灰色騎士と黒兎 作:こげ茶
クロスベルといえば、やっぱりあそこに行かねば…。
小話1:調理実習のお話
『―――――リィン教官』
アルティナは小さな、けれども丁寧に包まれた紙を持って夕暮れの屋上に立っていた。
屋上から下校する生徒たちを見守っていたのは、黒髪の青年教官で――――。
青年は声に振り返ると、わずかに驚いたような素振りの後に笑顔を見せた。
『アルティナ。まだ残っていたのか? 熱心なのはいいが、無理はするなよ』
『いえ。少々手間取りましたが、熱心というほどではありません』
駆け寄ったアルティナに、青年は何気なくその頭を撫で。
アルティナは特に何を言うでもなく、手に持った包みを差し出した。
『その、リィン教官。………いつもお世話になっていますので、これを』
『いや、俺もいつも助けられているし気にしなくてもいいんだが――――…これは、アルティナが焼いたのか?』
包みから出てきたのはチョコレートを生地に練り込んだ兎型のクッキーで。
青年は特別演習でそうしていたように、アルティナを強く抱きしめて―――。
『――――ありがとうな、アルティナ。君が俺のパートナーで良かった』
『………――――っ、わ、たしも、リィンさんのパートナーで――――』
手を伸ばし、抱きしめ返して――――その手は、空を切った。
「………ぁ」
チュンチュン、とどこかで小鳥が囀っている。
うさぎ柄のパジャマを着たアルティナは、虚空に抱きつこうとしている状況を認識するとそっと手を降ろし、同じ部屋に置かれたもう一つのベッドに目をやった。
「……クラウ=ソラス」
呼ばれて出てきた、就寝中の護衛を任せていたクラウ=ソラスによると、自分が寝言でリィン教官の名前を出したあたりから訪問者はないとのことで。アルティナはリィン教官の部屋がある方角を見るとジト目で呟いた。
「―――――夢の中でもリィン教官は不埒ですね」
いや、それは酷いだろう。
と、ツッコミを入れられる人物はいなかった。いなかったが、それに反応してユウナが身動ぎすると、眠そうに目をこすりながら言った。
「んぅ……アルぅ? また教官が何かしたの……?」
「いえ。夢の中で教官が女性を抱きしめていたので、夢でも不埒ですねと思っただけです」
何気なく言ったアルティナに、ユウナは何度か目を瞬かせると、どこか困惑したというか心配そうな表情で言った。
「……その、アル? 実は教官がラウラさんを抱きしめていたの、けっこう気にしてるんじゃ―――?」
言うまでもなく、先の実習でのパルム間道の一件である。
あれから不機嫌とまではいかないまでも、どこかぎこちないアルティナを見ていれば嫌でも気づくというもので。
「―――いえ。リィン教官、というよりリィンさんはいつ何処でも女性に好意を持たれているのであの程度で気にしていては身が持たないかと」
実際、任務では数回ほど結婚や交際の申し込みを受けていましたし。というアルティナに「うわぁ」と微妙な気分になったユウナだったものの、ふと気になって訊ねた。
「というか、気になるのは認めるのね」
「――――それは、まぁ。パートナーですし。目の前で不埒な行為を見せられて気分が良くないのは普通では?」
と、不思議そうに呟くアルティナに、ユウナは以前から教官とアルティナの関係が気になっていたこともあっていっそ訊ねてみることにした。
「うーん。前から気になってたんだけど、アルって教官のことどう思ってるの?」
「どう、とは? ……評価という意味では、<灰の騎神>を保持する帝国内でもトップクラスの影響力を持った人物だと思いますが。人物的には不埒ですが―――」
「いや、そうじゃなくて。……まず、アルは女の子じゃない?」
「生物学的にはそう造られていますね」
「う。なんか凄い気になる言い回しだけど……ということは、恋の話は避けて通れないと思うの」
「色恋………つまり不埒な話ですか」
「ちーがーいーまーすっ! ほら、女の子は誰がカッコいいとか誰が好きだとか、そういうお話で盛り上がるものなの! 不埒とか関係なく!」
「はあ。ではわたしは女の子に分類されないのでは――――」
ズダン、と大きな音を立ててユウナが起き上がり、予想外の反応に呆然とするアルティナに抱きついた。
「――――こんなに可愛いアルが女の子じゃないわけないでしょ!」
「す、すみません…? ですが過度の接触は止めてください」
なんだか分からないものの、雰囲気に押されたアルティナが頷くとユウナは鼻息も荒く頷いて言った。
「女の子らしくないなら、女の子らしくなればいいのよ―――! はい、カッコいいと思った男の子とかいないの!?」
「いえ、そもそもわたしが此処にいるのは任務のためで――――」
にべもない回答に、焦れたというかついカッとなってユウナは言った。
女の子らしくないことを意識させてしまった気がして気まずくなったともいう。
「―――――アルって、教官のこと好きなのよね」
「…………はあ。好悪というものはよく分かりませんが、パートナーとしてリィン教官と共にいることが望ましいとは感じています。ですがそもそも、『人を好きになる』という考え自体がよく分からないのですが」
「うっ、で、でもほら。アルって妙に教官に拘るでしょう?」
『好き』とは何か。妙に哲学的な返しにユウナは鼻白み、その隙に妙にこの話を切り上げたくなったアルティナは言った。
「任務ですし――――それに、それを言うのであればユウナさんもリィン教官とクルトさんが好きですよね」
「な゛っ――――――あ、あたしは別にッ!? というか何で二人なのよっ!?」
「いえ、リィン教官も不埒な行為で女性によく好意を持たれているようでしたのでクルトさんも同様なのかと。それに、ユウナさんもリィン教官に拘っているのは同じでは?」
何で僕まで……とこの話を聞かされればクルトも天を仰いだのだろうが、幸いにもというべきかここにはおらず。完全に図星をつかれたユウナは顔を真っ赤にしつつ首をぶんぶん左右に振った。
「な、なんであたしがあんな教官のこと―――! それにクルト君は関係ないでしょ!」
「リィン教官は関係あるのですね」
「そ、それはアルが――――ああもうっ! ……ぐぬぬ、こうなったらゼシカとルイゼに相談するしか……」
「妙なお気遣いは不要なのですが……聞いていませんね」
素晴らしいスピードで着替えて荷物を詰め込んで部屋を飛び出すユウナを、アルティナは呆れ顔で見送った後に小さくつぶやいた。
「……なにやら面倒事の予感がします」
今日は調理実習ですしリィン教官へのお返しを作りたかったのですが。と溜息をひとつ吐いたアルティナは、あらかじめ容易しておいたレシピ本にもう一度目を通し、用意しておいたドライフルーツと共に鞄に詰め、心なしか軽い足取りで学院に向かうのだった。
―――――――――――――――――――――――――
というわけで、調理実習。
トワ教官の指示の下、また経験者もサポートするように伝えられて始まったお菓子作りはいくつかの班で行われ。ミュゼ、ティータ、ユウナと班になったアルティナは自分以外の意外な手際の良さに驚きつつも調理を進めていた。
「うーん、あたしも母さんに一通り教わったんだけどなぁ」
「と言いつつ、先ほどから手際に淀みがないような気が……ユウナさんは意外と女子力が高いと見受けました」
「意外とって何よ、意外とって! ――――ってアル、こぼしかけてる!」
「あ、すみません」
意外とというのはそのままで、もともと警察志望でトンファーを振り回したりスカートの中身をまるで気にしていないユウナの女子力が疑われていたのだがそれはともかく。
「むむ、これは私も負けていられませんね……リィン教官に美味しいものを召し上がっていただくためにも♥」
「ア、アンタねぇ……」
「あはは、ミュゼちゃんはリィン教官のファンなんだっけ?」
一切隠さないミュゼに思わず軽く引いているユウナとティータとは対照的に、リィンの不埒ぶりを見慣れているアルティナは大して気にすること無く作業を続ける。「またいつものですか」くらいの慣れたあしらいだった。
「ええ、それはもう。ユウナさんやアルティナさんが羨ましいくらいです。もっとも教官を慕っている方は数多くいる様子……せめて今は頭の片隅に留めてもらえるだけでも十分ですけど」
「な、なるほど」
「フン……確かに有名人だし、そりゃあモテるんでしょうけど」
モテる……モテる。
沢山の女性に囲まれているリィン教官を想像して微妙な気分になったアルティナは、一応言っておくことにした。
「でも、リィン教官の女性関係は余り聞いたことはありませんね。<Ⅶ組>の方々とはかなり親密な様子でしたけど」
そう。リィン教官はⅦ組や周囲の仲間とも言うべき女性たちとは仲がいいものの、あまり関係のない女性とどうこうという話はほぼ無い。せいぜい任務の関係などだろう。リィン教官は不埒であっても無節操ではないのだ。
「あ……演習地で助けてくれた」
「アルゼイド家のラウラ様に、遊撃士のフィーさんでしたか。他にもいらっしゃるみたいですし、うーん、気になりますねぇ」
ミュゼの言葉に二人を思い出したのか、お菓子を放り出して腕を組んだユウナはどこか悔しげに言った。
「あの格好いいラウラさんや、メチャクチャ可愛いフィーさんとあんな風に親密にしてるなんて……エリオットっていう人も可愛いし、恵まれすぎでしょ、あの人!」
「落ち着いてください、ユウナさん」
エリオットさんは確か男性です。
……そしてあの猛将クレイグ中将の息子さんです。
さすがに個人情報すぎて言うべきかアルティナが迷っている間に、ミュゼは言った。
「あ、それもアリですね♥ 乙女の嗜みという意味では!」
「な、何がなんだか……」
と呟くティータに、何が嗜みなのかさっぱり分からないアルティナも微妙な表情を浮かべ。しかし別のテーブルで聞きつけた生徒たちが集まりだした。
「なになに、リィン教官の話? 確かにカッコいいけど、この学院、他にもハンサムな人が多いよねぇ」
口々に男子たちの評価を言い合う女子たちを見かね、調理実習が中断されかけてトワ教官が声をかけるほどに盛り上がった。
「ほらほら、調理実習中だよ! そういう話は夜にお風呂あたりでしなさいっ!」
「「「はーい!」」」
さすがに素直に従った生徒たちだが、一人だけ。ミュゼは無邪気そうな笑みをうかべつつも火種を放り込んだ。
「ふふっ、それはそれとして――――トワ教官とリィン教官ってどういうご関係なんでしょうか?」
「へっ…!?」
「あ、あたしも何気に気になってました! それにティータちゃんと赤毛の遊撃士さんについても!」
「ふえっ……!?」
「そういえば、リィン教官といえば帝国の皇女殿下と親密だって聞いたことがありましたけど~」
「私としては最近、弟君である皇太子殿下も気になるのだけれど」
「あ、わたしも……」
「ああもう……! みんな、静かにしなさ~い!」
「……カオスですね」
控えめに言っても散々な状況に呆れていると、女子たちの矛先が特に話題の豊富そうなⅦ組に――――というかユウナに向けられた。
「――――そういえばユウナって、ランドルフ教官とも親しそうだよね」
「あ、うん。まぁ、警察……軍警学校時代にお世話になったというか……」
「えー、でもやっぱり、部活の時はリィン教官の話ばかりしてるし~」
「してないわよっ!?」
「実際私たちって、リィン教官の人となりはそこまで詳しくないわね。そこのところどうなの?」
「えっ!? ど、どうって……お人好しというか、危ないことは全部自分でやろうとするというか……」
と、不意にそれまでなんとか騒ぎを止めようとしていたトワ教官が叫んだ。
「そうなんだよっ! リィン君ったらいつも自分から危ないことに突っ込んで……あ。えっと、うん。あと困っている人を助けてばっかりだったり…?」
途中で恥ずかしくなったのか声が小さくなりつつも文句らしきものを言ったトワ教官だたが、生徒たちの心は『それは貴女も人のことは言えないのでは』と一致した。
「アルティナちゃんとしてはどうなの、リィン教官は? なにかエピソードとかある?」
「……まあ、いつも人助けをしているということで間違いないかと」
「やっぱり凄く強いの?」
「本調子であれば<灰の騎神>抜きでも軍のエース級の相手にもそうそう負けることはないと思いますが」
わー、すごーい、と歓声の上がる調理実習室は、その後リィン教官の好みの女性についての話になり。好みや好きな食べ物の話など大いに盛り上がったため、実習終了後にはリィン教官に女子たちがお菓子を一斉に渡しに行く騒ぎになり―――。
結果として作ったお菓子を渡しそびれたアルティナとユウナは、女子たちにちやほやされて来た(ようにしか見えない)担任教官がHRに来るなり冷え切った目で出迎えた。
「えっと……(クルト。俺、なにかやらかしたか?)」
「(知りませんよ……教官は女難の相があるみたいですし、気をつけた方が良いのでは?)」
「……フン、まあ教官自身に
「本人の自覚が薄い以上、気にするだけ損かもしれません」
カッコいいだの優しいだのと大いに話題になったとも知らず、せいぜい「調理実習だからな」くらいにしか思っていないのか気にした様子もなく。アルティナもユウナも自分たちはクッキーを渡していないのに気にした様子もなくご機嫌な教官に二人は多いに不満を抱いていた。
(……あたしだって感謝の気持ちくらいあるのに――――まるっきり気にされてないと、流石に渡せるわけないじゃない!)
(――――リィン教官はもう少し自覚を持つべきですね)
何はともあれ、次の特別演習では置いてけぼりにするつもりはないとの言葉をもらい。HRは過ぎていった――――。
……………………
…………
…
放課後。
一度寮に戻ったアルティナは、荷物を置いて再度出かけるというユウナを見送った後。結局渡せなかったクッキーの包みを開けると、小さく溜息を吐いた。
「………不格好ですね」
サンディどころか、ティータ、ユウナとくらべてすらも明らかに見劣りする、ところどころ焦げたクッキー。大量にクッキーを受け取っていたリィン教官に渡すには出来が悪すぎるとしまいこんだもので。いっそ自分で食べてしまうしかないと見つめ合っていると、不意に部屋のドアがノックされた。
「……? はい、空いていますが」
「ああ、部屋にいたのか。なんだか元気が無かったから気になったんだが――――って、クッキーか?」
「リィン教官―――…ええ、まあ。ご存知の通り、調理実習でしたので」
素早く隠そうとするアルティナだが目ざとくクッキーを見つけるリィン教官に、何やら不安のようなものを感じつつ諦めて差し出すことになり。
「何だ、よく出来てるじゃないか。一つ貰っても構わないか?」
「…………皆さんから散々頂いたのでは?」
ジト目で睨むアルティナだが、リィン教官が心配してやっていることを察しているせいで目に力はなく。むしろ積極的にクッキーを差し出す自分自身に困惑しつつも、クッキーを食べるリィン教官を固唾を呑んで見守り――――。
「―――――硬いし焦げているし、フルーツを入れるにしては砂糖が多い」
「…………っ、すみませ――――」
ぐさり、と自分でも気になっていたことを指摘されて胸が痛くなるアルティナの口に、リィンはクッキーを放り込む。仕方なく咀嚼し、思っていたより美味しいと思ったアルティナに、リィンは言った。
「けど、しっかりと混ぜられていて食感は良いし、ドライフルーツまで用意してくれたんだろう? ―――――凄く嬉しいよ、ありがとうな」
「………………少しだけ、頑張りました」
頭を撫でられて、つい素直に言ってしまった自分自身に困惑しつつも、アルティナはごまかすように言った。
「―――――…ところで、これに何か不埒な意図は?」
「あるぞ」
そうですよね、ありますよね。
しばし呆然としたアルティナだが、ようやく理解が追いついてくると落としそうになったクッキーの包みを机にぶち撒けつつ言った。
「………え。な、い、一体何を――――…?」
焦りながらも、つい頭に置かれた手をどける気にもならずに静かにパニックになったアルティナに、リィンは言いつつ、何やらラッピングされた大きな包みを取り出した。
「いや。なんだか最近アルティナに避けられてるような気がしていたからな。プレゼントを用意したから渡そうかと―――――アルティナ?」
なるほど。つまりプレゼントを渡すのを「不埒だ」と言っていたのでそれを覚えていたということで。全く通常の「不埒」の意味はないという、ある意味自業自得なことにアルティナは気づいた。
怒りか、それとも他の感情か。
顔を仄かに赤くしてぷるぷると小刻みに震えるアルティナは、若干震える声で言った。
「いえ。リィン教官の不埒ぶりをまだ甘く見ていたようですので上方修正しておきます。………クラウ=ソラス!」
「いや、今日も俺に『自覚が足りない』みたいなことを言っていたし、アルティナがお礼でくれると言っていたのに全員から貰ったのを気にしてたのかと――――って、怒ってるのか?」
「――――――トランス、フォーム。シンクロ完了―――アルカディス・ギア!」
「ちょっと待て。寮の中でそれは――――」
「では、鍛錬場でお願いします。リィン教官」
「いや、だから――――」
その日、顔を林檎のように赤くしたインナースーツ姿のアルティナに引き摺られて歩くリィン教官の姿が目撃され。それを見た分校長は「いいぞもっとやれ。あと私も混ぜろ」と囃し立てという。