私、鷺沢文香には王子様がいる。それは、私が東京に来たばかり、アイドルになる前の話だ。大学に通うにあたって一人暮らしを始める所だった。住居も決まり、地図を持って駅から降りた。のだが、迷った。一瞬で。
東京、それはコンクリートジャングルとも揶揄される都会。辺りは同じような風景ばかり。特徴になりそうな建物なんて見つからず、同じような場所をずっとうろうろしていた。
誰かに聞く、というのも考えたけど、昔「鷺沢さんって話すの遅いよね」と言われてから人と話すが苦手になってしまった私に、都会の人と話すのはハードルが高い。
駅への戻り方も忘れてしまったし、このままでは住居どころか実家に帰ることすらままならない。いや、下手をしたら駅の近くでダンボールの家を作っていた人達の仲間入り………考えれば考えるほど頭が真っ白になっていった。
思わず目尻に涙が浮かんだ時だ。
「あのっ………」
「っ⁉︎」
背後から声をかけられ、ビクビクっと背筋が伸びた。慌てて振り返ると、知らないイケメンさんが立っていた。一見、軽薄そうに見えるし優しそうにも見える男の人。
はっ、へ、返事しなくちゃ………!
「…………にゃっ、なんっ、なんでしょうか……?」
噛んだ、それも二回も。羞恥で頬を染めながら、おそるおそる顔を見上げると、男の人は一切気にした様子なく微笑んだ。
「いや、先程から同じ場所をウロウロしていたので気になりまして。もしかして、道に迷ったのかな、なんて………」
っ、まさか、知らない人の方から声をかけて頂けるなんて……!いや、でも前に読んだ本では、東京では「ナンパ」というものが発生すると聞いたし………。
って、だ、ダメだ。失礼な事を考えていたら。それより、何か言わないと。せっかく声をかけていただいたのに、また返事が遅いなんて言われてしまったら………。
「………は、はいっ。実は、そうなのですが……そのっ、地図もあるのですけどっ……!じぇっ、全然道がっ、わからなくて……!」
途切れ途切れに何とか早口に言うと、男の人はそれでも余裕の笑みを崩さずに答えた。
「それなら、俺が案内しますよ。地図を見せてもらえますか?」
「………へっ?わ、分かるのですか……?」
「長くここに住んでますからね。とりあえず、落ち着いて下さい」
男の人は手に持ってるスーパーの袋からお茶を取り出した。
「どうぞ」
「へっ?い、いやっ……しょんっ……そんな申し訳ない、です……」
「いえいえ、まずは落ち着かないと。涙も拭いてください」
涙を浮かべていたこともバレていて、さらにハンカチまで貸していただいた。な、なんか世話を焼かれ過ぎかな……?とか、良い歳して道に迷って泣いていたとか、色々な感情が混ざったが、とりあえず人の好意を無下にするわけにもいかないので、ありがたく頂戴した。
私がお茶を飲む間に、男の人は地図を見た。直後、速攻で理解したような顔になった。
「よし、こっちです」
「へっ?……も、もう理解したのですか………?」
「はい。こっちですよ」
男の人は地図を持って歩き出し、私はその後を続いた。何となく気になったので、男の人に聞いてみた。
「………あの」
「? 何ですか?」
「………どうして、助けてくれたのですか?」
東京ではナンパ、というものが発生するらしい。助けていただいた身でこんな事言ったら失礼かもしれないが、可能性はゼロではない。ナンパでなくとも、住所を把握するためとか言われてしまったら困る。
しかし、男の人はそんな私の考えを見透かしたように、微笑んだまま答えた。
「安心してください、ナンパとか住所を把握するためとか、そんな事ではありませんよ。ありきたりな台詞かもしれませんが、困っている人を見かけたから力になろうと思っただけです」
「………………」
「すみません、格好付けてるように見えましたか?」
「いっ、いえっ……た、助けていただいた身で失礼な勘ぐりおっ、をして、しゅっ、すみませんでした……!」
「いえ、気にしてませんよ」
………さっきから噛みまくりだった。男の人は相変わらず微笑んだまま言った。
「東京は初めてですか?」
「はっ、はい……。その、東京の大学ににゅにゅ入学するのでっ……!」
「大学生でしたか。俺、まだ高校生なのでタメ口で結構ですよ」
「い、いえっ。私……その、人と話すのが苦手で……つい、敬語になってしまうんです………」
「……………」
そう言うと、返事が返ってこなかった。なんだろう、もしかして何か不快な思いをさせてしまったかな………。
「……なるほど。でしたら、差し出がましいようですが一つ、聞いてもらえますか?」
「? な、なんでしょうか……?」
「人と話す時は、まず落ち着いて下さい。無理して早口で言おうとしないで、自分のペースで話せば、それで良いと思いますよ」
「……………」
「少し、偉そうでしたかね。すみません、世話を焼きたがる性分なもので。………さ、着きましたよ」
「……………」
「………着きましたよ?」
ボケーっとしてる間に着いたようだ。心臓の動機が収まらない。目の前の男の人は、初対面の私の何もかもを見透かして、それにおいて現状の私に何が欲しいのか、何を言って欲しいか、どうして欲しいかを完璧に当てて見せ、完璧な回答を出してくれた。
普通、困った時は自分から聞きに行くべきなのに、向こうから察して声をかけてくれるなんてあり得ない。相当親切な人なのかもしれない。何より、私の口調を元の通りで良いと言ってくれた。そんな人は今までいなかったのに。そう思うと、心臓の動機が早くなる。
「…………あの、着きましたよ?」
「っ!もっ、申し訳ありません……!ボーッとしていました……!」
「いえ。じゃあ、俺はこの辺で失礼します」
「えっ?」
も、もう言ってしまうの?と思ってしまった。確かに、道案内だけなんだからここで去るのは当たり前だ。
「………何か?」
「あっ、いえ………そ、その………」
「申し訳ないです。俺、妹の晩飯作らなきゃいけないんで、失礼します」
「あっ………」
男の人はいってしまった。私は自分の胸を押さえ、無自覚に頬を赤く染めながら、その背中をぼんやりと眺めた。
「………ていう王子様がいるんでしょ?文香には」
「はっ、はい………」
そんな話を、私は奏さんとしていた。というか、奏さんはこの話が好きだ。私をからかいたいのか、それとも私に協力してくれるのか分からないけど、何故かこの話をよくする。
「………でも、会えてないのよね?」
「……はい。残念ながら、あれ以来顔を見る事も出来なくて………」
「……………」
ふむ、と奏さんは顎に手を当てた。心なしか、奏さんってあの男の人と顔が似てるんだよなぁ………。まぁ、男性と女性を比べるのは失礼な気がするし、奏さんには言ってないけど。
奏さんがニヤニヤしながら何かを思いついたように言った。
「よしっ、探しに行きましょうか!」
「へっ?」
「その人、文香の家の近くに住んでるんでしょ?スーパーの袋を持ってたなら、その付近を探せば良いんじゃないかしら?」
「………で、ですが、そんなストーカーのような真似は……!」
「どこの高校か分からない、家がどこかも分からない。そんな状態で偶然会えるまで待つつもり?」
「っ……そ、そう言われればそうかもしれませんが……」
「よし、なら決まりね。行きましょう!」
「………わかりました」
どうせ何を言っても聞いてくれない、大人しく探しに行こう。どうせ見つからないし。
二人で事務所を出て、探索に向かった。偶然にも、私と奏さんは同じ最寄駅なので、そこで一緒に降りてとりあえずスーパーに向かった。
ー
予想通りというかなんというか、やはり会う事はできなかった。スーパーの後もコンビニ、別のスーパー、ゲームセンター、マックと回ったけど、結局王子様(仮)には会えなかった。ていうかこれ、遊んでるだけですね。
「ごめんなさいね、つき合わせちゃって」
「………いえ、仕方ありませんよ……。私こそ、私の事情で付き合わせてしまってすみません」
「ううん。私の方から誘ったんだもん。さ、もう夜も遅いし帰りましょう?」
そう言って私は奏さんと帰宅し始めようとした時だ。ポツッと私の鼻の頭に何かが落ちて来た。触ると、透明の液体が手についた。
雨?と理解した頃には、さらにポツポツと降って来ていた。
「降って来たわね……。文香、傘は?」
「……すみません、ないです」
「私もよ……。ここからだと、私の家の方が近いわ。急ぎましょう?」
「………は、はいっ」
二人で小走りで奏さんの家に向かった。
雨が降り始めて時間が経つ度に、雨は強くなって行く。そういえば、奏さんの家にはお兄さんがいるんだっけ。奏さん曰く、優し過ぎるお兄さんが。
会ったことはないので、少し楽しみだったりする。奏さんはそれに気付いてか気付いてないのか、必死に走っている。
………ま、いっか。私も風邪引いちゃうし。ていうか、最近雨多いなぁ。この前も雨降ったし……。
そんな事を考えてるうちに、速水家に到着した。
「ただいま!」
「おかえり、奏」
玄関を開けるなり、奥から声が聞こえた。お兄さんの声かな?どこかで聞いたような気が………。
「お風呂沸いてるよ。これ、バスタオル」
「ありがと。ねえ、兄さん?悪いんだけど、もう一枚もらえる?」
「ああ、分かった」
との事で、もう一枚放られ、奏さんは私にバスタオルを手渡した。
「はい、文香」
「………すみません、ありがとうございます」
「さ、上がって。お風呂貸すから」
「………お邪魔します」
頭を拭きながら玄関に入ると、中は床にタオルを敷いてあった。タオルの道は一つの部屋につながっている。おそらく、バスルームだろう。
靴を脱いで、タオルの上に上がった。
「………すみません、奏さんのお兄さんですよね……?初めまして、鷺沢文香と……」
挨拶しながら顔を上げると、王子様が立っていた。