新戸緋沙子、それが私に付けられた名前だ。別に名前に誇りがある訳ではないが……知られている名前の一つではある。
理由として、私が秘書をしている事。そして私が仕えている相手がえりな様…薙切えりな様である事が揺るぎようのない理由だろう。
私が幼少の頃からお仕えし続けた人物、それがえりな様だ。私にとってえりな様は、主人であり、大切な方であり、守るべき方であり……言葉では表現するのにはあまりに多すぎるから、この辺りでやめておくが……
そして、少なからず私はえりな様の人柄、立ち振る舞いなどを理解しているつもりだ。私が全てを理解するなどはおこがましい、故に少なからずを選ぶ。
その人柄、そして存在感が今のえりな様をさらに上へと登らせている。『神の舌』と呼ばれるまでに格上のステージへと。
料理において妥協をしない、それがえりな様であり……それは他者の料理に対する評価においても同じだ。『美味しい』か『不味い』か、その2択における。
それは料理においては運命を左右する言葉だ。美味しくない料理は、料理とは呼べない。だが、ただ美味しいだけでもそれは通用しない。
誰しもが得意な分野の料理がある。それを伸ばし、努力する事で初めて本当の意味で美味しいと言われる、そんな料理になるのだ。
だからこそえりな様の料理に対する評価は甘くない。彼女が許した料理のみ、舌で踊ることを許され、喉を通る許可が降りるのだ。
もちろん評価を下すだけではない。えりな様は生粋の料理人だ。遠月学園においてのトップ10、十傑の第十席に入ることも決定している。この先、さらに上の席へ行くはずだ。
私も、その様子をただ傍観する気はない。私も1人の料理人として、えりな様に置いていかれるだけの人間にはなりたくない。それではえりな様の側にいてはいけない存在になる。
えりな様に次ぐ2番目になる事…それが私の全てだ。
少し話を戻す。私はえりな様の人柄を少なからず知っている。そして今回、えりな様は入学試験の試験官として選ばれた。
今年の入学希望者は不幸だと思う。えりな様が試験官と聞けば、誰1人として料理を作って持っていくという行為すら、できなくなる可能性の方が高いだろう。
えりな様の試験からの合格者は0、私はそう思っていた。試験が始まるまで、ずっと。それが間違いになる事を知らずに。
えりな様にたった1人だけ、料理を作った男……幸平創真。途中まで完成形が何も見えなかったにも関わらず、あれだけの料理を作ってみせた。
認めたくはないが、あの男は恐ろしい。私が試験官だったならば、えりな様以外が試験官だったならば容易に合格していたはずだ。現に、器に残った彼の料理『化けるふりかけごはん』は私の食欲を駆り立てている。
あの男はえりな様の存在すら知らなかったのだろう。何一つ考えなさそうな顔をしていたし、誰かにえりな様の事を聞いていた。世間知らずとしか言いようがないが、腕は確かだ。……えりな様はあの男が気に食わないようで不合格を出したが。
そして、ふと気がつくと器の料理を見ている人物がいた。えりな様も私と同じタイミングで存在に気がついたようだ。ただ、幸平創真の料理をまじまじと見ている。まるで、私やえりな様は眼中にないかのように。
「あら、貴方も作る気?」
「……一応」
幸平創真のアレを見てなお、作る気がある……幸平創真以上のバカではないだろうか、と私は思った。見た限り、どこにでもいそうな顔立ちだ。だが、目つきはさほど良いとは言えない。話し方も誰かと話すには向いていないような話し方だ。
「そう…まぁ頑張って。ただ長くは待つつもりはないから」
「…了解」
その男は何かを作り始めた。私はその間に目の前の男のプロフィールを確認した。名前は千崎雪夜、家が料理店というわけでもないごく普通の一般人、という印象だ。
編入生として、という事だろう。この学園は編入生をよく思わない生徒の方が多いはずだ。いわばアウェーとなる訳だ。
気がつくと、ほとんど仕上げに移っていた。……その時違和感を覚えた。作っているのはただのオムレツ、料理においては基本と言えるであろうプレーンオムレツだ。
そこまで時間がかかるものではないが、料理人の腕を確かめるにはこれ以上ないものとも取れる。基本が出来ていなければ料理は出来ない。感覚だけで作れるほど料理は甘くない。
だが、どうしても違和感を覚える。作る手順も普通、作る速度が速いという訳でもないのに……目が離せなくなる。それはえりな様も同じようで、食い入るように見ているのが分かる。
「…どうぞ」
目の前に置かれる2皿。片方は私、もう片方はえりな様の分らしい。……二つ同時に作っていた事に違和感を……?いや、それだけでは拭いきれない何かがある。
その違和感を探しているうちに、私の皿からは全てが消えていた。時間にして1分……いや、時間感覚すらも掴めていない。
「……なっ…!?」
驚きを隠せない。料理が消えるという事はあり得ない。ならば理由は一つだけだ。私が私でも気付かないうちに『全てを食べ終わった』という事しか。
胃の中から美味しさが呼びかけている。それは分かっていても自分の脳がそれを認識していない。まるで、呼吸をする事と同じように……当たり前の事を当たり前にするように、食べてしまっていた。
「……合格よ」
「…………」
無言で出て行く。受かるのは当然、と言わんばかりに。ただの基本のプレーンオムレツのはずなのに、私には世界が変わったかのように思えた。
そして違和感が掴めた。見てたはずだ、目の前で見ていたはずなのに……ここまで美味しさを感じ取れているはずなのに、私の脳が感じ取れていない何かがようやく、私の脳に伝わってきた。
千崎雪夜の作った料理の手順を見ていたはずなのに、覚えていないのだ。……すでに私はその手順を覚えているからだ。矛盾するような事だが、そう表すのが最も良い。
彼は何も工夫をした訳でもなく、アレンジを入れた訳でもなく……ただ普通にプレーンオムレツを既存のレシピ通りに作っただけなのだ。
だからこそ、私の脳には伝わってこなかった。作り方も手順も全てが同じだからこそ、今まで食べてきた、もしくは作ってきたプレーンオムレツとは格が違う美味しさだという事に、一瞬気づけなかったのだ。
「…緋沙子、彼の名前は?」
「千崎雪夜…何の変哲も無い一般人の家庭に生まれ、店も持っていない…ただの一般人です」
「…そう。…一般人でない方がありがたかったわ。基本中の基本が…あそこまでの味を出せるなんて、ね」
私の舌では、一口目では感じ取れないレベルの美味しさ。おそらく料理に存在する黄金比、それが関係しているのではないかと思った。
調味料にも黄金比がある。だが彼の場合、焼く時間も卵の溶き方も…全てが完全なタイミングでありやり方だった。それが彼の工夫なのだろう。
「緋沙子、帰るわよ。報告もしないといけないからね」
「はい、えりな様」
彼は合格、つまり今年の新入生として入ってくる。…私程度では敵ですらないだろう。だが私には一つ、目標ができた。千崎雪夜を超える、それくらい出来なければ…えりな様の隣にいれるはずがない。
私やえりな様が食べている間も、彼は何も言葉は発しなかった。説明をする必要もない、と静寂が訴えかけていた。
血の滲むような努力と、生きていた全てを費やしてでも辿り着けるかわからない境地に、千崎雪夜はいる。その先に何があるかは分からない。
だが一つわかる事がある。彼のプロフィールの志望動機にはほんと少しだけだが、ある言葉が書かれている。「夢のため」と。志望動機にしてはあまりにも短すぎる単語だ。
しかし、それは私には到底理解できないものなんだろう。彼の料理を食べて初めてわかる。彼の存在の恐ろしさ、そして彼が書いた夢が私では想像がつかないほどの大きな、崇高たるものなのだろう、と。
私は気を引き締め直し、えりな様と共に車に乗り込む。彼に負けない為、追いつく為、そして……えりな様のために、私は決意をさらに固めた。