オリキャラが苦手なご注意ください。
帝国の首都にあるレルゲン家別邸には一人だけ使用人がいる。
彼女の名はマルガ・ブラウアー。
エーリッヒが生まれる前から、地方にあるレルゲン家本邸に夫婦で仕えていた。そのため領主の息子たちを自分の子ども同然に愛してきた。
次男のエーリッヒが軍人になり、しばらくすると彼は高級将校として首都の別邸の主となった。その頃には夫に先立たれてしまっていた彼女は、愛すべき坊ちゃまを支えようと首都に出て来たのであった。
* * * * *
あの『白銀』が婚約したらしい。相手は参謀本部に務めるレルゲン家の息子だと。
とある日、馴染みの店でその噂の真相を尋ねられた時、マルガは耳を疑ってしまった。
――私たちの坊ちゃまが婚約?
『白銀』と言うと、随分と前にテレビで見た少女のことだろうか。紅いドレスの似合う、金髪碧眼の麗しい少女。こんな少女が戦場に出て、銀翼突撃章を受章したのかと当時でさえ信じられない思いだった……。
マルガは表情を曇らせる。ユンカーに長く仕えていた彼女は政略結婚というものを身近に知っていた。とうとう坊ちゃままで…、というのが偽らざる彼女の本音だ。
だが、首都の様子を本邸に伝えると、驚きつつも喜びの声が返って来た。中でも奥様は涙するほどだと言う。
マルガはその気持ちも理解できてしまった。真面目が過ぎるエーリッヒの様子を本邸では「帝国を恋人にしてしまった息子」として誇りつつも揶揄していた。それはいつまでたっても女性の影が見えない次男坊に対する諦観でもある。エーリッヒの兄にいたっては「軍務をしながら結婚できるほど弟は器用じゃない」と語っていたとか。
相反する気持ちを抱えながら、マルガは重いため息を一つついた。
* * * * *
それから、さらに時が過ぎて。
その間、エーリッヒから婚約者に関することを聞かされることは一度も無く、マルガも触れられずに様子を伺っていた。だが、その素振りが全くないかというとそうでもなく、噂を聞いた頃から時折休日に出かけることが増えていた。
その日、マルガはいつものように夜遅く帰って来たエーリッヒに食事の準備をしていた。
「マルガ。すまないが一つ頼みがある」
エーリッヒから頼みごとをされるのは珍しいことであった。詳しく話を聞いていくと次の休みに来客を予定しているのだという。
「まぁまぁまぁ。珍しいことですね坊ちゃま。それではとびきりおいしいお茶菓子をご用意いたしましょう」
「いや、手間になると思うが手作りしてはもらえないだろうか」
思わず配膳する手が止まった。
「手作りでよろしいのですか?大したものは作れませんよ?」
彼女では店に並ぶような菓子は作れない。わざわざ自宅に招くほどの客だ。そんな相手に出すには物足りないのではないだろうかと心配する。
「それがいいんだ。…そうだな、シュトロイゼルクーヘンを作ってはくれないか」
「まぁまぁ懐かしゅうございますね。承知いたしました」
マルガはそこでふと気になったことを聞いてみる。
「ところで、どなたがお見えになられるのですか?」
そう聞くとエーリッヒの眉がピクリと動き、マルガから視線をずらして告げる。
「………ターニャ・フォン・デグレチャフを呼ぼうと思っている」
マルガは呆気にとられてしまった。
ターニャ・フォン・デグレチャフ?それは、つまり……。
「婚約者様がお見えになるのですか」
「マルガまで知っていたのか」
街の噂になっていることにエーリッヒは渋い反応だ。『白銀』のネームバリューに考え込んでいる様子だが、いや、そんなことはどうでもよい。
「婚約者様がお見えになられるというのに、私の作る菓子などでよろしいのですか?いえ、それよりもせめてレストランなど、もっとふさわしい場所があるでしょう、坊ちゃま」
我らが坊ちゃまはどこまで朴念仁に育ってしまったのだろうかと、頭痛がしてくる。いかに幼くとも女は女。婚約者として振舞うというのなら、女性の喜ぶようなレストランや演劇などに連れだせばよいものを。ご自宅に呼ぶにしろ、とびきりのお菓子とお茶を用意するだとか、プレゼントを買っておくだとか、戦況悪化で物が少なくなっているとは言え、もっと、こう、やりようがあるだろう。
「マルガ」
言い募る彼女を、エーリッヒが制止する。こういうときの彼は譲らない。
呆れと諦めを乗せて「承知いたしました」とマルガは返した。
約束の日。
夕方には戻ると言い置いて、エーリッヒは昼前に出かけて行った。
お気に入りのジャケットとタイをしていったので多少なりとも緊張はしているらしい。
そんなことを考えながらマルガはそれを見送ると、屋敷中の確認をして回る。今日の話を聞いた次の日からわずかな埃も許さぬと、常にも増して熱心に手入れをしてきた。
実はそれは本邸からの申しつけでもある。
(どんな形であろうとも、ようやく舞い込んだ縁談。この機会を逃すわけにはいかない…!)
レルゲン家のみならず、エーリッヒの幼い頃からを知る使用人すべての心の声である。
となれば、その分マルガへのプレッシャーも大きい。使用人のミスは主人のミスだ。些細な取りこぼしがないようにと言い含められている。彼女もそれを理解して、愛する坊ちゃまのためにできる限りのことをして用意を整えていた。
シュトロイゼルクーヘンが無事焼きあがった頃、家の前で車が止まる音がする。いよいよお越しのようだ。
マルガまで緊張しながら、出迎えに玄関へ向かう。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま」
「あぁ帰った、マルガ」
いつも通り出迎えたエーリッヒの影から夕陽に煌めく金の髪がこぼれおちる。
緊張しているのか顔を強ばらせながら彼に続いた少女は、噂に聞く軍人とはかけ離れたか細い印象を与えた。
(この方が、エーリッヒ坊ちゃまの……)
案内をしながら少女の様子を観察してしまう。わかっていたつもりだったが、随分と年の頃が離れている。親子という方がまだ納得できそうだ。
そうこうしながら挨拶を交わし、シュトロイゼルクーヘンを彼女に勧める。
それを口にした少女はようやく表情を和らげ、ふわりと微笑んだ。ちらとエーリッヒを見てみれば、嬉しげに目を細めている。長く仕えるマルガでさえ初めて見る顔だ。
(まぁまぁまぁ、これはもしかすると本気で……?)
マルガは嬉しくなって、ついつい彼女の悪い癖が出る。来客中のそれに、普段であれば厳しく咎められるはずだった。しかし今日はまるでそんな素振りがない。
どころか少女の仕草の一つ一つにさえ目を離せない様子だ。
(坊ちゃまは気づいておられるのかしら)
その後もマルガも交えて雑談をしていく。焼き菓子とコーヒーがなくなった頃、エーリッヒからアイコンタクトを受けマルガはさり気なく立ち上がった。片付けを理由にして客間から出ていくと、エーリッヒの真剣な声が聞こえてきた。
漏れ聞こえる会話に、申し訳なく思いながらも耳をそばだてていたマルガは、頬に温かいものが伝うのに気付いて我に帰る。
(あぁ…坊ちゃま…あなたは何という…)
旦那様、奥様。私たちの坊ちゃまはこんなにもお優しくお育ちになりましたよ。ターニャ様の境遇を受けてここまでのことをなさるなんて。
あぁ、そして神よ。本当にありがとうございます。坊ちゃま自らが家に迎えたいと望むお方が、安らかな時を与えてくれるお方がようやく現れました。この縁を与えてくださった神に心から感謝いたします。
敬虔なる信徒であるマルガは涙をぬぐうこともできずに、天へ感謝を捧げたのだった。
この一件でさえ、それほどだったので、ターニャがレルゲン邸に帰るようになったとき、またもや彼女の悪い癖が出てしまったのは仕方ないことかもしれない。本家が歓喜にざわついてしまうことも、また。その様子はマルガの想像を大きく超えていて、結婚の段取りはどのように考えているのかとせっついてくる程だ。
「まぁまぁまぁ、おしゃべりが過ぎたかしら」
でもね、私たちはそれだけその時を待っているのですよ。
私ももう年なのだから、旅立つまでにお願いします。
ね? 私たちの愛しいエーリッヒ坊ちゃま。
いくつか幕間のストックがあるので、最終話までのプロットをもう一度調整する間に順次放出しようと思います。
2017/10/30 誤字報告ありがとうございます