形ばかりの婚約ではあるが、軍務であるからにはそれなりのポーズも見せねばなるまい。
互いの思惑は一致して、この日二人は世に言う「デート」なるものに出かけた。
とはいえ、常に質実剛健を旨とする帝国軍人の鏡とも言える、この二人が、である。
ヴィーシャが聞けばさぞ嘆いただろう。ゼートゥーアなら呆れたかもしれない。
これはそんなデートの話である。
* * * * *
約束の時刻30分前、レルゲンは軍宿舎の門の前に車をつけていた。何故か早く来すぎた自分に疑問を持ちつつ、車から降りて助手席側に立ち、煙草を燻らせる。
「………」
人の迎えに来たから待たせてもらうと門番は言い置いているが、視線が痛い。非常に痛い。
私が何をしたというんだ。貴官らの不満に感じるようなことは何もないはずだろう。
何本目かの吸い終わった煙草を地面に落とし、踏んで火を消していると声を掛けられた。
「若いな、中佐」
「…っ!ルーデルドルフ閣下!!」
レルゲンが慌てて敬礼しようとすると、そのままでよいと止められる。
「閣下、何故こちらに…」
「君が人を待っていると噂を聞きつけて、ちょっとな」
ルーデルドルフはカッカッと笑う。軍服ではあるが休憩中なのだろう。参謀本部にいるときの激しい気性はなりを潜めて豪放磊落な性格が前面に出ている。
だが、上官だ。レルゲンは返答に困るしかない。
「軍務の一環とはいえ、だ。しっかりエスコートしたまえよ?」
「…了解しました」
そうは言われても、正直、俊英と名高い彼でさえ、未だにどうエスコートしたものかイメージできていない。ターニャに対する偏見が無くなったとはいえ、戦場での前線に飛び込んでいく彼女の姿ばかり浮かんで、デートなど考えられずにいたのだ。
「それがよくないのだ、レルゲン中佐」
眉間のしわがどんどん深くなるレルゲンを見て、ルーデルドルフはそう諭す。
「その真面目さは貴官の美徳だが、使い方を間違えてはいかん。こういうときくらい肩の力を抜きたまえ」
ガハハと笑いながら、ルーデルドルフはレルゲンの背中をバンバンと叩いた。
「貴官の善戦を祈る!小さなレディによろしく伝えてくれたまえ」
「はっ、ありがとうございます」
それだけ言い置いて、宿舎とは逆側にルーデルドルフは立ち去っていった。
懇意にしている両将軍は普段より非常に忙しい身だ。その一人が休憩時間とは言えわざわざ声をかけてきたのだ。気にかけていただいているとプラスに受け取っておこう。
そう思ってその後ろ姿を見送る。
それから然程も経たないうちに、軍宿舎の敷地内から軍人としては非常に小柄な彼女が歩いてくるのが見えた。
普段はひとつに結われている髪を流し、シンプルな白いブラウスと彼女の瞳と同じ色のスカートを着ている。
飾り気のない服だが、なぜかレルゲンの目を惹いた。
そういえば彼女の軍服以外の姿は見たことが無かった。
「お待たせして申し訳ありません」
彼に遅れてレルゲンの姿を認めた彼女は小走りになり到着早々謝罪を述べた。
「いや、私が早く着きすぎただけだ」
それを軽く流し、彼は助手席側のドアを開けて彼女を促す。
ターニャは一瞬固まったがすぐに車に乗り込んだ。彼もそれを見てすぐに運転席に回る。
ほどなく車は動きだしたが、車内は気まずい空気に包まれていた。
互いに軍務以外で何を話していいかもわからないのだ。丸一日こんな中で過ごすのかと思えば、それも憂鬱で仕方がない。
ちらりと隣に座る少女の様子を伺う。
なんと彼女も居心地が悪そうだ。それもそうか。弱冠8歳で士官学校の門を叩いた彼女だ。軍人としての扱いならともかく、一人の女性としてエスコートされる状況に慣れているはずもない。
普段彼女が見せぬその様子にレルゲンの口元が緩む。
「何かございましたか」
目敏いターニャは彼の口元を忌々しげににらむ。
「なんでもない、気にするな。ところで、今日は階級で呼ぶのはやめたまえよ」
そう言うレルゲンとて呼ばない自信はないのだが。この時ばかりは二人でよかったと思う。無理に名前を呼ばなくてもどうにかなる。
「了解いたしました」
本音はその軍人口調もどうにかしたいのだが、こればかりはレルゲン自身にも染みついてしまっていてどうしようもない。それにこれの実態は軍務だ、軍務。
「きみは優秀だが潜入任務には向きそうにないな」
「いえ、ご命令とあらば遂行いたしますが」
できないと言われたことに不満なのか至極真面目にそう返されてしまった。
「そう気配を荒立てるな。そのつもりはない」
「左様ですか」
また車内に沈黙が降り積もる。
その間にも車窓の外の景色は流れていく。そろそろ首都のはずれに差し掛かる頃だ。それでも車は止まる気配がない。
「随分と遠くまで向かわれるのですね」
これも仕事に過ぎないと思っているターニャからすれば、ベルンのどこか適当な店にでも入って適当に時間を潰せばよいくらいにしか思っていなかった。要は婚約関係を周囲に認知させればよいのだと。
「せっかくの非番が潰されるのだ。娯楽も兼ねたとて両閣下は何も言うまい」
それに、と彼は続ける。
「この状況下、首都で事件を起こされては風聞が悪すぎる」
その言葉を告げる時ばかりはレルゲンに鋭利さが戻ってくる。俊英と称される帝国軍人の顔にターニャはいつもの自信溢れる笑みを閃かせた。
「エレニウム95式を持ってきて正解でした」
「くれぐれも一般人には傷をつけるな」
「承知しております」
戦場でよく見る彼女の表情に、心なしか胃が痛みだすのを感じてレルゲンは眉根を寄せる。理由あっての婚約であり、それゆえの今日ではあるのだが、せめて今日は何も起こらないでくれと天を仰ぎたくなってしまった。
しばらく車を走らせていると、森を越え、視界が開ける。ベルン近郊の湖だ。
湖畔に佇む店に入ると、レルゲンが予約をしていたようで、湖が見えるバルコニーの一等席に通される。ターニャもレルゲンもごくごく自然に周囲を観察し、何もないのを確認してから席に着いた。
「何か希望はあるかね?」
「いえ、特には」
ウェイターからメニューを渡されてもそんな調子なので、レルゲンが二人分の料理を注文する。
食事が出てくる間、またもや二人の間を沈黙が覆う。店は他にも人がおり、こんな年の離れた男女が二人で黙り込んだままなのは異様なことだろう。仕方なく、レルゲンは目に見える情報に会話の糸口を求めた。
「そういえば、きみの私服は初めて見たな」
「そうですね。普段の非番も軍服で過ごすことが多いもので」
「軍服の暗い色の印象が強かったが、そのような明るい色もよく似合っている」
自然に言われたその感想にターニャがぴくりと反応する。どうしたのかとレルゲンは様子を伺っていると、彼女は絞りだしたように感謝の言葉を口にした。
「あなたもそういった服装がよく似合っておいでです」
ターニャから返された言葉に、彼の眉がピクリと動く。そうか、と一言口にするとまたもや会話が続かなくなってしまった。
ありがたいことにそのタイミングで食事が運ばれてきた。普段は決して食べられないその味が二人の間に漂う硬直した空気を和らげる。鳥の囀りを聞きながら楽しむ食事に、常在戦場食堂も味が向上すればいいのに、と期せずして同じことを考えながら舌鼓を打つ。
最後にコーヒーとケーゼトルテが出された。
「これは…」
ターニャは一口コーヒーに口をつけると、そう言って目を瞬かせた。そのままコーヒーを見つめ固まってしまう。
「どうした、口に合わなかったか」
「いえ、非常に美味しくて驚いてしまいまして」
その言葉に安心したようにレルゲンの頬が緩む。
「きみはコーヒーを好むと聞いていたからな」
「…まさか、そのためにわざわざ、こちらへ?」
「私が好きなだけだよ」
澄ました顔でレルゲンはコーヒーを口にする。
ターニャは余程その味が気に入ったようで、瞳をキラキラさせながら満足げにそれを楽しんでいる。普段自らを完璧に律している彼女をして、もう一杯飲めないものかと思案するくらいだから相当だったのだろう。
レルゲンは極自然な様子で自らの2杯目を注文し、彼女にも次はどうかと勧める。
2杯目のコーヒーを飲む彼女を見ながら、彼は先日の神父の言葉を考えていた。
まるで、アザミのよう、か。
そんなことを考えていたからだと思いたい。
「出身の孤児院に送金をしているそうだな」
気付いた時には遅かった。らしくも無く思わず口にしてしまったことに、レルゲンはほぞを噛む。最近の自分はどうかしているようだ。
案の定、ターニャはその双眸を細めて不穏な空気を漂わせ始めた。
「失礼ですが、どこでそれを?」
レルゲンは無言で返す。
その様子をターニャは半眼でじとっとねめつけていたが、諦めたように息を吐くとコーヒーに口をつけた。
「悲しいことです。帝国のため身を粉にしているのに、内偵でも入りましたか」
演技じみた言動ではあったが、思っていたよりもすんなりと彼女がそれを受け入れたことに、レルゲンは訝しげ表情を見せる。
「この婚約が組まれた時から想定はしておりました」
「やはりきみは優秀だな」
「過分な評価です」
レルゲンが暗に内偵があったことを認めると、ターニャはやれやれとその小さな頭を横に振った。
この参謀中佐殿が認めるということは、結果は問題なく白だったのだろう。もちろん彼女は疑われるようなことはしていないが、些細な傷も見逃せない立場だ。それが確認できただけでも良しとすべきだ。
「孤児院に顔は出さないのかね?」
「後ろを振り向くことに何の意味がありましょう。私の進むべき道は既に決しております」
至極真面目な顔で言いきると、ターニャはニヤッと笑った。険のない自信にあふれた笑みにあわせ、その蒼穹の如き瞳が煌めく。
そう、この幼女はどこまでも前を向いているのだ。その視線の先にどんな結末が見えていようとも。その中には帝国の敗北さえ含まれているに違いない。
それでも歩み続けるその意志こそ、彼女の根源であり美徳だ。
いつの間にかレルゲンはその瞳から目が離せなくなっていた。
結局、その後も軍務を思い出すようなことはなく時間が過ぎていった。
木々の囁きと煌めく湖面を渡る風を感じ、コーヒーを楽しむ。
ただそれだけの穏やかな時間。
互いに特に何を話すでもないがそれが不思議と心地よくて、二人は思ったよりも長居をしていた。気づいた時には太陽が橙色に染まり始めていたので、さすがにレルゲンが帰りを促す。
宿舎までの送る道すがら、今日一日でくるくると変わったターニャの表情が頭を過る。どれも彼の知らない、いや、見えていても知らぬ存ぜぬで通してきた表情ばかりだった。
「お疲れですか」
心ここに在らずと言った様子のレルゲンにターニャが声をかける。
「申し訳ありません。今日一日運転をお任せすることになってしまいました」
「いや、構わない。時には気分転換になる」
実際それは本当だった。普段軍務ばかりで碌に休みもしない彼からすると、今日は珍しく休日らしい休日なのだ。
だが、彼女はそうは思わなかったらしい。すっかり不機嫌そうな顔になってしまう。
これにはレルゲンも困ってしまった。今日は一応「デート」という形をとっているのだから素直にエスコートされて男の顔を立ててほしいものだ。というよりも、そもそも彼女は体格の問題で運転はできないだろう。
それをわかって気にしないでいられる彼女ではないとも知っているのだが。
そう考えると不機嫌そうな彼女がおかしくて、彼は笑みを隠せなくなってしまった。ターニャはそれを見て、ますます不機嫌さが増していく。そこまで来ると、拗ねて意地をはる子供にしか見えずレルゲンはついに笑い声が漏れてしまった。
彼女にもこんな年相応な部分があったとは以前の自分では認めることすらしなかったろう。錆銀と称する周囲の者は信じようともすまい。
レルゲンは、自分だけが知る秘密を手に入れたような気持ちになっているのを驚きつつも、それをすんなりと受け入れていた。
そうこうしているうちに車はあっという間に宿舎に辿り着いてしまう。
彼が車を降りて助手席側に回ろうとすると、ターニャがそれを留める。
「これで結構です。今日はありがとうございました、中佐」
彼女が階級で呼ぶ。その一言がこの時間の終わりを物語っていた。
それが無性に惜しい気がして、彼は早々に帰ろうとするターニャを呼びとめる。
「何か?」
車のドアを開け、体を半分だけこちらに向けたまま彼女が問う。何故自分が呼びとめたのかもわからずにいる彼を見て、不思議そうに小首を傾げた。
そして彼の口から出た言葉は本人も思いがけないものだった。
「次もコーヒーでいいかね?」
自分は何を口走っているのだとレルゲンは慌てる。彼女も驚いたように目を丸くする。
その時、一陣の風が吹いた。
風が鈴のような彼女の声を届けてくれる。
「ええ、楽しみにしております」
夕陽を影にした彼女は笑っているように見えた。
その顔に心奪われてレルゲンが息を飲む。頬がわずかに紅潮するのが自分でもわかった。
そんな彼を置いて、名残も無いようにターニャは軽やかに車を降りていく。ドアを閉め窓越しに敬礼をしてくる彼女が見えた。いつもの鉄面皮にもどった彼女に、レルゲンは動揺したまま答礼を返し、そのまま家に向け車を走らせ始める。
やがて車は首都のはずれにある彼の家に着いたが、その頃になっても彼女の頬笑みが頭を離れず、未だに頬の火照りも消えてはくれない。
何もわからなかった。何がどうしてこうなったのかも、それによりどうしてこんなにも惑っているのかも。
彼が今思うは、ひとつだけ。
頬の紅潮は夕陽のせいにしてくれるといい、とそう思った。
* * * * *
その夜、参謀本部の一室にて。
「昼間はわざわざすまなかったな」
「細かいことは気にするな」
食事をしているのは今の帝国の実質的な柱にして、この婚約を仕組んだ当本人、ルーデルドルフ准将とゼートゥーア准将だ。
「それでうまくいきそうかね?」
「昼間の感じでは難しいな。なんせあのレルゲン中佐だ」
ルーデルドルフの軽い返しに酒を飲んでいたゼートゥーアは渋い顔をする。
「それでは困る。いい加減デグレチャフに慣れてもらわねば」
「お前もよく考えるもんだ。例の件にかこつけて婚約まで組ませるとは」
「どんな形であれ彼女に首輪が付けられるなら仕方なかろうよ。それで首輪になるかは微妙だがね。レルゲン中佐も優秀ではあるのだが手綱までは握れまい」
さも自分は握れているかの言い草をルーデルドルフはガハハと笑い飛ばす。
彼女を理解し使いこなせる人間など、帝国にもまして敵国にも居はしまい。だからこそ彼女は化け物と呼ばれるのだから。自分たちのように餌を与えて言うことを聞かせられれば精々。それができる人間がもう少し増えてくれれば御の字だ。
「中佐はあの狂犬を随分と恐れているようじゃないか。どうにかなるのか」
「そうでなければ困る。勝つためには何でも使いこなす気概をそろそろ持ってもらわなくては。今後の戦況では役に立たん」
「そのために婚約者を最前線送りさせるとは、お前も狂気の住人になってしまったようだ」
「面白げに同意したお前が言うな、ルーデルドルフ」
彼らはデグレチャフの全面起用を決めた時からもう腹は括ってあるのだ。
悪魔、化け物と称される彼女のその双眸が何を見遥かしていようとも、その起用によって自分たちが後世どんな汚名を着せられようとも構いはしない。
「「我らがライヒに黄金の時代を」」
全ては彼らの願いのために。
ヴィーシャ「そんな少佐殿のお姿を見逃すなんて!」
ゼートゥーア「思っていた以上に純情なのだな」
今回は非常に難産でした。