ヒュドラの毒牙 作:蛇好き
目を覚ますと、彼はベビーベッドに横たわっていた。
天井から吊り下げられた音のなるおもちゃが揺れて、彼をあやしている。
ベッドのそばで父親と母親が会話していた。
「名前はなににしようかしら」
「男ならダイナって決めてたじゃないか」
「あら、すっかり忘れてたわ」
彼にはその会話の全てを聞き取ることができた。
彼の脳内には言語体系がどっしりと根を下ろし、定着していた。
日本語で記述された物語だから、当然と言えば当然なのだが。
彼――ダイナはゆっくり辺りの状況を探った。
釣竿が見えた。それもダイナの見慣れたゴツい釣竿が。
目一杯息を吸うと、ほのかに磯の香りがした。
期待を胸にダイナは思考の海に沈む。
(名前がさっき決まったという事は産まれてからあまり時間が経っていない、釣竿と磯の香りがするという事は、漁師の家に産まれたという可能性が高い)
「仕事に行ってくる」
父親はそういったのち、ゴツい釣竿を持って、玄関の戸を勢いよく開けた。
外を覗くと、青い海が広がっていて、濃密な磯の香りが部屋中に充満した。
ダイナの中で疑念が確信へ変わってゆく。
「帰ったぞ!」
父親の手には大振りの魚が三匹握られていた。
魚は手から逃れようと、身をよじらせるも、屈強な体格をした彼の前には、無意味な抵抗に終わっている。
「今夜はうまい飯を頼むぞ」
「ええ」
まな板の上に魚を載せると、ビタビタと跳ねた。
ダイナはこの世界でも漁師の家に産まれた事に、心の中でガッツポーズ。
それだけでは足りないのか、体を盛大に動かして喜びを表現する。
「ダイナも喜んでる」
「これからもっと釣りまくる必要があるな」
赤ん坊、というのはすぐ眠る物だ。
それはダイナとて例外ではない。
精神的には既に成熟していても、肉体は赤ん坊。
眠気には逆らえず、彼の意識が暗転した。
この世界に来て、二度目の覚醒だ。
コトコトと鍋が煮える音と、ふんわりといい香りが漂う。
料理中か、とダイナは考えて、どんな料理か探ろうとたくさん息を吸い込んだ。
前世では漁師という家柄、魚料理は相当の知識を誇っていた。
ムニエルか、と辿り着いて、そこで思考を止めた。
その代わり、別の思考に移る。
窓から見える空は暗く、星が瞬いている。
時刻的にはもう夜だろう。
「もうすぐ出来そうよ」
母親の言葉がダイナを思考の海から引き揚げ、現実に戻る。
父親が待ってましたと言わんばかりに立ち上がり、ワクワクとした様子で母親の準備を開始する。
「おや、今夜はムニエルか!」
父親の好物なのか、尋常ならざる喜び方をして、スキップしながら皿を運ぶ。
「お、ダイナも食いたいのか」
ジロジロと皿を見つめ過ぎたのか、父親が誘ってくる。
「ダメ!」
鋭い声が飛んで来て、父親を制止する。
「まだ産まれたばっかなんだから!」
「冗談だよ、冗談!」
ひらひらと手を振って、にやけた顔を作る。
母親は射るような視線で父親の事を射抜く。
父親がビクッ、と震え上がって、汗をだらだらとかいている。
対して、母親は穏やかな笑みを湛えている。
その笑顔が途轍もない位恐ろしい。
「これから、こんなことは無いように」
「はいッ!」
父親の声が裏返っていたのは、恐ろしさ故だろう。
一部始終を見届け、庇護される立場にあったのに、ダイナは震えが止まらない。
「さっ、ご飯たべましょ」
先程とは違う、優しい笑顔で食卓に着いた。
父親は母親に頭があがらない様だった。
「あら、眠いの?」
ダイナが欠伸をしているのに、気付いて、彼を抱きかかえ、ゆりかごのように揺する。
どんどん意識は沈み、まぶたが重くなる。
そのうち、真っ暗に世界が塗り潰される。
そうして、ダイナの一日目が終わったのだった。