ジジ抜きの余り物
――お父さん………お母さん……
――…モモ……
――待ってよ、置いてかないでよ…アタシを
――いつか、絶対にみんなで、笑える日が……
「……!」
杏子が意識を取り戻すと、まず見慣れない天井が目に入り、次に慣れない生活臭が鼻腔を擽った。
未知の場所。未知の部屋。夢見の悪さから急転直下した状況に、彼女の頭は大いに混乱している。
「ホテル、じゃない……? ここは、一体……?」
今杏子がいる部屋は、いつも間借りしているホテルの一室ではない。
では、ここはどこなのか。何故自分がここに、それもベッドの上で眠っているのか。
それは、ベッドのすぐ下に目を向ければ容易に理解できた。
「……え!?」
ベッドの側で、カーペットを布団代わりにでもするように、美樹さやかが眠っていたのである。
最低限のブランケットだけを身体に巻き付けたまま、それでも心地は悪くなさそうに穏やかな寝息を立てている。
「こ、こいつあの、バーガー屋にいたうるさい奴……! なんで隣……え!? ていうかアタシ、どうして……」
「んぅ~……うるせぇ~……何よぉ、一体……」
杏子が狼狽えているうちに、さやかは大儀そうに目を覚ました。
「あ」
「……ここは何だ」
そして、二人の目が合う。
一人は最大限警戒し、もうひとりは寝ぼけ眼を呑気に擦りながら。
「あんた、起きたんだ……良かった」
「答えろよ! ここどこだよ、なんでアタシがここにいる」
「はあ……助けてやった上に私の家まで運んでやったのに、そんな言い方はないでしょ」
「助、……なに?」
怪訝そうにしている杏子の様子に、さやかは思わずため息をついた。
「覚えてない? 昨日、私すっごいびっくりしたんだからね」
「昨日……あ、昨日……って……」
「せっかく魔法少女になったんだから、ってことで、ソウルジェムを持ちながら歩いてたらさ」
――気安く呼ばないで頂戴
「川に変なものがぷかぷか浮いてるなあって思って見てみたら」
――惨めな姿ね、佐倉杏子
「ボロボロになったあんたが居たってわけ。……死ぬほど驚いたんだよ? 死体かと思って、涙も出ちゃったくらいでさ、って……」
――私はいつか、そんな貴女を殺したいと思っていたのよ
「うっ、ぅあ……ぁ……」
「! ご、ごめん、思い出したくないよね、あんな事……」
杏子は昨日の出来事を思い出した途端に、目に見えて狼狽した。
全身が震え、歯が合わなくなる。
「な、なんで……なんであんな……」
「ま、まぁ魔女だって強いの弱いの色々あるんだろうね……えっと、その、私も気をつけないといけないっていうかな……」
「ぅう……うぐぐ……」
「あーだから……もう、大丈夫だって」
すっかり憔悴しきった杏子を、さやかは優しく抱きすくめた。
直に触れ合うと、冗談では作れないような震えが直に伝わってくる。よほどの思いをしたに違いない。
さやかは同情の念をより強くし、ゆっくりと杏子の背を撫で擦った。
「あんたは生きてるから…生きてさえいれば大丈夫なんだから、ね?」
子供をあやすように。泣き止むように。
それでも、杏子は震えたまま、心ここにあらずと言った様子で、何も語ろうとはしなかった。
(震えてる……よほど怖い、強い魔女が相手だったのかな。……まさか、例のワルプルギス? いやいや、まだのはずだよね……)
何故杏子があのような目に遭っていたのか。
一体、その時に何があったのか。さやかは多くの疑問に悩まされたが、視界の隅に見えた時計の針は、既に登校の時刻に迫っていた。
ワトソンとのご飯を済ませ、マジック用の小道具のチェックも完了し、家を出て、特に語るべきこともなく、いつも通りに学校へ到着した。
昨日はちょっとしたプチ記憶喪失を味わったが、そんなものは授業中にだって起こりうる現象なのだ。深く気にする必要はないだろう。
今もこうして周りを見回してみれば、机に突っ伏して眠っている生徒も何人かいる。
中には端末を片手に持ったまま眠りこけているような子だって、ちらほらと数えられる程だ。
つまりこういった気の緩みこそが、学校生活というものなのだろう。
楽しく、充実していて……だからこそ、あっという間に過ぎ去ってしまう。
もちろん、中には暑いストーブの前で耐えている心持ちの生徒だっているだろうとは思う。このクラスは穏やかだが、それに馴染めない子だっているはずだ。それは否定しない。
けれど私は間違いなく、今のこのクラスや学校生活を心底楽しいと感じているのだ。
……ほら。こうして席についているだけでも、クラスの皆が声をかけてくれる。
「おはよう、ほむらちゃん」
「おはようまどか。そのリボン似合ってるね」
「え、えへへ、ありがとう……でも最近は、いつも付けてるよう……」
鹿目まどか。因果がすごいらしい、おっとりぼんやりした優しい子。
「おはようございます、ほむらさん」
「やあ仁美おはよう、口元に海苔がついてるよ」
「えっ」
「冗談だよ、ごめんね」
「も、もう、ひどいですわ」
志筑仁美。育ちの良さそうな、上品でユーモラスな子。
そして美樹さやか……は、まだ来てないみたいだ。
ふむ、まぁ仕方あるまい。ともあれ、私にとって仲のいい友達といえば、彼女たち三人になるのだと思うし、彼女たちだって、きっとそれを認めてくれるはずだ。
「暁美ー、この間の問題答え教えてくれよっ」
「んー? ……ふふん、もうギブアップか。ということは、君の賭け金は私のものになるということだが」
「ぐっ……ひ、ヒントくれ!」
「じゃーあー……んー、そうだな、二百円くれたらヒントをあげよう」
「くそっ! もってけえ!」
「よしよし、ヒントは“コップの裏”だよ。ふふ、次の月曜までに答えられなければ私に千円だ」
もちろん、他にも男と女、分け隔てなく話しかけてくる。
みんな優しいし、面白い。
学校のわからない決まりや場所なんかは、馬鹿にしたりせずちゃんと教えてくれる。
穏やかで、なんとも退屈のしない……かけがえのない、私の日常だ。
「おっはよーう!」
おっと。ようやくさやかも登場だ。
やはり彼女がいなければ、この教室は賑やかにならないな。
「あ、さやかちゃん! おはよう。今朝居なかったね、どうしたの?」
「ごめんなさい、先に来てしまいましたわ」
「ううん、こっちも何も連絡入れずにごめんね。色々あってさ」
ちらりと、彼女の目がこちらに向く。
彼女の手には、真新しい指輪がはめられていた。
そして軽い秘密のウインク。
どうやら、無事に契約は済ませたようである。
「おはよう、さやか。……調子は、どうかな」
「んーんー……絶好調!」
胸を張って、爛々と目を輝かせて。
「……って、感じかな? へへ」
さやかは、屈託のない笑顔を咲かせてみせた。
彼女は昨日のうちに契約し、魔法少女となったのである。
「そっか。それは、良い事だな」
私は、そんな彼女の踏み出した新たな一歩を、心から祝福したい。
「……あー、ねえほむら。ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
「ん?」
「えっとね……」
さやかが何かを告げる前に、ガラスの扉が開かれた。
「はい静かにー、席についてー」
先生の登場である。
教鞭を握りしめた先生の表情は目に見えて固く、厳しい。
また失恋でもしたのだろう。いつもはまぁそこそこ教え上手で、みんなから好かれている先生なのだが……機嫌が悪いと非常に指名が厳しくなるのが玉に瑕である。
私も最初のうちはなかなか当てられたものだ。
こういう状態の時は、じっと黙っておくに限る。
「あー……おっけ、じゃあ次の休み時間に!」
「良いよ、その時にね」
さやかは私に何か聞きたいことでもあるのだろうか。
昼休みにしっかりと時間を取って聞きたいことではないようなので、そこまで大事な事ではないのだろう。
授業が始まった。
学校生活は楽しい。それはもちろん真実である。
が、難しいことに、授業が退屈であるかどうかはまた別問題であった。
既視感と退屈感しかない授業は、先生方には申し訳ないのだが、まともに受ける気にはなれない。
(ふん、ふん)
なので、この時間はいつも、別の作業や練習に労を費やしている。
今日は右手の上に百円を乗せ、コインロールを練習する日であった。
退屈ではある。しかし、不満はない日常だ。
音はなくとも、自然と鼻歌が交じるかのよう。
『あ、そういやテレパシー使えたんだっけ』
『む』
教師の声を遮るように、頭の中にさやかの声が届いた。
こうしてマミ以外の声を授業中に聞くというのも、どこか新鮮な気分である。
『そうだったな。魔法少女になった君は、自発的にテレパシーを使えるようになったんだっけ』
『へへ。いやー、便利な世の中になったものですなあ』
教師の話はつらつらと続くが、私は意識を教室の後ろに向けることにした。
『さて、話を聞こうか』
『うん……まぁ、昨日契約する前に色々あってさ』
『ほう』
『杏子って奴に会ったんだけどさ。えっと、知ってるのかな。その子って、ほむらの知り合い?』
まさか、その名が出るとは思わなかった。
思わずコインロールが止まってしまう。
『……ああ。知り合いだよ』
だが、杏子がさやかと会った?
一体、どういうことなのだろう。