南方大陸への転戦、連邦首都襲撃を経て、ターニャは軍務のため久し振りに帝都へ戻ってきていた。
この期に及んで、広報局がプロパガンダ用の画像を撮るなどと言い出して、ふざけるなと罵ったのが数日前。前線でヴァイスとヴィーシャに慰められ、帝都に戻ってからはゼートゥーアとルーデルドルフに諌められ、結果、彼女は辟易としながら撮影に臨んでいた。
「はいっ!では笑顔でよろしくお願いしますね!!」
この日の為に新調されたドレスはまたしても紅色だ。どうやら広報局はこの色に、血を纏い帝国のために尽くす彼女の姿を重ねたらしかった。とは言え、ターニャからしてみれば否が応にも前回の撮影を思い出されて居たたまれなくなってしまう。
朝早くから撮影をして、午後は半休となったのがせめてもの慰めだろうか。
この撮影が終わりさえすれば彼と昼食をし、その後はコーヒータイムの予定だ。いつぶりだろうかという純粋なオフの時間。それを思えばこの屈辱的な時もどうにか耐えられる。
実はその時間が、広報局によって不機嫌となった白銀のご機嫌取りをするためのものであること。そしてそのために担当官が揃って両閣下に頭を下げた結果であることを彼女は知らない。
12時を少し回った頃、ようやく撮影が終わった。自分に似つかわしくない服から解放されターニャが大きく伸びをしていると、遠くから迎えに来た彼の姿が見えた。
「ご苦労、デグレチャフ少佐」
「お出迎え感謝いたします、中佐殿」
彼は私服姿ではあったが、表情は勤務中のそれで、広報官たちにいくつか確認と指示をしていく。私たちにはオフなどあったものではないのかと疑問を抱いてしまうその光景に、上官たちの顔が浮かんで少し恨めしい。
「ターニャ」
用事が終わったらしいレルゲンが、少し離れたところで様子をうかがっていた彼女を呼ぶ。ターニャはそれを受けて彼の横へと足を進めた。
レルゲンから想いを告げられたあの日。
あれから少し変わったことがあった。
ひとつは休みが重なるとふたりでコーヒーを楽しむ時間を作るようになったこと。
ひとつは彼がターニャと呼ぶことに人目を憚らなくなったこと。もちろん軍務との区別はきちんとしているが、オフともなればそれが彼女の部下の前だろうと気にしない。
一度、部下の前はさすがにやめてほしいと伝えた時、彼がさびしげな表情を隠しきれずに「わかった」というものだから、結局許してしまった。
ほだされてしまったのだろうな。
彼の車に乗り込みながら、彼女はそう分析し、内心ではそれを素直に認めていた。合理主義はどこにいったのだと思う自分も確かにいるが、決して悪い気分ではない。
ちらと横を見れば、車の振動に合わせて彼の黒髪が揺れている。
道の先を見続ける彼の眼差しがこちらを向けられないかと思うのだから、もはや手遅れだろう。
頭を小さく横に振って車窓の外を見れば、見知った街並みが流れていく。
今日の昼食はゾルゲ食堂だ。
初めてターニャが気に入りの店なのだと紹介した時、レルゲンは一度だけ来たことがあると言っていた。彼女が常のように頼んだコーヒーを彼が感慨深げに飲むので、なぜだかむず痒くなってしまったのを覚えている。
それ以後も、ふたりはここを利用していた。ここなら体によく馴染んだ空気の中で貴重なひと時を楽しむことが出来るので、レルゲンにとってもお気に入りとなっている。
このこともあれから変わったことのひとつだった。
店に入れば主人がいつもの席に通してくれた。
さほど経たないうちに、ふたりの目の前にはカリッと焼き上げられたシュニッツェルとサラダが並ぶ。今日も変わらず美味しい。
ここに日本米があれば乗せて食べるのになどと考えていると、テーブルに1枚の封筒が差し出された。見慣れた物が何を指し示すか知って、ご機嫌だった彼女の顔がみるみる曇っていく。
「……軍務とは無縁の時間だと思っていたのですが」
「閣下からの言伝だからな。逆らえんよ」
食事を中断し渋々と受け取った封書を開け、彼女は一瞬険しい顔を見せる。
「ようやくですね」
「あぁ。覚悟しておけとのことだ」
また便利屋扱いである。やれやれ、両閣下にも困ったものだ。
そのとき彼女の胸に小さな不安が浮かび上がる。
この作戦がうまくいった時、そのとき、彼はどうするのだろう。指示された婚約という関係が不要になったあと、あの日の言葉はどこまで生きてくれるのだろうか。
バカらしい。そもそもちゃんと答えてない私にはその資格もない、と彼女は内心で皮肉げに笑う。
生きる理由をもう一度くれた彼にこれ以上の何を望もうというのか。
そんな彼女を置いて、食事は進む。少食なターニャがゆっくりと食事を終え、一息ついた頃、レルゲンから提案を受けた。
「ところでターニャ、このあと少し移動したいが構わないか」
「それは構いませんが、どちらへ?」
そこでレルゲンは一呼吸置く。珍しい彼の様子に、ターニャは不思議そうに小首を傾げた。
「私の家だ」
「は?」
思わず素で聞き返した彼女に、レルゲンはしてやったりという表情だ。
「さぁ行こうか」
「え?いや…なぜ……?」
彼女に答えないまま彼は手早く会計を終わらせると、混乱の最中にある彼女を、これがチャンスだとばかりに半ば強引に車へ乗せる。
「気を遣う必要はない。私の家の使用人が焼く菓子が美味しいからきみに食べさせたいと思っただけだよ」
滑り出した車の中でそういう彼に、それなら初めからそういえばいいと憮然とした表情を見せる。脇目でそれを見たレルゲンは少し困ったような顔をした。
「そんなことをすればきみは来てくれなかっただろう?」
うっとターニャは言葉に詰まる。その通りだったからだ。
「もう車に乗ってしまったんだ。諦めたまえ」
「あなたが強引に乗せたんです!」
車はあっという間に首都のはずれにある住宅街へと入っていく。
その中に彼の家はあった。表に小さな庭のあるその家は外壁が明るい黄色に塗られた首都ではなかなか見ないデザインだ。確かこのあたりの区画は「絵具箱の住宅」として噂になっていたような。重厚そうな家に住んでそうな彼の印象とは対照的な、どちらかと言えば可愛らしいその家について聞いてみれば、ここは彼の実家の別邸で、先代の趣味なのだという。
普段は参謀本部からあてがわれた個室で寝泊まりし、休日だけ戻ってくると彼は言った。
そんな話をしながら彼が玄関の戸を開けようとすれば、内側から先に開いた。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま」
「あぁ帰った、マルガ」
出迎えてくれたのは白髪を蓄えた老女だ。おそらくこの家の使用人だろう。
いつもは冷徹な軍人としての姿に育ちの良さが垣間見えるのみだが、この人はユンカーだったのだと今更ながらに思い至る。
「ようこそ我が家へ」
「…は、……失礼致します」
覚悟を決めてその扉をくぐる。
老女に案内されて廊下を進んでいくと、奥から甘い香りがしているのに気がついた。
そういえば彼は焼き菓子を食べさせたいと言っていたか。まったくいつから今日を予定していたのやら。妙なところでも手際の良さを発揮する彼に彼女はおかしくなって、頬が緩まないように必死になる。
席に着いた彼らの前に、すばやく焼き菓子とコーヒーが出された。それが済むと女性がレルゲンの傍らに立ち、頭を下げる。
「紹介しよう。彼女はマルガ。私が軍務の間に、この家の管理をしてもらっている」
「初めまして、ターニャ様。マルガ・ブラウアーと申します。何でもお申し付けください」
「ターニャ・フォン・デグレチャフです。こちらこそよろしくお願い致します」
「こちらのシュトロイゼルクーヘンは私が焼いたものですわ。どうぞお召し上がりください」
なぜレルゲンは彼女を紹介するのだろう。
疑問を抱きつつも、勧められたターニャは口をつけた。口の中に香ばしさが広がる。
素朴だ。飾らない家庭の味。懐かしくなる味とはこういうものを言うのだろう。このような味を楽しめたのはいつ振りだろうか。この身に生まれ変わってからは覚えがない。孤児院では食べるものはぎりぎりで余裕はなく、軍人になった後は言わずもがな。
ターニャがふわりと微笑む。それを見てレルゲンも目を細めた。
「まぁまぁまぁ!本当に可愛らしいお嬢さんですわ!なんとお呼びいたしましょう?奥様?若奥様?あぁ、でもそれはご結婚まで取っておきたい気もいたしますわね」
そんな様子を見てテンション高く声を上げたのはマルガだ。またかといった視線を送るレルゲン。だが、彼女のそんな様子を止めるわけでもなく、その表情は穏やかだ。
「坊ちゃまがこんなに可愛らしいお方をお迎えになるなんて思ってもみませんでしたわ。あの映像を見た時にはこの方が婚約者になるとは考えもしませんでしたもの」
その一言にターニャはびくっとする。
「映像?」
しかもレルゲンは知らないだと!?
彼ならば、さらっと流してくれると期待していたターニャは顔が青ざめる。この世界においても黒歴史を掘り起こされる羽目に合うとは。
「まぁまぁご存じないのですか坊ちゃま?それは勿体ない。深紅のドレスを着た大層可愛らしいお姿でしたよ」
「そんなことが……?」
レルゲンが驚くような目を向けてくる。
やめてほしい、掘り返してくれるな。彼女は必死になって目でそれを訴えるが、彼は戸惑った顔をするばかりで気づいてはくれない。仕方なく、彼女は端的に説明する。
「………銀翼突撃章の受章にあわせて…プロパガンダで…」
言い淀むターニャに、納得してしまうレルゲン。同時に彼女の怒りをも汲み取る。道理で今日の撮影を嫌がっていたはずだ。
「…そうか。ああ、マルガ。君も座ってくれ」
「はい、失礼いたします」
そのあとはマルガを交えてのコーヒータイムとなった。話をしてわかったマルガという女性はレルゲンがよく信頼している、非常に朗らかな女性ということだった。話し過ぎるのが玉に瑕ではあるようだが、それにすらも優しさや温かさが溢れている。彼女の為人は記憶の彼方に辛うじて残る母という存在を想起させた。
幾度かコーヒーをおかわりした頃、マルガは空になったポットを持って裏へと下がる。
それを受けてレルゲンはまっすぐとターニャに向き合った。
「ターニャ」
レルゲンの声に真剣さが宿って、彼女もまた背筋を伸ばす。
「今日、君を家に呼んだのはこれを渡したかったからなんだ」
テーブルの上にコツと置かれたのは、鍵だった。
「この家の鍵だ」
驚いてターニャは視線を跳ね上げる。レルゲンと視線が合う。彼の目にはただただ真摯な光が浮かんでいる。ターニャは彼女にしては珍しく理解が及ばなくなり動揺を隠せない。
「この家をきみの家と考えてみないか」
「…は?」
「最初は軍務だと思うところからで構わない。我々が受けた特命事項は未だ続いているからな。だが、いずれはここをきみの帰る場所にしてみないか」
婚約だとか上官と部下だとか、そんなことを気にかける必要はまったくない。食事が出る下宿先に移り住んだくらいの気持ちでいいのだと彼は言う。
「いつ帰ってきても構わないんだ、ターニャ。私は軍務でいないことも多いかも知れんが……。だが、マルガはそんな時も君を待っている」
誰かが待つ家に帰る。
レルゲンからすれば彼女を守るための手段の一つ。人の温もりを感じられる場所で彼女に羽を休めてほしいと願っての事。
そして、その思いはターニャの胸に不思議と響いた。
彼女は孤児院をそんな風に思ったことも無く、入隊してからは軍の宿舎に帰って寝るのみの生活。そんなものに思いを抱く生き方とは無縁だと思っていたし、事実その通りだった。
「ターニャ」
それなのに。
彼が私の名を呼ぶその声があまりにも優しく、心を乱すものだから。
……胸に飛来していた不安が消えていくのを感じる。
「お預かりいたします」
彼女は自らの行動に呆れながらも、鈍く光るその鍵を受け取った。
* * * * *
レルゲンは2週間ぶりに我が家へと戻ってきていた。仮眠を僅かに取るばかりで、疲労困憊で家に辿り着くと真夜中になっていた。上着を脱いでリビングの椅子に座り、ふーっと深く息を吐く。明日1日休みなのが救いだ。
そんな中でもマルガは彼にコーヒーの準備をしてくれている。既に使用人室で休んでいた彼女を起こして申し訳ないとは思うが、誰かが迎えてくれる安心感もあった。この安心をターニャにも感じてほしくて、あの日家の鍵を渡したのだ。しかし、あれからも彼女は戦場を飛び回っており、首都に戻る余裕すらない。しばらく顔を見ることもできないだろう。
家に戻ってまず考えることがこれとは自分も随分と焼きが回ったものだ。その戦場に送りだしているのは自分たちだと言うのに。
そんなとき、レルゲンはふっと顔を上げた。
玄関に人の気配がある。日付も変わろうという、この時間に?
彼はゆっくりと廊下の方へ向かうと、様子を伺う。まだ気配は動かない。緊急の用件で来た下士官ならば、既にベルを鳴らしているだろう。あまりにも不審だ。レルゲンの眉間に深いしわが刻まれる。嫌な予感がし、銃をすぐ抜ける状態か確認する。そしてそのまま廊下を駆け抜け、扉を開け放つ――!
「――っ、!」
レルゲンはそれを見て絶句する。
彼の目の前には、ベルを鳴らそうと思って伸ばした手の行き場をなくした、土埃がついたままの軍服を纏った幼女の姿があった。
彼は肩の力を抜いた。銃を抜いていなくて良かったとホッとする。
どおりで玄関の前で気配が動かないはずである。きっと入ってもいいものかと逡巡していたのだろう。自らここに来るだけでも、誇り高い彼女にすれば迷い悩んだことだろう。彼女は本来雪のように白い頬を染め、怒ったような少し拗ねたような表情をしている。
何かを話そうと彼女は口を僅かに開き、しかし声は出ず、すぐに噤んだ。そして意を決したように、キッとレルゲンを見返してゆっくりと口を開いた。
「………ただいま、戻りました」
ようやく告げられたその一言がどんなに嬉しいか。
廊下の奥からも彼女の姿を見とめたマルガの嬉しそうな声が聞こえてくる。
「ああ。おかえり、ターニャ」
こうしてターニャ・フォン・デグレチャフは、待ち人がいるあたたかな家を手に入れたのだった。
日常回でした。
次回は番外編を投稿予定です
2017.10.29 文章の修正を行いました