それは初夏のある日。誰も知らぬ、黒い森の隠し館。
先の大戦後、彼らは取引により合衆国へ渡った。
政治制約が常に付きまとい、ダミーの経歴で生きる日々。故に彼らはもう2度と祖国には戻れない。
そのはずだった。
しかし今、彼らはライヒを再び踏みしめている。
故郷に生きて戻れることのなんと幸せなことか。
ライヒに感謝を。
我が道は黄金の時代に続いている。
* * * * *
この日の主役であるターニャは頭の上からつま先まで真っ白な衣装で、その時を待っていた。中でも目を惹くのは銀糸の花が咲き乱れる白いショートドレスだ。
贈り物のひとつだと言って合衆国のお目付役伝手に渡されたそれは、戦後、国の管理に置かれたゼートゥーア邸の整理の際に見つかったものだという。残されたメモからゼートゥーア夫人とブラウアー女史がこっそりと用意していたらしいと聞いて、レルゲン邸で過ごしたひと時が思い出された。
「マルガさんには見せたかったですよ」
傍らに立つ新郎にそう告げれば、彼もすこし哀しげに応えた。
「きみがそう言うだけでも彼女は喜ぶだろう」
ふたりの脳裏に浮かぶのは、見守るように彼らを待ち続けたマルガの姿だ。大戦末期、ろくに家に帰る事も出来なくなった後も彼女は変わらずベルンの別邸で生活を送っていた。幾度か手紙で本邸に戻るように促したが、それを玩として拒否し、彼らの家を守り続けていた。どうにか戦火を逃れたと聞いてはいたが、敗戦後、レルゲンらは挨拶をする間もなく祖国を離れ、結局マルガのそれに何一つ報いることが出来なかった。風の噂で天寿を全うしたらしいと聞いた時は、静かに涙したものだ。
「よく似合っている」
そう言ってレルゲンは幸せを噛みしめる。このドレスはターニャが戻る場所を得て、あたたかな関係を結ぶことができた故のもの。彼女にそれを渡せたことが誇らしい。
「あなたもよくお似合いです」
シンプルな白い衣装が似合う美丈夫をターニャは見上げる。戦時中の眉根を寄せ続けるあの神経質そうな表情はここのところ鳴りを潜めており、これが本来の彼かとようやく慣れてきたところだった。
そんなふたりを周りの者は温かく見守っている。
とはいっても参列しているのはターニャに従って合衆国へ渡った第203航空魔道大隊の一部と合衆国のお目付役たちのごく僅か。ウーガは現在帝国の再軍備に関わっており、その立場上、ターニャたちと会うことが許されてはいない。サラマンダー戦闘団の内、帝国側に残った者も同じくだ。それでも今日、この式の為に特別に帰還が許されたことは知っているらしく、目付け役経由で祝いの言葉が舞い込んでいた。
「ターニャ、そろそろ」
「はい」
手を取って、ふたりは館の最も大きい部屋で向かい合う。
その場には特別なものは何もなかった。
合衆国からは神父も用意しよう等と提案を受けたが、ターニャが断固として拒否し、レルゲンも肩を竦めてそれを受け入れた。
既にここまでの道を共にしてきたふたりは、実は式そのものへの思いは薄い。今回極めて異例の高待遇で、祖国にもう一度踏み入れるという機会を得たので、今まで世話になってきた人たちへの祈りを込めてささやかなものをしてみようか。その程度だ。
故に、形だけの式。一応それに相応しいよう白を基調とした服を纏い、親しき者数人に囲まれるだけ。親も仲人も神父もいない。
ふたりは向かい合ってただ誓いの言葉を交わす。
ターニャの蒼穹の瞳と、レルゲンの灰青色の瞳が絡み合った。
そして、静かに口づける。
ゆっくりと影が離れると、周囲から拍手が沸き起こる。その中心であるふたりは照れたようにぎこちなく笑った。レルゲンは困ったようにまた眉根を寄せ、ターニャは照れをうまく隠せずに拗ねたようにも見える。それが可愛らしくて、彼がいつものように頬を撫でれば、彼女はくすぐったそうに表情を和らげた。
レルゲンは心が震えるのを確かに感じていた。
なんと幸せなひととき。
アザミのように触れないでくれと言わんばかりの威圧で以って生きてきたこの少女が、今こんな表情を見せてくれている。ひとり立ち続けた彼女に、寄り添える幸せ。これからも共に歩める幸せ。
「ターニャ、愛している」
これ以上ないほどに歓喜を含んだレルゲンの低く優しい声が彼女に沁み渡る。
「はい、エーリッヒ、愛しております」
ようやく得た平穏に、ターニャはこの世に生まれ初めて心からの幸せに満たされていた。
その後、彼らは元大隊メンバーへ促され、外へ出た。
見上げれば空はターニャの瞳の如き色で高く澄んでいた。欧州には珍しい快晴に、天すらも祝福しているかのようだった。
眩しいその空を見ていると、幾筋かの飛行跡が横切った。
ターニャは瞠目する。
今の魔導反応は。まさか。なぜこの場所が知られている?いや、それよりも。
「あいつら……っ」
喜ぶどころか、地の底を這うような声で怒りを示すターニャに、事前に知っていた元203のメンバーが震えあがる。
実は祖国に残った者たちからどうにか祝いたいと相談され、飛行訓練という名目でこの館の上空を飛行することになっていたのだ。ウーガも噛んでいるとかいないとか。とはいえ、政治配慮が必要なターニャとレルゲンだ。さすがに、やりすぎただろうか……?
「やめなさい、ターニャ」
「止めないでください、エーリッヒ。状況の把握もできないあいつらには、もう一度教練をし直す必要があります」
胸元のエレニウムに手を伸ばし始めている彼女を、レルゲンが宥める。この事態にそれまで静観していた合衆国の目付け役たちも色めき始めた。
だが、それは杞憂だ。
「ターニャ?」
「………仕方ありません」
その言葉を聞いて目付け役たちもほっと胸を撫で下ろす。普段からこうして彼女を宥めてくれるレルゲンには彼らも感謝してもしきれないのだ。実は今回、これだけ特例続きなのもこれまでの彼の行動があってこそだ。
だが、それだけで収まったわけではなかった。ターニャが鋭く列席している大隊メンバーを見渡す。思わず元203全員が整列して敬礼をする。
「その分、貴官らに詳しく聴かせてもらうぞ」
そんな殺生な。祝いを贈るくらい許してください、と顔面真っ青になる面々。一応、彼女を御し得る唯一の人、レルゲンに目で助けを求めるが、それをわかっていて彼は止めてくれない。それどころか、その目は諦めろ、止めなかった貴官らも反省したまえと語ってくる。
あ。俺たち死んだかも。
恐怖に顔を歪ませた彼らのその様子に合衆国のお目付け役たちからも同情の眼差しが注がれていた。
もちろんそのひとりであるジョン・ドゥ氏だが、彼にはやらなければいけないことがある。自らの役回りの悪さを嘆きつつ、不穏な空気を隠さないターニャに近寄ると祝いを述べた。
「おめでとう。これで晴れて、レルゲン夫妻と呼ばせていただけますな」
そう言って彼らにライヒからの贈り物を手渡した。
「ウーガ氏からです」
それに二人は目を大きく見開いた。
「申し訳ないが、いつものように検閲をさせていただきました。それだけはご理解いただきたい」
ターニャたちもそれはよくよく理解している。どちらかと言えば、ライヒの長老として祖国に残るウーガと私的な贈り物が許されたこの状況に驚いているくらいだ。
「ご配慮感謝いたします」
レルゲンはそう言いながら、それらを大事そうに受け取った。
ウーガからだという贈り物は小さな箱と、2通の手紙。
箱の中身はペアデザインの万年筆で、2粒の小さな宝石が装飾されている。いつから用意していたのだろうか、レルゲンとターニャの瞳と同じ色の宝石だ。
そして1通目の手紙はよく見知った筆跡による「結婚おめでとう」の文字。
「本当にあの方々は、どこまで見通されていたのだろうな」
ライヒを離れ異国へ渡る私を閣下たちはお叱りになるだろうか。祖国と運命を共にせず、彼女の手を取ってしまった自分は、きっと帝国軍人として許されはしないのだろう。
そんなことを考えながらレルゲンは2通目の手紙を開ける。その内容を読んで、彼は目を細め唇をかむ。
…… 両閣下がヴァルハラに向かわれる前日に命じられた言葉をお伝えいたします。ゼートゥーア閣下からは“ レルゲンは外、ウーガは内からライヒの両翼を任せる”とのこと。ルーデルドルフ閣下からは“妖精の翼を手折ることの無いように”とのことです。
追伸 私からも今一度、彼女のことをお願い申し上げます。 ……
まったく恐ろしいお方たちだ。
レルゲンは泣き笑いをした。新たな道行きにこれ以上ない餞をいただけるとは。
不思議そうにこちらを振り向くターニャの肩を抱き、涙が零れないように空を見上げる。
ターニャ。
きみはこれだけ多くの人に、こんなにも愛されている。
いつの日か、きみがそれを素直に受け止められる日が来るだろうか。
そうであればいいと彼は願う。
そして、ふたりのこれからを想った。
二度と祖国の地を踏めないとしても、
それは在り方が変わるだけ。
あの日の誓いを胸に刻み、
罪を背負い、命を背負い、我らは行く。
きみと歩めるならば、
この狂気の世界さえ恐ろしくはないだろう――。
以上で本編終了です。
ここまでご覧いただき誠にありがとうございました。
しっかりとしたご挨拶は活動報告の方でさせていただきますので、よろしければご覧ください。
では、またご縁がありますよう。
2017.11.14 きょうの
【2018.1.2 追記】
本編再録本、本編その後書き下ろし2編を納めた本を作りました。お手にとっていただければ幸いです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=184373071