、これで良かったのかもしれない。

 

 今や魔王軍はほぼ壊滅し、最後の敵である魔王にもこの手で深手を負わせた。その代償にこうして自らの命を差し出す結果となったが、そんなものは妹の命と比べれば安いものだった。

 妹が死ぬぐらいなら、自分が代わりに死ぬべきだ。彼女はもう、自分が居なくても大丈夫だから。

 彼女の力を持ってすれば、消耗した今の魔王を討つことは容易いだろう。自分の命が妹を救う結果につながるのならば、彼に無念など無かった。

 だからこそ、彼は安心してその身を覆う死へと身を委ねたのだ。

 

 生命活動を停止しかけた彼の身体を、青い光が包み込むまでは――。

 

「…………!」

 

 今まさに彼の魂が土に還ろうとした次の瞬間、彼は呼吸を取り戻した。

 心臓が再び鼓動を開始し、同時に全身に激痛が走る。

 彼の身体の神経細胞達が一斉に蘇生し、痛覚を取り戻したのである。

 その痛みは徐々に和らいでいき、並行して四肢の感覚も復活し始めてきた。

 全身に力が蘇っていく――それは、奇跡と呼ぶにしてもあまりに都合の良すぎる事態だった。

 

 ――まさか!

 

 身体中に生命力が戻り、傷が癒えていくのがわかる。その現象に心当たりのある彼は目蓋を動かせるようになったと同時に目を開くと、生命力と共に蘇った微かな視力を持って自身の手を握っている一人の少女の姿を認めた。

 

 ――キズナ!!

 

 湖のように透き通った青色の髪。その身体もまた青い光を放っており、その光は少女の手から伝って彼の体内へと流れ渡っていた。

 

 触れる者全てに癒しを与える力。それこそが少女――彼の妹である「キズナ」がこの世界で得た「C.HEAT」能力、「生命の光」だった。

 

 その名から想像される通り、「生命の光」とは使用者が対象とする生物に生命を分け与える力だ。この力を持ってすれば対象の四肢がなくても、完全に死亡していない限りはどんな状態の人間でも元の姿へと蘇らせることが出来た。

 そんな反則的な力を持つ彼女が居たからこそ、勇者達は少人数でありながら世界の大半を牛耳る魔王軍とこの日まで渡り合えたのだ。彼女が居なければ、勇者達は七日と持たずに全滅を迎えていたことだろう。

 

 ――だが、その力は強力であるが故に、幼い少女が払うには高すぎる代償が必要だった。

 

 それは彼女の命こそが何よりも大切な彼にとって、決して許されない代償だった。

 

『兄さんは……死なせない……!』

 

 彼女の祈りに呼応して青色の光がさらに力を増していき、彼の身体の治癒速度がその光の量に比例して一気に跳ね上がっていく。

 全身の痛みが和らいでいく中で、しかし彼の心中は死の間際とは比べ物にならない激情に覆われていた。

 

『や……めろ……』

 

 彼女の力によって喉の機能を取り戻した瞬間から、彼は声を上げて彼女にその手を放し、光を止めるように促した。

 この命を繋ぎ止めようとする「C.HEAT」能力、「生命の光」はこれ以上使ってはならないと。

 

『…やめ…てくれ……キズナ……』

『出来ないよ……兄さんを見捨てるなんて!』

『もう、いいんだ……俺は……お前さえ、生きていれば……』

『私の命は、もう少ないから……だから残った全てを、兄さんにあげる!』

『駄目だ……やめるんだ……!』

 

 彼女の「生命の光」は、他の生命体に自らの生命を与える力だ。

 それ故に、発動の度に自らの生命を消耗していく自己犠牲の力でもあった。

 使えば使うほど、彼女自身の生命力が著しく低下していくのだ。そして限界を迎えれば、彼女は命を失う。

 過去に何度かこの力を使ったことのある彼女の余命は、既にこの時点でも残り幾ばくと無い状態にあった。

 

 だから彼女自身、この時を迎えるずっと前から覚悟を決めていたのだろう。「生命の力」の度重なる使用によって残り僅かしか生きられない自分の命を……どう使うか。

 

 そして、彼女は選んだのだ。命の危機を迎えた兄を、残る最後の力で生き返らせることを。

 まだ幼い妹に、そんな考えをさせてはいけなかった。だが彼女には、それが出来てしまった。

 彼女は――キズナという少女は他人の不幸を誰よりも悲しみ、自分を捨ててさえも他人の為に優しくなれる人間だったのだ。

 

『ずっと、待ってた……今まで何の役にも立てなかった私にずっと優しくしてくれた兄さんの為に……何か、出来ること……』

『やめてくれ……これ以上はお前が……!』

『ここで、戦いに勝っても……私は長く生きられないから……だから、兄さんが……兄さんは、生きて』

 

 彼女は兄の為に自らの命を犠牲にすることに対して、最後まで躊躇いを見せなかった。

 兄だけではない。いつだってそうだった。

 彼女は苦しんでいる者が居れば他の誰よりも命を削って、常に他者の為を思って戦っていた。

 自分が地球に帰ることを目標とせず、異世界の人々を本気で救う為に戦い続けていた。

 

『ごめんね……兄さん』

 

 もはや届かない叫びだとわかっていても、彼は妹に呼びかける声を止めなかった。

 自らの死を受け入れられても、妹の死だけは受け入れられなかった。彼女を守る――それだけが、この世界で生きていく全てだったのだから。

 

 

 ――最愛の妹がその力で治してくれた喉から力を振り絞って、彼は狂乱の叫びを上げた。

 

 ……しかしそれすらも、全てが無駄に終わるしかなかった。

 やがて彼女の放つ青色の光が淡くなって消え去り、彼が自分の意志でその身体を自由に動かせるようになった時、既にキズナという少女の生命は、この世から消えていたのだ。

 

 怒り、悲しみ、あらゆる感情が綯交ぜになった彼の慟哭が、緋色の空に轟き渡る。

 彼の頭の中で、何もかもが砕け散っていく。心が崩壊していく。

 それは、「彼」のその後の運命を決定づける、生まれ変わった今でさえ記憶に残り続けている出来事だった。

 

 

 

 

 ――彼女は、自慢の妹だった。

 

 強くて、優しくて、勇気があった。自分なんかよりも、彼女こそが最も勇者たる存在だったのだ。

 

 そんな妹の存在を、「彼」は自らの命が終わる最期まで愛し続けていた。

 精神が崩壊し、心が完全に壊れてしまい仲間の名前さえ忘れてしまったその時でさえも、唯一妹のことだけは忘れなかったのだ。その事実が、「彼」がどれほど彼女のことを大切に思っていたのかを表していた。

 

 キズナという少女は、本当の優しさを持っていた。それは懺悔の思いから来る双葉志亜の嘘の優しさとは違う、深い慈愛の心から来る本当の優しさだ。

 

 だからこそ「彼」の記憶を受け継いで生まれた志亜――フィアは彼女のことを誰よりも尊敬し、「彼」だった頃と一切変わることなく愛し続けていたのである。

 

「キズナなら、どうしていた……?」

 

 一人。漠然と川の水面を眺めながら、フィアはぽつりと独語する。岩の上に膝を抱えて座り込んでいる彼女の姿を、焼け野原となった「始まりの森」の自然が囲んでいた。

 

 ここは、フィアが初めてペンちゃんと出会った場所である。それも現実時間ではほんの数時間前のことだと言うのに、随分と長く感じるものだ。

 

 キラー・トマトとその元仲間達が立ち去った後、次に森を去ったのはスキンヘッドの男だった。

 森を焼いた責任の一端を担う彼はその罪を償うべく、まずは迷惑を掛けたプレイヤー達に謝罪する為に町の集会所へと向かった。その結果多くのプレイヤー達から冷たい目で見られたり罵詈雑言を浴びせられることになるかもしれないが、彼もこればかりは庇われるわけにはいかないとフィアの同行を頑なに拒否した。

 それでも彼の身を心配するフィアを見かねてか、ペンちゃんが「私のフレンドにボディーガードを頼んでおいたから大丈夫だよ」と、彼が町の中で再びPKに遭う危険が低いことを言い聞かせることで説得に当たった。そのフレンドは有名な実力派プレイヤーの一人であり、そいつが居る前では誰も下手なことは出来ないと言い切るペンちゃんの姿がフィアの目には何とも自信満々に映った。

 

 そうして二人だけ森に残ったフィアとペンちゃんだが、ここで別れを切り出したのはフィアの方だった。

 

 キラー・トマトとの対峙からフラッシュバックに襲われていたフィアは、一旦気持ちを落ち着かせる為にペンちゃんに「一人にさせて」と頼んだのだ。

 それだけならばログアウトしてリアルに戻れば良いだけなのだが、フィアはその前にこの場所がどうなっているのか気になっていたのだ。フィアにはスキンヘッド達を恨む気は無かったが、あの綺麗な場所も燃やされているのかどうかその目で確認しかったのである。

 ペンちゃんはその頼みを、渋々ながらも承諾した。尤も、彼女は別れたふりをしただけで今でも木陰に隠れながらフィアの姿を心配そうに見守っているが。明らかに元気を失っているフィアの様子を見て、ペンちゃんはどうしても放っておくことが出来なかったのだ。

 フィアはそんなペンちゃんの動向を察していたのだが、それを咎める気は無かった。

 悪い言い方をすればペンちゃんはフィアに対して嘘をついたことになるのだが、嘘にも善意の嘘と悪意の嘘との二つがあることぐらいはフィアもわかっている。ペンちゃんが優しいペンギンだと信じて疑わないフィアは問われるまでもなく前者の嘘として認識しており、フィアは寧ろ心配してくれてありがとうとペンちゃんの優しい心遣いに感謝していた。

 

 そうして再び川の見えるこの場所を訪れたフィアだが、やはりそこも荒れていた。

 緑に覆われ、小動物達が戯れている美しい自然の姿はそこになく、焼き払われた草むらの跡と、木の欠片や炭が流れている濁った川の景色だけがそこにあった。

 

「キズナなら、守れた……理解も、してあげられたのに……」

 

 変わり果てた景色を眺めながら、フィアが呟く。

 あの時、スキンヘッド達の暴走を見逃したのは、やはり間違っていたのだろうか。彼らにも事情があるからと止めなかったのは、優しさではなかったのだろうか。本物の優しさを持つ彼女なら、この自然を守る為に動いたのだろうかと、フィアは自問する。

 ……愚問である。フィアの知るキズナならば、自然を守った上で彼らのストレスを解消し、PKを楽しむキラー・トマトの欲望さえ穏便に満たす方法を導き出していたに違いない。

 フィアに足りない優しさを見せて。

 

「フィアは……フィア。キズナじゃ、ない……」

 

 今はっきりと言えるのは、フィアに彼女の真似は出来ないということだ。

 嘘で塗り固められたフィアの優しさでは、精々が自分が盾となって思う存分斬られてあげることぐらいしか思いつかない。しかしそんな方法では根本的な解決になりえず、相手を理解したことにもならない。

 記憶に残るキズナという少女は、敵である魔族とすら分かり合うことの出来る子だった。

 戦いではなく話し合いで向き合い、一時は彼女のお陰で魔王軍との和平すら開きかけたのだ。……結局はその努力も、人類側の凶弾によって無に還ったが。

 

 

 しかし自分の為ではなく、誰かの為に生きる。今世の家族に自分の存在を受け入れられたあの日から誓ったそれが、今のフィアにとって行動原理の基盤だった。

 そんなフィアの考える理想の人物像が「彼」の妹であるキズナだったのだ。しかし自分では彼女の持つ「本当の優しさ」には近づくことが出来ないと、理想と現実の差を実感し途方に暮れていた。

 だが、それでも。

 

「フィアは……優しくなりたい」

 

 キズナのようにはなれなくても、優しい人間になりたいと思う。

 否、優しくならなければならないのだ。

 それこそがフィアにとって、自分が二度目の人生をのうのうと送らせてもらっていることに対するせめてもの償いの気持ちだった。

 

 

「ん……」

 

 その時である。

 川の水面を見つめるフィアの視界を遮るように、黄金色の物体が現れた。

 ゴールデンカーバンクル――ペンちゃんいわくこの始まりの森に生息する希少モンスターの姿だ。

 モンスターには見えないリスのような小動物的な姿を見て、フィアは緊張を解きながら目を細める。つぶらな瞳でこちらを見つめるゴールデンカーバンクルに対してフィアは頬を緩め、今は居ない誰かに向かって言いたかった言葉を贈った。

 

「おかえり」

 

 警戒心の無さと人懐っこさから、おそらくこのゴールデンカーバンクルはフィアが撫でさせてもらったのと同じ個体だろう。スキンヘッド達に狩られていなかったことに安堵し、フィアは笑みを浮かべた。

 するとカーバンクルはフィアの言葉に応えるようにキッと短く鳴くと、すばしっこい足取りでフィアの周りをぐるぐると走り回った。

 

「……どうしたの?」

 

 敵意は相変わらず感じない。と言うことは、これは何らかの攻撃の動作とは違うだろう。

 その奇行はおそらく、自分に何かを伝えようとしているのではないか? フィアには動物の言葉がわからないが、何となくゴールデンカーバンクルの仕草からそう推理した。

 フィアが岩の上から腰を上げるとカーバンクルは旋回を止め、フィアの元から二メートルほど離れた位置まで走るなり足を止めて振り向いた。

 

「フィア、着いていく?」

 

 その動きがまるで自分に着いてきてほしいと言っているように感じたフィアは、その推測に従ってゴールデンカーバンクルの元へと近寄る。

 するとゴールデンカーバンクルがまた二メートルほど離れた位置まで走って足を止め、チチッと鳴きながらフィアの居る方へと振り向いた。

 やはり、自分をどこかへ誘っているのだろう。そう思ったフィアはカーバンクルの案内に従い、移動を開始した。

 

 

 

 カーバンクルは非常に警戒心の強い希少モンスターで、プレイヤーと遭遇すれば脇目も振らず逃走していく臆病なモンスターとして有名だ。

 戦闘力は低いがいかんせん逃げ足が速く、それ故にこの辺りでは最も討伐が困難なモンスターでもある。

 そんなゴールデンカーバンクルが自らプレイヤーの前に姿を現し、あろうことかプレイヤーを先導して何処かへ連れて行こうとしている姿は、にわかには信じ難い光景だった。

 少なくとも、ペンちゃんがこのような光景を見たのは初めてである。

 

「あれは……何かのイベントか?」

 

 目に映るその異様な光景に、ペンちゃんは考える。

 この「HKO」には集会所で受注する通常の「クエスト」とは別に、冒険の中でプレイヤーが特別な条件を満たした際に自動的に発生する「イベントクエスト」というものがある。

 目の前の光景もまたその一種なのだろうと推測するが、それだとしてもこのようなイベントは聞いたことがない。

 ともかく何処かへ向かうフィア達と一定の距離を保ったまま、ペンちゃんは彼女達を追い掛ける。この先もしも物騒なことがフィアの身に襲いかかったらと思うと不安であったし、何より未だ見たことのない事象に興味があったのだ。

 故にペンちゃんは、フィア達から一瞬足りとも目を離さなかった。

 しかし――。

 

 

 程なくして、ペンちゃんはフィア達の姿を見失うことになる。

 

 まるで神隠しに遭ったように、フィアとゴールデンカーバンクルの姿が音もなく始まりの森から消え去ったのである。

 思いがけない現象を前に、ペンちゃんは茫然と立ち尽くした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――そこは、穏やかな場所だった。

 

 赤、青、黄色、色とりどりの花が一面に咲き乱れており、風に揺れるその花々の奥には透明に透き通った美しい泉の姿が見える。

 周囲にはその空間を守るように緑豊かな大きな木々が円を描くようにして立ち並んでおり、一点の穢れも見当たらなかった。

 フィアは一瞬にして切り替わった目の前の光景に、思わず足を止めて驚いた。

 先ほどまで自分は、炎に焼き払われた森の中に居た筈だ。だと言うのに周囲には燃やされた木々や汚された川の姿が無く、目の前には今までフィアが生きてきて見たことがないほどに美しい花畑と泉の姿が広がっていたのである。

 

「とても、綺麗……」

 

 心の安らぐ香りが鼻腔をくすぐり、涼やかな風が髪を揺らす。

 花畑の上に立っているだけで荒んだ心が癒えていくのがわかり、フィアは膝を折り曲げてその場にしゃがむと、この場所に自分を呼んでくれたゴールデンカーバンクルの顔を覗き込んだ。

 

「ありがとう。フィアは、幸せ者」

 

 このリスが何故自分をここに連れてきてくれたのか、フィアにはわからない。

 ただこの神秘的な花畑を見せてくれただけでも、フィアの心は十分過ぎるほどに満足だった。

 

「チチッ」

 

 フィアに礼を言われたリスは短くそう鳴くと、再び四足で走り出し、フィアをさらに奥の方へと呼び込んだ。

 フィアはそんなゴールデンカーバンクルの意図に従うと、足元の花々を踏まないように慎重に追い掛けた。

 

 

 ゴールデンカーバンクルの足が止まったのは、先ほど奥の方に見えた泉の前だった。

 遠くからでも美麗さがわかる輝きを放っていた泉だが、近くで見ればその美しさがより目に見えてわかった。

 泉の中では小さな魚達が元気に泳ぎ回っている姿があり、ここにペンちゃんが居れば嬉々として飛び込んでいくのだろうとその光景がありありと目に浮かんできた。

 そして、この場に居るのは魚だけではない。

 

「動物が、いっぱい」

 

 泉の周りには、荒れ果てた森の中には一匹も居なかったモンスター達の姿があった。

 狼の姿に似ているモンスター、フォレストウルフ。

 液状の姿をしたRPGの定番モンスター、スライム。

 同じく定番モンスターのゴブリン、オーガ。ゴールデンカーバンクルとは色違いの赤いカーバンクルや、銀色のカーバンクルの姿もあった

 気品のある優雅な佇まいをした白いユニコーンの姿や、見るからに強そうな巨大なドラゴンまでも花畑の上に座りながら翼を休めていた。

 

 泉の周りにそれぞれ集まっているモンスター達は、大半が見たことのないモンスターである。

 そんな多種多様のモンスター達がお互いに縄張りを争うこともなく一堂に会し、中には異種の子供達で戯れ合っている姿もあった。

 

 ――まるで、楽園である。

 

 異種同士でありながらも仲良く交流し合い、この美しい自然を分けあって共に生きている。

 剣や魔法を扱った生存戦争とは無縁な、優しくて温かい世界がそこにあった。

 

「あ……」

 

 何故だろうか、そんな光景を見ているとフィアは目頭が熱くなってきた。

 フィアは自身の目に潤いを感じると、まつ毛を指で擦ってそれを拭う。

 自然のままの姿でありながら、誰も争い合うことのない世界。それはいつだったか昔、「彼」が自我を失うよりも前に夢に見ていた光景だった。

 

 綺麗事だけで、世界は成り立たない。だからこそ実現することは永遠にないと思っていた光景が――たとえゲームの中だとしても、今だけは目の前にあったのだ。

 

「……帰らなくちゃ」

 

 このような優しい世界に、フィアは要らない。

 そう思ったフィアは、ずっとこの楽園に居たいとすら思った自らの欲求を押し殺すと、自分を連れてきてくれたゴールデンカーバンクルには申し訳ないと思いながらも泉の側から背を向けることにした。

 フィアの耳に声が聴こえてきたのは、その時だった。

 

「もう、帰っちゃうの?」

 

 それは人語を喋らぬモンスター達のものではなく、人間たるフィアに通じる人の声であった。

 その声に反応したフィアは、この場から立ち去ろうとした足を一歩目で止める。

 今までは気づかなかったが、どうやらこの場にはフィアの他にも人間が居たようだ。呼び掛けられた以上は無視をするわけにはいかず、フィアは律儀にその声に応じた。

 

 だが、フィアの心は妙にざわめいていた。

 

 自分に呼び掛けてきたその声が、今しがた初めて聴いたものではないように感じたのだ。

 

「……フィアは、この場所に要らない。フィアが居ると、壊してしまうから」

 

 呼び止めるように声を掛けてきた人物には悪いと思いながらも、フィアは既にこの場から立ち去ることを決めていた。

 大勢のモンスター達が穏やかに暮らしている場所に、自分が居ては迷惑だろう。ただ純粋な善意から、フィアはそう思ったのだ。

 声はそんなフィアの返しにクスッと笑い、鈴を転がすような声で言った。

 

「大丈夫。この子が認めた優しい人間だもの。みんなだって、貴方のことを受け入れてくれるよ」

「……フィアが優しいは違う。フィアは、嘘をついているから」

「嘘?」

 

 自分のことを、優しいと言ってくれた気持ちを嬉しいとは思う。だが、フィアは決してそれを認めたくなかった。

 それは前世の業――「彼」の記憶を持って生まれてきた、双葉志亜という人間が背負わなければならない義務だからだ。

 存在その物が罪、生命を冒涜している「転生者」である志亜という存在は、せめて周りに優しくなければ存在する価値が無い。他人から見たフィアの優しい一面とは、フィアが自分で自分の存在を肯定する為に必要なことに過ぎないのだ。

 だから嘘なのだと、フィアは思う。そんな不純な動機から発揮される優しさなど、本物の優しさではない。かつて失った妹が持っていた優しさは、フィアのように歪んだものではなかった。

 

「……みんなと一緒に、死ななきゃいけなかった。なのに、生きている。フィアは、フィアだって言っても……「彼」は納得しない。納得出来るわけ、ない……」

 

 初対面の、顔すら見ていない者に対して何故そんなことを話すのか、この時のフィアは自分自身にもわからなかった。

 ただ、今は何となく正直なことを言わなければいけない気がした。

 今まで散々嘘をついて生きてきたフィアだが、何故だかこの声にだけは嘘をつけないように感じたのだ。

 

「貴方は、フィアというのね。とても、優しい名前」

「違う。こんな名前、優しくなんかない」

「どうして?」

 

 普段のフィアならば決して話さないであろうことまで、フィアはこの声に対しては話さなければならない気がした。

 それは友人のレイカにすら話していない、このゲームで名乗っている「フィア」という名の由来についてもだ。 

 

「フィアは数字の4。「彼」の居た世界では、「死」を意味する言葉だった」

 

 フィア――アルファベットではvierと書き、地球で言えばドイツ語で「4」を意味する言葉だ。

 かつて「彼」が召喚された異世界でも同じく数字の「4」を意味し、そして「4」とは宗教上の理由から「死の番号」として人々から忌み嫌われていた数字だった。

 フィアの名の由来は、そこから来ている。友人のレイカに「4」が関わった良い名前は無いかと相談した時、真っ先に「フィアーというのはどうでしょうか?」と返されたのである。

 そしてそれ以来、志亜はこの「HKO」だけでなく、友人のレイカに誘われてゲームをする時などは決まって自らの操作キャラクターにはフィアと名付けるようにしていた。

 

 遊んでいる時は、つい忘れてしまいそうになるからだ。

 

 自分が本来、「死んだ存在」であることを。

 

「貴方は……」

「フィアは、本当は死んだ人間。だから志亜は、フィアにフィアと名付けた。死んだことを忘れる、絶対に駄目。志亜が志亜でも、「彼」だったこと、忘れてはいけない。だから……フィアはフィア」

 

 志亜は志亜。「彼」は「彼」。そう言った都合の良い考え方も昔よりは柔軟に出来るようになったが、だからと言って「彼」との繋がりを忘れてはならなかった。

 フィアはかつて自分が「彼」であったことを忘れることによって、「彼」に仲間達が居たという事実すら忘れてしまうことを恐れたのである。

 妹以外の仲間達の顔は、心が崩壊して以来、記憶の内からも消えている。微かに覚えているのは彼らが十一人居たことと、その全てが「彼」の目の前で死んでいったこと。そして、誰一人として守ることが出来なかったことだ。

 フィアという名前は双葉志亜にとって、元々は戒めの名前だったのだ。

 尤もそんなことは他人にはわからないし、そもそも突飛すぎて伝わる話ではない。しかし声の主はフィアの言葉に親身に応じると、真摯に返してくれた。

 

「貴方は……ずっと、戦っていたのね」

 

 まるで「彼」のことを知っているように、フィアの言葉の意味が通じたように、フィアの耳に入る声はそう言った。

 

「私はね、こう思うの。辛いこと、悲しいことを経験した人ほど、他の誰かに優しく出来るって」

「……でも、それは綺麗事。悲しみは悲しみを呼ぶ。「彼」はそうだった。悲しいことを、他の人に押し付けないと生きられなかった」

 

 悲しみを知っている人間ほど他人の気持ちを思いやることが出来、他人を悲しませないと優しくすることが出来る。それはフィアもそうであってほしいと願っていることだ。

 だが、現実の人間はそこまで綺麗ではない。悲しみを知った人間は悲しんでいない人間のことを妬まずには居られず、やがては憎しみを覚える。悲しめば悲しむほど、他の誰かを恨まずには居られなくなるのだ。

 そんな人間が行き着く先が、フィアの前世たる「彼」である。深い悲しみと絶望に染まった「彼」は人としての全てを捨てて、自らが憎む存在を討ち滅ぼした。

 そんな男を前世に持っているフィアが今更になって優しく在ろうとしても、所詮は偽善の域を出なかった。

 

「だけど今の貴方は、優しい人になろうと頑張ってる。それがどんな意志で、どんな動機だったとしても……貴方の気持ちは、醜いものなんかじゃないよ」

 

 フィアの心の闇を理解し、励ますように声はそう言った。

 するとこちらに近づいてくる足音が聴こえ、フィアの背後にてそれは立ち止まった。

 

「ね、こっちを向いてくれないかな? 私に、貴方の顔を見せてほしいんだ」

 

 立ち止まった声の主が、弾んだ声音でフィアに頼む。

 近くで聴けば聴くほど、フィアの心のざわめきが大きくなる。

 

 何かが……本能にも似た何かが、フィアの心に「振り向いてはならない」と警報を鳴らしていた。

 

 何故こうも心がざわめくのか、本来ならば有り得ないことだ。声を聴いた限りでは優しそうな人間であり、少なくとも自分に危害を加えるような人間ではないだろう。仮に危害を加えそうな人間だったとしても、常のフィアならば迷わず振り向いていた筈だ。

 それ以前に他人から呼び掛けられた時点で振り向かずに目を合わせないまま話をすることは、普段のフィアならば決して行わない筈のことだった。

 しかしフィアが今この場ですぐに振り向くことが出来なかったのは、彼女が礼儀を軽んじていたからではない。

 

 怖かったのだ。

 

 後ろから聴こえてくる声が――かつての妹と似ていたから。

 

「……っ」

 

 そんなフィアが意を決して後ろに振り向いた瞬間、フィアの心のざわめきは一気に静まり返った。

 そこに立っている人物が、決して居る筈の無い人間だったからだ。

 

「どうして……そんな……っ」

 

 大きく目を見開き、髪を振り乱して目の前の光景を否定する。

 フィアは我が視界を疑った。これはいつもの幻覚だと。普段から脳内に浮かんでくるフラッシュバックの一種だと。

 

「……だって、だって、お前は……っ」

 

 湖のように青く透き通った、腰まで届く長さの艶やかな髪。

 雲一つ無い青空のように澄んだ、空色の大きな瞳。

 あどけなさの中に母性を感じさせる穏やかな表情を浮かべる彼女は、見た目は十代中盤程度の容姿だ。それは「彼」の記憶に存在しているそれと比べればやや大きいかもしれないが、真っ先に「彼女」を思い起こさせるほどに酷似した姿をしていた。

 

「キズナッ……!」

「きゃっ」

 

 ――だからフィアはこの一瞬、思考が「彼」に染まった。

 

「きずなぁ……」

 

 一目散に自分よりもやや大きい彼女の胸へと飛び込むと、その存在を確かめるように抱き締める。

 彼女はそんなフィアの行動に始めは驚き慌てていたが、すぐに先までの表情に戻り、そっとフィアの後頭部を撫でて言った。

 

「……ごめんね。貴方は、私のことを誰かと間違えているんだと思う」

「キズナ……じゃない……?」

「うん……だから、ごめんね」

 

 そうであってほしいと願ったフィアの思いを、彼女は精一杯傷付けないように否定した。

 その彼女の言葉を聞くと同時に、フィアの思考が「彼」に染まった状態から夢から覚めたように元へと戻る。

 彼女の胸から顔を離したフィアは彼女の顔を見上げ、何かを懇願するような視線を送る。そんなフィアに対して彼女は、困ったように頬を緩めた。

 

「私は、そのキズナって人とは違うよ」

「……うん、知っている。知っていることだった……」

「貴方にとって、その人はとても大事な人だったのね」

 

 似ているからと、考えなしに飛び掛かってしまった自らの行いを恥じ、フィアは彼女に申し訳ないと頭を下げた。

 そもそも彼女が、キズナがここに居る筈が無いのだ。彼女が自分と同じように転生した可能性も考えたことはあったが、今の今まで見つけることは出来ていない。

 他の仲間達にしてもそうだ。志亜がそれとなく探りを入れたことはあったが、結局一人として見つけることが出来なかった。

 

「……ごめん、なさい」

「びっくりしたけど、迷惑なんかじゃないよ。私の方こそ、ちゃんと自己紹介しなくてごめんね」

 

 あまりにもかつての妹と似すぎている青髪の少女に、フィアは人違いを謝る。

 少女はそんなフィアの無礼を快く許すと、改めて自らの名を名乗った。

 

「私は、フィフス」

 

 キズナではなく、フィフスと――かつての妹と酷似した声でそう名乗る。

 

「そしてようこそ、「生命の泉」へ。貴方のお陰で、私もこうしてこの世界に目覚めることが出来ました」

 

 朗らかに微笑み、フィフスと名乗った青髪の少女はフィアと向かい合う。

 

 フィアの運命に新たな光を射し込むこのゲームのキーパーソン、一人目の「ヘブンズナイツ」との出会いだった。

 

 

 


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