「……体が重い」
鉛のような身体をベッドから引き剥がし、虫のように這い出る。
周りを見回したところ、どうやらここは病院の個室のようである。
私は、入院していたらしい。
理由は定かでないが、今現在の劣悪な体調を思えば、それも納得のいくことだった。
それにしても……。
「……なんて酷い視界だ、クソッ」
はっきりと目が覚めたというのにも関わらず、視力が悪すぎる。
まるで世界全てがぼやけているかのようだ。
このままでは魔女と戦って殺される前に、やってくる車にさえ気付かず事故死してしまいかねない。
これも入院の影響だろうか?
早急に回復しなければ……。
「治るよな……?」
指輪を楕円形のソウルジェム形態に戻し、鏡の前に立つ。
鏡に映る黒髪であろう女は、未だにぼやけていた。
「治療、できてくれよ」
魔力を込めて、視力を強化。
魔法少女の技としてはポピュラーであろう、傷を癒やす回復魔法の応用だ。
幸い、仄かな紫光が収まると、私の視界は非常にクリアなものへと変わっていた。
治療成功である。
しかし……。
「……これが私か」
ぼさぼさの長い黒髪。
癖となっているのか、顔に染み付いている陰鬱な表情。
鮮明さの蘇った鏡には、名も知らぬ……どこか情けない顔つきの、陰気な私がいた。
後ろで結ばれた二つのおさげが根暗な雰囲気を纏っていたので、思わず反射的にそれを解く。
強い癖は取れなかったものの、そこそこ見栄えの良い黒髪のロングにはなってくれた。
うむ。髪型は、こちらの方がきっと、格好良いはずだ。
……しかし。
「……誰だ、私は」
怪訝そうな表情を浮かべるこの女は一体、誰なのだろうか。
自分の顔ではある。だが、呼び名はわからない。
……名前を知りたい。
私は入り口の戸を開き、扉の脇に掲げられた名札を見た。
「……
暁美ほむら。
顔の印象に反して、暖色系の雰囲気を感じる、どこか強そうな名前だ。
……暁美ほむら。
私は、今までどう育ったのだろう。
……思い出せない。
私は……。
「…私は、魔法少女だ」
私は魔法が使える。今も治療は成功したし、それは間違いないだろう。
魔女はいくつも倒してきた……はずだ。
記憶はないが、薄っすらとそのような……いざ魔女と直面しても、焦ることなくやり合うだけの自信はある。
それに、おそらく、かなり長い間戦ってきた、ような……。
……だが、肝心の詳細はどうしても、思い出せない。
「チッ、魔女との戦いで記憶がトんだのか……?」
戦闘中に油断でもしたのだろうか。
頭を打ったのか、重傷を負って入院……といったところが自然だが、それも定かではない。
……ここに立っていても仕方ない。自分の病室に戻ろう。
「……記憶喪失」
壁には丸のつけられたカレンダーがある。
テーブルには知らない学校の入学案内。
それらを照らし合わせてみると、どうやら私は近々、見滝原中学とやらに転入する予定らしい。
学年は中学二年。年齢は、十四歳だ。
通い慣れた学校ではないらしいので、助かった。タイミングは奇跡的と言っても良いだろう。
これなら記憶喪失であっても、以前の私を気にせずに振る舞うことができるから。
ひとまず、転入に際して心配はいらないか。
「……アパートの案内……家族の予定……ふうん、私はこの歳で一人暮らしか」
そしてどうも、親はこの街にいないらしい。
二人とも遠くの地で、私の治療費のためにがんばってくれているようだ。
まあ、私が両親を覚えていない以上、正直なところ居ても困るだけなのでありがたい。
それに門限などがなければ、時間を気にせずに魔女を狩れる。
状況に不明瞭な部分は多いものの、魔法少女としては悪くない環境だ。
「……そうだ。魔法少女の力を確認しなくては」
ふと思いつき、私はソウルジェムの力を解放した。
魔法少女への変身。
身体が紫の光に包まれ、真の力がみなぎってくる。
「そう、この感覚だ」
光が収束すると、私はどこか馴染みのある姿へと変化していた。
左手には銀色の小盾。
感覚として理解できる。これが私の、魔法少女としての最大の武器なのだ。
「止める」
*tick*
私の盾は、私以外の全ての時間を止められる。
窓際を見やれば、そこで揺れていたカーテンは完全に動きを停止していた。
この世界で動けるのは、私と私に触れていたものだけ。
*tack*
そして能力を解除すれば元通り。
カーテンは元通り揺れ、穏やかな風は病室の篭った空気を換気する。
この時間停止能力を駆使することで、私は何体もの魔女を葬り続けてきた……はずだ。
「……そして」
フルーツの盛り合わせの隣に置かれた果物ナイフを手に取る。
それを盾に近づけ、収納する。
私の盾は、シャッターのように開くことができ、そこに物を保管することが可能だ。
内容量に際限は無い。いや、あるのかもしれないが、普通に使う限りにおいては、気にするレベルではないのだろう。
時を止めて、無限の武器で戦う。それがこの盾の力だ。
そして左手が盾ならば、右手は刃物だろうか。
ナイフ、剣……なんでもいい。きっとどれでも扱える。
「……なるほど、思い出してきたぞ。私というものを」
魔法少女になる際の願い事すら忘れてしまったが、まぁそれはいい。
どうせ後から思い出すだろう。
それより、私の記憶に微かに残るのは、無数の魔女との戦いだ。
私はかつて、数え切れないほどの魔女と戦い続けてきた。
ならば、記憶を失った今であろうと、私は戦おうじゃないか。
私の願いは、きっとそこに関わっているかもしれないから。
「とにかく、グリーフシードを集めなくてはならないな。私の体は、どうにも燃費が悪そうだし」
魔力を回復するためには、魔女が落とすグリーフシードが必要になる。
そして私の時間停止の魔法は、長時間使っていると魔力がゴリゴリ減ってしまう。
上手くやりくりして、グリーフシードの貯蓄を作りたいところだ。
しかも、盾の中身は先程収納した果物ナイフを除けば空っぽだった。
どうも直近の魔女との戦いで、中の全てを使い尽くしてしまったらしい。
故に、新たな武器が必要だ。
……やることは多い。
目標ができた以上、大人しく入院し続けている暇はないな。
早速、動くとしよう。
それから数日が経過した。
魔法少女としての活動は順調そのものである。
病院においても、病後の経過が著しく順調であることを除けば、訝しまれている様子もない。
そんな私は今、魔女の結界で飛び回っていた。
「ふっ」
結界特有の目に悪い景色の中で、私は下から浮かび上がり続ける巨大風船を足場に、下へ下へと降りてゆく。
『PuuUuuUU……』
地面に待ち構えているのは……魔女。
奴を仮に、風船の魔女とでも名付けようか。
魔女は捻れたバルーンアートの体から、無尽蔵に風船を吐き出している。
風船には大きな目玉があり、上空の私に狙いをつけては、軌道修正しながら迫ってくる。
無尽蔵にやってくる風船の浮力に押し負けてしまえば、空の奈落へと消えてしまうだろう。
空を見上げれば、マーブル模様のどす黒い空が渦巻いている。あの果てに運ばれた時、一体どのような死に方をするのだか……想像するだけでも恐ろしいものだ。
相も変わらず、魔女の結界は悪趣味な世界観である。
が……。
「風船自体は、私も好きだよ」
『PuUU?』
*tick*
時間を止めて、一気に風船の群衆をすり抜け、地面に舞い降りる。
そして盾の中からいくつかの武器を取り出し、一本一本投げ放ってゆく。
*tack*
「ついつい割りたくなるからね」
『……!?』
時間停止を解除すると、四方八方に配置されていたナイフが一斉に魔女へと襲いかかった。
『PuUUu……uuuUu……』
風船と刃物だ。結果は言うまでも無いだろう。
残念ながら、この魔女は私との相性が最悪だったのだ。
『Uu……』
「悪いね」
無数の刺し傷に原型を保つことを諦めた魔女が、グリーフシードとなってアスファルトに落ちる。
魔女が消滅すれば、そいつが構築していた結界も解除される。
辺りは何事もなかったかのように、閑静な住宅街へと戻っていた。
「よし、グリーフシードのストックが増えた。これで余裕も出てきたかな」
連戦連勝だ。
魔女を探し、会えば勝つ。
時を止め刃物を放つ戦法は下準備が面倒だけど、負ける気はしない。
どうやら私は、随分と強い魔法少女らしい。
「……しかし、そんな私の記憶すら奪うような魔女も、この辺りにはいるかもしれない……油断はできないな」
私はグリーフシードを蹴り上げて掴み取り、その場を立ち去った。
「にゃあ」
「ん?」
街路樹の陰から仔猫が顔を出した。
黒い毛並みの、小さな猫である。
この程度の体格だとまだ親が必要であろうに、はぐれたのだろうか。
「可愛いな……よしよし」
「なんなん」
喉を撫でてやると、子猫は目を細めて喜んだ。
エサをやらずに人に懐く野良猫とは珍しい。
「……そうだ、ようし猫ちゃん、私の右手を見ててね」
「なん?」
*tick*
せっかくだ。たっぷり遊んであげるとしよう。
*tack*
「な~ん!」
「ほぅら、ねこじゃらしー」
「なんなんな~ん!」
時間を止めて、路肩のねこじゃらしを拝借した。
突然の遊び道具の出現に、子猫もご機嫌のようだ。
遊びたい盛りの子猫は懸命に草を追いかけ回し、息を荒くして転がり跳ねる。
「あー、猫可愛いなぁ……」
誰かが私を羨んでいる。
路面をトラックが通り過ぎる。
……ふむ、そうだ。
せっかくだし、この子猫は私が飼うことにしよう。
「君も、一人じゃ寂しいだろう?」
「なーん」
よし、それじゃあ決まりだな。
「これからよろしくね」
「なん」
うむ、素直でよろしい。
小猫が病院の中庭の片隅で暮らし始めても、私の生活サイクルにはさほど大きな変化はなかった。
病室を抜け出し、いつものように魔女を狩る。
見知らぬ街を探るように歩く。
そうしているうちに、また一日は終わるのだ。
ベッドに入り、薄暗い白の天井を見上げても、何の想像も掻き立ててはくれない。
それはまるで、空虚でまっさらな私のよう。
「魔法少女、暁美ほむら……」
未だ、私の頭の中には靄がかかっている。
楽観的に記憶が戻るだろうと踏んでいたのに、思い出せない事は多い。
「……唯一覚えている魔法少女関連の記憶まで、曖昧だしな」
机の上に並べたグリーフシードを見やる。
グリーフシードはソウルジェムの穢れを吸い取ってくれる、魔法少女にとっての必須アイテムだ。
しかしグリーフシードの穢れを放置していると、孵化し……再び魔女が現れてしまう。
机の上にあるグリーフシードはそのうち二個がかなり黒ずんで、使用できない状態にあった。
「どうやって処理するんだっけ……グリーフシード……」
曖昧な記憶を探るのは、闇夜の大海に漕ぎ出す行為にも等しい。
億劫な意識に呑まれた私は、比較的速やかに目を閉じたのだった。