ターニャが撃墜されたという報を受けて、司令部は蜂の巣をつついたような喧騒の中にあった。
その中でレルゲンはひとり動揺する自分を噛み殺して、必死に頭を巡らせていく。
ゼートゥーアからの指示。彼女から渡された鍵。
彼に与えられた情報を組み立て得た結果に、彼は悔恨の念に駆られる。
おそらくこの状況はゼートゥーアとターニャの間で、レルゲンに知られぬよう秘密裏に予定されていたもの。連邦相手に危険な陽動を行う計画があり、彼女がその任を負ったのだ。それが捕えられる状況までに行くかは別にしても。
彼女の事だ。それを回避する策は張り巡らせていたのだろう。
だが、それでは足りなかったのだ。これまで彼女を英雄たらしめていた様々な運が、今になってそっぽを向いてしまった。
ギリッと彼は歯を食いしばる。
何故知らされなかったのか。自分は彼女にこれほどに信用されていなかったのか。
震える体を抑えるため、意図して大きく呼吸をした。目の前が真っ赤に燃え上がったかのようにくらくらする。
だが、彼は知っているはずだった。気づく機会は与えられていた。
今回の作戦名ディステル。帝国語でそれは「アザミ」を意味する。
かつて自分は言ったではないか。なぜそれを忘れていた。なぜ気が付かなかった。
軍人にとって思い浮かぶ話、それは連合王国の逸話だ。
むかし、連合王国の王城が敵国軍勢に包囲されたときのこと。物音を立てないため裸足で進軍していた軍勢が、王城の周りに咲いていたアザミの花を踏んでしまった。敵兵は棘の痛さに悲鳴を上げてしまう。その声に気づいた王城側は反撃に転じ、無事敵を追い払うことが出来た。以後、アザミは救国の花とされている。
敵に踏まれることによって危険を告げる花。
身を挺した警告。
瞬間、敬愛する閣下を罵りたい気持ちに駆られる。
だが彼女は決してそれを許してくれはしないだろう。同じように自分自身も許すことは出来ない。
我らは帝国軍人なのだ。ともに祖国に黄金の時代をもたらすためここまできた。
ならば我々は命令に沿って為すべきことをするのみ。そして、今回の件が計画的だったというのであれば、現状では少なくとも、軍令に沿うことが彼女を助ける一番の近道だ。
「准将閣下、いかがされますか…!」
あのネームドが落ちた。その事実に動揺しきった士官たちが次々と彼のもとに指示を求めてやってくる。
管制室からはターニャ救出を請うサラマンダーの絶叫が飛び交っていた。
その声すら煩わしい。救いに行けるのならば今すぐ自分が飛び出したいくらいだというのに。
その気持ちを無理やりにでも押さえつけ彼は告げる。
「サラマンダーは全員帰還せよ」
握りしめ白くなりつつある拳が痛い。爪が食い込み血が滲む感覚があるが、その程度なんだというのか。今も死地で彼女は戦い続けているのに、後方の私が軍人であることから逃げるわけにはいかないのだ。
レルゲンの瞳には狂気的ともいえる焔が燃え上がっていた。
* * * * *
あのターニャ・フォン・デグレチャフが捕えられた。
その一報は中央の参謀本部にも激震をもたらした。
ゼートゥーア、ルーデルドルフ両将軍は即座に特級軍令として管轄司令部から現地にいるレルゲンに指揮権を移譲。彼もそれを受けてすぐさま指示を飛ばす。
「生死は問わん。連れ戻せ。何としてもだ」
撃墜されたターニャを救うこと叶わず、必ず取り戻すから許可が欲しいと現地で叫び続けたサラマンダー戦闘団。命令で嫌々ながら戻ってきた彼らを、刃の如き声音が出迎えた。
「当拠点で許される、ありとあらゆる手段を用いることを許可する。万が一、現着時に既に死亡していた場合、または帝国軍への復帰を拒否した場合は死体を引っ張ってこい」
異常ともいえる苛烈さを孕んだレルゲンの姿勢に、ターニャに鍛えられたサラマンダーの中核、元203大隊一同でさえ恐怖する。
彼は今、婚約者の射殺許可を平然と告げたのである。
「可能であればエレニウムも回収しろ。
生死に関わらず中佐の体、及びエレニウム95式、97式を解析されることは軍事機密の流出と同等の事態だ。帝国の敗北に繋がる。それだけは何としても許すわけはいかん。肝に銘じて作戦を遂行せよ」
その気迫に飲まれるように戦闘団総員が見事な敬礼を見せる。
次席指揮官ヴァイスの号令の下、追撃用へ換装して彼らは航空機へと乗り込んでいく。
「現状を共有する」
航空機で運ばれている間に、サラマンダー戦闘団の航空魔導士部隊は体を休めつつ状況の確認を行う。
管制によれば、彼らと入れ替わるように追撃戦を敢行していた航空一個大隊が既に手荒い出迎えを受けているとのことだった。予想されていたことだが、これまで連邦を苦しめていた『ラインの悪魔』を捕えたことで士気が上がっているらしい。連邦側としても彼女を取り返され、更なる状況悪化を招くことは許し難いはずだ。
「我々はこのまま航空機にて敵拠点上空に潜入し、降下強襲をかける」
戦闘団員がきらりと目を輝かせる。
「どこかで聞いたような作戦ですね、副隊長殿?」
「連邦にラインの悪夢を経験させてやりましょう」
「生きて連れて帰らんと婚約者殿に俺らが殺されちまいますよ」
先ほどのレルゲンの様子を茶化すノルマンにひときわ大きな笑い声が上がる。
こんなときでも冗談を言い合う面々をヴァイスは苦笑しながら眺めていた。ここにいる誰一人、敬愛する戦闘団長殿の無事を疑う者はいないのだ。
「いいじゃないか。戦闘団長殿を救うのは我々だと見せつけてやろう」
彼のその一言で戦闘団に気迫がみなぎった。
その頃、ターニャは連邦軍の暴虐の中でひとり耐えていた。
「魔導士とは便利なものだな『ラインの悪魔』殿。傷の具合さえ理解していれば、治癒魔術であっという間に拷問の証拠を消せるのだから」
そういわれながら幾度も幾度も蹴りあげられる。感情のままに振るわれる悪意の中で、呻き声一つあげることなくターニャは嵐が過ぎるのをただ待っていた。どころか、なるほど今度から私も利用しよう、などと考える余裕すらあった。
彼女は信頼しているのだ。
ターニャ自身が育て上げたサラマンダー戦闘団を。
最善策を模索し続ける尊敬するゼートゥーアを。
なにより、親愛なる理性の君を。
早く来いとターニャは内心で呟く。最悪、どうもにもならない段階と判断すれば魔導暴走でこの拠点ごと爆破する心づもりではあるのが、まだその手は取りたくない。
襲いくる悪意の中で耳を澄ませば、連邦軍将校と管制官のやり取りが微かに聞こえてくる。連邦首都、ロリヤ長官、移送、ベルン、看護師、レルゲン邸……。
どうにか拾い上げるその言葉から、これが連邦軍中枢からの指令でないことを知る。通りでずさんな計画なはずだ。それを利用しようとした結果、今自分はこうなのだから世話ないのだが。
存在Xめ、嫌がらせが過ぎる。捕えられた先がよりにもよってコミーとは。
術式で痛みの中和と思考の分割こそしているものの、体への負担は間違いなく積み重なっていく。幾度か視界が白く飛びかけて、その中でも彼女は状況収集をし続ける。
どれだけ時間が経ったのか分からなくなってきた頃。
連邦軍の拠点がにわかに混乱の声を上げ始める。遠くから砲弾の音も聞こえてきた。
あぁ、ようやくだ。
慌てたようにターニャを別の場所に移送しようとする連邦軍兵士を前に、彼女は魔導反応を大きく膨らませる。
「中佐殿っ!」
それ目がけて腹心の部下たちが飛び込んできた。
救出をさせまいと立ちふさぐ兵士を第一中隊は軽くいなし、ヴィーシャがターニャの小さな体を抱き上げるのを守るように円陣を組む。これまでにない憎悪のまなざしで周囲を睨む部下たちに彼女は早く引き揚げろと掠れた声で命じる。
ヴィーシャはすぐさまそれに応じた。
「03より02、第一目標を保護。これより離脱します」
<04より02、第二目標を確保。同じく離脱する>
<02了解。手筈通りに離脱せよ。全軍遅れるな!>
強襲部隊が上空へと離脱を図ると同時に、ヴァイスが信号弾を放つ。
それに呼応し、連邦拠点に、帝国軍砲兵隊の長距離砲撃が襲いかかった。
<敵拠点への命中を確認。武器庫に命中し、現在延焼中>
ザッ…ザッ……とノイズの向こうから攻撃の成功が届けられる。サラマンダーを追おうとする動きもこれでいくらか和らぐだろう。
「CP了解。サラマンダーは後方偵察を行いつつ帰還せよ」
報告を受けて司令部に安堵の息が漏れる。その報はすぐに広まり、どうにか『白銀』を取り戻せたことで至る所で歓喜の声が聞こえていた。ネームドの精神的支柱としての役割がいかに大事かが分かろうという光景だ。
だが、ターニャの怪我の状態が相当にひどいという報告ももちろん伝えられており、レルゲンは険しい顔を崩せずにいた。
「レルゲン准将閣下」
そんな中、管制官から困惑しきった声で名前を呼ばれて、彼は視線を向ける。
「救出された中佐殿からなのですが……」
「なんだ」
「……コミーと遊ぶ時間を頂戴し感謝いたします、と届いております」
暗に遅いと嫌味を言ってきた。
ちゃんと待っていたんだぞと言わんばかりの彼女の言葉に、さすがのレルゲンも鉄面皮を崩す。まったく大したものだ。
同時に嫌味を吐けるくらいには無事なのだと知れて、彼もようやく安堵の息をついた。
* * * * *
その夜、デグレチャフが無事救出され一時後方の病院に下がるという情報は首都にも伝わっていた。
レルゲン邸でひとり待つマルガもそれを聞いてほうと胸を撫で下ろす。
だが、それもつかの間、先日のように玄関の扉がノックされる。マルガは目を眇め、ゆっくりと玄関へ向かう。すぐには扉を開けず、玄関の前でしばらく様子を見る。
もう一度ノックの音が家に響いた。
マルガは扉のチェーンは掛けたまま、隙間から外を伺う。
「……こんな夜分に、どなた様でございましょうか」
「参謀本部より参りました。中に入れて頂いても?」
マルガは声の主の頭の上からつま先までひととおり観察して、渋々といった表情で一度扉を閉めた。チェーンを外す音が聞こえて、彼は中に招かれる。
「何かございましたか?」
廊下を歩き、客間へと案内をしながら彼女はそう尋ねる。
「実はデグレチャフ中佐殿が負傷をしまして……その看護に貴殿をお呼びなのです」
「まぁ、それは大変ですわ」
前を歩いていたマルガが振り向きざまにそう言った。ええ、そうなのです、と彼も答えようとして、そこで視界が回転した。何が起きたかわからぬまま地面に体をしたたか打ち付けて呻き、ようやく組み敷かれたことに気がつく。
男が目を剥いて彼女を見れば、光学迷彩術式が剥がれたレルゲンの副官が銃を突き付けていた。さらに周囲を見渡せば、幾人かの帝国軍人が同じように銃口を向けている。
嵌められた――。
気づいた時には既に遅く、掴まれた頭を床にたたきつけられ彼は意識を失う。
「まったく、錆銀が人質程度で揺らぐと考えるなんて愚かですねぇ」
婚約という形でわざわざ弱みに見えるものを作り上げたものの、まさかこんなにうまく釣れるとは。
副官は呆れたように、足元に転がる連邦魔導士を見る。
婚約者たるレルゲンが殺されたとて、内心はどうあろうとも、あの中佐殿はいつものように戦場を飛び回るだろうと副官は考えていた。そんな柔な人間が化け物などと呼ばれるはずもない。
「……連邦内部での矛盾が生んだ焦り、ですかね」
これはきちんと報告せねばなりません。
レルゲンの優秀な部下たちはさっそく次の任務へと取り掛かる。
同時刻、首都の高級住宅街。
「……おふたりはご無事でしょうか」
真白な生地に細かな刺繍を施しながらマルガは呟いた。
あの日、ターニャの警告を受けたレルゲンは、ゼートゥーアにマルガを保護してもらえるよう許可を願い出ていた。その結果、身代わりとなる魔導士官と入れ替わりに、彼女は作戦が終了するまでこの屋敷で匿われることになったのである。
心配そうな彼女に、鷹揚な女性が安心させるように声をかける。
「必要以上の心配をしない事ですよ、ブラウアーさん」
マルガが声の方に顔を向ければ、この家の女主人であるゼートゥーア夫人がどっしりと構えた様子で、彼女もまた刺繍を続けていた。
「あなたの主たちは強い方々でしょう?今は信じて待ちましょう」
その言葉にマルガは瞳を潤ませながらも、はい、と力強く答えた。
彼らが帰ってきたら何を言おう。
まずは何も説明がなかったことを叱って。次は怖かったと嘆いて。
そして、抱きしめて感謝を伝えよう。
マルガは手元の刺繍に目を落とす。
お嬢様はまた嫌がるかもしれないが、これだけは着てもらわなければ。
そうして彼女はふたたび作業に没頭し始めた。