避難所の奥まった場所には、私専用の制御室が設けられている。
個別の指示出しから電気系統に至るまで、全てをここで統括することも可能であった。
各設備に異状は無し。地下水道は、ワルプルギスの夜の被害を完全に凌ぎ切ったと見ていいだろう。
後味の悪いものがなくて良かった。幸先のいいことである。
「さて、見滝原復興に向けて頑張ろうか?」
パソコンに向き合う。
モニターに映し出される、極々最近に立ちあがった慈善組織の質素なホームページ。
“募金はこちらへ”の可愛らしい画像は私のお気に入りだ。
黒猫と白い鳩がじゃれている、とてもファンシーなイラストが好みだった。
「にゃ」
「お、ワトソンじゃないか! 無事だった~?」
足下に忍び寄ってきたワトソンの頭を片手で撫でてやる。
喉をわしゃわしゃしてやると、気持ちよさそうにゴロゴロと鳴いてくれた。
さて。ワトソンとの再会を喜びたいところだが、先にやらなくてはならないことがたくさんある。
「さて。入金、っと」
ボタンひとつで投下される、世界中の宝くじと為替の流れを掌握した、私の奇跡の結晶。
“ご支援、ありがとうございました!”
過去に戻れる。その力の真骨頂は、マネーゲームで圧倒的な独り勝ちを果たせるという点にあるだろう。
金は思いのまま。人間関係のリセットもあれば、情報だって好きなだけ握り込める。
そうして得られた莫大な資金があれば……ま、人の命はいかんともしがたいが、モノならば自由自在さ。もちろん、元通りになるわけではないんだけどさ……。
「……ふふ、よし、じゃあワトソン。私はしばらく寝るから、ゆたんぽごっこして遊ぼうか?」
「にゃー!」
「よしよし」
私はブランケットの中にもぐりこみ、ワトソンを抱きかかえるようにして目を閉じた。
闇。情報のない暗い世界。
動き回ったわけではないが、ほどよい疲労を感じる。きっとそのまま息を整えていれば、すぐに夢の世界に沈めるだろう。
「……ふー」
「にゃ?」
「ん? ……いーや、なんでもないよ、ワトソン」
「にゃぁ」
私は覚悟を決めて、眠りに落ちた。
―――――――――――――――
そして、缶コーヒーを打ち鳴らして祝杯が上がる。
『乾杯、ほむら』
『……』
夢の中では彼女が待っていてくれた。
殺風景な部屋。けれど、壁にかけられたワルプルギスの夜の絵は今や存在しない。
私たちの心が確かに一つのしこりを取り去ったのだろう。それがこの世界にも表れていた。
二人して黙り、コーヒーを流し込む。
例によって、夢の中では何の味も無い。
だからこそ、向かいに座る彼女の無表情は、この時ばかりはしっくりきているように見えた。
『こういう結末、きっと君にとってのベストではなかったんだろうね』
『……』
私の言葉に、暁美ほむらは難しそうに眉を傾ける。
『私は知っているよ、君のやりたかった事を』
ワルプルギスを倒し。見滝原を救う。
けどそれは、最初のうちは力の差を見誤るばかりで失敗し続け。
力の差を知った後も、その目的を自分の存在意義として縋ったが故に失敗し続けた。
きっと、無理なことなのだろう。
ワルプルギスの夜を倒すということは。
『……今更になってベストだと思ってしまうからこそ、今の私は後悔しているわ』
『ふむ』
悲しげな言葉とはやや相反するように、暁美ほむらの口元はわずかに微笑んでいた。
自嘲だけではない、そこには真の喜びも混ざっている。
自分には果たせなかったこと。しかし待ち望んでいた念願が叶い、それを心から嬉しく思っているのだろう。
『街を一切壊さず、人を一人も殺さず……あいつを相手にして、そんなこと……無理な話だったのよね』
『ん』
『私は甘かったのよ、妥協ができなかった……馬鹿だったのね』
馬鹿だった、か。それは……酷な話だろうと思うよ。
難しいことだった。そして、仕方のないことだったんだ。
そう思った方が、きっと良い。
『でも……貴女のおかげよ。貴女のおかげでまどかは……やっと前に進める事が出来た』
『……ふふ』
『私という繰り返す因果から解放されて、まどかは……魔法少女になることもなく、死ぬこともなく、人生を受け入れた』
『うん』
『ありがとう。本当に……』
暁美ほむらは微笑んでいた。
朗らかに。きっといつかの、彼女が幸せだった頃のように。
長い時間をさかのぼって、中学二年生に戻ったかのように。
『ふふ……けどね。前に進むのはまどかだけじゃないだろう?』
『え……?』
『君も前に進むことができるはずだよ』
『……え、ええっと。それは……どういうことかしら』
今更になって狼狽えるのかい?
いけないな。そうやって自分を幸せの勘定からはじき出してしまうなんてさ。
『当然だろう? ようやく全て終わったんだ。これからは君だって、暁美ほむらの人生を楽しんでいかなくちゃ!』
『む、無理よそんなの』
『何故?』
戸惑う暁美ほむらの表情は、自信のなかった頃のそれにそっくりだった。
おいおい、そこまで逆行することはないだろう。
『無理よ……私、胸を張ってまどかと向き合えないもの。みんなに酷いことをしたし、まだ……自信がないわ』
『そんなことはない。君が努力したからこそ今があるんだぞ?』
『無理よ、無理だもの……』
暁美ほむらはずーんと沈み込んだように、顔を床に向けてしまった。
やれやれだ。願いが叶ったとたんにこれか。わけがわからないよ。
……ま、仕方ないか。
そんな彼女を引っ張るためにいるのが、この素晴らしく格好いい私、暁美ほむらだ。
『……ふーむ。ならば、そうだなぁ……胸を張れるような未来に全てを導くことができれば、君の心は自信を取り戻し、解放されるのかな?』
『……?』
我ながら頑固な人間だ、暁美ほむら。
けど私は、そんな弱気な君を一人分だけ引っ張れるくらいには、強くできているんだよ。
『さあ、暁美ほむら……どっちか一枚だけ、引いてごらん』
彼女の前に二枚のトランプを差し出してやった。
『……? どういうつもり? 私に、どうしろっていうの?』
『簡単だよ、選ぶだけさ』
人生はいつだって選択の連続だ。
そして不思議なことに、マジシャンの示す選択というものは、常に当たるようにできている。吉兆のようなものだ。
『もし君がこっちのスペードの10を選ぶなら、再び砂時計をひっくり返そう』
『っ! 嫌よそんな……!』
砂時計をひっくり返す。それは私の盾の中で落ち切った砂を反転させ、再び私を過去に戻す行為だ。
それは暁美ほむらにとって敗北の証。この期に及んでやり直すなど、彼女からしてみれば考えられないことなのだろう。気持ちはよくわかる。
『そうだね。時間を戻せば……また全ての人間関係が白紙に戻り、ワルプルギスの夜が再び襲来する。考えるだけでもうんざりだ』
『だったら……』
『けど私は今回の時間でね、実に面白い、様々なプランを思いついたのも事実なんだよ』
『プラン……?』
暁美ほむらは怪訝そうに首を傾げている。
ふふ、そうだろう。わからないだろう。まだこれは、私の頭にしかないことだからね。
『何をどうすれば上手くいくのか、どうすればよかったのか……どこで、いつ、どう行動すれば最適なのか……その綿密なプランさ。もしも次に時間を巻き戻す時が来たなら、私たちは見滝原への損害を限りなくゼロにまで抑え、死者だって完璧にゼロにできるかもしれないよ』
『!』
『妥協せず、まどかに胸を張って生きるならばこの選択肢も悪くは無い……ま、不確定要素はたくさんだけどね』
もう片方のカードを掲げる。
『で、もう一枚。君がこっちのジョーカーを選んだなら……この世界に骨を埋める覚悟で、皆と手を取りあって生きていくことにしよう。一から建て直す喜びが、希望がここにはある……当然、私としてはこの結果に満足しているつもりだよ、暁美ほむら』
『……私も、不満というわけではない。いえ、むしろ私では辿り着けなかった、最高の世界だとも……』
『ふふ、ありがとう』
まぁ、この世界も正直なところ、これからの時間に不安がないわけではない。
どっちもどっちだ。どちらの世界も安泰と決まったわけではない。だからこそ、選択の余地がある。
『より貪欲に完璧な未来を生きたいのであれば、10を選ぶんだ』
そうすることで、君は再び自信を取り戻せるだろう。
『もしくは……どの時間よりも苦悩し、事件が起きたこの世界で、少しずつ居場所を取り戻すつもりなら、ジョーカーを引くといい』
こちらの世界でも、当然私はサポートする。
私だけの世界じゃない。君が、暁美ほむらが再び彼女たちと一緒にいられるように、少しずつ健全な心を取り戻せるよう、尽力してゆく。
『……私は』
『私は暁美ほむら。君も暁美ほむらだ。私はどちらの選択でも、何の文句は無い……君の決定に、全てを委ねるよ』
『……私が選ぶ、世界は』
暁美ほむらの喉がコクリと鳴る。
そして震える細い指は一枚のカードを摘み上げ……彼女はそれを、選択したのだった。
『……うん。それが、君の選ぶ人生だね?』
『ええ』
良い顔つきだ。
諦めていない。前向きで、真っすぐで……格好いい表情だった。
『やっていけそうかい?』
『もちろんよ、やってやるわ』
うん。そうだ、それがいい。
『……私も、貴女みたいに……格好良くなるために、頑張ってみせる!』
『その調子だ、暁美ほむら! 燃え上がれー!』
『ちょ、ちょっと、馬鹿にしないでよ、それはまどかだけが……』
『あっはっはっは!』
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運命の渦巻く街、見滝原。
私が生きると決めた街。
はてさて、それはいつの青空の下だろうか。
高くそびえるビルの狭間、整備されたアスファルトの上に、私は立っていた。
期待のまなざしを向ける大勢の観客達の中心で、私は深く頭を下げる。
紫のシルクハットを被り、紫のステッキを腕にひっかけ。
今日もまた、市民を楽しませる公演が始まろうとしている。
『頑張って!』
『ありがとう、まどか』
どうやら今日は、まどかが見に来てくれているようだ。
まだまだ低い背で何度もジャンプし、奥から私のマジックを覗き見ようと頑張っている。
その姿は、かつて私が奔走した日々が遠い昔以上の、おとぎ話だったんじゃないかと思えてしまうほどに和やかで、微笑ましいものだった。
おっと、けれど笑ってはいけない。
マジシャンの笑いは不敵に。妖しくなくてはならないからね。
「お集まりいただき、ありがとうございます」
ん?
ここは過去か? 未来か? どっちなんだ、って?
さあ、どっちの世界だろう?
思い出せないな。さて、どっちだっただろうか。
でも、間違いはないから安心していただきたい。
ここが過去でも未来でも、私は必ず輝かしい未来を手にしているのだから。
この場所は、あの子が守ると決めた世界。
私はそれを信じている。
それだけはしっかりと覚えている。
だから私は、この場所で。この世界で。
自分の人生を、全力で楽しんでゆくつもりだ。
「では! ショータイムと参りましょう!」
さあ、ステージにもっと光を。
おわり