椿島女学院は、明治時代、町外れに作られた寺を思わせるような木造の校舎を、丁寧に修繕しながら平成の世まで学び舎として使い続けてきた学校だ。
校舎の作りも、建築されたのが明治という時代を考えれば必要以上にしっかりしていて、現代の建築基準法に照らし合わせて見ても外観を損ねるほどの改築をする必要はないほどだった。
そうした学び舎で学生達が学んでいるのは、普通の学業以外に一つ。
武術。
世の東西を問わず、あらゆる武術を学び、実践することが許された治外法権の学校だ。
設立を許可した明治政府になんの思惑があったのかはわからない。これから和魂洋才を旨として国を盛り上げていこうとする時代に逆行したものだが認可され、現代にまで生き残っていた。
結果として、古流武術の文化の保存場所としても働き、本来ならなくなっていたであろう武術の命脈は保たれた。さらに、今も毎年少なくない人数の女子達が、この学び舎の門を叩いていたのだから、時の明治政府の判断は間違っていなかったのだろう。
ともかくそんな椿島女学院だが、陽も傾きかけた放課後の今、とある一つの厄介ごとが起きていた。
それもいつものことなのだが。
校内。生徒会室前の長く幅の広い廊下には、総勢十五名の生徒達が並んでいた。
甲子親衛隊。
生徒会長、甲子真里亞の子飼いの部下であり、甲子班と呼ばれる派閥の中核メンバーだ。いずれも、ひとかどの武芸者であり、彼女達全員、目録をうけてもおかしくはない。
持つ獲物も様々で、刀、短刀、素槍、薙刀はもちろん、鎌槍、杖、棒、鎌、はてはレイピア、西洋剣、青竜刀に三節棍など、とにかくバリエーションに富んでいる。
「甲子様、本当にあいつがここまでくると思ってるのかしら」
鎖鎌を手にした三つ編みおさげの女生徒が、ふとそんな言葉をもらす。
一階には、彼女たちに比べれば武術の技量は劣るものの、人数にしてこの廊下に並ぶ人数の倍以上である四十名が、たった一人を待ち受けていた。
いかな達人でも、その人数を前にしては圧殺される他はない。数は力であり、それは武術の世界においても常識だった。
「まず無理。いくら御留流でも厳しいって。あれを抜けて来られるのなんて、それこそお亡くなりになった上原師範か初見宗家ぐらいのものよ。そんな化け物がそうそういるわけがないわ」
レイピアを腰に下げた長身で針金のように細い生徒が、その可能性を否定する。たかだか十七のガキがそんな達人であるはずがない。現代は、力学的アプローチもされていて、昔よりも技術の上達は早く、それ故に技術的な差は生まれにくい。ちょっと腕が立つぐらいで周囲との技の差が明確になる時代とは違うのだ。
「そう、そうよね。だいたい御留流なんていって技術体系が優れていたって、使う人間も優れているなんてありえないもの」
槍の生徒は強く同意する。
だがそこには確信めいたものはなく、むしろどこか自信なさげで、不安な心中を糊塗するかのようだった。
親衛隊が待ち受ける二階の階段へと続く廊下には、確かに各々獲物を持った生徒たちが一人の生徒の前に立ちはだかっていた。
その生徒は、ため息を一つついてその怜悧さをたたえた美貌の眉間に皺を寄せる。
長く艶やかな黒髪と、スリムだが正中線のたった美しい姿勢が似合う彼女の名は、江都芳美という。
江戸、紀州、尾張、水戸の徳川家にのみ伝授を許された名も無き古流武術――世には御留流、として知られている武術の皆伝者だ。少し前、とある事情により椿島女学院の二学年に転校してきた。
「貴女達、そこを退いてはくれませんか? 私は手荒なことは望みません」
いささか面倒臭そうな顔つきで、目前に居並ぶ生徒達にむかって言い放った。
「ふざけるな! いくぞ、みんな!」
先頭に立つ生徒が叫ぶ。
全員が一斉に襲いかかった。
「いぇああああっ!」
その廊下の端、階段の下から裂帛の気合と叫び声が聞こえてきて、同時に幾人かの人間が倒れ伏した音が続く。
階下での騒動の音が耳に入るや否や、廊下に居並ぶ彼女達は一斉に獲物を構えた。
芳美は、階下の邪魔な奴らを全員投げ捨て、階段を駆け上がってやってきた。
着ている制服の端々が切られてはいるが、傷一つついていない。
頬に幾本かの髪の毛が張り付いたその顔は、怜悧さを漂わせた容貌にある種の妖艶さをはらませている。
「まったく、あの方は世話をかけさせます」
ちっと舌打ちをして、小さく呟く。
その表情は、怒りではなく焦り、あるいは苛立ちに満ちていた。眼前に居並ぶ生徒たちなど、彼女の眼中にはない。
「あなた達! そこを退きなさい!」
叫んだ。
低めだがよく通る美しい声が、廊下の反対側の生徒会室入口の扉まで届く。
「うるさい! 江都芳美! 我らが生徒会長は、あなたのような新参者の無頼漢に優様をお任せしないと仰った!」
女生徒たちの先頭に立つ、大太刀を肩に乗せたおかっぱ頭が、彼女を左手で指差して宣言していた。
だが、芳美はそんな言葉を無視して、す、と氷上のフィギュアスケーターのように滑らかに進み、おかっぱ頭の目前に迫り、突き出された左手を取った。
彼女に息を飲む間すら与えない。
すぐさま自分の背後に無造作に投げ下ろした。
おかっぱはうめき声すらあげず、背を強かに打って仰向けに気絶した。
それが開始の合図となった。
「きえぇぇっ!」
「いっ!」
おかっぱの背後にいた薙刀と棍が同時に足元へ攻撃を仕掛ける。
「ふっ!」
芳美は、その二つの獲物の上に乗って二人の背後へ跳躍する。
「足譚だと!」
誰ともなく叫んだ。
今、芳美がみせたものは、信濃に生まれ、廻国修行の末、夢想願流を編み出した開祖の松林永吉(後の蝙也斎)にしかなしえなかったという伝説の技だ。
今では失われて久しい夢想願流には、相手の太刀を足で踏み落とす足譚という術があるが、開祖は踏み落とすどころか、踏み台にして軒に袴の裾が届くほどに高く跳んだという。
そして、その逸話の再現をやってのけた芳美は、背後から薙刀と棍使いの二人の脇腹に蹴りを入れると、そのまま倒れ込んだ。
「なぜ江都のお前がそれを使える! 答えろ!」
また別の誰かが声をあげた。
「似たような技なら、タイ捨流にもあるわ。これがなにも夢想願流だけの技とは思わない事ね」
芳美は、そう言ってすたすたと甲子親衛隊の中へ、散歩でもするかのように歩いていく。
「のおおおおっ!」
ロングソードを突き立ててくるのを右横に避けて右肩を掴み、回転させて背中を押し、襲いかかろうとする青竜刀にぶつける。
今度は槍が背後から背中を狙ってくるが、まるで背中に目がついてるかのように大きく屈んだ。そして、低いその姿勢のまま槍使いの懐に飛び込み、背負い投げで待ち構えてる親衛隊へとぶん投げる。
三節棍が飛びかかってきた。
三本の棒を鎖で繋いだその武器は、普通の武器と違って合気で合わせづらい。鎖には関節がなく、つかみどころがないためだ。力点と作用点を作れないのである。
だが、それも相手が跳躍してきたなら話は別だ。三節棍の間合の内側に入って、着地寸前の足を払い尻餅をつかせる。
(ああもう! 面倒臭いですね。無傷ですまさなければ、物の数でもないのですが)
芳美は、相手の未熟さにイラつきを感じ始めていた。ここまで実力の差を見せつければ、普通ならばひくものだが、そこは流石の親衛隊というべきなのだろうか。それともただの盆暗か。どちらにしても士気が高い。
親衛隊達は、それを見ると彼女に襲いかかるのをやめて、間合いを図りはじめた。芳美が、いよいよ持って只者ではないことをわかったのだ。ともすれば、この学校で武術を教えている師範クラスかそれ以上の腕前であり、無闇に攻撃してもすべていなされるだろうことをようやく理解した。
芳美は、きっと親衛隊の面々を睥睨して、
「貴女達! まだ実力の差が理解できないのですか! 貴女達ではどんなに数で押し込もうとも、ここが廊下である以上私を倒すことは不可能です! そこをお退きなさい!」
大声で叱りつけた。
「これ以上は貴女達を無傷で制圧する保証はしません! それでも私を取り押さえたいのなら、腕の一本は覚悟なさい!」
そこまで言われて、親衛隊はようやく壁際に立って道を開けた。ただ一人、隊長と目される剣術家を除いて。
「あなたも!」
「うるさい! おめおめと貴様を通しては、親衛隊隊長の名折れ!」
刀をトンボに構えて、
「ええええええええええっ!」
どどど、と駆け寄ってくるあたり、薬丸自顕流か。
「自顕ですか」
初太刀を外せ、と言われる自顕流だ。示現ならばそうはいかないが。
「猪武者め」
侮蔑の言葉を紡ぐ。
足を止めると同時に振り下ろされる初太刀!
芳美は、恐れることなく懐に飛び込み、そのまま無刀取りで投げ飛ばす。
自顕流は、芳美に浴びせるはずだった太刀の勢いそのまま芳美の後ろに吹っ飛んでいく。
そして、何もなかったかのように芳美は廊下を進んで、突き当たりにある生徒会室のドアを開け放った。