ガールズ&パンツァー 乱れ髪の乙女達   作:長串望

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逸見エリカと西住まほが、いかにしてその歪な関係に決着をつけたか。


雪解け水の冷たく刺して

 Q.氷が溶けると何になりますか?

 私が小学校に通っていた頃に理科の小テストで出た問題だ。

 答えは水になるだ。その水が蒸発すれば水蒸気になる。個体から液体への相転移の問題だ。

 私は深く考えることもなく勿論水になると書いた。教科書にはそう書いてあるし、授業でもそのように教えられたからだった。こんな問題を間違える奴はいないと思っていたし、小テストでやる必要もないくらい常識的なことだと思いあがってさえいた。

 だから、クラスの中でただ一人、微笑みをもって赤点を受けたやつの回答は、私の胸を奇妙に打った。

 Q.氷が溶けると何になりますか?

「勿論、春になります」

 教師は大いに悩んだ結果、マルでもバツでもなく三角とした。そして問題文の意図する所を読み取ることを話し合ったと聞く。

 氷が溶ければ水になるのは当たり前だ。しかし凍てついた家々が、降り積もった雪が溶ければ春になるのも同じように当たり前だ。さして深く付き合うこともなかった少女がもたらした何気ない価値観の相違は、同じ人間同士でさえ違うことを思っているのだということを私に思い知らせてくれた。

 同じクラスで席を並べて授業を受けた者でさえ違う景色を見ているのだ。生まれてくる時代と場所と生き物の胎とを間違えた妹はどれだけ違う景色を眺めていることだろうか。氷が溶けたらメタンガスと水に変わるんじゃなかろうか。それとも、氷は氷、ただ水に相を変えるだけでしかないのだろうか。

 人はきっと、本当の所ではわかりあうことはできないのだろう。自分だけの現実を見て、自分だけの真実を聞いて、自分だけの世界の中で、僅かに触れ合った時間を重ねて、折り合いをつけて生きていくしかないのだろう。

 自分の常識を他人に押し付け、自分の望むように振る舞わせ、自分の欲するがままに振り回すなど、許されることではない傲慢だ。

 私がこんなことを言ったところで既に手遅れだろう。遅すぎるだろう。だがそれでも私は、いい加減にけりをつけなければいけない。清算しなければならない。終わらせなければならない。私の身勝手で始めて、私の身勝手で続けてきたことを、私の身勝手で終わらせなければならない。

 西住まほは、いい加減に逸見エリカを解放してやらなければならない。

 それがどれほど私の貧弱な精神を痛めつけるかは想像に難くない。泣き叫び、胸をかきむしり、夜毎に我を失うだろう。だがそれだけだ。そんなことは、今も大して変わらない。私のような悍ましい生き物が地べたをはいずり回って醜く苦しむことなどもはや何ほどの事でもない。

 だがエリカは。

 あの銀の毛並みも美しい少女は、あるべき道に戻るべきだった。

 薄暗く湿った血反吐にまみれた荒れ野にずいぶん付き合わせてしまった。

 もとよりそれは歪んだ関係だったのだ。これ以上を付き合わせるわけにはいかない。

 

 私はエリカと別れようとそう決意したのだった。

 随分と遅すぎる、雪解けの春に。

 

 

             ‡             ‡

 

 

 よその学校でも同じような行事があるのか寡聞にして私は知らなかったけれど、黒森峰女学園には追い出し戦と呼ばれる試合が年度末に組み込まれていた。卒業式を翌日に控えた二月の末日だ。

 大洗女子学園に敗北を喫し、隊長自らの手によって新しい風を取り入れ始めた近頃だけでなく、伝統的にこの日は盛大なお祭り騒ぎで、堅苦しい黒森峰において数少ない無礼講の場だったらしい。

 内容はシンプルなもので、十五両対十五両の殲滅戦で、隊長率いる卒業生勢と副隊長にして次期隊長率いる在学生勢とに分かれての試合だ。卒業生は在学生の成長ぶりを確かめ、在学生は卒業生が安心して出ていけるよう自分たちの実力を見せつけるという名目で、実際の所はベテランの卒業生勢が最後のしごき上げを楽しみ、在学生勢が日ごろの鬱憤晴らしを兼ねて下剋上に挑むというお祭り試合だ。

 この日ばかりは日頃徹底的に叩き込まれてきた上下関係を取り払い、日頃ため込んだ諸々を無線越しに怒鳴りあうという大変見苦しい舌戦まで見られたらしい。これは単なる鬱憤晴らしではなく、最上級学年になり後輩たちを導いていかなくてはならなくなる新三年生たちが何時までも上を伺うようではいけないということで敢えて罵詈雑言を吐かせるという建前らしいけれど、貸したジュース代ががめよって嫌しか奴とか、わらこそ雑誌ばひっきゃぶりよってからにありばしするごつ言いよってとか程度の低い貶し合いが勃発していたと聞くあたりとてもそうは思えない。最初の内こそ会敵した相手へ日頃の恨み辛みを吐きながらまっごあくしゃうつ、うたるっぞぬしゃ等と挑みかかるのだけれど、大抵車両数が減って会敵しづらくなる中盤から終盤にかけては完全に頭に血が上って同じ陣営内で、ぬしゃあ、試合前でん何時(いっ)でん彷徨(さる)き回りよってからに終いにゃくらわすぞとか、しゃんこっ知っかとか醜い言い争いをはじめて無線上でも泥仕合が始まったのだそうだ。

 無線での怒鳴りあい喚き合いなので、観戦している側からは日頃の堅苦しい戦列ではなく自由に走り回り撃ち合いと見ていて楽しそうとすら思えるのだが、その実、聞くに堪えない女子高の悲喜交々がみっちりだったそうだ。中等部の頃に観戦した時は全然知らなかったが、のちに録音記録を聞いて後悔したものだ。私も熊本出身なのだけれど、特に中盤あたりのボルテージが上がり切った頃の罵り合いは標準的な若者の使う熊本弁だけでなく、ローカルな言い回しやすっかりとさかに来てこんがらがった罵倒などが頻出してとてもではないが聞き取れなかった。

「……なばうるしゃーね」

「ええ。何言いよらすかいっちょんわからん」

 とは当時一緒に聞いた赤星との感想だ。

 たまにそういうじめじめっとした恨み辛みだけでなく、先輩実は私先輩の事っ、えっ実は私も、という大告白劇をかます連中もいたようだが、大抵の場合そういう青臭い連中はその直後に敵味方双方から寄って集って囲まれて白旗が上がろうと構わずに盛大な祝砲を見舞われるのが伝統らしい。

 さて。来年は三年生になり、そして隊長として戦車隊を率いる私がどうしてまた先ほどかららしいとかだそうだとか頼りない伝聞系で言っているのかといえば、実のところ私がそういう伝統的な追い出し戦を経験したことがないからだった。

 私が初めて追い出し戦を経験したのは去年、つまり私が一年生の頃で、さらに言うならば我が黒森峰が前人未到の全国大会十連覇に失敗した、敗北の年だった。

 この年は、何しろ学園艦全体が沈み込むような敗北に打ちのめされた年だった。隊長が扇動し、立て直し、士気を持ち直したとはいえ、互いに罵り合ってすっきりと鬱憤を晴らして、などというお祭り騒ぎができるような気分ではなかった。どう立て直そうが三年生には来年などなく、最後の年を優勝を逃した一年として悔いながら卒業していかなければならないのだ。

 例年も最終的には卒業生に花を持たせる形で僅差で勝敗をつけるというのが伝統だったから、その年も卒業生に花を持たせてせめてもの餞別としよう、そのような空気があったのは確かだ。

 そのしんみりとした空気を、西住まほ隊長は徹底的に破壊した。

 ものの見事に追い出された三年生もそう思っただろうし、隊長に指示されて動いた在学生もそう思っただろうし、私だって何も知らなければこいつ本当に空気読めないなと思っただろう。隊長室で胃液も出なくなる位に嘔吐くその背中を撫でていなければ。

 西住隊長は本当に徹底的だった。黒森峰を仕切り直すために、このまま自動的に手札から消えることになる三年生を、最後まで有効活用することにしたのだった。

 受験もあり、大会前と比べて明確に真剣さの薄れた三年生は、それでも強豪黒森峰で優勝を重ねてきたベテランだ。隊長は彼女たちを完膚なきまでに排除することに決めた。敗北を引きずることを止め、新生黒森峰を打ち立てるために。

 三年生を主要メンバーから外し、二年生、一年生を主軸とした戦車隊を訓練するのは、当たり前のことだ。例年であればその年の大会の戦績をもとに、苦戦した相手校を仮想敵とした対策を練っていただろう。しかしこの時隊長は、今までにない仮想敵を設定した。狙い外さぬ高火力、砲弾弾く重装甲、僅かも乱れぬ大戦列。鉄の掟を鋼の心で敷いた常勝無敗の強豪校。黒森峰女子学園をこそ仮想敵に設定したのだった。それは三年生を狙い撃ちにする冷徹な指示だった。

 ちりちりとした緊張を学園に感じたのは、私だけではなかっただろう。露骨に全体訓練から外された三年生たちは、西住隊長の遣り口を挑発と受け取った。もとより一年生から隊長に抜擢された西住隊長を疎ましく思っている者は多かった。日頃は例え年下でも隊長である西住まほに逆らうことはできない。黒森峰はそんな掟破りを許さない。しかし、無礼講の追い出し戦となれば、話は別だ。これが最初で最後の、西住まほをねじ伏せるチャンス。

 そう思わせるのが西住隊長の狙いだったのだろう。腑抜けた三年生を蹴散らしたところで、黒森峰は立ち上がれない。全盛期の黒森峰を叩き潰してようやく、新生黒森峰が成る。その為ならば煽って嗾けて、全力を引き出し、そしてその上で磨り潰す。新生黒森峰という花を咲かせる、その糧とする。

 三年生はそんな隊長の思惑を分かった上で挑発に乗った。自分たちを踏み台に黒森峰が奮起できるのならばそれもよし。だがそれならばただで負けてやる気はないと、敗北に打ちひしがれていた彼女たちは立ち上がった。自分たちを容易い踏み台だと思うなよと、折れかけていた鋼を打ち直し、やって見せろ西住まほと気焔を上げた。常勝黒森峰に泥を塗った無能な指揮官風情が、実際に黒森峰を勝たせ続けてきた私達を倒せると思うならやって見せろと。

 もはやただのお祭りではない。お互いをねじ伏せんとする二頭の虎の睨み合いだった。隊長はやり過ぎたんだ、眠れる虎の尾をわざわざ履帯で踏み抜いたんだ、そう在学生は震え、そして巻き添えで磨り潰されないようにこれまで以上の必死さで訓練に勤しんだ。

 そう、そこまで、三年生が奮起し、在学生が必死さを覚えるそこまでが、隊長の狙いだった。

 まったく偽悪者(あのひと)らしい。

 敗北に打ちのめされたままでは、きっと三年生たちは卒業した後もそれを引きずり続け、やがては戦車を降りてしまうかもしれなかった。とびきりの起爆剤が必要だった。怒りとプライドが、隊長の選んだ爆薬だった。敗北に沈んだままでは、今まで勝利する黒森峰しか知らなかった在学生は来年の勝利を想像できなかっただろう。実績が必要だった。自分達が弱かったのでは、悪かったのではないという驕りを含ませてでも、黒森峰には勝利が必要だった。

 だから隊長は悪者になった。三年生にとっては自分達を侮る忌々しい小娘。在学生にとっては自分達の上に圧政を敷く独裁者。つくづく器用で、何処までも不器用な人だ。

 その年の追い出し戦は熾烈な一戦だった。無線を通して聞えるのは西住隊長への怨嗟ばかりだった。お前が無能だから、あんたが失敗したから、西住流なんて名ばかりじゃないか、三年生勢からも在学生勢からも向けられる悪意を、西住隊長は一身に受け止めた。全く見事な手並みだった。あの人は西住みほ(いもうと)を校外に去らせ、その罪を告発しながら、しかし溢れ出る悪意をコントロールし、その全てが自分に向かうように仕向けた。その場にいない誰かに向けた方が余程効率が良いだろうに、それでもあの人は西住まほで、どこまでも西住みほの姉だった。

 その悪意の嵐の中で、敵も味方も容赦せず、詰将棋の様に駒を削り、瓦礫の丘にただ一両残ったティーガーⅠは、名実ともに黒森峰の女王となった。血反吐と脂汗と自ら背負い込んだ十字架に潰された独裁者に。

 恐怖と罪悪とで雁字搦めになった黒森峰が解放されたのは、結局勝利によってではなく、再びの敗北によってだった。大洗女子学園という無名の学校を引き連れた、かつて追放した西住みほの手によって、黒森峰は再び解体された。身勝手な話だが、黒森峰はそうしてようやく、罪悪感から解放された。赦しを得た気持ちになった。新たな風が吹きこみ、瓦礫から街が再生するように、黒森峰は本当の意味で新生黒森峰として遣り直し始めた。もはや惰性となっていた悪意は行き場を失い、強張った緊張は緩み、まっさらになった。

 そして黒森峰に独裁者はいなくなった。もはや縛る鎖はなく、悪意が向く先もなく、罪を負うべき十字架は取り払われた。

 そして、そうして、身軽になった西住隊長は、帰り道を見失った迷子のように見えた。

 

 

             ‡             ‡

 

 

 真面な形で追い出し戦を経験するのは或いはこれが初めてかも知れなかった。

 一年生の頃は、ただ西住流本家の娘であるというだけで隊長に抜擢され、よく知りもしない戦車隊のメンバーの言い争いを、何だかよくわからないままに聞き流しながら、半分も覚えきれていない保有戦車やレギュラーメンバーの癖を覚えるのに必死でそれどころではなかった。

 二年生の頃は、とにかく瓦解しかけていた戦車隊を立て直すことに腐心していて、今度もそれどころではなかった。おのれ西住とかお前のせいでとかコッペパンを要求するとかいろいろ言われた気がするが一々気にしてたら持たないので聞き流していた。一々聞かなくても持たなくて結局隊長室で昼ご飯を残さずリバースしてエリカに背中をさすって貰ったが。

 さてさて、ついに追い出される身となった三年生。今年は幾分気が楽だった。色々気を回していた去年一昨年とは違い、今年は何も考えなくていい。私が何をしなくてもうまく回るようになった。いや、元々私が余計な事をしなければ、黒森峰は健全に回復したのかもしれない。それが拗れて、捻くれて、遠回りしてしまったのかもしれない。

 つくづく私は無能な指揮官だった。雨の中、隘路を行かせたのは私だ。プラウダの戦車に気づけなかったのも私だ。みほの独断専行を止めることをしなかったのも私なら、そのフォローさえしてやれなかったのも私だ。敗戦処理さえまともに出来ず、あちこちに犠牲を求めてそれで何とか張りぼてを維持するのが関の山。その癖自分の手元には後生大事に飼い犬を取っておく。いやまったく、こんな指揮官の下にだけはつきたくないものだ。

 既に三年生は全体訓練の義務はなくなり、真面目な連中や戦車の恋しいものだけがいまも後輩たちに交じって虎を乗り回している。私はまだ隊長なので抜けるわけにもいかないが、もう指揮の全てはエリカに任せ、それを時々補佐するにとどめている。

 私は無能な指揮官で、理想的な教師とは言えなかったけれど、けれどエリカはそんな私の教えを良く良く吸収し、自分の中で消化し、彼女なりの戦車道を練り上げようとしている。気負いがちなエリカは、黒森峰を率いることを、西住流を背負うことを或いは相当なプレッシャーに感じているかもしれない。みほがいればそんな重責を負わせることもなかっただろうけれど、しかし、私は出来ない事をさせる人間ではない。母にも面を通させ、私が卒業して離れた後もそれとなく支えてくれるよう門下の人間にも頼んである。

 私に出来ることは、本当に、もう、それくらいだ。

 みほの手によって二度目の敗北を与えられ、黒森峰がようやく呪縛から解き放たれ、次期隊長としてエリカに教えられることを教え、全ての引継ぎを済ませ、そして二月に入る頃には私はもうやることが無くなっていた。

 だから卒業目前のこの追い出し戦は、私からエリカに与えられる最後の贈り物となるだろうと、そう思っていた。西住流との戦いに於いて、エリカの中の西住流を、エリカの戦車道を見直す機会になるだろうと。

 結論から言えば、与えられたのは私の方だった。

 私にできる最大限でエリカを迎え撃ってやろうと布陣し、試合開始の合図を聞くなり攻勢を仕掛けんと咽頭マイクに手をかけた私は、無線による先制攻撃を受けたのだった。

 追い出し戦が伝統的に無礼講の罵り合いに発展する事は知っていた。何しろおかたい校風の黒森峰だ。ガスも溜まればストレスも溜まり、積もりに積もった鬱憤たるや相当なものだろう。去年も胃袋の底から心臓の下までざくりざくりと言葉のナイフで刺されまくっただけに覚悟していたのだが、今度は勝手が違った。咽頭マイクに号令をかけようと口を開いたまま、私は無線から聞こえる言葉の砲弾にぶん殴られ、ぽかんと口を開けて呆けることしかできなかった。

 第一声はよりにもよって味方である三年生からだった。

『西住隊長、ありがとうございましたァ!』

「……は」

『隊長が引っ張ってくれたおかげで、あたし達いまも戦車に乗ってます!』

『あの時ハッパかけてくれなかったら、何時までもうじうじしてました!』

『隊長にばっかり全部押し付けてすみませんでしたァ!』

 次いで二年生も合流した。

『隊長がいてくれたから、私達頑張ってこれました!』

『先輩の背中見てたら弱音なんて吐けなくて、なにくそってなれました!』

『妹さんの事辛かったのに、ずっと気にかけてくれてありがとうございましたァ!』

 一年生がそれに続いて、もう無線はパンク状態だ。

『黒森峰もう駄目なんじゃないかと思ってましたけど、隊長がいたからやってこれました!』

『いっつも誰より早く来て、誰より遅く帰って、私たちみんなの憧れです!』

『ディアンドル来て率先してビール注いでくれたの、感激でした!』

 後はもう、集中砲火の雨あられだ。

『お前が西住だからってぜんぶやらせてごめん! あと先月貸したコーヒー代返せよ!』

『ホントは私たちが支えなきゃいけないのに、いつも助けてもらってありがとうございます!』

『大学行っても戦車道頑張ってください! あとタンクジャケット下さい!』

『あっ、ずるい! わたし帽子ください!』

『私も私も! 制服ください!』

『下着下さい』

『おい今ん誰ぞくらわすぞぬしゃア!』

『ずっと憧れてました! 隊長は私たちのヒーローです!』

『流石西住殿の姉上殿、人気者であります』

『西住、今だから言うけどお前の部屋のノンアルコールビールがめたの私達だわ』

『うえぇええええんたいちょぉおおおおお!』

『この際歯ブラシとかでもいいんで』

『誰かそいつ黙らせろ!』

「…………っ……」

『あっ、やばい、無線止めろ、あ、やべっ』

「うぐぶぶぅええええ」

『え、今のなに』

『なんか引き潰されたガマガエルみたいな声が』

『中止! 中止ー! 隊長のキャパ超えた!』

「おぉおえ゛ええええええ」

『吐いたー!』

『西住さんが吐きよらした!』

『いかんかってん、普段褒められ慣れちょらんかい!』

『謝れ、西住隊長に謝れ!』

 隊長が車内でマーライオンして開始早々一時中断になる追い出し戦は前代未聞だっただろう。まさか自分が使うことになるとは思わなかったエチケット袋にたんまり昼飯を流し込み、エリカに背中をさすられてなんとか回復したのち、追い出し戦は粛々と再開された。胃の中がすっからかんになり、戦車隊全員にその嘔吐シーンが筒抜けになったという屈辱的イベントのおかげで私はいっそ清々しい気分で皆殺しにすることを決めた。ゲロ住隊長という親しみのこもったニックネームを口にした奴から優先的に砲撃をお見舞いして容赦なく磨り潰し、最終的にエリカ率いる四両がかりで取り押さえられるまでに敵味方合わせて十九両を撃破し、後に鬼神西住の乱として単独撃破レコードを更新したらしい。

 回収待ちの戦車に腰掛けて、何だか初めて見るもののような気持ちで、隣に突き出た白旗をぼんやり眺めていると、何を気兼ねするでもない自然な調子でやってきたエリカが手を差し伸べてきた。

「すっきりしましたか、隊長」

「…………二重の意味で」

「軽口が叩けるなら結構。シャワーでも浴びてもう一つすっきりしましょう」

 汗を孕んだ髪を重たげに払うエリカは、普段と変わりないように思えた。あの嵐のような無線攻撃の中に、エリカの声はあっただろうか。思いがけないことにテンパってしまってよく覚えていない。

 嘔吐して、暴れ回って、腹の底にたまったものをすっかり吐き出したつもりだったけれど、こうしてエリカを前にすると、どろりと濁ったものがまだ溜まっているのが自分でもわかる。もしもエリカだったら、無礼講のあの場所で、一体何と言うのだろうか。私に対して、何を思っているのだろうか。何を叫ぶのだろうか。知りたいような。知りたくないような。

「隊長?」

「……いや、なんでもない」

 エリカの手を取り、立ち上がる。

 知る必要などない。知る資格もない。

 後はもう、終わらせるだけなのだから。

 エリカとシャワーを浴び、いつもならばそのまま夕食でも一緒し、流れで同衾するところを、訝しがるエリカに断って独り部屋に戻った。

 私は自分が然程演技の得意な人間だとは過信していない。心を押し殺すことに平然としていられる訳ではない。肌をあわせ体温を共有し、かすれ気味に名を呼ばれて、揺らがずにいられる自信はない。

 夕食も摂らず、冷たい寝床でまんじりともせず一夜を過ごし、私は卒業式の朝を迎えた。主席として、卒業生代表として、式次は全て頭の中に叩きこんでいた。どの様な流れで、どの様に動き、何時何処で何を為せばいいのか。瞬間瞬間にめまぐるしく齎される情報を組み合わせて臨機応変に指揮を下さなければならない戦車戦に比べれば、この堅苦しいだけの式などいっそ眠気すらもよおすような退屈なものだ。

 自分が一個の歯車になったような心地で、私は粛々と式次をこなした。同じ釜の飯を食い、同じ戦車に鮨詰めになり、同じ旗の下で戦った同級生たちが堪えきれず涙を溢していく中、私は不思議と平静な気持ちだった。この後の事を思えばそれどころではなかったのかもしれない。しかし本当に我ながら不思議な事に、涙のただ一滴が零れるどころか、その滲み出ることさえもなく、私の視界は最後までフラットだった。

 卒業式を終えて、私は母と顔を合わせた。保護者席ではなく迎賓席に当然のように座っていた母は、講堂を出て日の光に目を眇めるように、つまりは常の様にしかつめらしい表情で、ただ見事でしたとだけ私を褒めた。いや、果たして褒めたのだろうか。当然のことを当然のようにこなした。それに対する平坦な評価であったようにも思える。

「私は先に帰ります」

「お送りします」

「結構。貴女もまだすることがあるでしょう」

「……はい」

 母の言う通り、まだ幾らかの引継ぎが残っている。それに、大物は粗方転居先に送ってあるが、最低限残した荷物を纏めて寮を退去しなければいけない。

 母の背を見送り、私は重たい足取りで移動を始める、泣きながら笑いながら、友人と家族と、記念撮影をあちこちで繰り広げる喧騒を潜り抜け、先輩、西住先輩、隊長、西住隊長と纏わりつく後輩を適当にあしらい、向かった先は寮ではなく隊長室でもなく、校舎裏のささやかな中庭だった。

 今年はいくらか雪解けが遅かったが、それでも名残雪はもう姿を消し、桜の花がひらりひらひらと涼しげに散っていた。

「隊長」

「すまない。待たせたか」

「いえ、いま来たところです」

 まるでデートのテンプレートだ。知らず苦笑いがこみ上げた。思えば私たちは、曲がりなりにも肌を合せ、歪んだなりにも恋情を交え、捩じれたなりにも恋人同士であったというのに、デートの一つもしたことが無かった。私が足として体よく使ったことはあったが、その位のものだ。私達の関係はいつも饐えたベッドの上だけだった。

 結局、けりをつけようだなんだと言って、元から私たちの関係などそんなものだったのだ。

「隊長?」

「いや、なんでもない」

 込み上げてきた苦い笑いを噛み殺す私に小首を傾げるエリカ。ああ、そうだ。なんでもない。こんなことは、なんでもないことなのだ。

 後輩にもみくちゃにされて乱れた襟を正し、ボタンのかけた制服をなんとか見れるように整え、小さく呼吸を整えて、ああ、そうやって無駄な時間稼ぎなどをして、ようやく私はエリカに向き直る。

「エリカ」

「はい」

「エリカ」

「はい、隊長」

「……エリカ」

「なんでしょうか」

 ああ、エリカ!

 込み上げる思いとは裏腹に、私は言葉を紡ぐことが出来なかった。ずっと考えていたのに。ずっとずっと考えていたのに。別れようと、終わりにしようと、ただそれを告げるだけだというのに。

「エリカ。お前には随分助けられた」

「私を助けてくれたのは隊長ですよ」

「それも、それだって、本当はお前の為ではなかった。お前の為なんかではなかったんだ。ただただ、私の身勝手で始めた事だった」

「隊長?」

「エリカ。ずっと言えなかったことがあるんだ。ずっとずっと、言えなかった」

 するりするりと言葉を紡ぐことはできなかった。しかし、一度吐き出し始めた血反吐は、止めようがなかった。私はつっかえながら、迷いながら、全てを吐き出して行った。私がエリカに焦がれていたこと。みほの引き起こした事件で、丁度良いと思ってしまったこと。エリカを自分の都合のいいように誘導し、自分の傍に置くために何もかもを捻じ曲げてきたことを。ただただ純粋であったお前を、私の身勝手で歪めて、染め上げて、自分のモノにしてしまいたかったことを。

 そして、身勝手に身勝手を重ねるように、これで終わりにしたいと。

「終わりにしよう。エリカ。これで終わりにしよう。これでお別れにしよう。私の身勝手で初めて、私の身勝手でこんなことを言うのは、あんまりにも身勝手だとは思うけれど、でもこれ以上、お前を私の身勝手で縛り続けるのは、私自身耐えられそうにない」

 私の勝手な告白に、エリカは形の良い眉をぎゅうと寄せて、薄い唇を歪めて、けれど何も言わず、ただ私をねめつけていた。視線が痛かった。責めるような言葉のない言葉が私を痛めつける。だが私はそれを甘受しなければならない。罪には、罰が与えられなければならない。

「今まで、こんな私の面倒をみさせて、本当にすまない。これからは自由だなんて、そんな綺麗事で済むわけじゃないのは分かっている。本当に、本当にすまない。罵るなら罵ってくれ。殴るというなら殴ってくれ。そして、そうして、私の、私なんかの泥を振り払って、逸見エリカとして黒森峰を導いてやってくれ」

 私は地面を見つめるように頭を下げた。

 西住流家元の娘として、私は頭を下げることの多い人生を送ってきた。後援者、お偉い方、関係各所、昨年に続き今年も敗北を喫し、数えるのも面倒なくらい頭を下げてきた。だが、これほどまでに心から頭を下げたことはついぞなかった。首を差し出すような心地だった。

 エリカは少しの間そうして私のつむじを眺めて、それから、鉛のような溜息の後に、私に頭を上げるように言った。

「わかりました。では、一発、いえ、二発だけ殴らせてください」

 二発と言わず、何発でも殴ってくれて構わない。それだけのことはしてきたつもりだ。だが或いは、回数を決めることで、エリカもまたけりをつけようとしているのかもしれなかった。全てを清算しようとしているのかもしれなかった。私という存在と、たもとを分かつために。それは私が望んでいた事であるにもかかわらず、酷く私の胸を締め付ける想像だった。

「わかった。殴ってくれ」

 顔を上げ、しっかりと地面を踏みしめ、私は歯を喰いしばった。

 エリカはゆっくりと私に歩み寄り、そして手を振り上げなかった。盛大に平手でも喰らうかと思ったが、エリカはいっそ控えめに、軽く拳を握ってゆるく胸の前で構えただけだった。

 こんな最悪の女に引導を渡そうというその時まで、お前は私を気遣ってくれるのか。

 そう胸の切なくなるような思いを抱いた瞬間、私の視界がかくんと左にぶれた。

 あれ、と思う間もなく膝から力が抜け、そしてまた次の瞬間には私の視界は上に大きくぶれて、そしてそのまま暗転したのだった。

 

 

 

             ‡             ‡

 

 

 

 追い出し戦は酷いものだった。

 まあ私が整えたのだけれど。

 大会を終え、粗方引き継ぎも終えて、隊長は気が抜けたのか毒が抜けたのか、すっかり腑抜けたようだった。大方センチメンタルな気分にでもなっているのだろう。何しろ卒業だ。とりあえず黒森峰で背負い込んだ荷物は盛大に横合い(おおあらい)から殴りつけられてばら撒いてしまい、残った荷物も引き継いで、重責が一度に失われて呆然としているのだろう。何しろもともとが西住流の嫡子としての重責やら重圧やらを背負って生きてきた人種だ。急に負荷が減った今は、重力が弱くなったようにすら感じられるのだろう。

 そんな風に周囲を見張る支配力も薄まっていたので、その隙に根回しは済ませておいた。

 今年入ったばかりの一年生は連覇を逃したとはいえ黒森峰に憧れをもって入学してきたし、その頂点たる西住流の王者には尊敬の念を抱いている。後ろ暗い気持ちなどないから楽なものだ。入学早々衝撃の敗戦を経験し暗黒の支配時代を経験した二年生たちは、しかしそれ故にハングリー精神が違う。勝利が当然ではない連中だ。敗北を覆そうと足掻く隊長の背中を見てきた彼女らを煽るのは大したことではなかった。西住隊長と最も長く共に戦ってきた三年生たちとなれば一番威力もある。彼女らは敗北やその後の支配に思う所も多いが、しかしそれらをうまく裏返してやれば残るのは西住隊長への信頼や友愛、共に戦ってきたという実績がそれを強化する。

 黒森峰の為と言えば彼女たちは歯車のように働いてくれただろう。けれど私はそうしなかった。西住隊長の為にと、ただそう言えばよかった。そう言えば彼女たちは気持ちよく動いてくれたし、そして何より指示を出す私も気持ちがよい。

 その様に根回しがすっかり済んだ追い出し戦は、無線による親愛を込めた砲撃(フレンドリィファイア)で開幕した。

 日頃から自虐的なメンタルだから罵詈雑言の類には慣れきっているマゾヒストも、思いがけない大感謝合戦には動揺したらしく、というか動揺し過ぎたらしく、まさかの胃の内容物をそれゆけ乙女の戦車道。一時は騒然となったが、復活した隊長のその後の暴れっぷりも相当だった。盛大にろっぱーしてすっきりしたのか、戦車隊一同の前で醜態を晒して開き直ったのか、親しみを込めてゲロ住隊長呼ばわりした三年生がまず血祭りに上げられ、鮮やか過ぎる同士討ちに動揺する周囲の戦車に次々襲い掛かり、敵味方容赦なしのバーサーカーが誕生してしまった。西住流の最先端を駆ける王者、黒森峰の虎こと西住まほが本気を出してプッツンしたのだから、味方だからと油断していた三年生は勿論、経験で劣る二年生、一年生など阿鼻叫喚の地獄絵図だった。

 まさかこんな形で爆発するとは思わなかったけれど、まあなにしろ生きた地雷みたいな面倒臭い人なのは承知の上だった私はもとより遠目に布陣していたので、手早く周囲の数両に喝を入れて乱戦から離脱。燃料と砲弾と体力と集中力を無駄に消費させ、疲弊したところで四両がかりで囲んで仕留めるという狩りの原則にしたがったやり方をさせて貰った。何しろ仕留めるまでに単騎で十九両も仕留めてなお敵を探してうろつくような暴走状態だったから、紳士的にはやれなかった。

 なお、この鬼神西住の暴虐を治めた件は後に逸見エリカの鬼退治とかいうある種のお伽噺みたいに言い触らされていた。よかったじゃない小梅、あんた犬だって。猛犬チワワ。

 撃破された戦車の回収を進める中、隊長はぼんやりと白旗を眺めていた。まあ、何しろ隊としてはともかく個人としては妹以外に負け知らずの隊長だ。自分の戦車に白旗が立っているのはさぞ珍しかろう。

「すっきりしましたか、隊長」

「…………二重の意味で」

「軽口が叩けるなら結構。シャワーでも浴びてもう一つすっきりしましょう」

 手を差し出してやれば、なんだか憑き物が落ちた様な、落ち切らなかった様な、なんともいえない浮かない顔だ。これはまた面倒臭い事を考えているらしかった。つまり、いつものことだった。

「隊長?」

「……いや、なんでもない」

 どうみてもなんでもなくないのだけれど、これは突っついても無駄でしょうね。豆腐の様なメンタルの癖に無駄に頑固な鍍金豆腐だ。突いて拗れるのも頂けない。

 手を取り立ち上がらせれば黙ってついてくるけれど、答えの出ない思考にでもはまりこんでいるのか、足取りはいまいち頼りない。

 手早くシャワーを浴びさせ、とにかくさっき吐き出した分だけでも栄養を補給させてさっさと寝かしつけようとまた手を引こうとすると、珍しく拒まれた。少し疲れたからもう休むと言う。夕食はどうしますかと尋ねれば食欲がないという。

 これは本当に駄目な奴だな、と私は早々に諦めてそこで別れることにした。隊長が拒食や不眠に悩まされるのは何時もの事だ。そして良くへこむ癖に半端に強いメンタルのせいでそれ以上には悪化せず、同年代として殆どハイエンドにあるフィジカルがその程度のダメージを回復可能な程度と認識してしまうというのが隊長の一番面倒な所だ。常に状態異常ダメージを被っているにも拘らず反則じみた自動回復で釣り合いが取れてしまっているという面倒臭さ。

 混乱或いは発狂のステータス異常ももれなくついているので、私という介護職が適宜解毒なり解呪なりどつくなりしてやらねばならないのだけれど、生憎私はそんな馬鹿みたいな胆力も体力もないので、学食のブルストを詰め込み、明日の準備を手早く整えてたっぷりの睡眠時間を確保した。介護が参る様ではミイラ取りがミイラだ。

 そうして迎えた卒業式の朝は天気も良く快晴で、風も涼しく良い一日を思わせる素敵な始まりだった。そこだけ切り取れば。私は式の後に確定で厄介なイベントが待っているので、ただただ雨が降らなくてよかったとそればかりであった。

 卒業生代表として振る舞う隊長は、傍から見れば全く完璧だった。すっかり根付いてしまった目元の隈もうまく化粧で隠しているし、ピンと伸びた背筋は寝不足など伺わせない。大方朝御飯も食べなかっただろうに、よくまあもつものだ。何時も見ている私からすれば随分痩せたものだとは思うけれど、おかげで針金のような筋肉が鋭い印象を作り、ミーハーな一年生や、ミーハーな保護者などに受けているようだった。ちょっと陰がある感じが素敵よね、と言ってますが奥さん、それちょっとじゃないわよ。

 堅苦しい卒業式を終える頃には、そのうち貧血で倒れるんじゃなかろうかという心配も失せ、どうにかこうにか、世話になった先輩であり、共に戦った戦友である三年生たちと今日でお別れなのだなという心持になれ、思わずほろりと涙を零しそうになった。零さなかったのは私が非情なせいではなく、何処か他人事のような顔でそれを眺める隊長がいっそ哀れだったからだが。

 式次が滞りなく終わり、生徒が解散していく中、私は思わぬ人に声をかけられた。いやまあ、本当に思いも寄らなかったと言えば嘘になるというか、卒業式中、密かに在学生席に視線を巡らせ、私を見つけるなり安堵らしき色を見せる顔なんか見てしまったのもあり、来るだろうなとは思っていた。

「逸見さん、いいかしら」

「……はい、家元」

 戦車道西住流家元にして西住まほの実母であるその人は、怨敵を睨み殺さんとするようなしかつめらしい表情で、つまり何時ものお腹が痛くて早くおうちに帰りたい顔で、じっと私を見据えた。傍から見れば娘についた悪い虫にメンチ切ってるようにも見えるのか、微妙に周囲から敬遠するような空気を感じるけれど、この無言はつまりなんて言ったらいいのかわからないけれど何か言わなくちゃいけなくてでもお腹痛いしという家元の葛藤の表れなんだろうと思う。私の勝手な想像にすぎないけれど、付添で来たらしい女中さんが絶対に笑ってはいけない西住家みたいな堪え方をしているので間違いないと思う。

「在学中、まほが色々と迷惑をかけたと思います」

「いえ、そんな……」

「いいの、親の前だからといって気にしなくていいわ」

 そうは言われても、人間として最低限度のマナーとして、まさか真正面からほとほと面倒臭い拗れ具合に甚だしく迷惑をかけられています、あと妹も迷惑ですなどとはいえる筈もない。第一その迷惑やら面倒やらを喜んで抱えている阿呆が私なのだから。

「まほは卒業して、この艦を離れます。今までのようにすぐ傍にいるという訳でもなく、すぐに会いに行くという訳にも、なかなかいかないでしょう。貴女も黒森峰の隊長として忙しくなる。もしかしたらこれが最後になるかもしれません」

 怒っているように顔を顰めて訥々と言葉を紡ぐしほさん。私はこの人が苦手だった。

 最初に会ったのは、隊長のご実家でだった。

 卒業する前に少しずつ実家の荷物を纏めてしまいたいという建前で騙されてついて行った先で、あれよあれよという間に段取りを組まれて、気付けば西住流家元と対面させられていた。しかも彼女ですなどと紹介されてしまった。戦車道の家元の前に座っているという緊張が無ければ思わず、私たち付き合ってたんですかとこぼしてしまう所だった。勿論、私は隊長の事をそういう意味で好いているし、その様な関係になれればよいとは思っていた。しかし一方で、隊長が自分を正式に彼女と認めているとは思ってもいなかった。そのような近しい分類に誰かを入れることのできる人だとは思わなかったのだ。

 当時はまだしほさんの機微も良くわからず、射殺すような眼つきでじっと見据えられて、あ、これは死ぬな、とそんなことを思いながら形式ばった挨拶をした記憶がある。

 そしてその印象は、しほさんが隊長に席を外すよう言って、私と二人きりで向かい合ってようやく薄れた。最初は家元と一対一で向かい合うなんて、緊張で胃が捩じ切れるかと思った。しかし今思えばしほさんの方でも同じように胃が捩じ切れるような思いで何とか勇気を振り絞って私とお話ししようとしていたのだ。

 しほさんはその時、本当に付き合っているのかというような内容の事を、大変言い辛そうに聞き辛そうに、そして聞きたくなさそうに聞いてきた。まほの事を思って、好いて付き合っているのかしらとそのように言われた。いっそ不躾なくらい素っ気ない尋ね方に少し腹が立ったが、娘を思う母親が、昨今は差別も減ってきたとはいえ同性の恋人に対して思う所もあるのだろうと私は受け止めた。何処の馬の骨とも知れないと思われるかもしれませんが、私は私なりにまほさんに尽くしたいと思っていますとそう答えた。親とは言え他人からとやかく言われる事ではないと幾らか棘があったかもしれない。

 しかしそんな棘は、しほさんの憂うような問いかけにすっかり萎えた。というのもしほさんは酷く気まずそうにこう尋ねてきたのだ。何か弱みでも握られているのかしら、と。ぽかんとする私にしほさんはお腹の辺りを抑えながら続けた。騙されたりしてないかしら。あの子は普段はだんまりな癖に口ばかりは上手いから。悪い子ではないの。ただ、昔から我慢をさせてしまったり、強くあることを求めてしまったものだから、ちょっと、その、なんというか。もごつくしほさんに私はつい口をはさんだ。「拗れている」。そう、そうなのよ、としほさんは目に見えて肩を落とした。それはもう厳格な家元でも気難しい女性でもなく、ただただ自分の教育に不安を抱えた母親でしかなかった。それも胃痛持ちの。

 それから私はしほさんと随分お喋りしたように思う。隊長に対して色々思う所があるのは、私たち二人とも同じだった。私の悩みを愚痴り、しほさんの悩みを受け止め、随分胸の裡を晒し合ったように思う。女中さんの入れてくれたぬるめのほうじ茶を頂く頃には随分時間が経っていた。その後もこまめに文通などしてしまっている。

 その様な経緯があって、私はしほさんが苦手だ。何故って、この外面シベリアンハスキーの内面チワワであるキツネリス系家元の相手をしているとどうにも母性じみた庇護欲が湧いてきてしまって、そっと抱きしめてよしよし大丈夫大丈夫とやりたくなってしまうのだ。実際愚痴り合いした時はやった。最初は困惑しながらも段々力が抜けて行って最終的に膝枕でおねんねする家元は犯罪的だった。それを最高に楽しそうに撮影する女中さんも酷かった。

 そんなしほさんが今、またしてもいいこいいこしたくなる様な(胃が)切なそうな顔で私に頭を下げるのだ。

「貴女からすれば、まほの卒業はいい機会かもしれません。物理的に距離が離れれば、こころを繋ぎ止めるものも弱くなります。ふねとおかとに別れれば、自然とすれ違い、離れていくものです。私が娘達のことを理解してやれなくなっていったように。でも」

 しほさんは、胃痛持ちで腸も弱いしトイレに行ったら三十分くらい出てこないのは何時もの事で、お酒に逃げようにもアルコールに弱いしそもそも胃に沁みるし甘いのじゃないと嫌だし、戦車道以外の事は本当にからっきしでテレビゲームや携帯ゲームの事は一絡げにピコピコって呼ぶしレーシングゲームで体ごと左右に曲がるし、障子紙みたいに弱点ばかりだ。

 けれどこの人は、それでも胃痛の原因となるあらゆることから逃げないのだった。背中が曲がりそうになりながら、きりきり痛むお腹を押さえながら、何にも言いたくないしさっさとおうちに帰りたいしなんならもうふて寝したいしと思っているだろうに、それでもこの人は、私に真っ直ぐ視線を向けて、真っ直ぐ言葉を吐いてくるのだ。この人は逃げられないのだった。真っ直ぐ伸ばした背筋で、真っ直ぐ向けた視線で、真っ直ぐな言葉を、真っ直ぐな気持ちで真っ直ぐ言うことしかできない人なのだった。そういう生き方しか、出来ない人なのだった。

 しほさんは、誰よりも全速力で逃げ出したい気持ちを飲み込んで、今ここに母親として立っているのだった。

「でも、どうか母としてお願いします。あの娘を、まほを、ひとりにしないであげて。私がしなくてはならなかったことを、あなたにお願いするのは間違っているのでしょう。それでも、いままほが必要としているのは、他でもないあなただから」

 強い西住流であること。折れることのない家元であること。そして思い悩む母親であること。この人は全部抱えて、そしてどれも捨てられないのだった、

「お約束します」

 多くの言葉はいらなかった。私はただそれだけ答えて、しほさんの手をそっと握った。人目のある場で、しほさんを慰めるのは、それが限度だった。

 別れ際、私は女中さんにトイレの場所を教えておいた。そろそろ限度を迎えるだろう西住流家元のぽんぽんを思って。

 家元とサシで話すというイベントをこなして平然としている私の姿に、話の内容まではわからないが漠然と凄いという空気を周囲から感じながら、さてどうしようかと同級生の姿でも探していると、メールが届いた。すばやく確認してみれば案の定、隊長からだ。

 私に話したいことがあるから中庭で待っていてくれという文面に、私は今日のこれからの漠然とした予定をすべて脳内でキャンセルした。どうせ素晴らしく面倒くさいことか、限りなく疲れることか、とてつもなく頭の痛くなる案件だ。

 周囲の生徒と適当に挨拶を交わして一人抜け出し、ちらりちらりと桜の散る中庭で待つことしばし。風が時折冷たく刺すが、寒いというほどではない。

「隊長」

「すまない。待たせたか」

「いえ、いま着たところです」

 現れた隊長は、普段伊達者かと思うくらいの隠れお洒落がすっかり乱れに乱れて、まるで追いはぎにでもあって逃げてきたようだった。まあ実際そんなところだろう。ボタンは何個かかけているし、大方ミーハーな後輩たちにはぎ取られたのだろう。おお怖い。

 隊長もそんな自分のなりがおかしいのか、笑ったらいいのか泣いたらいいのかわからないというような妙な表情だった。

「隊長?」

「いや、なんでもない」

 隊長はそれでも何とか、襟を正し、髪を直し、それからえらく慎重に呼吸も整えて、真直ぐに私を見据えた。正確に言うと、隊長は人の目を見るのが得意ではないので、人のネクタイの辺りとか、鼻の辺りとかに焦点を合わせて、漠然と見ているのだが。そんなのだから人の顔を覚えるのが得意じゃないんだろう。興味がないのもあるだろうけれど。

「エリカ」

「はい」

「エリカ」

「はい、隊長」

「……エリカ」

「なんでしょうか」

 もう一回繰り返されたら丁寧に用件を尋ねた方がいいだろうか。それともこれは単に甘えたいときのあの面倒くさい呼びかけなのだろうか。私がぼんやりとそんなことを考えていると、隊長は何やら妙な決心をしたらしく、踵をとんと合わせて、背筋をピンと伸ばして、くいっと胸を張って、偉くもったいぶって口を開いた。面倒くさいにおいがした。

「エリカ。お前には随分助けられた」

「私を助けてくれたのは隊長ですよ」

「それも、それだって、本当はお前の為ではなかった。お前の為なんかではなかったんだ。ただただ、私の身勝手で始めた事だった」

「隊長?」

「エリカ。ずっと言えなかったことがあるんだ。ずっとずっと、言えなかった」

 つっかえつっかえ、まるで懺悔でもするように隊長は自らの犯した罪とやらを語り始めた。正直途中で何度か知ってると口をはさみそうになったが、どうも混ぜっ返すとよろしくなさそうだったので、できるだけ神妙そうに見える表情で聞き流す。生憎とスキップ機能はついていないのだ。あとログ確認機能もついてるとありがたいのだが。とりあえずCG回収のつもりでぼんやり苦悩する西住まほ像を鑑賞してみると、なかなか悪くない。ただまるで赦しでも乞うかのような卑屈な色は好きじゃない。誰だってそんな気分になるときはあるだろうし、吐き出したくなる時もあるだろうが、私に赦しを求められても困る。私は神様じゃない。いや、それともひたすらとぼけた顔でとんでもねえあたしゃ神様だヨとでも適当に返すべきだろうか。懺悔は懺悔室か庭に掘った穴にでもしてほしい。

 などと聞き流していると、どうやら佳境に入ったらしく、すっかり自分に酔った様子で身振りも大きく語りが盛り上がっている。人を扇動するのも得意だけれど、自分を扇動するのも大概得意な人だ。自分と悲劇に酔うのが大好きだから、さぞかし酒に酔うのも好きだろう。

「終わりにしよう。エリカ。これで終わりにしよう。これでお別れにしよう。私の身勝手で初めて、私の身勝手でこんなことを言うのは、あんまりにも身勝手だとは思うけれど、でもこれ以上、お前を私の身勝手で縛り続けるのは、私自身耐えられそうにない」

 勝手な想像をしているとなにやら締めに入っていたらしく、私の反応を待つような視線が刺さってきた。私は咄嗟に眉を寄せ唇をへの字にして、それは難しい問題ですねという顔つきで黙って見つめ返した。ちゃんと話は聞いてましたけれどすぐには返答しかねる議題ですね、隊長はどのようにお考えなのでしょうかという顔で、会議中に話を聞いてなかったりラインをぼんやり確認している時に話を振られた場合に重宝する表情だ。こうすると真剣に会議に参加して、不用意に発言しない慎重な人間だという印象を参加者に与えられ、その上、沈黙の間に記憶のあやふやなログを参照してコメントをでっちあげられるのだ。

「今まで、こんな私の面倒をみさせて、本当にすまない。これからは自由だなんて、そんな綺麗事で済むわけじゃないのは分かっている。本当に、本当にすまない。罵るなら罵ってくれ。殴るというなら殴ってくれ。そして、そうして、私の、私なんかの泥を振り払って、逸見エリカとして黒森峰を導いてやってくれ」

 聞き逃さないように待ち構えていると、やはり私の表情を勝手に解釈してくれた隊長がダメ押しとばかりに補足説明を付け加えてくれた。会議で重要な事柄は殆ど最後の数パーセントだけだ。そこだけ聞けば話は大体わかる。

 つまり、いまこうして頭を下げて地面とフェイストゥフェイスしている隊長は、私に別れ話を切り出しているのだった。

 どうして、何故、私たちうまくいってたじゃない、などという感想は特にない。来るべき時が来たのだなという感じだった。そもそも私たちの関係は歪んでいたのだ。私がそれを修正しないまま甘受していたからだらだらと続いてきたが、私たちはもっと早く関係を健全化しなければならなかった。しかしそうしなかった。そうしたくなかったからだ。他でもない私自身が。

 不思議に、或いは不思議でも何でもないのか、妹の方とよく似たつむじを眺めながら私はどうすればこの人が納得するだろうかということを考えていた。結局のところこの人は自分自身の納得がほしいのだ。私がどうのこうのというよりは、赦しがほしいだけだ。或いは赦されないという罰が。関係を清算してしまいたいのだ。そうしてやれば、私たちはそれで終われるだろう。癒着した皮膚を引きはがして、少しの間痛むだろうが、時とともに傷はふさがり、僅かな傷跡だけが思い出として時折思い起こされるような、そんな風に分かれられるだろう。

 私は知らず溜息をもらしていた。

 最適解は知っていても、それを選ぶことはできないのだ。

 しほさんに乞われたからでもない。このくそ面倒くさい先輩を憐れんでいるのでもない。

 ただただ、私が嫌だったからだ。

「わかりました。では、一発、いえ、二発だけ殴らせてください」

「わかった。殴ってくれ」

 私が疲れたようにそれだけ言うと、隊長は物わかり良く顔を上げ、しっかりと歯を食いしばった。

 何しろ殴った方が痛くなるような腹筋の持ち主だ。戦車道で鍛え上げられ、人間より硬く強力な機械と付き合ってきた女だ。拳程度ならば何発でも甘んじて受けようみたいなそういう聖人面した感じが気に食わない。私が悪いのだから罰を受け入れなければならないみたいなそういうなんか潔い感じに腹が立つ。全く持ってその通りなのだけれど、その位の事をしたと思っているならもっとこう、最後まで悪党しなさいよ。そもそもなんで私が殴ってやらなければならないのか。赦してやらなければならないのか。それであなたはすっきりするかもしれないけれど私は別に人を殴るのが好きでも何でもないし、あー、もー、なんだか苛立って腹が立ってムカついてきた。

 私は拳を緩く握って構えた。拳を最初からしっかり握るのは実はあまり威力が出ない。殴る瞬間に握りこむことで威力が跳ね上がる。パンチ力に握力が関係してくるらしいのはこれが原因だろうか。ボクササイズの習慣のおかげか、ゲームセンターのパンチングマシーンで不動の記録を残してしまって以来、人を殴ろうとしたことがないのでよく知らないが。

 さて、約束は二発だったか。

 なんだか覚悟したような悲壮な隊長に、左手で軽く一発。勿論手加減じゃない。

 鋭く狙いすましたジャブが顎先を打ち抜き、脳を揺らす。何が起きたのか全く分からないぽかんとした顔で、たまらず膝が崩れ落ちてくるので、すでに懐にもぐりこんだ体勢から、右のアッパーで打ち上げる。

 ぐるんと隊長の目が裏返り、「ぉあん」とかなんとかよくわからない悲鳴にすらならない呻きとともに倒れていく最中、私は急な激しい動きで嫌な音を立てた脇の下が破れていないかチェックするので忙しかった。

 

 

 

             ‡             ‡

 

 

 

「黒森峰の副官さー」

「ああエリ、逸見さんですね」

「そう、そうの逸見某ってどういう娘なのかな」

「気になるんですか?」

「うーん、ほら、西住姉がよく連れてるけど、あんまり絡んだことないからさ」

「そうですねえ。優秀な人ですよ。努力家ですし、真面目ですし、ちょっと頭が固いところはありますけど」

「西住ちゃんがそんなに褒めるのって珍しいんじゃない?」

「そうですか? そうかもしれませんね。逸見さんとは是非お友達になりたかったですから」

「その心は?」

「物凄くバイタリティがあるんです。疲れてる時とか壁にぶつかった時ほどエネルギッシュで、どこからそんな元気が出てくるんだろうって、すごく不思議で」

「まあ西住ちゃんとは違うタイプだよね」

「それでどうしてかって聞いてみたら」

「聞いてみたら?」

「『はあ?』『何言ってんの?』みたいな顔されまして」

「すっごい想像しやすい」

「それからちょっと考えて、こう言うんです」

 

『そうね。いつも怒ってるからよ』

 

 

 

             ‡             ‡

 

 

 目が覚めると、寮のベッドの上だった。

 ボタンのちぎれた制服は脱がされ、部屋着に着替えさせられていた。

 ゆっくりと体を起こすと、まだ少し頭がふらつくような気がしたが、しかし殴られたはずの顎は大して痛まなかった。よほどうまく殴られたのだろう。

「お目覚めですか」

 かけられた声にハッとして振り向くと、苛立たし気に眉を寄せて、自分のブラウス相手にちくちくと針仕事しているエリカの姿があった。

「隊長の制服はもう着ないかもしれませんけど、私はもう一年あるんですよ。黒森峰の制服って生地もいいから買い直すとすごく高いんです。その上時間もかかるし」

「え、ああ、その、すまない」

「別に構いません。破いたのは私ですし」

 なんだか不機嫌そうにそう言われると、怒られているのか許されているのかよくわからない。

 頭がだんだん目覚めてくると、気を失う直前のことが思い出されてきて、私はますます混乱した。今はいったいどういう状況なのだろうか。

「ああ、それと」

 私の肩に翌朝には消えるようにうまく歯形をつけるのが得意な犬歯で糸を噛み切りながら、エリカはぞんざいに私に何かを投げつけてきた。咄嗟に反応できず額に直撃したそれをなんとかわたわたと受け取ると、それはボタンだった。何の変哲もない制服のボタンだった。

「色々むしり取られてましたけど、第二ボタンは無事だったので、私のと取り換えておきました。折角なのでお守り代わりにでも持って行ってください」

 はあ、となんとも間の抜けた返事しか出てこない。

 手の中のボタンを見つめてみる。何の変哲もない、本当に有り触れた、普通のボタンだ。でもそれはエリカの第二ボタンであるらしかった。ここ二年ほど、エリカの心臓に一番近いところにあったボタンであるらしかった。

 針仕事を終えたらしいエリカは、改めて制服を着直して、違和感がないかチェックしていた。隙の無いような、隙だらけのような、我が物顔に振る舞う猫のような、自然体だ。

「ええと、エリカ、その、結局……」

 なんだか私が考えていた展開ではなかった。歯切れの悪いシナリオだった。すっぱりと別れて今頃一人海でも眺めながら泣き暮れている予定だったのだけれど。

 そんな私のことなど何一つ気に掛けることもなく、制服の具合にようやく納得がいったらしいエリカは、ああ、そういえばとばかりに思い出したように立ち上がり、私のもとまでやってくると、私ではなく先ほどまで私の頭の下にあった枕を手に取って、ぽふぽふとはたいてへこみを直していた。

 私より枕なのか。

 少なくないショックを受けていると、エリカははいどうぞとばかりに私に枕を押し付けた。所在なく受け取ると、違うと言われる。

「もう少しこう、上にあげて、そう、胸の前あたりで構える感じで」

「こ、こうか?」

「そうです。えい」

 言われるままに枕を構えると、エリカの鋭いジャブが枕に突き刺さり、全く予想していなかった私はベッドに再びひっくり返った。それを追うようにエリカがのしかかってきて、枕にさらに拳が突き立てられる。

「えい。えい。えいっ」

「ま、待って、ちょっ」

「シッ」

「ヒィッ」

 なんだかよくわからず枕の下でもがくと、枕ガードをすり抜けた拳が私のすぐ顔の横に叩き込まれ、マット越しにベッドフレームをきしませた。スチールを何だと思ってるんだこいつ。慌てて枕をしっかり構えると、ぼすぼすと遠慮なく拳が叩き込まれてくる。良い睡眠には良い枕ですとエリカ自身がプレゼントしてくれた枕がぼこぼこに歪んでいく。これ枕なかったら私の顔がこうなってるんじゃなかろうか。

「なっ、なにっ、なんっ」

「このっ、このっ、あーもうまっごあくしゃうつ!」

「ま、まって、エリカ、まっ、」

「ねまりよって終いにゃ腹かくど!」

「わ、私はエリカの為に、」

「せからしかったい!」

 怒りが怒りを呼ぶのか、ぼすぼすと容赦のない拳が枕越しにも私を打ち据え、ベッドをぎしぎしときしませる。

 そりゃあ、私はなんだかんだエリカにそう言うプレイを要求することが多い。普通にベッドに誘うことがとてつもなく罪深く思えて、私が特殊な性癖の持ち主でエリカを無理矢理付き合わせているという体裁でもないとやっていられなかったし、自分を罰してくれているのだと思うとささやかな心の安定が得られた。

 しかしこれはそういう暴力ではなかった。傷付けまいとする普段のエリカの気遣いはなかった。枕一つをかろうじて防波堤にして、エリカはいま荒れ狂っているのだった。

「ばっかじゃないんですかあんた!」

「え、ええ……?」

「ただの後輩がねえ、いくら恩があるからって何にも思ってないのに雨が酷くなるたび泣きはらしたブス顔のシャワーも浴びてない相手の股座に顔突っ込むわけないでしょうが!」

 あんまりにもあんまりな物言いに絶句する私を気にした風もなく、小爆発が拳とともにたたきつけられる。

「恩だけで、縛り付けられてるだけで、毎度毎度ぐずってる筋肉ダルマが寝つくまで頭撫でてやって、くっそ重い体ひっくり返して綺麗に拭いてやって後片付けもして、ひっかかれた背中気にしながらシャワー浴びて朝ごはんまで作ってやるわけないでしょうが!」

 言葉が強くなっていき、代わりに拳の雨はぼすりぼすりと回転を落としていく。

「全部知ってたわよ! あんたがみほのこと放っておけなくて! しほさんのことも放っておけなくて! 黒森峰のこと放っておけなくて! 私のことも放っておけなくて! 一人で全部背負い込んで! ばらばらにならないよう壊れちゃわないよう、眠れなくなるくらい頭しぼってどうにかしようってしてたことくらい! 知ってたわよ! 知ってるわよ! 私だって! みんなだって!」

 ついに拳は止み、代わりにぼすりと倒れこんだエリカの重みと、そしてそれ以上の重みをもった言葉がごろりごろりと私の上にのしかかってくる。

「私は!」

 枕越しに、エリカの声だけが聞こえた。

「私は、怒ってるの。ずっと怒ってた。何でもかんでも背負い込んで、私は辛いんです頑張ってるんですって暗い顔して、自分はかわいそうな奴なんだって悲劇に酔ってるあなたも、そんな偽悪者に護ってもらわないと体裁も保てなかった黒森峰も、それに、それから、チャンスだって思った私自身も」

 私は人の顔を見るのが苦手だった。人の目を見るのが苦手だった。怖かった。自分を見ている人の顔がどんな表情を浮かべているのか怖かった。自分を見ている人の目がどんな色をしているのか怖かった。自分がもしかしたらそもそも見て貰ってすらいないのだと知るのが怖かった。西住流の娘を見る顔が、優秀な戦車道選手を見る目が、西住まほを見るのが怖くてたまらなかった。

 けれどいま、私は枕越しの顔を見たくてたまらなかった。その目の色を見たかった。

「あなたが私を手に入れようとしてるんだってすぐにわかった。だって、私もあなたのことを見ていたのだもの。ずっと見てた。ずっと憧れてた。だから、わかってても、こんなの歪んでて、こじれてて、間違ってるってわかってても、言えなかった。目を反らしてた。何時かどうにかしなくちゃと思いながら、そのいつかが来ない日を願ってた」

 その言葉が溶け込んでいく枕にさえ嫉妬する私は、きっと大概頭がおかしいのだろう。それでも私は枕の盾の下から出られなかった。エリカの顔が見たかった。エリカの目で見てほしかった。エリカの声を直に受けたかった。でもそれ以上に怖かった。全部嘘だと言われるのが怖かった。全部夢だと目が覚めるのが怖かった。

「わ、私は……違うんだ。ただ、怖かったんだ。みほがいなくなるのが怖かった。あんなのでも、みほは私の妹だった。ずっと傍にいたんだ。みほがどこかに行くのが怖かった。黒森峰がだめになってしまうのが怖かった。馬鹿話してた奴らが蹲って立てなくなるのが怖かった。ようやく認めてもらえてきた先輩たちに失望されるのが怖かった。後輩たちにどうしてって言われるのが怖かった。それに、エリカ、お前がどこかに行ってしまうのが怖かった。お前だけが私を見てくれた。お姉ちゃんでもない。よくできた娘でもない。西住流の後継者でもない。ただ私を見てくれた。ただ怖かったんだ。誰の為でもない、ただ自分が怖かったから、怖いのをどうにかしたかったからでしかないんだ。ただ、ただ自分勝手なばっかりで、」

「みんな自分勝手なんです」

 枕越しに、エリカの腕が私の体を抱きしめた。力なんて入っていない。殆ど添えているだけの腕が、不思議と力強かった。

「自分勝手に好きになって、自分勝手にどうになかりたいって思って、でも、誰だってそうです。相手の事だけを思って、そのためだけに行動できる人なんていませんよ。だって、恋してるんですから。色んなことがあって、全部一緒くたになっちゃって、なんだか複雑そうに見えるかもしれませんけれど、簡単な話なんです」

 ばっと枕が取り払われて、私は急に差し込んだ光に目を眇めた。エリカはどんな顔をしているだろうか。泣いているだろうか。苦悩に歪んでいるだろうか。それとも怒りに燃えているだろうか。そのどれでもなかった。

 とても穏やかに、エリカは微笑んでいた。自嘲を伴う苦みと、恋を思わせる甘酸っぱさとが、唇の端ににじんでいた。

「わ、私、でも、私は、いつだって自分勝手で、汚くて、」

「もしかしたら言ったことなかったかもしれないですね。あなたにもちゃんと言ってもらったことがなかったかもしれません。だから、ちゃんと言おうと思います」

「わたし、」

「あなたを(はな)しません。だって、あなたがすきだから」

 こつん、と拳が額にあてられた。骨の硬さと皮膚のぬくもりと、それから押しつけがましい献身が、微笑みとともに降り注いで、私を化石したのだった。

「あなたを失うのが怖くて、あなたとの関係が惜しくて、だらだらとやってきてしまったけれど、でも、あなたが私から卒業するっていうんなら、私は必ず追いかけて行って、絶対、絶対に逃がしません。あなたが失うのを恐れて手が出せないっていうなら、私が押し付けて逃がしません」

 エリカはするりと私から身を離し、締め切ったままでいたカーテンを勢いよく開くと、容赦なく窓を開いて冷たい外気を取り入れた。うひゃあと丸くなる私に、悪戯っぽい笑顔が振り返る。

「ほら、もう雪解けはとっくに過ぎて、春の風が気持ちよく吹いてる。卒業の時期ですよまほさん。さっさと荷物まとめないと裸で追い出しますよ?」

「え、ええ……?」

「もう、まだ目が覚めないんですか」

「いやだって、ええ……?」

 何が何だかわからない私を放って、いそいそと部屋に残った数少ない荷物をまとめ始めるエリカ。

「もうあなたに甘えるのは止めました。怒ったらすっきりしましたし、後腐れなくさっぱりすっぱり心機一転やり直しましょう」

「なんかキャラ違う」

「まほさんも胸の裡吐き出したら軽くなってこうなりますよ」

「なりたいような、なりたくないような……」

「そういえば返事がまだでした」

「返事?」

「私告白したんですよ。卒業式の日に美人の後輩に告白されるなんて一大イベントに何ぼうっとしてるんですか」

「卒業式の日に桜の木の下でノックアウトされたからな」

「いい具合に調子が出てきましたね。その調子で返事もお願いします」

「あー……」

「メッセージは『あああああ』でいいですか?」

「からかわないでくれ」

 軽口で少しばかり気分が軽くなって、改めてエリカを見つめてみた。エリカの顔を、エリカの目を見つめてみた。思えばいつも見ていたはずなのに、エリカの目を見つめるのはずいぶんと久しぶりのように思えた。あの日のようなきらきらとした輝きは感じられなかった。燃え盛る炎に焙られるような強烈な熱ももう感じなかった。しかしそれはきっと、エリカの熱が冷めたからではなかった。逃げ回ってばかりだった私のエンジンが、ようやくエリカと同じ温度まで温まったからのように思われた。同じ温度で、ようやく私たちはまともにお互いの顔を見れるようになったのかもしれなかった。そうなってようやく、私はエリカの瞳が潤み、緊張に小さく震えるまつ毛に気付けたのだった。

 なけなしのプライドが、私に胸を張らせ、背筋を伸ばさせ、顔を引き締めさせた。サイズの大きなだぼっとしたTシャツの緩い部屋着だったけれど。

「エリカ」

「はい」

「エリカ」

「はい、まほさん」

「……エリカ」

「もう一発殴りましょうか?」

 オーケイ、季節は容赦なくめぐるようだ。

 肌寒いくらいの風が窓から吹き込んで、エリカの銀髪が煌いた。

「すきだよエリカ。もう私を(はな)さないで」

 エリカの涙を、私は初めて見たのだった。

 

 

 

 

 

 

《雪解け水の冷たく刺して春ぞ来たりと風光る》 了

 

 

 

 

 

 




「でも、本当に私でいいのか?」
「まだ言いますか。懲りませんね」
「いやだって、どうして私なのかわからないし」
「戦車道家元の娘で、将来の進路も安泰、ルックスもよくて気遣いもできる。引く手数多じゃないですか」
「でもメンタルが最悪」
「まあそうかも」
「ぐへぇ」
「まほさんは初恋っていつですか」
「うーん。子供の頃だな」
「学校の子ですか?」
「いや、知らない子なんだ」
「行きずりの子に発情したんですか」
「人を何だと思ってるんだ」
「はじめてで緊張する後輩に縛ってって言ってくるアレな人」
「ぐへぇ」
「まあそれはそれとして」
「うん。実家にはⅡ号戦車があってな。よくみほと遠出するときに乗り回してたんだが」
「……ええ」
「ある日、子供だけで戦車なんか乗って! って言ってくる女の子がいたんだ。フリルのついた、可愛らしい恰好をしていてな」
「…………ええ」
「戦車道は乙女の嗜みなんて言うけれど、私もみほも走り回って洋服を汚すような子だったから、なかなか可愛い服は着せてもらえなくて、つい見惚れてしまったよ。それが初恋かもしれないなあ」
「………………そうですか」
「エリカの初恋は?」
「…………私の祖父の家がですね、あってですね」
「ああ」
「田舎なんですけど、いつも自慢するんですよ。うちは大昔から武道の家と交流があってなって」
「ほほう」
「戦車道なんですけど」
「ほほう?」
「それで、遊びに行くといつも近所で戦車乗り回してる子供がいて、おじいちゃんも交流があるとか自慢する割に家にはトラクターくらいしかなくて、羨ましくってついいちゃもんつけてしまいまして」
「ほ、ほう?」
「実際見てみたら同い年位なのに自在に戦車を操ってすごいなって羨ましくて、しかもすごく楽しそうなんですよ。やんちゃな妹が無茶しないようにって見守る目がまた優しくて」
「う、ん」
「その子に一目ぼれしておじいちゃんに名前聞いて黒森峰まで追いかけてったんですよ悪いですか!?」
「すごくうれしい」
「そんな吐きそうな顔で」
「うぐ、うぶぶ」
「嬉しすぎてもキャパオーバーなんですか!?」



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