双葉志亜
高度に発達した科学は魔法と変わらないという言葉がある。
しかし今少女の前に広がっている「科学」の光景は、異世界に存在する「本物の魔法」よりも超常的に見えた。
「空気……」
まず、空気がある。
穏やかな風が少女の黒髪を揺らし、その五感に対して明確な刺激を与えている。
「自然……」
次に、自然がある。
少女が立っているこの大地と、周囲に生い茂る緑の草木。そして背後には、緩やかに流れている透き通った川の姿があった。
それはいずれも都会の街では見ることの出来ない、ありのままの自然と呼ぶべき光景だ。
しかしここにあるものは全て、地球上に存在する天然自然のものではない。
にわかには信じがたい事実であるが……ここにあるのは現実であって現実でない、「仮想世界」の産物であった。
「これが、ばーちゃるの世界……」
VRMMO――サービス開始から半年後、巷で流行りのその世界に潜り込むことになった少女だが、実際に体験してみればなるほど確かにこれは素晴らしい。少女はつい先ほど「キャラメイク」を終えたばかりでこの世界に触れてからまだ一分と経っていないが、この時点でも大衆が熱中する理由がわかるような気がした。
「前世」の地球以上の科学技術の発展には、ことごとく驚かされるばかりだった。
……と言っても、彼女自身がそう呼ばれていたわけではない。正確には志亜の「前世」に当たる人物が、世界中の人間からそう呼ばれていたのだ。
「異世界召喚」、というものがある。
それがフィクションの世界だけで留まっていればどんなに良かったか……しかしそれは紛れもなく、現実世界に存在する現象だった。
この地球で生まれ育った、志亜の前世に当たる少年――「彼」は、日本人の一般的な高校生だった。
手先が器用で大概の物事はそつなくこなすことが出来た「彼」は、多少口下手なところはあったものの理解のある友人や可愛らしい妹にも恵まれ、充実した日々を過ごしていた。
そんな彼がある日、地球とは違う殺伐とした異世界に召喚されたのは、一体何の因果だろうか。
『君達は勇者として、魔王を倒せ』
何の脈絡も無く、突如足元から広がってきた光の魔法陣に導かれ――「彼」の存在は地球から消え、異世界へと召喚された。
そして召喚師から一方的に自らの役目を与えられた彼らは、右も左もわからないまま隷属の呪いを掛けられ、拒否権無く強制的に「魔王軍」と戦わされたのである。
召喚された異世界では、色々なことがあった。
多くの人々と出会い、戦い。
多くの魔族と出会い、戦い。
戦い、戦い、戦い――その挙句、最後には全てを失った。
志亜の前世に当たる少年は、その戦いの中で掛け替えのない人々を……大切な仲間を失った。共に勇者として召喚された、十二人の日本人だ。
同じ境遇に陥った者同士であるが故に、彼らは傷をなめ合うように仲間意識を抱き、友情を育んでいった。極限状態の中で時に恐慌に陥った者も居たが、そうなる度に他の仲間達と互いに励まし合い、支え合って生きていたのだ。
そんな仲間達の存在は「彼」にとって、苦しみだらけの異世界召喚で得た唯一の宝物だった。
――しかしそんな大切な者達もやがては魔王軍との戦いで命を落とし、死に別れることになる。
彼らの中には、血の繋がった妹も居た。
生まれつき病弱で、身体が弱かった「彼」の妹。異世界召喚に巻き込まれるまで病院での生活を余儀無くされていた彼女だが、真っ直ぐな心を持ち、誰よりも優しい少女だった。
自身と共に異世界召喚に巻き込まれてしまった彼女の存在は、「彼」にとっては己の命に替えても守らなければならない全てだったのだ。
『兄さんは、生きて』
しかしそんな彼女すらも、異世界での戦いは奪い去った。
魔王軍との戦いの中で彼女が死の間際に見せた優しい笑顔は、未来永劫忘れることはないだろう。
優しい彼女は生きて地球へ帰ることを目標にしていた他の者達とは違い、勇者として純粋に、誰よりも本気で異世界の人々を救おうとしていた。自らが死を迎えるその時ですら、己を召喚した者達のことを恨まなかったものだ。
そんな妹が目の前で命を落とし、魔王軍との戦いの佳境でたった一人だけ生き残ってしまった「彼」は――彼女や散っていった仲間の無念を背負い、強制された使命である魔王の討伐を果たした。
しかし、度重なる戦いによって酷使された彼の肉体と精神は、既に限界を迎えていた。
魔王を倒したところで、その余命は幾ばくと残されていなかったのだ。特に最後の心の拠り所だった大切な妹を失ったことによる苦しみは、「彼」の精神を一気に崩壊へと導き、既にまともな言葉すら話せなくなっていた。
しかし精神が崩壊してもなお、「彼」の心の中で膨れ上がった召喚師達への憎悪だけは変わらず残り続けた。
魔王を倒したことによって行き場をなくした「彼」の憎悪が元凶たる召喚師達へと向かったのは、至極当然の流れだった。
最大の敵である魔王さえも葬った「彼」には、その復讐を可能にするだけの力があったのだ。
彼が望まずして得たその力は、皮肉にも仲間と妹の命を引き換えにして手に入れた力だった。
「彼」が召喚された異世界には、「C.HEAT」という現象があった。
通称は「チート」という根も葉もない呼び方をしていたが、正式名称は「クリムゾン・ヒート」と言う。
それは地球で生まれた適性のある人間が異世界に渡った時、神の如き特殊な能力を手に入れるという異世界召喚症候群とも言われる現象である。
「彼」と十二人の仲間達にもまた例外は無く、一同の身体には異世界に召喚されたと同時にその現象が発現していた。
元々その可能性を見込まれたからこそ、彼らは召喚師に目を付けられてしまったのだ。
「彼」の発現した「C.HEAT」は【死の力】という――ヒトの死を自らの力に変え、戦闘能力を爆発的に増幅させるという能力だった。
そしてその死の力は、皮肉にも死んだ対象が自分にとって大切な存在であればあるほど強さを増していく性質があった。
故に十二人の愛する仲間を失った「彼」は限界まで高まったその能力の覚醒によって、とうとう召喚師に掛けられた隷属の呪いを断ち切ったのである。
そうなればもはや、心が壊れてしまった「彼」の暴走を止められる者は居ない。
そうして勇者から復讐者へと成り果てた「彼」は最後に残った力の全てを振り絞り、自分達を召喚した者達へ圧倒的な暴力という名の制裁を行い、復讐を果たしたのである。
「彼」が最期を迎える時まで行ったのは、目を覆いたくなるほどに凄惨な虐殺だった。
自分達の召喚に関わった者達を誰一人として逃さず、「彼」は男女例外なく全てを殺し尽くしたのである。
大国の王も、民も、召喚師達も。
泣いて許しを乞う者も居た。魔王軍からこの世界の人々を守る為には仕方が無かったと、貴方達地球の民に頼るしかなかったんだと情に訴え掛ける者も居た。しかし既に人としての理性すら失い、憎しみだけで動いていた「彼」の心に彼らの言葉は通じず、無惨にも全員が息の根を止められることになった。
――そして全てを終えた「彼」の命は自ら葬った宿敵の屍の上で途絶えると、若い生涯に幕を下ろしたのである。
勇者として召喚され、復讐者として死んだ。
要約すれば、これが異世界召喚された「彼」の人生である。
異世界召喚という出来事に導かれた結果、大切な全てを失った挙句、最後まで故郷に帰ることが出来なかった哀れな青年の物語である。
――そして、ここからが「彼女」の人生となる。
死んだ筈の青年の魂は、思わぬ形で地球への帰還を果たした。
前世の記憶の一部を保有したまま新たな人生を始めるという、「転生」という形で。
それが「彼」ではなく、「双葉志亜」という一人の少女として始まった、第二の人生だった。
自分が何故、前世の記憶を持って生まれたのかはわからない。
「彼」の人生を異世界の神が哀れんでくれたのかもしれないし、何か大きな理由が隠されているのかも定かではない。しかしどのような理由であれ、双葉志亜という少女が「彼」の記憶の一部を引き継いで生を受けたという事実は確かだった。
しかし前世の記憶というものを持って生まれて、志亜自身が良かったと思えたことは一度も無い。
「転生」という言葉を聞けば、志亜は俗に言う「強くてニューゲーム」をその身で体現していることにもなるのだろう。しかし志亜は、自分が転生者であるが故に幼い頃から苦悩し続けていたのである。
その最たる例が、「フラッシュバック」である。
フラッシュバック――強い心的外傷を受けた場合、後になってその記憶が突然かつ鮮明に思い出されたり、悪夢として夢に見たりする現象だ。心的外傷後ストレス障害、通称「PTSD」や、急性ストレス障害の特徴的な症状の一つである。
前世の悲惨な出来事がこの障害を発症させ、志亜の脳内では幼い頃から「彼」の妹や仲間達が死んだ時の光景が鮮明に映し出されていたのだ。
その為に、志亜は薬無くして満足な眠りにつくことが出来ない身である。
そして不眠症以上に大きかったのは、志亜自身の人格形成である。
フラッシュバックもそうだが、前世の「彼」から引き摺ってきた記憶は何かにつけては彼女の精神を圧迫し、汚染していった。
幼稚園に入園した頃から、志亜は他の子供達が和気藹々と遊んでいるところを同じ輪に入ったことがない。
人との関わり合いを、徹底的に避けていたのだ。
それは自身の精神年齢が高いからと同年代の子供達を見下ろしているからではなく、全て前世の経験から知ってしまった事実にあった。
志亜の心にはフラッシュバックの度に刻まれていたのだ。大切な友人を失う怖さと、友人を誰一人守れなかった自分自身の弱さを。
要するに、救われない結末を迎えた前世の記憶は志亜の性格を必要以上に卑屈に育ててしまったのである。
「彼」の最大の無念――それは、仲間を誰一人として守れなかったことにある。
記憶の継承と共にその無念に引き摺られて生きているが故に、志亜は非常に歪んだ考えを持って育ってしまった。
友人を失うのが怖いのなら、始めから作らない方が良い。
そもそも前世であれだけのことをしてしまった罪深い自分に、友人を作る資格なんてない。
そんなことを常から考えていた彼女の自己評価は、やはり極端に低い。
本来は一度しかない筈の人生を二度も送っている自らの人生について、志亜は他の人間よりも価値が無いものだと考えていた。死んだ筈の人間が生きているなんて、そんなの嘘の人生だと。
そんな志亜の自身への卑屈さは物心がついて前世の記憶を理解した時、自分がこの世界にとって異物であることを悟り、すぐにでも自殺を謀ったほどである。
その自殺が未遂に終わり……高校一年生になった今も尚生き恥を晒し続けているのは、双葉志亜という人間が居なくなることによって悲しむ存在が居ることを知ってしまったからだ。
こんな卑怯な人生を送っていることを知りながら、娘として愛してくれる両親。
こんな自分を気持ち悪がらず姉として認め、慕ってくれる弟が居た。
自分のことはどうでも良い。しかし、せめて彼らの為には生きていようと思えるぐらいには、志亜は周りを見ることが出来た。
そう、双葉家の家族は皆、志亜が転生者であることを知っている。言葉を話せるようになった幼児期、志亜は自身の持つ「彼」の記憶を本能的に前世のそれだと理解した時、自らの口から話したのだ。
「しあにはぜんせのきおくがある」
そう言って、志亜は全てを話した。自分の頭には、前世の「彼」として生きていた記憶があるのだと。
二度目の人生を幸福に生きようとするならば、それは明かすべきではない情報だった。下手をすれば家族から自身の存在を否定されかねない情報だったが、志亜はその事実を何の躊躇いもなく告白した。
志亜には降って湧いたこの二度目の人生を、幸福に生きたいと思えなかったのだ。
彼女にとっては嘘塗れな二度目の人生を送る喜びなどよりも、自分のような異物を養っている家族への負い目の方が遥かに大きかったのである。
だからこそ、志亜は拒絶を求めた。「お前は娘じゃない!」だとか、「この家から出て行け!」だとか、寧ろ彼女はそういった言葉こそを望んでいたのだ。そうされることで、自身の存在を否定されたかったのかもしれない。
――しかし、志亜は受け入れられた。
彼らの前から消えようとしていた彼女は抱き締められ、母が言った。前世の記憶を持っていようと、貴方は私達の娘だと。
お前はただ珍しい個性を持っているだけだと、父は笑った。
前世では全てを失い、心も壊れて抜け殻になってしまった自分を温かい手で抱き締める二人を前に、志亜は名前も顔も覚えていない前世の両親のことを思い……生まれて初めて嬉し涙を流したのだ。
双葉志亜は前世の記憶を持っているが、その記憶は完全ではない。
おそらくは死ぬ間際の「彼」の精神が崩壊状態にあり、それに伴って「彼」の心から記憶の大半が消滅していたからであろう。残された僅かな記憶は鮮明でありながらも、酷く断片的だった。
自分の名前も、前世の両親の顔もまた、全部忘れてしまった。
悲しい筈のその事実が、志亜には嬉しかった。
この世で双葉志亜が両親として認識出来るのは前世の「彼」の両親ではなく、間違い無くこの二人だけなのだとわかったからだ。
思えばこの時、志亜は初めて「双葉志亜」という自己を確立したのかもしれない。
自分が双葉志亜として生きている「彼」なのか、「彼」の記憶を持っている双葉志亜なのか、その曖昧な境界に答えを出すことが出来たのは、やはり家族が双葉志亜の存在を認めてくれたからであろう。
「彼」は死んだ。そして、双葉志亜が生まれた。
故に双葉志亜は、双葉志亜である。自分は「彼」の記憶を持っているだけの「彼」とは異なる存在であり、名前も忘れてしまった前世の「彼」はもう居ないのだと――これが、最終的に志亜の出した答えだった。
自己を確立したところで相変わらず嘘塗れな抜け殻の人間だが、それでも家族を泣かせない為には生きていこうと心に決め、少女は双葉志亜としての人生を歩み始めたのである。
……ここで話は戻るが、志亜は前世の記憶の影響の為、非常に卑屈で自分嫌いな性格だ。それは、家族から自身の存在を認めてもらった後も変わらなかった。
しかし行動原理が家族第一であるが故に、家族に恥はかかせまいと勉学には人並み以上に取り組んでいた。小学校や中学校程度の内容は精神崩壊と同時に「彼」の記憶からも消滅していたが、元々持ち合わせていた素養なのか物覚えは良かったのだ。
その結果、志亜は小学校生活を校内一の才女として卒業を果たし、県内一のエリート私立中学校への入学を果たすことになった。
勿論最初は学費を渋り教師や両親からの薦めを拒否しようとした志亜だが、双葉家の家計に彼女の心配は無用だった。それには父が高額の年俸を稼いでいる現役のプロ野球選手であり、専業主婦の母もまた結婚するまでは大手企業の社員として相応の貯金をしていた裕福な家庭だったことが理由の一つである。
最終的には両親の名誉の為にも高いレベルの学校に入った方が良いだろうという両親の思惑とは少々ずれた判断により、志亜はなんやかんやで私立中学校への入学を決めることとなった。一方、双子の弟はと言うとこちらも志亜と同じ学校を志望したのだが、学力不足により近所の公立中学校へと入学することになった。
かくして始まった志亜の中学生活は、一年生の終わりまでは小学校時代と変わりなかった。
自己を確立させた後も志亜の自分嫌いは治らず、それ故に友人を一人も作らないまま、ただ孤独に学生の本分だけを全うする日々を過ごしていた。中学生としてはあまりに陰気な少女であったが、それでもいじめの標的になったことが一度もないのは常に好成績をキープしていたからだろうと志亜は思う。
運動面に関しても、仮にも前世は勇者であった志亜だ。加えて運動神経は父親から受け継いだのかそれなりに良く、寝不足による成長ホルモン不足から身長こそ小柄であるものの周りの足を引っ張ることもなく、他の生徒達からガリ勉と陰口を叩かれることもなかった。
志亜自身は全く気づいていなかったが、彼女は傍から見れば文武に隙が無く、小学生と見間違えるほど小さな身体以外にはこれと言った欠点の無い模範生だったのだ。
それも、自分嫌い故に気づかなかったことだ。
そしてこの世界が自分が思っているよりもずっと愉快なものであることにもまた、彼女は気づかなかった。
「貴方が双葉志亜ですね?」
三学期の期末テストが終わり、上位陣の成績が教室の壁に貼り出された廊下に一人佇んでいると、志亜は不意に誰かに呼び止められた。志亜が全教科満点という成績に喜びではなく安心を抱いていたところに掛けられた、やや刺のある女の声だった。
昨夜も前世の記憶のフラッシュバックの為に寝不足であった志亜は、その声に振り向くとクマの濃い両目で相手の姿を認めた。
――そこに居たのは、いかにもお嬢様然とした少女だった。
特徴的なのは絵に描いたような縦ロールヘアーだ。髪が伸びる方向に対して髪が螺旋状になっており、その形状はどこかドリルを彷彿させる。その髪型を毎日セットする労力は計り知れず、志亜には一目見た瞬間から彼女の身だしなみへの努力に尊敬を抱かずに居られなかった。
「志亜は志亜。貴方は?」
「……何ですって? 貴方は私の名前を知らないのですか?」
「クラスメイトの名前は記憶している。しかし、貴方は志亜のクラスメイトではない」
髪型を抜きにしても異様に整った顔立ちと言い、中学生離れした抜群のプロポーションと言い、一度見れば忘れない筈の濃い少女だったが、申し訳ないことに志亜には彼女と会った記憶が無い。そのことを正直に言うと、少女は信じられないと言いたげに目を見開いた。
「ふ、ふん! なら今から覚えておきなさい! 私の名前は
「城ヶ崎 麗花……覚えた」
この縦ロールの少女の名前は、城ヶ崎麗花というらしい。これもまたいかにもお嬢様らしい名前だと、見た目と名前の一致から今後も忘れることはないだろうと志亜は記憶しておいた。
「……それだけですか?」
「それだけ?」
しかし、言われた通り名前を覚えた志亜に対して、麗花は不服そうな顔をする。その肩は苛立ちによってかプルプルと震えていた。
「な、何ですのこの人は……私はあの城ヶ崎グループ会長の娘なのですよ……? もっと他に言うことがあるでしょうに……!」
「それは知らなかった。謝る」
「いえ、そうではなく! もっと大きな反応を! 城ヶ崎……まさか、あの有名な!? っていう感じに驚いてほしかったのです!」
「?」
「……はっ!? 私は何を……」
「あ」
「な、何ですの?」
見た目通り良いところのお嬢様らしい彼女は、中々に愉快な性格のようだ。
無表情で彼女の顔を見つめる志亜は、ふと先ほどまで眺めていた成績の順位表を思い出し、気づいた。
「貴方は期末テスト二位の城ヶ崎さん?」
「悔しながらそうですわ! 今更お気づきになられたのですか?」
「貴方がそうだとは今知った。しかし、城ヶ崎麗花の名前はずっと意識していた」
「えっ?」
同姓同名の別人の可能性も考えていたが、やはりそうかと志亜は納得する。
壁に掲示された期末テストの順位表には、一番上には大きく「双葉志亜」の名前が、そして一つ下には「城ヶ崎麗花」の名前が書かれている。それは成績順位一位が志亜で、二位が彼女であることの証だった。
これは三学期の期末テストだけでなく、一学期、二学期と同じように続いた光景である。
「一学期も二学期も、志亜は貴方に追われていた」
「……そうですわ。勉強なんてしなくてもずっと一位だった私を、貴方は初めて負かした。そんな貴方に勝つ為に、私はこの一年間、プライドを捨てて勉学に勤しみました!」
一学期から志亜の名前が麗花の上にあり、二学期も三学期も志亜の成績は彼女のそれを上回っている。しかしその点数を見れば、麗花が学期を追うごとに学力を伸ばしていることは明白だった。
中学校に入学して以降未だ満点以外を取ったことのない志亜だが、彼女との差が縮まっていることは常に感じていた。
志亜は学力二位の城ヶ崎麗花に対して、その名前を意識していたのだ。
「志亜は貴方に抜かれない為に小学校時代よりも勉強をした。だから今回も一位になった」
「ええ、認めますわ! この度お会いするまで、双葉志亜がこんな方だとは思っていませんでしたが……この一年は私の負けです」
苦虫を噛み潰したような表情で悔しがりながらも、麗花は自らの完敗を認める。見た目とは裏腹に冷静な目を持っているようだと、口には出さないが志亜は彼女に対して好感を抱いた。
そんな彼女はキッと強気な眼光で志亜を睨み付けると、堂々たる佇まいから言い放った。
「ですが、次からは負けません! 城ヶ崎家の名にかけて、貴方だけは私が倒します!」
それは、麗花の志亜に対する挑戦状――ライバル宣言だった。
三学期が終わり、志亜達は二年生へと進級した。
この一年は小学校時代と比べて勉強量が増えた程度の変化だったが、最後の最後で彼女――城ヶ崎麗花と出会ったことはその後の志亜の人生にとって大きな変化となった。
「オーッホッホッ! 同じクラスになりましたね双葉さん! 私の威光を間近でご覧なさい!」
「あ、城ヶ崎さん」
二年生のクラス分けは、彼女と同じクラスになった。
それによって志亜には彼女と話す機会が増え、城ヶ崎麗花という少女の人となりを知ることになった。
クラスメイトに対して常に高慢な態度を振り撒き、大衆が抱くお嬢様のイメージをそのまま体現したように彼女の周囲には頻繁に麗花様、麗花様と声をかける取り巻き達の姿があった。
この学校には表立ってカースト制があるわけではないが、彼女には周りの人間を従える不思議な魅力があるのだろう。取り巻き達は誰かにそうするように命じられたわけではなく、自主的に彼女を崇めているようだった。
常に取り巻きに囲まれながら登校する縦ロールの美少女、城ヶ崎麗花。
しかし、彼女の性格は意外にも面倒見の良いものだった。
「双葉さん! 貴方はいつもいつも何ですのそのクマは!?」
「不眠症」
「何ですって!? お医者様にはお診せになられたのですか?」
「近所の病院、志亜は常連。これでも、昔より良くなった方」
「……そうだったのですか。しかし淑女たるもの、そんな目をしていてはいけません! 私がクマの消し方を教えて差し上げますから、放課後私の家に来てください!」
その日も前世のフラッシュバックに悩まされ、睡眠不足のまま登校した志亜は麗花に目の下のクマを見られ、彼女から心配をされた。
しかもそれだけに留まらず、麗花は淑女の嗜みとして目の下のクマを隠す化粧の仕方を伝授してくれたのだ。
そうして成り行きから志亜が初めて招かれることになったクラスメイトの家――麗花の自宅は概ね想像通り、当たり前のように執事や数人のメイドを雇っている豪邸だった。
家主の令嬢たる麗花の部屋に招かれた志亜は、その中で彼女から直々に化粧の手ほどきを受けた。
中学生の身で化粧をすることには抵抗のあった志亜だが、思いの外化粧自体は外面からはわからないほど薄く、それでいて目の下のクマは隠れる、志亜にとっては理想的なものだった。
鏡と向き合った自身の目の下からクマが消え去ったことを見て、志亜は素直に感心する。化粧でクマを隠すことは前世が生物学上男性だった志亜にとって、まさしく盲点だったのだ。
一方、クマの無いすっきりした志亜の顔を初めて目にした麗花は、鏡を見て驚愕に目を見開いていた。
「まさか……これほどまで……!」
「城ヶ崎さん、どうした?」
「貴方はっ! 今までなんて勿体の無いことを!」
「?」
何が勿体の無いことなのか、志亜には自分嫌い故に彼女の叫びの意味がわからなかった。
それから志亜は彼女に「不眠症が治るまでは必ずこの化粧をすること! 絶対ですからね!」と釘を刺されることになる。
その言葉の理由がわからず小首を傾げる志亜だが、数ヶ月間クラスメイトとして過ごし彼女の扱いを心得始めていた麗花に「ご両親に恥をかかせない為にもそうするべきです!」と言われては従わざるを得なかった。
毎日寝不足がわかる姿で登校することは、家での生活を疑われかねない。ひいては、親の教育を疑われかねない。
実際志亜は過去にそういった誤解を受けたことがある為、自らのクマを隠すことには賛成だった。
依然としてフラッシュバックは治らず寝不足の日々は続いているが、化粧を覚え、目の下のクマを隠すことが出来るようになってから、志亜は外面上は以前よりもすっきりした顔で登校するようになった。
しかし、それを期に妙に周りから浴びる視線が増えた気がするのは、麗花ほど上手く化粧が出来ず、不格好になってしまったからだろうか。そう思い志亜は麗花に化粧の出来栄えを訊ねてみるが、返って来たのは「時々薄っすらと残っていることもありますが、まあ概ね及第点ですわね」との言葉だった。
化粧に問題が無いならば、この視線は一体何なのだろうか? 志亜が疑問に思いながら数日が過ぎ、その日も周りの視線が気になっていた頃、彼女の身にそれは起こった。
「好きです! 付き合ってください!」
クラスメイトである男子生徒の一人から、放課後に校舎の屋上へと呼び出されての出来事である。
志亜としては生まれて初めて受けた、異性からの告白だった。
これには普段無表情、無感動な志亜も心から驚いた。
しかし志亜の口から出たのは告白に対する返事ではなく、何故こんな根暗なちんちくりんにという自己否定からの疑問であった。
「趣味が悪い。私より良い人は星の数ほど居る」
「違う! 俺は志亜ちゃんじゃなきゃ駄目なんだ!」
「でも、志亜は貴方を知らない。知っているのは志亜のクラスメイトであることと、名前だけ」
「じゃあ友達から始めよう! そうだそうしよう!」
趣味の悪い男も居たものだと思ったものだが、告白してきた男子生徒は中々に情熱的な心の持ち主であった。顔立ちも悪くはなく、彼ならば自分以上の交際相手など幾らでも見つかると思ったほどだ。
志亜も勇気を持って告白に踏み出した彼のことは、嫌いにはなれなかった。
ただ友達から始めようにも、志亜には友達を作ることに自体に強い拒否感がある。
フラッシュバックするのは多くの仲間を、友達を作った前世の自分――「彼」の姿だ。
多くの友を持っていた彼はそれらを一度に失うことの悲しみを、苦しみを知っていた。
志亜は「彼」ではなく、双葉志亜として生きることを決めた。しかし前世の後悔から生まれた歪んだ友人観は、この期に及んでもまだ治っていなかった。
「っ……友達は……失うのが、怖い。だから貴方とはなれない。ごめんなさい」
「え? それってどういう……」
「ごめんなさい……」
「あ……あの、志亜ちゃん?」
誰一人守ることが出来なかったという「彼」の罪は志亜にとって何よりも重く、自分には交際するに当たって友達から始める資格すら無いと志亜は思っていた。
決して「あんたなんかと友達になりたくない!」という意味で彼を拒絶しているわけではない。これもまた自分嫌いをこじらせた結果であり、意を決して告白をした少年にとってはあまりにも不幸な出来事だった。
そういう意味では女の趣味が悪いという点は、客観的に見ても正しかったのかもしれない。
「オーッホッホ! その子と友人になれる殿方なんてこの学校には居ませんわ! 諦めて下がりなさい!」
「げえええっ! 悪役令嬢!? 悪役令嬢がなんでここに!?」
「誰が悪役令嬢ですか!」
傍目からは中学生の男子が小学生の女子を困らせているようにしか見えない二人の間に割り込んできたのは、珍しく取り巻きがいない城ヶ崎麗花の姿だった。
唐突な彼女の登場に腰が引けた少年はこの度の告白が実らなかったことに落胆しながらも、最後に「時間を取って悪かったね」と志亜に頭を下げ、爽やかな笑顔で屋上から去っていった。
「……ありがとう」
客観的に見れば、彼は交際相手として落ち度はなかったのかもしれない。しかし彼の為にもどうしてもその気になれなかった志亜は、事態を比較的穏便に解決させてくれた麗花に対して礼を言う。
すると麗花はふんと鼻を鳴らしながら、優雅な口からこう返した。
「勘違いしないでください! 私は貴方が告白の断り方に困っているのを見て助けに来たのではありません! この私が居る屋上で騒ぎを起こされては堪りませんからね! 良いですか? 私はあの方に連れていかれた貴方を心配してわざわざ助けに来たのではありませんからね!」
「わかっている。志亜にそんな価値は無い」
「――ッ!」
彼女の言葉に、言われるまでもないとばかりに志亜は言い捨てる。
自分など勝手に困らせておけばいい。ただ彼女は彼女自身の為にそうしたのだと、志亜はそう思っていた。
こんな自分には、彼女が救いの手を差し伸べるほどの価値は無い。
――貴方は志亜にとって家族でも、友人でもないのだから。
志亜がそう、普段通り抑揚の無い声で言い放った時だった。
「ああ~もう! いい加減! 自分を卑下するのはおやめなさいっ!」
麗花が怒鳴り、志亜の肩を掴んだ。
「貴方がそう言う度に、貴方の後ろを追い掛けている私の立場はどうなると思うのですか!? 貴方は私にとって唯一の競争相手……そう、ライバルなのです! そんなライバルに価値が無いのでしたら、この私まで無価値になってしまうではないですか!」
「しかし、志亜は……」
過剰に自分を卑下するところは貴方の悪いところだと、以前も家族から言われたことがある。
それを同年代のクラスメイトから面と向かって言われたのはこれが初めてであり、志亜は無表情の下でほんの少しだけ動揺していた。
だが、事実なのだ。志亜が志亜として生きようと、双葉志亜という人間がみすみす友と妹を死なせた罪深き「彼」の生まれ変わりであることも、他の人間とは違って価値の無い「二度目」の人生を送っていることもまた、全て紛れもない事実だった。
志亜からしてみれば、これで卑屈にならない人間の方がおかしいのだ。
前世の自分は異世界に召喚された。
勇者として多くの魔族と戦い、殺戮を行った。そして、復讐者となった後は多くの人間だって殺した。
死んでいった仲間達だけではない。前世の自分が殺した魔族や人間達の姿もまた、幾度となく志亜の脳内にフラッシュバックしていた。
赤の他人である麗花に信じてもらえる可能性は限りなく低いが、志亜は前世の自分のことを、その罪を記憶している限り話そうとした。
しかし麗花はそれを遮り、自身の言葉を紡いだ。
「この際だからはっきり言わせてもらいますわ! 貴方はどうにも自分のことを客観的に見るのが苦手なようですから!」
「……家族からもよく言われる」
「そうでしょう! だから私が言いますわ。身内びいきを一切抜きにした、貴方の客観的な評価を!」
客観的な評価――それは言われてみれば、志亜には他の誰かに面と向かってされたことがなかったものだ。
家族からの評価はどうしても身内びいきと言った個人的な主観が入ってしまいがちであり、通信簿に記載される担当教師からの評価などもまた決まって当たり障りの無いものだった。
故に志亜は麗花からどう言われるのか興味があり、その胸に妙な緊張が走った。
――そしてしばし流れる沈黙を破り、麗花が激白した。
「ぶっちゃけると貴方、とても素敵なんですよ!」
屋上から天へと昇って響き渡る、彼女の出した客観的な評価だった。
そのあまりに予想外な言葉に思考が凍りつき、志亜はフリーズしたコンピュータのように固まった表情で彼女の言葉を聞いていた。
「頭は良いのに妙に常識が無くて! 眠たそうな目をしているのに全く眠らなくて授業中もずっと集中していて、でもやっぱり眠たそうに見える姿がどこか可愛らしくて! 身長は小学生みたいに小さいですが、容姿は私に引けを取らないぐらい整っていて! 私が目の下のクマを隠すメイクのやり方を教えてからはびっくりするほどさらに綺麗な顔になって! どうせ貴方は最近増えた視線がどう言う意味なのかわかってないのでしょう! あれは単純に貴方に見惚れているだけです! 最近貴方に告白しようとする愚か者を私の取り巻きで何度追い払っているか知っていますか!? 二十はくだらないですわ、あのロリコン共め! 「志亜ちゃんを膝の上で寝かせ隊」なんていうファンクラブがあることも、貴方は知らないでしょうね!」
「あ、ぁ、ぁぅ……」
予想だにしない麗花の豹変ぶりとあまりにもあんまりな客観的評価に志亜の思考回路はパンクし、変な言葉が漏れてしまった。
そんな志亜に対して麗花は幾度も試験成績で負けている鬱憤を晴らすように、畳み掛けるように続けた。
「貴方は毎日朝早く登校しては教室を綺麗に掃除していますね? そのおかげで、私達はいつも気持ちよく授業を受けています。用務員のおじさま方も感謝していましたよ。そして成績はいつもトップなのにそれを引け開かさないで、貴方は周りの方々が教えを乞えば下心のある男女も問わず、懇切丁寧に優しく教えています。貴方の教えを受けた生徒達が貴方のこと何と言っているかわかりますか? 天使ですわ天使! みんな貴方のことを虫も殺せない生きた天使扱いしているのですよ! ちょっと頭のおかしい方も居ますが、貴方はそれほど周りから注目され、感謝されているのです! この私を差し置いて!」
「そんな……」
早口でまくし立てる麗花の言葉に、そんな馬鹿な、と反論を抱く志亜。
彼女の言うことはどれも事実だが、志亜としては本当に、日常生活の一部として当たり前に行っていたことだ。聖人君子や天使扱いなど分不相応どころではなく、自分が天使ならば他の人間は全員神様になると思っているぐらいである。
しかしそれは偽りなく、赤の他人である麗花から見た客観的な双葉志亜の人物像であった。
それから十数分――全てを語り終えた後、数拍の沈黙を置いて、少々気まずそうな顔で麗花が言った。
「……少し、無駄なことを喋りすぎましたね。まあとにかく、貴方は客観的に見て、それほど評価されているということです。謙虚や鈍感なのは大いに結構ですが、行き過ぎては反感を買うことを覚えてください。特に私は、そういうの大嫌いです」
「そう、か……」
自分嫌いから派生した行き過ぎた謙虚は、他の人間に対して反感を買う。
確かにそうだ、と志亜は思う。
自分よりも出来る人間が、「自分は大したことがない」と言う。そんな相手に対して、なんて謙虚な方だろうと賞賛する者も確かに居るだろうが、皮肉と受け取られて反感を買う可能性は大いにあった。
志亜は目尻を下げ、申し訳ない思いで頭を下げた。
「……城ヶ崎さんは、立派な人。これは皮肉、違う。皮肉だと思ったなら、ごめんなさい」
「皮肉だなんて思っていませんわ。そもそも貴方がそんな回りくどいことを言えるとは思えませんからね。そしてこの私が立派なのは当然ですわ。悔しいですが、結果を出している以上そんな私よりも貴方は優秀なのです……これは揺るぎません!」
今まで勘違いを招く言動をしていたことに謝罪する志亜だが、麗花は元より彼女の意図を読み取っていたらしい。
そのことで彼女のことをやはり立派な人だと再認識する志亜は、彼女の為にももう少しだけ自己評価を改めてみようという気にはなった。
ただもう一つだけ、志亜には彼女に訊ねたいことがあった。
「城ヶ崎さんは……」
「……何ですか?」
胸に走った緊張の痛みは、双葉志亜として生まれてから初めて感じた――対人関係への不安だった。
「城ヶ崎さん個人は、志亜のことをどう思っている?」
何故そんな質問を彼女にしたのか、この時の志亜にはわからなかった。
友人を作る気の無い自分にとって、彼女もまた赤の他人に過ぎない。そんな彼女からどう思われようと、志亜には自分の家族が関わらない限りはどうでも良い筈だった。
――だが志亜の心は今、はっきりと不安を感じている。
それは今まで機械的に人生を送っていた志亜の中に生まれた大きな変化、それでいて人として当たり前の……「嫌われたらどうしよう」、「嫌われたくない」という他者との共存、友好を求める感情だった。
「まったく、貴方という人は……一度しか言いませんよ?」
志亜の抱えている不安を理解してか、麗花が僅かに息を詰める。
身長差の関係から自然と上目遣いに見上げられる志亜の視線に対し、麗花は周囲に気配が無いことを確認した後で言い放った。
「貴方はこの私が、いつか越えなければならない壁……そして……」
言い放たれたのは、最初に出会った時に言ったものと同じ意味を込めたライバル宣言。
しかし次に言い放たれたのは、志亜にとっては初めて聞く――麗花の本心だった。
「この学校では唯一ありのままの私で話せる、危なかしくも気の置けない友人……と言ったところですね」
彼女の言葉を一言一句逃さず聞き届けた志亜は、その瞬間、胸の内から不安が取り除かれた。
出会ってから今まで、麗花は一度も口に出していなかったが……彼女はその心では志亜のことを「友人」と思って接していたのだ。
「せ、せいぜい光栄に思いなさい! 貴方は私の取り巻きではなく、友人なのですからねっ!」
言った後で恥ずかしくなったのか、好きな異性を前にした乙女のように顔を赤らめながら、彼女は縦ロールを揺らした。
その姿は、その言葉は――前世から今世に至っても尚延々と縛り続けていた志亜の心の闇を浄化し、バラバラに砕いていくものであった。
「……ありがとう、
この時、彼女は志亜に対して、志亜が志亜として生きるに当たって不要なものを壊し、必要なものを与えてくれたのだ。
そのことに志亜は感謝し、初めて彼女の名前を呼んだ。
今後彼女との関係を構築していくに当たって、よそよそしく苗字呼びをするべきではないと判断したのだ。
そんな志亜に対し、麗花は呆れ顔で笑みながら言った。
「現金な方ですね、
「自分でも、そう思う……」
あれだけ恐れていたことだ。
自分にはその資格が無いと、ずっと思っていた。
失うのが怖かった。
守れる自信が、自分には無かったから。
そして自分の無力さで大切な人を苦しめてしまうのが、耐えられなかったから。
今でもその考え方の根本は変わっていないが、それでもやっぱり、欲しいものは欲しいと――至って人間らしい自分の気持ちに、志亜はようやく気づいたのだ。
――生まれて初めて友達を作ったその夜、志亜は久しぶりに快眠することが出来た。
悪役令嬢チックな少女、城ヶ崎麗花と友人になった志亜は、彼女と接している中で今までに知らなかった彼女の一面を知ることが出来た。
麗華は基本的には見た目通りのお嬢様だが、本来の性格は案外フリーダムである。思い至ればそれは、これまでにも何度か片鱗を見せていたことだ。
例えば口調。基本的には淑女然とした丁寧な言葉遣いだが、感情が高ぶると中々に淑女らしからぬ言葉を遣う。
しかしそれは家族や志亜のような友人に対する時だけらしく、対外的にはやはり絵に描いたようなお嬢様だった。
そしてこれは友人になってから志亜が最も驚いたことだが、彼女の趣味である。
外見からは俄かに想像し難いが、麗花は空いた時間にはゲームセンターに通い詰めているゲーマーだったのだ。
「オーッホッホッホ! どうしました志亜さん? 志亜さんともあろうものが動きが止まって見えますわよ! オーッホッホッホ!」
「……初心者相手に、それはない」
放課後、初心者の志亜を相手に格闘ゲームを始め、これまた試験で勝てない鬱憤を晴らすように志亜の操作キャラクターを一方的に叩きのめしていく姿はまさに「悪役」令嬢のその物だった。その姿が取り巻きに囲まれてクラスを取り仕切っている時よりもずっと生き生きとしているように見えるのは、きっと気のせいではないだろう。
しかし何戦かして志亜が操作に慣れ始めればその実力差は徐々に拮抗していき、やがて麗花が一敗を付けられるまでには大した時間は要さなかった。
「んなっ!? もう一回! もう一回ですわ!」
「構わないが、結果は同じだと思う」
「何ですって? この城ヶ崎麗花に向かってええ!」
学業のライバルは、知らず知らずの内にゲームのライバルにもなっていた。
しかし彼女に振り回されることによって必然的に志亜の中で「ゲーム」というやや不健康的ではあるが趣味らしい趣味が見つかり、彼女の人生はこれまでよりも格段に充実したものとなっていった。
そんな二人が、中学三年生になった頃のことだ。
――二十一世紀の半ば、この世に史上初の「VRMMO」が生まれた。
異世界で送る、ファンタジーな冒険の日々。
前世で体験したそれは、どれもろくなものではなかった。
リアルとゲーム、前世を含めて両方の異世界ライフを送ることになるとは、よもや誰も思うまい。
『VRでも負けませんからね! 志亜さん!』
同時期にプレイすることになった唯一の友人の挑戦的な言葉を思い出し、志亜がふっと微笑を浮かべる。
幻想的な仮想現実の世界を舞台にしたこの「VRMMO」というゲームは当然のように一大ブームとなり、多くの人々を熱狂させた。
そのあまりの人気ぶりは発売から一年を過ぎた今でもなお衰えず、志亜も高校一年生となった今になってようやく購入することが出来たほどだ。
「異世界で悲しいことは、もうたくさん……」
仮想現実の空気に触れた志亜は、近くにあった岩場に腰を下ろし、漠然と空を見上げながら呟く。
現実の世界の空は蒼く、前世の「彼」が生涯を終えた異世界の空もまた、澄み渡る蒼色をしていた。
そして、この仮想現実の空に浮かぶ色もまた「蒼」であった。
志亜が個人的に好きな色は黒だ。黒は全てを塗り潰し、自分が隠したいもの隠してくれるから。
しかし一番綺麗だと思っている色は、この空の色であるスカイブルー。そこに小難しい理由は無く、ただ純粋にそこにある蒼が綺麗だと思った。
そんなことを考えながら感傷に浸る志亜は、澄み渡る蒼穹に向かって宣言するように呟いた。
「今度は、楽しいことを探してみる」
この世界で何を見て、何をなすのか。
それはきっと、未来人でもなければ誰にもわからないだろう。
ただ志亜はこの第二の人生で「彼」としてではなく、「双葉志亜」として生きることを決めた。
前世の異世界は空想よりもおぞましい血生臭い世界であったが……ここは人が人を楽しませる為に作った、現実であって現実でないゲームの世界だ。
ならばゲームらしく、空のように純粋な心で楽しんでみよう――存在ごと掠れていきそうな儚い笑みを浮かべながら、志亜はそう心に決めた。
【レイカさんからメッセージが届きました】
ピリリッと電子音が鳴り響くと同時に、志亜の目の前に透明なウインドウが出現する。
――楽しもう。こんな自分を認めてくれた、物好きな友達と一緒に。
腰掛けていた岩から立ち上がり、志亜は冒険に出かける。
前世の記憶がフラッシュバックする脳内では、天に昇ったかつての仲間達がそんな彼女の旅立ちを満面の笑みで見送っていた。
――これは、前世の記憶を持つ自分嫌いの少女と悪役令嬢チックな少女らが織り成す、VR世界の冒険記である。
そして彼女と同じく現世に目覚めた紅の帰還者と交錯する、蒼と紅の仮面舞踏会である。
「止まるんじゃねぇぞ……」某団長の最期を見て感動した私は、一年前に止まってしまった作品をリメイク復活させようと無謀な決断。だからよ……