―――――――――――――――――
おぼろげな自室にて、空想の缶コーヒーを一口飲む。味は無く、喉越しだけが緩慢だった。
向かいの席の私は虚ろな目を床に向けたまま、手元の缶に口をつけようともしていない。
『あと三日ね』
『そうだな、あっという間だ』
ワルプルギスの夜襲来。
運命の日まで、残り三日。忙しなく動いていると、なんとも早いものである。
『どうかしら。私の記憶を持って生きるのは、苦痛でしかないかしら』
薄っすらと自嘲する暁美ほむらが、私にぽつりと零す。
『全てを知らずに生きていられれば……きっと貴女なら、幸せになれていたはずなのにね』
『ふむ』
悩んだように頬を掻いてみる。
だが、自分の中での答えは既に出ていた。
『後悔なんてあるわけないよ、暁美ほむら』
『……』
『知らずに生きていても、そう遠くないうちに折に触れて……どの道、私の記憶は戻っていただろう。それが早くなっただけのことさ』
記憶とは、そういうものなのだと思う。
『むしろね、暁美ほむら。私はワルプルギスの夜が来る前に君の記憶を持つことができて、本当に良かったと思っているよ』
『……』
『たとえ少ない時間の中で足掻くことしかできなくとも、動ける私に後悔は無いさ』
『……やっぱり、貴女は強いのね。私より、ずっと……』
暁美ほむらは寂しげに言った。
『私は君の中にもある、ひとつの部分だよ』
私は微笑んで彼女に言った。
運命の時は、着実に近づいている。
―――――――――――――――――
君は怨霊だ。
どこかで目的を見失いかけた、暴走する怨霊。
恨まずにはその魂を保ちきれない、心細い怨霊。
君は世を恨みすぎて、自らその心と魂を封じ込めた。
「やあ、おはよう」
「おはよー、ほむらちゃん」
私は亡霊だ。
自らを封印した君の代わりに生まれた、空虚な亡霊。
目的や願いなどは全て忘れ、虚ろに楽しく、身勝手に動き回る馬鹿な亡霊。
全てを忘れた君は、私として世に生まれ落ちたのだ。
「おはよう仁美」
「おはようございます! ほむらさん」
「ふふ」
「うふふ」
「? なによー、ほむらも仁美も、二人して」
けれど私は思い出した。
私はもう亡霊ではない。亡霊は、怨霊である君の意志を知ったのだ。
君の意志は再び私の中に生まれた。
君は私だ。
生きる意味のなかった私は、大きな目的を得た。
だから私は君のためなら、なんだってやってやる。
魔法少女は条理を覆す存在だ。
あまりにも高く、堅すぎる条理の壁でも、その前で佇み絶望する必要などない。
一緒に次へ進もう、暁美ほむら。
私がその手を引いてやる。
雲が薄く引き延ばされた青空の下で。
私とマミは弁当を広げて、ランチを始めていた。
まどかとさやかは仁美と一緒に食べているらしい。今日はここへは来ないようだ。
「美味しいかしら?」
「うん、悪くない。この味付けも好みだな」
「ふふ、それは良かったわ」
手を添えて、箸で食べ物を口へ運ぶ。マミはどの作法を取っても行儀の良い女性だ。
マミ自身の意識の問題もあるだろうけど、躾けた両親は素晴らしい人徳者だったに違いないと、私は思っている。
「良い景色だな」
屋上から見下ろせる柵越しの見滝原。
マミは今まで、たった一人でこの街を守り続けてきた。
親を失い、友と決別し、誰から認められるわけでもないのに、彼女は正義の為に魔女と戦い続けてきた。
私ならば出来ただろうか?
きっと無理だったと思う。私ではきっと、そう長くは耐えられない。
「ええ、良い景色でしょう?」
「ああ。本当に、良い景色」
遠くで工事が進んでいる。
上から見下ろすことで初めてわかる、異常な急ピッチの作業だった。
「良い街だ」
この街も無事では済まない。
そう思うと、少しだけ胸がちくりと痛んだ。
「ねえ暁美さん」
「ん?」
「私、暁美さんが居なかったら……もしかしたらもう、ここには居なかったのかもしれないわ」
弱音か。珍しい。
「暁美さんが一緒に居てくれたから。そう言ってくれたから、私は折れずにここまでこれた」
「どうしたんだマミ、急に」
「ふふ、なんでだろ。なんだか急に感謝したくなっちゃった」
「恥ずかしいな?」
「私の本当の気持ちなのよ」
食べ終わった弁当を片づけ、膝の上に置く。
「そんな暁美さんだからこそ、私は信じるわ」
「……」
「ワルプルギスの夜、私は別の場所で戦うことにする……暁美さんの邪魔にならないように……それはちょっと悔しいけれど、自分にできる最大限のことをするつもり」
「……ありがとう、マミ」
悔しいだろう。自分では第一線で戦えないという、その決意は。
「だからお願いね? 暁美さん……見滝原を、お願いね」
その言葉には、さすがの私も胸をズドンとやられる気持ちだった。
「ああ、任せろ」
それでも、笑顔はさらっと作れた。
これほど自分を薄っぺらな存在だと思ったのは、はじめてのことだった。
「さようならー」
「はい、さようなら。気をつけて帰るんだよ」
学校の清潔な廊下を足早に歩いてゆく。
今日も早めの行動を心がけ、適当に魔女退治した後は計画の準備を進めなければならない。
タブレットも目を離せない速度で流れ続けている。そろそろ、私が動かなくてはならない時期に差し掛かっていると言えよう。
「ほむら!」
「お? さやか」
廊下の先から、鞄を手にしたさやかがやってきた。
「魔女退治、私にも手伝わせてよ!」
「……ふむ」
「ほむらの足を引っ張らないようにするから! お願い! 特訓だと思って!」
「……」
夜の公園で仁美と話した内容が頭をよぎる。
さやかは恋を捨て、正義を選んだ。
その正義を貫くためには、力とそれを運用するための十分な経験が必要だ。
これから魔法少女として生きていく彼女には、まだまだ足りていない。
「わかった。それじゃあ一体だけね」
「やった! ありがとう!」
「今日はスケジュールがおしてるからね、早く行くよ」
「うん!」
少し予定が変わってきたが、二人で街へ出ることにした。
工場地帯までやってきて、ようやく魔女の結界を発見した。
魔法少女四人を支えるためのグリーフシードを供給するためには、見滝原ではもう手狭なのだ。
多少の遠征を覚悟しなければならない時期に差し掛かっている。
とはいえ、それもあと三日のことなのだが。
「……ここ」
「ん?」
さやかの手の中で、青いソウルジェムが煌めいている。
「魔女だけど」
「ううん、そうじゃなくて。ここって……」
「……ああ」
いつの日だったか、さやかとまどかを連れてやってきた場所だった。
この建物は、魔女の口づけによって飛び降り自殺を遂げてしまったOLの……まさにそこである。
私達は以前血溜まりの広がっていた場所に立っていたのだ。
「……」
さやかもそれを覚えていた。
彼女は、今や雨に流されて綺麗になった地面を、静かに見つめている。
しかしそれも、僅かな時間のことだった。
「……すぐ近くから反応がある。行こう」
「そうだな」
私から、彼女に言えることはないだろう。
彼女の中で完成されている意志に、私の色を付け加える必要はない。
「5.二列縦隊カットラス」
無数の刃による牽制攻撃が、魔女を傷つけると同時に行く手を阻む。
「さやか、今だ!」
一列につき十本のカットラスは魔女の左右を連続的に掠め、動きを封じている。
さやかはすかさずそこへ飛び込み、無防備な魔女を捉えていた。
「だりゃぁああああッ!」
地を駆け、跳び、魔女が反応するよりも早く突きを叩きこむ。
彗星のように尾を引く一撃は魔女を大きく吹き飛ばし、壁へと叩きつけた。
「素晴らしい」
魔女が衝突してひび割れた壁面から、結界が崩壊してゆく。
はらりはらりと舞い落ちる結界の破片の中に、さやかの姿が映っていた。
「へ」
彼女は満足げな笑顔で、私に親指を立てていた。
「ふ」
私も親指で応える。
さやかに教えたい戦闘技術は多い。
だが、私では彼女に全てを教えることはできないだろう。
さやかが一人で苦戦せずに魔女を倒せるようになるまでには、まだもう少し時間がかかる。
どうかそれまでは杏子やマミの手助けの下、自己の素質を恨まずに努力を重ねていってほしいものだ。