昼休みになると同時に、私は動き出した。
空腹と眠気であえなくダウンしていた身体を覚醒させ、足早に屋上へと向かう。
「ホムさん! ホムさんですよねー!?」
見知らぬ黄色い声が廊下の後ろの方から聞こえたが、私は足早に階段を駆け登った。
さすがに時間がないのだ。勘弁しておくれ……。
「あら、暁美さんおはよう」
「おはようマミ、今日も髪の毛の巻きが綺麗だね」
「うふふ、これ癖っ毛よ暁美さん」
癖っ毛とは。暁美ほむらにとっても衝撃の新事実である。
それにしては綺麗な癖っ毛だと感心しながら、私はベンチに腰を下ろしてうなだれた。
「ど、どうしたの?暁美さん」
「いやね、ちょっと空腹がね……辛いものだ」
つまるところ、電池切れである。
まぐろ缶だけでは限界があったということだ。普段以上に頭も使ったし……。
「あら……だったら遠慮せずに食べちゃいなさい? はい、お弁当」
いつものように、自前とは別に作った弁当を差し出してくれるマミ。
私にとってはいつものような、慣れてしまった厚意だ。
けれど私は知っている。
暁美ほむらは、マミから毎日昼食を振る舞われた経験など無かったのだ。
この一食が、どれだけ奇跡的な確率の上に成り立っているものか。
「ふふ……いつも思うが、私とマミは夫婦みたいだね」
「あら、ふふっ。それもいいかもしれないわね、あなた」
「いただくよマミ。あはは」
雲の多い天気だが、それでも青い空は垣間見えた。
日差しも少ない。今日は絶好の工事日和になるだろう。
「お、二人はもう居たんだね」
「マミさん、こんにちは!」
「あら二人とも、こんにちは」
ちょっと食べている間に、まどかとさやかもやってきたようだ。
「あー、ほむらまたマミさんの弁当食べてる!いいなー! 私も食べたい!」
「ふふん。マミの愛妻弁当は私だけのものだぞ、さやか」
「ずるーい! 美味そー!」
「じゃあ一口だけ分けてあげよう」
「なんでプチトマトなんだよー!」
「あはは」
賑やかで和やかな昼食が始まる。
私達はおかずを取っかえ引っかえにして楽しんだ。
……うむ。昼休みは何も考えず、ただ楽しむに限るな。
「ほむらちゃん、ほむらちゃんは今日は何をするつもりなの?」
「私か?」
卵巻きを口にする最中、特に深い意味もなさそうな顔でまどかは訊ねてきた。
「んー……マジックも連日にやることもないだろうし……今日は遊んで魔女退治して、その後遊ぼうかな?」
「……け、結構、ほむらって遊ぶよね…」
「まあね」
遊びは大切だ。それは私の本心である。
「いやぁ、この時期にっていうか……」
「この時期? テストでも近かったかな」
「いやいやいや! ワルプルギスだよ、ワルプル!」
「あー、ワルね、ワル」
「ワルって……暁美さん……」
おどけて見せてはいるが、もちろん念頭から消えていたはずもない。
むしろ頭の中の半分ほどはそいつで埋まっているくらいだ。
今なお私のタブレット端末を責めるメッセージのように、ワルプルギスの夜に関する懸念事項は後を絶たず浮かんできている。
「んーまぁでも、ワルプルギスの夜対策は特に考えなくても良いんじゃないか?」
「いや、つっても……」
「さやかにマミと杏子、三人が束でかかってきて私を倒せるというのであれば……まぁ、私とワルプルギスの夜との戦いに乱入してきても構わないとは思うのだが」
「うぐっ」
「ふふ、難しいわね……」
「ごめんね。あまり巻き込みたくはないからさ」
もちろん、魔法少女同士の戦いともなれば相性の問題も出てくるだろう。
だが彼女達からすれば、魔法少女としての私の実力は、比べることも烏滸がましいほど遥か雲の上であるという認識が根付いているはずだ。以前の戦いでは、私がそれを植え付けた。
その認識を、是非とも最後までキープしていきたいものだ。
「ワルプルギスの夜が来た際には、皆にはあくまで市民の安全確保のために動いてほしいね」
「……そっか、被害が甚大なのよね」
「ま、それは追々に説明するけどね……ワルプルギスの夜がどこに現れるか、まだわかったものではないから」
本当は大体の目星はついているし、正確な時間もわかっている。
しかし私はそんなこと知らない前提でなくてはならないし、直前の調整でも大して問題はない。
「さやかの治癒魔法は、きっとその時に大いに役立つはずだよ」
「! そうかな」
もちろんだとも。間違いなく私達の中でも一番だろうさ。
「私はワルプルギスの夜と戦うけど、きっとその余波は避けられるものではない。けが人も出るかもしれない……こっそり重傷人の治療にあたるのが良いだろうね」
「……悲しいね」
「……」
まどかの暗い表情だけは、私の何よりのプレッシャーだ。
不穏だし、冷や汗が流れそうになる。特に……暁美ほむらにとっては劇薬に近いだろう。
「……多少の犠牲はつきものさ。代償の無い報酬など無いんだよ」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
……そう、多少の犠牲はつきものだ。
我々は皆、ある程度の苦味を持った現実を受け入れなくてはならない運命にある。
タブレット相手にメッセージ受送信のやりとりを繰り返し、表向きには気楽そうに遊ぶ。
何食わぬ顔で学校生活を満喫し、放課後には遊び、夜中は人知れずに暗躍する。
魔女を狩り、グリーフシードを入手したり。
未来予知じみた力を駆使して資金の工面に追われてみたり。
さやかと仁美の間柄は未だ、ちょっとギクシャクしたような風に見えるが……仁美と恭介はどうなったのだろう?
そこは私の与り知らぬ所であるとはいえ、後日談はやはり気になるものだ。
少なくとも校内で仁美と恭介がいちゃついているようには見えないのだが……。
そんなことを考えながら、深夜の公園で自転車に乗る練習をしている最中の事である。
「……ほむらさん?」
「うおっ」
稽古ごとの帰りで偶然通りかかったのか、仁美が私を見つけたのだった。
片手で電灯に掴まりながら自転車に跨るという、魔法少女活動の次に見られたくない私の姿を。
……記憶を消す弾丸の安全性が確立されているならば、容赦なく二発は仁美に撃ち込んでいるところだったな。
しかし今は咳払いで頑張ってごまかすことにしよう。
「ひ……仁美は稽古の帰りか、大変だな」
「え、ええ……ほむらさんは?」
さてこれは何に見えるかな。自転車にまたがって、柱に手を添えて。うん……。
「……自転車の練習」
「そ、そうですわね……」
言い訳なんてできるものか、こんなもん。
「あんまり、乗れないことを他人に知られたくもなかったんだけどなぁ」
「……申し訳ございません、ここは偶然通りかかったのですが」
「ううん、仁美は何も悪くないよ。私が気にしなければいいだけの話だからね」
格好悪いことは好きではないが、仕方のないことだってある。
実際、乗れないものは乗れないのだから。
「そうですか……ほむらさんの入院生活、やっぱりハンデだったのですね」
「ああ。今でこそ落ちついて、何の反動か健康優良児になったけど……ちょっと前まではベッドの上の華奢な女だったんだよ」
「本当だったんですね」
「もちろんさ。だから自転車の乗り方も覚えられなかった」
夜のベンチに私と仁美が並んでいる。
温かい紅茶家伝を両手の中に握り、時々喉を鳴らしながら、滅多にできない二人きりの会話を楽しんでいた。
「ここに転入するまでは人付き合いのなんたるかもわからなかったけれど……うん。見滝原が良い学校で助かったよ」
「うふふ。まどかさんにさやかさんのおかげでしょうか?」
「君のおかげでもあるとも、仁美」
「あら、ふふふ。嬉しいわ」
彼女は。
志筑仁美は、上条恭介に対して密かに想いを寄せていた女性だ。
親友であるさやかとは今くらいの時期に衝突し、なんというか……古風な告白による白兵戦を行うのだが、結果としてさやかのリタイアで全てが決着している。
さやかがリタイアした時間では……はっきり言って、あまり良い結末が迎えられていない。
さやかはまどかの平穏に大きく関わっている。もちろん、上条恭介とも。
仁美に魔法少女としての素質は無いが、彼女がこの時間において見滝原の魔法少女事情に大きく関わっていることは間違いない。
「ところで仁美。最近、上条恭介という男子の方をやけにチラチラと窺っているようだが……」
「!」
私に恋愛関係の流れを制御することはできない。
それでも、状況を見守るくらいはやっておきたい。
さやかのためにも、仁美のためにも。
おせっかいだろうか? それでもだ。
「仁美は、彼の事が気になっているのかな」
「……はい」
「けど、どこか気が進まない?」
「ふふ……ほむらさんにはお見通しですのね」
「仁美の顔に書いてあるものな」
「あらやだ」
仁美は上品に小さく笑った。
しかし、冗談もそこそこに。
「……上条くんに想いを伝えようと、思っていましたの」
「ふむ、良いね」
「けど……やっぱり良くないのかな、と」
仁美は無理に微笑んでいるようだった。
「何故良くない? 自分の気持ちに正直に向き合っているじゃないか」
「ええ、正直に向き合おうと思いましたの、けれど……やっぱりやめておこうかと思いまして」
「……」
それは……仁美。
……望んだ結末なのか。
「さやかの事は気にするな、仁美」
「!」
唐突に出された名前に反応して、仁美の目が大きく開いた。
「……ほむらさん、さやかさんから相談を?」
「違う」
「では」
「仁美、君はさやかに告げたのだろう?」
「……そうです、けれど」
「じゃあ、さやかは何と言ったんだ」
仁美は手元の小さなペットボトルをくしゃりとへこませた。
「……“私は伝えない”、と」
「伝えない、か」
「“一日も待つ必要ない、私は良い”って。そう言ったんですよ?」
さやからしいといえば、らしいね。
「なのにさやかさんは上条君の事を、命をかけてもいいくらい好きって! ならどうして身を引きますの!? どうしてお願いなんて!?」
「……」
堰を切ったように言葉を繰り出す仁美は、そのうちに涙を流していた。
怒りながら泣く仁美は、次第に口から吐き出す言葉も形をあやふやに、ぐずり、しゃくり上げ、そして言葉を失った。
膝に落ちた雫を薄手のスカーフで拭い、私は彼女の頭を撫でた。
「うっく……うう……私、どうすれば……」
「……悩んでいたんだね」
「私……!」
また膝に涙が落ちる。その雫を私は拭う。
……仁美は。さやかもまどかとも、随分前から知りあった仲だったらしい。
上条恭介に思いを寄せる幼馴染みのさやかを間近で見て、それでも上条恭介を想っていた。
大切な友達に宣戦布告をしてまで譲れなかった恋慕を、仁美はそれまでずっと抱え隠し続けてきたのである。
口火を切る覚悟は相当なものであっただろう。
それこそ……魔女の口づけを受けるほどに。溜め込むほどに苦悩したに違いない。
さやかだけではない。彼女だって、大いに苦悩していたのだ。
「私っ……さやかさんの気持ち、全然知らなくて……!」
しかしその苦悩を乗り越えた先で、仁美はさやかの覚悟を見てしまったのだろう。
幼い頃から眺め続けて抱いた強い恋心すらも二の次に回す、さやかの苦悩。
好きだからこそ譲る、彼女の本当の気持ち。
魔法少女については話されなかったに違いない。けど、さやかの覚悟は見えたはずだ。
真っ直ぐな彼女からは、きっとそれが伝わってきたはず。
何より、二人の関係は……それが手に取るようにわかるほどには、長いものだから。
「それでもさやかは君に託したんだよ、仁美」
「うぐっ……ううっ……!」
「さやかの気持ちさえ解っていれば、その権利は君が譲り受けてもいいのさ」
さやかも仁美も、私は二人の恋路の果てを何度も見てきた。
私は恋など、よく解らないが。
きっと、これがさやかと仁美の、最も良い恋路であるのだと。そう思った。
傍らに置いていたミルクティーは、仁美が泣き止む頃にはすっかり冷めていた。
「ぐすっ……お見苦しいところを」
「良いさ。泣くだけ泣いて……それでいいよ」
仁美は皺のないハンカチで目の潤みを丁寧に拭い、背筋を張ってみせた。
「……私、決めました。……上条君に、想いを伝えます」
「そう、それでいい」
魔法少女でなくとも、私達くらいの子供にだって願望を叶える権利はあって然るべきだ。
私は魔法少女であるからといって、さやかに加担することはしない。
だって、二人とも友達なのだから。
さやかがその機会を手放し、逆に仁美を祝福するというのであれば、私だって仁美を応援するし、祝福するとも。
「……やっぱり、ほむらさんは不思議な方ですね」
「ん? 私か?」
「ええ……私達よりもずっと大人で……まるで、全てを知っているような」
「ははは、全てを知っている、か」
仁美は鋭いな。まどか以外は皆鋭いけど。仁美は特に、鋭い気がする。
まずいね。これ以上仁美と話していると、思わぬ所でボロを出してしまいそうだ。
それは大義に響くだろう。
であれば、ここはさっさと退散させてもらおう。
ミステリアスを暴かれることほど、格好悪いこともないだろうから。
「じゃ、私は帰るよ……もう遅いから、仁美も気をつけてお帰り」
「はい! ……ほむらさん、ありがとうございます」
「では、また学校で! じゃあね仁美」
「はい、また――」
あ、あれっ、うわそうだ、この自転車まだ全然……ぁああああ、ハンドルハンドル、ブレーキ? あああっ……!
「うわッ」
*ガシャーン*
「……あらー」