やはり帝国は悪魔だ。
帝国中枢への潜入任務を担当するその男は眠れぬ日々の中でそう考える。
『ラインの悪魔』奪取作戦を機に仲間が次々と捕えられていた。次は自分かと怯えるようになって早数日。失敗として早々に切り上げればいいものを、祖国がなお継続を押し通したがためにこの状況だ。守りたいものを守るために戦ってきたのに、なぜこんなに追い詰められているのか。
逃げられるものならば逃げてしまいたい。早くこの状況に変化が欲しい。
だが。
成功以外に彼にはもはや道はない。彼の後ろで権力者ロリヤが嗤っている――。
* * * * *
ターニャが後方の病院に下がって数日後、人々が寝静まった時間になってレルゲンは彼女の病室を訪れていた。未だ作戦が終わらないために彼は多忙を極める中、やっと抜け出せたのは日付が変わろうかという時刻になってからだった。
訪れてみれば、将官用に与えられた個室で、彼女は穏やかに眠っている。
「ターニャ……」
彼は愛おしげにその頬を撫ぜて、彼女の体温を確かめる。
包帯こそ巻かれているものの彼女は静かに寝息を立てており、傷が癒えつつあるのを知って安堵する。この目で彼女を確認できるまではと思い続けていたのだ。信じてはいたが、体の芯が冷えていくあの感覚は今も忘れられない。
「……無茶をするなと言えればいいのにな」
彼女が起きていれば絶対に言えない言葉を彼は口にする。この戦況では彼女と共に歩むためにも生きていくためにも避けては通れないことだが、恨み言のひとつも言いたくなってしまう。
そうしながら彼女の金糸の髪を梳いていると、彼は自分から漂う紫煙の香りに気がついた。ターニャがレルゲン邸に帰るようになってから意識して煙草の量を減らしていたのだが、この作戦でまた香りが染み付くほどになっていたようだ。
何事も冷静に為す彼女と違って、この身はやはり凡人なのだと思い知らされる。
それでも、こうして触れることを許してくれている事実が堪らなく彼の情を掻き立てていた。彼は目を細めたまま幾度も幾度も彼女の髪を梳く。
どのくらいそうしていただろうか。
情けなくも、気がついた時には背中に冷たく固いものが当てられていた。抗う間もなく手をあげるように指示をされ、レルゲンは素直に従う。
「こんなところにまで入り込んでいたとは。熱心なことだ」
先ほどまでの男の表情を消し去って、普段の冷徹な顔で嫌味を言えば、ぐっと銃口が背中に強くあてられた。軍人ならば、自分をさっさと殺して彼女も始末すればよいのに。冷静にそう考えてしまう自分が少し腹立たしい。
「連邦にとっても最も邪魔になるのは彼女だろう。それを置いて私から始末しようとは、何が目的かね?」
彼は今まさに死が迫っているとは思えないほど冷静に問うた。背後の男は当然答えないが、レルゲンはそのまま問いを重ね続ける。
「まさか私が人質になるとでも思っているのか」
本人でさえそんなことにはなり得ないと考えている。ターニャならば切り捨てて前に進むだろう。彼自身もまた、彼女の枷になるくらいなら退場することを選ぶ。
そこまで言って、ふと思い当る。
「それとも連邦内部で彼女に執心している人物がいる噂は本当だったのかね?」
突きつけられた銃口に微かに揺れ、力が籠る。
その動揺を感じ取った瞬間、レルゲンはターニャに覆い被さるように自ら体勢を崩し、右足を後ろへ流して背後の男を足払いにかかった。流れの中で男に向き合い、ターニャを背にかばうと、レルゲンは懐の銃に手を伸ばす。男は人質にすることを諦めて発砲しようとして、信じられないものを見たように目を大きく見開く。眠っているはずのターニャが鬼の形相でこちらを睨み付けていた。そして、レルゲン越しに彼女は先んじて弾を放つ。
空に赤い花が咲いた。
銃を撃ち落とされ体制を崩したその隙にレルゲンにねじり上げられると侵入者は呻き声を上げる。
「デグレチャフ…貴様……薬を飲んでいたはず……‼」
レルゲンはそれを聞いて大いに顔を顰める。だがターニャはいっそ蠱惑的とも言えるほどに壮絶な笑みを見せる。
「あの程度の対処もできずに対尋問訓練の教官などできんよ」
彼からすれば対処されることも想定した上で相当に強い薬を盛っていたはずなのだ。愕然とした敵士官を見て、追い打ちをかけるようにターニャは鼻でせせら笑う。
今回、ゼートゥーアの策が見事に嵌った。連邦の思惑どおりに彼女が攻撃を受けることで、帝国内部に巣食うモグラどもの情報網を観察。ターニャを捕えようという動きは随分と前からわかっていたので、帝国中心部にまで入り込むそれらを活性化し、最後に一網打尽にしようとしていたのだ。
「とはいえ、まさか中枢に潜り込んだきみたちまでもが本当に出てきてくれるとは。うれしい悲鳴だよ」
おかげで綺麗に掃除が出来るというものだ。忌々しいコミーには違いないが、今だけは愚かなる連邦司令部に感謝を告げてやってもいい。
「楽しんでいただけたかね?」
人の悪い笑みを浮かべたまま、銃を向けていた彼女は「さて」と一呼吸置き、レルゲンにちらと目線を向けた。それを受けてレルゲンが言葉を継ぐ。
「貴官についてはゼートゥーア閣下とルーデルドルフ閣下が直接『お喋り』したいと仰せだ。いい機会だろう、存分に話したまえ」
怯えを隠せないまま逃げようとする敵魔導士を、ターニャは優しく撫ぜる。
その瞬間、絶叫が響き渡った。
ターニャが対拷問訓練の時からよく使っていた、神経に直接作用し痛みを引き起こす術式だ。一撫でで死をもかくやというほどの痛みを与えられて、連邦魔導士は悶絶する。
「死なれては困るからな」
床に転がした犯人の軍服をまさぐり演算宝珠を奪い取る。帝国製と連邦製の2つを所持しているのを確認して、この作戦後を思って暗澹たる思いを抱える。
とはいえ、それはまずこれが終わってから考えるべきことだ。
痛みにうずくまる間に男は魔術により拘束され、ターニャは足元のそれを見下ろす。
「安心したまえ。義務さえ果たせば、条約に則り相応の待遇は約束しようではないか」
拘束された魔導士官は歯ぎしりをしながらターニャを睨む。
各地の戦線で名を馳せる203大隊に拷問といってもいい過酷なまでの対尋問訓練を課したのはまぎれもないこの幼女。それはつまり、条約に抵触しない尋問の仕方について精通しているということでもある。
自分の身にこれから訪れる未来を考え、敵魔導士官は憎悪の視線をターニャに向けることでそれに立ち向かおうとする。が、まったくもってそれは逆効果だ。
彼女はつま先でくいっと彼の頤を持ち上げ、冷ややかに見返す。
「まだそんな目を向けられるとは、連邦士官殿はずいぶん気骨があるではないか」
向けられた瞳の奥が青白く輝いたのに気がつき、敵魔導士官が目に見えて震えた。
「中佐」
「あぁ、これは失礼いたしました」
さすがに苦言を呈される。ターニャはおとなしくそれに従った。
「ご無事ですね!?レルゲン准将、デグレチャフ中佐っ」
そこへレルゲンの副官を先頭に憲兵たちがなだれ込んでくる。「突入が遅い」などと幾つかの苦言を受けながらも彼らは命令の下、手際良く侵入者を移送していった。
出ていく間際までレルゲンは男をじっと見つめる。ついに諦めた彼に浮かんだ、絶望と終わったことへの安堵がない交ぜになった表情。負けた者の顔が焼き付いていた。
彼は一度眉根のしわを解し、そしてターニャに声をかける。
「いつから起きていたんだ」
「あなたに銃が突き付けられたくらいでしょうか。殺気で起こされましたよ」
レルゲンはそっと胸を撫で下ろす。だが、それをうまく押し隠して、彼は言葉に怒りを含ませる。
「今回は肝が冷えたぞ」
「仕方ないではありませんか。これも軍務です」
「ならば閣下ときみだけが抱える必要もあるまい」
病室にふたりきりになったからか、彼は軍人らしさが薄れて言葉の端々に感情が乗っていた。彼につられるように、ターニャも軍人の仮面が剥がれていく。
「これが一番手っ取り早かったんですよ」
ターニャは嘆息する。それに恨みがましい視線を向けられて、観念したように彼女は告白した。
「……私ひとりのためにあなたやマルガさんに害が及ぶのは許せなかったもので」
彼が目を剥いて彼女を注視する。詰めた息を吐き出し、ようよう声を掛けようとした瞬間、ゆらりと彼女の小さな体が傾いだ。
「タ、…中佐っ」
レルゲンがターニャを抱きとめる。レルゲンが覗きこめば、彼女の顔は血の気が引いて真っ白だ。病院衣ごしに、じわりと血が広がるのを手に感じて急ぎ彼女を横たえる。それを見て室の外から彼らの様子を伺っていた部下が医師を呼ぼうと走っていく。
「傷が……っ」
レルゲンの切羽詰まった声に彼女は弱弱しく笑い返す。
「銀翼突撃章受勲の時に比べれば、この程度何ほどのこともございません」
傷が開いてしまったのに呻き声一つ上げない彼女が痛々しく、彼の眉間のしわが深くなる。
痛みに脂汗をかきながらもターニャがゆっくりと腕を伸ばした。
何事かとレルゲンが屈んで顔を近づけると、彼女の小さな手のひらが彼の眉間に触れる。
「また、しわが、深くなっています、よ」
自分の状態も気にせずそんな事を言うものだから、レルゲンは泣きたくなって顔をくしゃりと歪めた。
今はそんな事を言っている場合ではないだろう。誰を思ってこうなっていると思っているのか。
あぁ、このまま抱きしめていられればどんなにいいだろう――。
「さぁ…もう、行って、ください…あなた、には、あなたの、やく、め、が……」
それでも彼女は息が上がり掠れていく声でそう言うのだ。
哀しいことに、彼はそんな彼女も愛してしまった。
ぐっと唇を噛みしめると、睦言のひとつも囁かずに、彼は病室を後にする。
霞ゆく視界の中で、ターニャはふふと微笑んだ。
あんなに泣きそうに全てを放り出したいという顔をしながら、それでも、こんな状態の自分を放り出して軍務に戻れる理性の人。
そんな彼だから、愛されてもいいかと思ったのだ。前世との矛盾さえ乗り越えて。
傲慢な考えだとは自分でも思う。
しかし、前世より合理主義で通してきた彼女には愛だの恋だの浮ついたその感情はいまだによくわからない。自分の中にそんなものがあるとは信じられずにいる。
ターニャの中にあるとすれば、執着。
あの人を手放したくないという、胸の中に巣食うドロドロとした何か。
それを恋だというのなら、世界が狂気に覆われるのも仕方あるまい。
そんな事を遠くに思いながらターニャは意識を手放した。
* * * * *
その後、連邦の間者とそれに協力していた帝国内部の癌の切除は、俊英と名高いその男が真価を発揮したことによって瞬く間に収束していった。これまでの彼とは別人のような指揮に驚愕の声も聞こえたが、多くはさすが『恐るべきゼートゥーア』の右腕だとして、その鋭すぎる手腕は帝国内部でも高い評価を受けることとなる。
各部署からの報告が出揃った頃、参謀本部ではゼートゥーアとルーデルドルフは紫煙の中で顔を合わせていた。
「どうにかうまくいったな」
「ギリギリすぎる。中佐が捕えられた時は随分肝を冷やしたぞ」
夜中の一件があって以降、集中して治療を受けたことでターニャは早い段階で容体が安定している。それでも幼い身には無理を強いたとあって、彼女が血を流して気を失った事実は司令部に衝撃を与えていた。
「……だが、それ以外は予定通りだ」
まぁな、とルーデルドルフは渋い顔をする。
「彼女はよくやってくれた。准将がここまで化けたのも嬉しい報せだな」
ふたりは生真面目な顔の将校の顔を思い浮かべる。
優秀ではあったが繊細すぎる部分が玉に瑕だった。しかし今回、彼は自らの感情を理解し飲み込んだ上で、あの指揮が取れるようになった。随分とたくましくなったものだ。
我々の後を任せられる者たちが育ちつつある。
それを思えば、彼女には感謝してもしきれない。
「とはいえ無理難題を命じたのも事実だ。詫びの印に褒美でも用意しようか」
「褒美どころか祝いの品かも知らんぞ?」
ルーデルドルフが茶化して見せれば、ゼートゥーアは思っていたよりもそれを真摯に受け取った。
「なるほど。では特注品を用意しよう」
ゼートゥーアがそこまでするとは。ルーデルドルフは楽しげに考え出す。
「ふむ、彼らの瞳は何色だったかな」
そんな彼にゼートゥーアは呆れたように鼻を鳴らした。
「お前は変なところでロマンチストだな」
「これくらいは許せ」
もうそれくらいしか彼らに報いることが出来ない。
苦笑と共に告げられたルーデルドルフのその言に、ゼートゥーアも顔を引き締める。
ふたりの脳裏に少女の姿が過った。
彼女は言った。この作戦が終われば決断の日は近い、と。
その決断の結果は後世売国奴と罵られても仕方のない所業だが、それでも、祖国に光をもたらすためなら我々の涙など安いものだ。
ふたりはそれぞれ気に入りの葉巻に火をつける。
口に馴染んだはずのその味は、どうにも苦かった。