幾度目かの静寂に包まれる闘技場。彼らの視線の先には、勝負の果ての結果が広がっていた。
刃を振り抜いた姿勢のまま微動だにしない武蔵。
その顔は左の頬骨のあたりから抉れ、唇を縦断して顎にまで達している。足元にはその部位である肉片が落ちており、激しい出血を見せていた。
オッタルが放った蹴りはそれだけの威力があった。直撃でないにも関わらず、その爪先は武蔵の頬から肉を奪っていったのだ。
文句のない大怪我だが、しかしこの場に限ってはそうは言えないだろう。
そんな武蔵の眼の前のオッタルの方が、遥かに重傷なのだから。
空中で武蔵に蹴りを見舞うも、腹部に新たな斬撃を刻まれた。今までで最も鋭く、重い一太刀だった。
盾となる肋骨はなく、鍛え上げられた腹筋のみで刃の侵入を食い止めようとするも、武蔵の打ち込みはそれ以上のもの。
分厚い筋肉層を越えたその奥……柔らかく、無抵抗の内臓にまで切っ先は届いた。そこから先は単純、武蔵はオッタルの腹部を横一線に薙いだ。
シュザッ、と着地したオッタル。
ごく自然に地面に立っているようにも見えるが、それは尋常ではない精神力があってのもの。内臓を切り裂かれた者はどうなるのか、誰でも簡単に予想がつく。
そしてその予想の通りに………やがてオッタルは、ガクリとその場で膝を折った。
「ふむ……」
オッタルが膝をつき、武蔵はようやくその姿勢を解いた。
剣を振り抜いた姿勢から立ち上がり、見下ろした視線の先。そこには斬られた腹に手をあて、唇を固く引き結んでいるオッタルの姿があった。傷口からは僅かに内臓が露出しており、体内から鮮血が止めどなく溢れている。
もはや重傷どころではない、瀕死の状態だ。
これ以上の戦闘は不可能。浅く呼吸を繰り返し、訪れるであろう死を待つだけの『
「―――――天晴れ也。『
誰もが口を閉ざす中、武蔵はおもむろに言葉を放った。
見下ろす武蔵。
見下ろされるオッタル。
勝敗がハッキリと分かる構図のまま、武蔵は更に言葉を続ける。
「おぬしが最後に放ったあの一撃。俺がもう僅かにでも前にいれば、頬を抉られるだけでは済まなかった」
「………」
「また俺の放った一振り……臓腑までは達したが、骨には届かなかった。固めた
「………」
「一刀両断で倒れる事も出来ず、
そう言うと、武蔵はオッタルの横へと移動し始めた。その動作の意図が掴めず、観客たちは怪訝な顔を浮かべる。
ヂャ、と止まった武蔵。オッタルはその
「それではあまりに不憫………オッタルよ」
クン、と、無銘・金重が冷たく光る。その刃を持った武蔵は、静かに言い放つ。
「介錯
「「「 …………ッッ!!! 」」」
その言葉に誰もが反応した。
『介錯』
誰かの傍につき、その者の手助けをすることを指す言葉。
そんな言葉をこの場で持ち出した武蔵の思惑が
「クソッ……お前たちっ、すぐに試合終了の太鼓を鳴らせッッ!!」
焦りを感じさせるガネーシャの声が響いた。
オッタルを唯一御せるフレイヤが
「無駄よ」
そこに、美しい女神の声が掛けられる。
その場にいた全員の視線を集めた彼女は顔を伏せ、瞳を閉じて言い放つ。
「もう、誰にも止められない」
「………フィン」
「団長……ッ!」
指示を待つ彼らの声に、フィンは傍らの獲物に手をかけて、神妙に頷く。
「……うん」
その頷きに応えるように、他の者たちも動き始める。
彼らを解き放つ言葉は、残り僅かである。
「ムサシ君……ッ!」
「……本気で………!?」
「殺す………ッッ」
ヘスティア、リリ、ヴェルフが呻くようにして、そう呟いた。
彼らは目を見開き、凍り付いたかのようにその場に立ち尽くしている。目の前の光景を受け入れる事で精一杯となり、それ以上の行動を取れないでいた。
ただ一人……ベルを除いて。
(ムサシさん………ッ)
武蔵とオッタルが繰り広げる戦いの中で芽生えた、
それら全てがごちゃまぜとなり、まるで嵐のようにベルの心をかき乱す。答えを見出そうとしているのか、見出している最中なのか、それともそこにすら至っていないのか。
疑問の中に新たな疑問が浮かんでくる、そんな中で聞こえてきた武蔵の言葉。
『介錯
「………ッッ!!!」
目を見開き、顔を上げるベル。
そこには瀕死のオッタルの傍らに控える武蔵の姿があった。先程聞こえてきた言葉が聞き違いでない以上、この後に広がるであろう光景は、想像に難くない。
(僕は……僕は………ッ!)
拳を握る。爪が掌に食い込み、血を流さんばかりに。
ブルブルと肩を、身体を、全身を震わせていた少年は―――――遂に動き出す。
「!? ベル君ッ!!」
柵を乗り越え、主神の声を振り切り、前へ向かって駆け出す。
確証も目論みも無く、突き動かされた衝動のままに。
「ムサシさんッッ!!」
「………む?」
その呼びかけに、武蔵は首をひねって反応する。
「おい、あれって……」
「『リトル・ルーキー』?」
「なんでここに……」
見れば、そこには息を切らせているベルが立っていた。突如として現れたベルの姿に、武蔵は怪訝そうな表情を浮かべる。周囲もベルの登場に困惑しているようで、口々に疑問の声を上げる。
「どうした、“べる”。そんなに息を切らせて」
乱れた呼吸を整え、武蔵の顔を正面から見据えるベル。痛々しい傷も直視し、ゴクリと生唾を飲み込み、切り出す。
「ムサシさん……もう終わりです」
意を決し、ベルは静かにそう言い放った。
オッタルに既に戦意はなく、続行は不可能。であればこれ以上の継続は無意味………この場にいる者たちの総意を述べたベルに、しかし武蔵は腑に落ちないと言った風の顔をする。
「……“べる”よ、これはまだ決着ではない」
武蔵の鋭い言葉が飛んでくる。思わず後ずさりしてしまいそうになる足を、ベルは必死の思いで踏みとどまる。
「斬らねば決着が付かん。そもそも立ち合いとは双方どちらかが死んで、初めて決着とす……」
「もうッ、決着ですッッ!!」
決着の在り方について語る武蔵を遮り、ベルが吠えた。その予想外に大きな咆哮に武蔵が、ひいてはその場にいる全員が、思わず身体を固まらせた。
強固な意思を見せたベル。そんな彼に最初に声をかけた人物は―――――誰であろう、オッタルであった。
「………ベル・クラネル」
膝を付いて血を流すオッタルに、ベルがバッ!と顔を向ける。オッタルは首を回す力も残されていないのか、地面を見たままの格好で語りかけた。
「……邪魔を、するな………これは、俺が始めた戦いだ………!」
「………ッ」
「という訳だ、“べる”」
思わず絶句するベル。しかし無理もない。
今まさに殺されようとしているオッタル、その彼自身が“死”を受け入れているのだ。これではベルの行いは救済でも何でもない、神聖な勝負を汚す、ただの子供の
でも………。
それでも………!
僕は………!!
「それでも僕は……ムサシさんに、人を殺して欲しくないんです………ッッ!!」
それは紛れもないベルの本心だった。
初めて会ったあの日に交わした、他愛のない会話も。
ヘスティアが貰ってきたジャガ丸くんを頬張っていたあの姿も。
ダンジョンで襲い掛かるモンスターを次々と屠って見せたあの雄姿も。
それらをベルに見せてくれた人が、人殺しに堕ちて欲しくない一心で……ベルは懇願するように声を漏らした。
「…………“べる”よ」
しばしの間を置いて、武蔵が口を開いた。
果たしてその口から語られるのは是か、非か。緊張と共に耳を傾けたベルに向けて放たれたのは―――――。
「貴様は勘違いをしておる」
「………え?」
そんな言葉だった。
「お前は俺に”人殺し“になって欲しくないと言うが―――――それは的外れにも程がある」
固まるベルを前にして淡々と、臆面もなく武蔵は告げる。
「小競り合い、立ち合い、そして合戦……それら全てを含めれば、優に二百は下らん数を斬ってきた」
その発言に周囲がざわめく。
目の前にいる正体不明の男が、途方もない大量殺人鬼に見えてしまう。
「そんな俺がこの場で更に斬ったところで、さして変わりはあるまい。違うか?」
「………ぁ………」
その問いかけに、ベルは答える事が出来なかった。
誰よりも武蔵といた時間は長かった。
誰よりも武蔵の事を
………違っていた。
ベルは武蔵を履き違えていたのだ。滑稽な程に。
いくら強くても、いくら浮世離れしていても、自分と同じヒューマン。根本はきっと常人と同じだろうと思い込んでいたが、その期待は見事に裏切られた。
話が通じない、どころではない。
もはや何を言ったところで、武蔵は聞く耳を持たないだろう。力づくで抑えようにも、そんな実力は今のベルには無い。
「退け、“べる”。決着の時を邪魔するな」
無機質な瞳がベルを射抜く。
ガラス玉の如く、人間離れした武蔵の眼光に、ベルの膝が崩れ落ちる―――――その
「よく言った、ベル・クラネル」
凛とした、勇者の声が飛び込んできたのは。