ヒュドラの毒牙 作:蛇好き
嵐から一晩が明け、朝早くから父親が漁師に出ると聞いた時は驚いた。
ダイナですらもしばらく海に出る気は失せていたのに。
「こういう嵐の翌日はなぜだか海王類がよく釣れるんだ」
起きて数分と経たぬ内に、二回も驚愕する。
前世でも海王類サイズの魚を釣ることは前世の技術を以てしても難しい。
しかも、前世のいかなる魚よりも圧倒的に凶悪にして獰猛で、力の強い海王類を設備の乏しいこの世界で釣り上げることなど『至難の業』という比喩を通り越して『絶対無理』なレベルだろう。
それを成し遂げようだなんて、人間業じゃないし、倒すことが出来るのは、悪魔の実を食べて、尋常じゃない練度まで研鑽した人間くらいのものだろう。
「ま、なんとかなるだろ。前にも釣ったしな。この家もこれで建てたんだよ」
三度目の驚愕。
既に人間である事を卒業していたのだ。
自分の父親はとんでもない人物だったのか、とダイナは戦慄する。
「待ってな。明日からはオンボロの小舟じゃなくて、どんな嵐にも負けない立派な漁船を買って、大漁を連発してやっから」
そう言い切る父親の顔は自信に満ちていた。
「そんじゃ、行ってくる」
今日はゴツい釣竿に加え、槍と見間違う程の巨大なモリを舟に載せて、意気揚々と出発した。
「頑張って!」
父親の大きな背中に、励ましの言葉をかける。
その言葉を受けて背中越しに親指を立てて、返した。
家に戻ると、母親がやっと起き始めたところだった。
料理上手であり、ほぼすべての家事を完璧にこなす彼女だが、起床時間が遅いのが玉にキズだ。
「ダイナもう起きてたの? 朝ごはん作るからちょっと待ってて」
まだ眠そうな目を擦り、キッチンに向かう。
魚を焼く音に、いい匂いに家中を満たした。
もうすぐ出来るだろう、と目算を付け、食卓に着席する。
そこから数分と待たずして、白身魚の香草焼きが皿に乗せられて出てきた。
「いただきます」
手をあわせ、軽く頭を下げる。
ここらの文化は記述されている言語に倣っている。
そのおかげで、ダイナは特にカルチャーショックを受けることもなく、無事にこの世界に適応して生きられるのだ。
フォークで身を刺して、口に運ぶ。
ハーブの爽やかな香りと臭みの消えた、魚の香りがうまく共存している。
味付けも完璧で、非の打ち所のないが白身魚の香草焼きと言ったところだ。
こんなに美味しい魚料理は前世で食べたことがないのに、この世界ではほぼ毎日食べられるから、この世界に来て、良かったことのひとつだ。
「ねえ、かあちゃん」
「なに? ダイナ」
「とうちゃんが海王類を釣ったって本当?」
「ええ、勿論よ。この家の長さ四つ分くらいのおっきなやつをね」
「どうやったの!?」
「直接見た訳じゃないけど、とりあえず海面まで釣り上げて、脳天にモリをぶっ刺せば楽勝だって」
ちなみに、この家の長さはざっと十二メートルほど。
約四十六メートルの大きさということになる。
ダイナは改めて父親の人間ばなれした力を思い知ることになった。
午後を少し過ぎた頃。
父親が酷く疲れた様子で帰還した。
手には紙袋を五つ提げている。
駆けよって、中を見ると数えきれない札束がぎっしりと詰まっていた。
「へへ、すげぇだろ?」
「うん! すごいよとうちゃん!」
「俺は有言実行する男だからな」
そこに母親がやって来る。
「昼ご飯はどうする?」
「いや、いい。今は風呂はいって寝たい」
「はいはい。そういうと思ってもう風呂は沸いてるわよ」
「ありがとさん」
言うなり、我が家の浴室に走り出す。
そして、浴槽に飛びこむ、ザバーンという音。
リラックスしているのか、いつもより長く入浴している。
「ダイナ、とうちゃん生きてるか見てきて」
二つ返事で了承し、浴室に移動する。
「とうちゃん?」
「どうした?」
「かあちゃんが生きてるか確かめてこいって」
「失礼なやつだな、おい」
「すぐ上がるから待ってろ」
扉越しに会話を済ませた後、キッチンで夕食の支度する母親に報告する。
そこに寝間着で首にタオルを掛けた父親が現れた。
「そんじゃお休み」
「お休み」
ダイナと母親が声を揃えて早すぎる就寝の挨拶をして、父親は自分の寝室に向かった。
母親はクスッと笑って、夕食の準備を再開した。
それから日常の生活をしてから、ダイナは床に着いたのだが。
夜も明けきらぬ内に、ダイナは起こされた。
「船、買い行くぞ」
「とうちゃんまだ眠いって、船!」
「ああ、近くに造船技術が優れた島があるんだ。そこはほんのちょっとだけ遠いからな。明日の漁に出るためにも結構早めに出なきゃならん」
その言葉で一気に眠気が吹き飛んで目を輝かせた。
「かあちゃんには置き手紙を残すし、どうせしばらく起きないから別にいいだろ。ほら、行くぞ」
ダイナの手を引いて、この舟での最後の航海に出発する。
「星、綺麗」
海辺とは言えども、かなり発展した場所に前世は住んでいたし、夜に漁に出た事もなかった。
こちらの世界ではあまり夜空を見上げる機会もなかったから、満天の星を見ることがダイナにとって新鮮だった。
「あそこに灯りが見えるだろ?」
遠くにぼんやりと見える灯りを指差した。
「あそこが目的の島だ」
「結構近くない?」
「今日は風向きが良いからなもうすぐ着くだろうよ」
「楽しみだねとうちゃん!」
「楽しみだな」
逸る気持ちを抑えられない。
今から買う船で漁に出るのがたのしみで仕方がない。
「さ、着いたぞ」
その島に着陸した時には、東の空が白み始めていた。
「あそこだ」
父親が指したのは島一番の大きさを誇る建物だった。
その建物は造船所。
建物の中には見本となる完成品の船達。
「いらっしゃい」
見本を品定めするダイナ達を見つけて、声をかけたのだ。
「漁船って作れます?」
「サイズは?」
「三百万ベリーで出来るだけのものを」
「素材の要望は?」
「出来れば頑丈な素材で」
「他にはなにか?」
「いや、なにも」
高速で契約を終えた後、三十万ベリーを支払った。
「もうすぐ完成だ」
出来てもないのにそういうわけはどうやら既に完成している部品を組み立てているからだそう。
これから出来るであろう船に思いを馳せるのだった。