「ふむ」
誰もが絶句し、夜の酒場にあるまじき静寂が漂っている。
その空気を生み出した張本人である武蔵は掌にある
「並みの剣よりはマシに出来とる」
ぺきっ、と何とも軽い音とともに欠片をへし折りながら、武蔵はそう言ってのけた。
「………ッ、ベートッッ!!」
弾かれたかのように、席に座っていた一人が動き出した。【ロキ・ファミリア】団長、フィンは気を失っているベートのすぐ隣に駆け寄り、彼の身を案じる。
「……ッきゃぁぁああああああッッ!!!」
「逃げろォッッ!!!」
「めり込んでンじゃんッ地面にッッ」
「うわアアアッッッ!!?」
彼が呼びかけると同時に、周りの客たちからも一気に悲鳴が上がった。バタバタと椅子を蹴り倒して逃げ惑う人々、店内はあっという間にガラガラになってしまう。
店内に残ったのは数人。
『豊穣の女主人』の従業員と【ロキ・ファミリア】の幹部勢とその主神ロキ。そして武蔵である。
「ちょっ、ベート!?」
「無事なのか!?」
他の幹部勢……ティオナとガレスも傍へと駆け寄る。心配そう、あるいは茫然としている彼らを余所に、これをやった当の本人である武蔵は飄々としている。
「安心せい、死んではおらん」
「っ、アンタ、どの口で……!」
その物言いに流石のティオネも敵意を滲ませる。いけ好かない奴ではあるが、それでも仲間をやられて黙っていられる程、彼女は非情ではない。
「ん」
しかし倒れるベートを指さして、武蔵は言う。
「よく見てみい」
その場にいる全員が、武蔵の指の先を見る。そこにはやはりベートの姿しかないが、武蔵が言いたいのはそこでは無い。
「こやつの
ピンッ、と弄んでいた
「偉いぞ、
「「「「「 …………ッッッ 」」」」」
地に倒れ伏すベートを足元に、ぬけぬけと放つ称賛。
数多の栄誉をその身に浴びてきた【ロキ・ファミリア】の団員が受けるには、あまりに陳腐なその
困惑?
屈辱?
激情?
あるいはそれら全て……?
ファミリアに入団してから初めて味わう不可思議な感情に、彼らは何も言えずにいた。
「どうでも良いンだけどねぇ……」
「む?」
と、彼らが固まっていると、厨房の奥から剣呑な声が聞こえてくる。
武蔵が振り返ると、そこに居たのはこの店の所有者である女主人、ミア・グランドの姿があった。その背後には厨房に逃げ込んだシル達従業員が、こっそり顔を覗かせている。
「それ以上何か続けるつもりなら余所でしな。ここは闘技場じゃないんだ」
有無を言わせぬ物言いに、彼らは頷くしかなかった。
武蔵も別段事を大きくするつもりは無かったが、しかし場所と相手が悪かった。自身の非を素直に認めた武蔵も、同様に頷く。
「相分かった。床の修繕には先程渡した袋から適当に引いてくれ」
「勿論さ、金が無いってんなら修繕はアンタにやらせていた所だよ」
二言、三言言葉を交わし、武蔵は店の扉へと歩いていく。どうやらこれでお終いという事だろう。
【ロキ・ファミリア】の面々の視線を浴びながらゆうゆうと歩くその背に、しかし待ったを掛ける者がいる。
「待ちぃや、自分」
「?」
どこか聞き覚えがあるような訛りに武蔵が振り返る。
声の主は、赤い髪の女だった。
薄く開かれた緋色の糸目は真っすぐに武蔵を射抜き、神としての風格をいかんなく漂わせている……【ロキ・ファミリア】主神、ロキである。
「何ウチのモンに手ェ出して、ぬけぬけと帰ろうとしとんねん。このまま帰らす程、ウチらが腑抜けとると
「…………ロキ」
わらぁ、とミアの髪の毛が逆立つ。
厨房からはヒッ、と短い悲鳴が上がり、他の者達も額に汗が浮かぶ。
せっかくこの場が穏便に収められる所だったのに、ロキの一言で事態はまた元に戻ってしまう。ミアの逆鱗に触れれば、例え天下の【ロキ・ファミリア】でもタダでは済まない。
リヴェリアが身を乗り出しかけた時、ロキが再び口を開く。
「……って言いたいのはやまやまなんやけどなァ」
にかっ、と急に破顔させるロキ。
その態度の急激な変化に武蔵以外の全員が大小に困惑する中、ロキは
「自分、ダンジョンでウチの
「“だんじょん”、とな?」
はて、と武蔵は良く分からないと言った顔で首をかしげる。やがて周囲の顔ぶれを見回し、ここでようやく武蔵はこの言葉を理解した。
「……あの洞窟だ」
急に出てきた言葉に、ロキも含めて全員の頭に疑問符が浮かぶ。
「おぬしら、あの洞窟にいた者たちであろう」
「……なんや……忘れてたっぽいんやけど………」
「いやいや何を言うとる、思い出したではないか」
(か……軽いのォ~~~~~………)
ほら、俺もけっこうたくさんやってるから。と付け足す武蔵に、ロキは呆気にとられる。
「おぬしら南蛮人の顔はどれも似通っていてな、気が付かなかったわ」
「なんやそれ、自分って意外と天然さんやったりするん?ゴツイおっさんにそないな萌えはいらんで」
まるで世間話をしているような二人。周囲を置いてけぼりにして語り合うロキと武蔵であったが、ここでロキがある質問をぶつけた。
「そう言えば、自分なんて名前なん?助けてもらったのに恩人の名前も知らんのは、ウチも歯痒いねん」
「俺の名か?」
ざわ、と【ロキ・ファミリア】の面々が固唾を飲む。
ロキは最初から武蔵の情報を集める気で、それであのような行動にうって出たのだ。切れ者の我らが主神の鮮やかな手腕に、彼らは胸中で密かに拍手を送った。
「ふむ、確かにおぬしらには名乗っておらんかったな」
ズチャ、とアイズ達に向き直る武蔵。そして彼らに向け、堂々と名乗りを行う。
「宮本武蔵と言う。よろしく頼む」
(………ミッ)
(ミヤモト………)
(ムサシ………)
(……………って)
((((( 誰? )))))
その時の【ロキ・ファミリア】の面々の胸中を代弁するなら、およそそんなところであろうか。
彼らは武蔵が見せた実力から、彼がある程度は有名な“冒険者”であると思っていた。しかし聞かされた名前は全く聞き覚えの無いもの。
彼らが首をかしげるのも尤もである。
「ほうほう、ムサシ言うんか。強そうな名前やなァ~」
そんな中、ロキは変わらずに情報収集を続行した。ずいっ、と武蔵に顔を近付け、下から覗き込むようにその目を真っすぐ見る。
「それで?どこのファミリアに入ってるん?」
「「「「「 !! 」」」」」
しかし武蔵は口を閉ざし、じっとロキの目を見つめ返したまま動かない。
探りを入れ過ぎたか?とロキが思った瞬間、
ロキの身体は袈裟がけに切断された。
「ひぃああああッッ!!!」
突如、ロキは素っ頓狂な声を上げて床に倒れた。
「ロキッ!?」
主神の異常事態に、アイズとリヴェリア、レフィーヤとティオネが駆け寄る。ロキは胸を片手で押さえ、大量の冷や汗をかいていた。
「ちょっと、何があったのよ!?」
「大丈夫ですか!?」
心配するレフィーヤとティオネの胸が触れても、今のロキにはその感触を楽しむ余裕すらなかった。
ただただ目の前に立っている男を見上げるのが精一杯。
「斬った感触は常人と変わらんな。
ぶつぶつと奇妙な事を口にする武蔵。何の事を言っているのか訳が分からない一同、しかしアイズだけは違う。
(“斬った”……もしかして、あの時みたいに……ッ!?)
アイズはダンジョンで感じたあの錯覚を思い出す。
実際に切られるのと遜色ないあの感覚を、ロキも同じく味わったのだろうか。若干の落ち着きを見せてはいるものの、ロキは未だ呼吸を乱している。
再び緊張が走る店内であったが、それは一瞬であった。
「―――――にしてもだ」
にぃ……と武蔵は笑みを浮かべる。
歯を剥き出しにして獰猛に嗤う武蔵。その
「面白いな、
それだけ言い残し、武蔵は店から出て行った。
ヂャッ!と踵を返した武蔵の姿はオラリオの街中へと消えていく。
その背を追う者は、誰一人としていなかった。