ガールズ&パンツァー 乱れ髪の乙女達   作:長串望

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ノンカチュ。
「少女達は少女する プラウダ高校の場合Side A」「プラウダ高校の場合Side B」をお読み頂いているとより一層お楽しみいただけます。

愛は死よりも、死の恐怖よりも強い。愛、ただこれによってのみ、人生は支えられ、進歩を続けるのだ。

Любовь, думал я, сильнее смерти и страха смерти. Только ею, только любовью держится и движется жизнь. — Стихотворения в прозе, Воробей



愛は死よりも、死の恐怖よりも強い

 白は、馴染み深い色だった。

 思い出の中の世界は、何時だって白に溢れていたように思う。

 何故ならば、白は彼女の色だったから。白は、カチューシャの色だったのだから。

 雪の色、プラウダの色、薔薇色の血色を透けさせる彼女の頬の色。何ものにも染められない、厳格で透徹した純白。

 けれど、いまカチューシャを包み込む白は、嫌な白だった。恐ろしい白だった。柔らかく、清潔で、誰も彼をも受け入れる優しい白は、私には死色の気配を思わせた。

「大丈夫よ、ノンナ。大丈夫」

 きっと彼女の胸の中だって、不安で一杯に違いないのだ。

 それでも小さな暴君は柔らかく微笑んで、震える私の手を握る。

「大丈夫よ、怖がりノンナ」

 私は何も答えられない。ただただ迫りくる時を押し返そうと、ぎゅうぎゅうとカチューシャの小さな手を握りしめて、ベッドに横たわる彼女の傍に居座ることしかできない。

 この白は嫌な白だ。

 カチューシャの纏う白い病衣も、カチューシャの横たわる白いベッドも、蛍光灯の白い光に照らされたこの白い部屋も、私は恐ろしくてたまらない。

 カチューシャを失う事を思うと、私は今にも死んでしまいそうだった。

 ああ。病院の白は、何時だって私にカチューシャを失う事を想像させた。

 

 

 

愛は死よりも、死の恐怖よりも強い

 

 

 

 思えば私はずっと失うことを怯え続けてきたように思う。

 物心ついたころからずっとずっとそうだったように思う。

 私の一番古い記憶は、カチューシャだった、というのはさすがに言い過ぎだけれど、しかしおぼろげな思い出の中でひときわ鮮烈なのは暴君カチューシャ登場の段だった。

 仕事に行く父の背中に置いていかないでと毎日泣き、送迎のバスに乗せられる度に母に縋りつき、もうおねんねしましょうねと布団に寝かされて大好きな絵本を取り上げられる度にぐずる、泣いてばかりいる子供だった。らしい。さすがにそこまで明瞭には覚えていない。

 私はとにかく、空白というものを恐れていた。あるべき筈のものがないことは恐怖だった。はちきれんばかりに欲するほど強欲ではなかったにせよ、小さなおもちゃ箱に隙間があることを不安がる程度には欲深だった。大きな布団で一人寝るのは恐ろしかった。母の胸に抱きしめられて、それでも物足りずぴったりと抱き着いているような子供だった。

 幼稚園は小さな私にとって恐怖の対象でしかなかった。子供たちが駆け回って遊べるようにと広く設計された空間は、私には空間が責め立ててくるようにさえ思えた。しかも知らない子がたくさんいて、さらに私にあれやこれやと構ってくるのだ。人見知りの気があった私は毎日のようにぎゃんぎゃんと泣き喚き、ついには大好きな絵本を抱えてひとり隅っこに座り込んでいるというのが私の毎日になっていた。部屋の角に背中を当てて絵本を抱きしめ、ぴったりと収まっていることは私の繊細で脆弱な精神を落ち着かせてくれた。

 しかし小さな私の貧相な城は、トタン板程度の装甲も持たなかった。

 いじめっ子たちは――まあ今思えば本人たちはいつも泣いてばかりいる新入りと遊んでやろうという親切な気構えだったのかもしれないが――あろうことかよりにもよって、喪失を恐れる私から絵本を取り上げ、ベストプレイスである角っこから引きずり出すという暴挙に出て、世間の荒波に泣くことしか知らない私を盛大に泣きださせたのだった。

 これで終わったのなら私の物心とやらは実に暗澹とした始まり方だっただろうが、この暴虐にさっと立ち上がったパルチザンがあった。正確にはつんざくような鳴き声に昼寝を邪魔されてとさかに来た暴君がいた。私にとっては平穏を壊した嵐を、また別の台風が蹴散らしていったという何が何だかさっぱりわからない事態だったのだが、寝起きですこぶる機嫌の悪い台風は歯並びのいい乳歯をがちがち言わせていじめっ子たちから絵本を取り戻し、何が何やらわからぬままぼけらったとしていた私に押し付けると、定位置であった角っこに押し込み、その前でごろんと丸くなって存外に愛らしい寝息を立て始めた。

 角っこに背中をぴったり押し当て、大好きな絵本も抱きしめて、そして唯一無駄な解放感のあった前方はいまやなんだかよくわからないが小さい癖にいやに尊大な丸い背中にふさがれ、私はなんだかよくわからないなりに奇妙な充足感を覚えていた、ように思う。何しろかつてないほどにぴったりと空間が満たされていたのだ。

 はたから見れば猛獣の非常食として閉じ込められた哀れな生贄だったと当時の幼馴染に後になって聞いたものだったが、私としては桐の箱にぴったりと納められた人形のような満たされた心地だった。

 そしてその日からカチューシャは私の思い出を瞬く間に染め上げるようになった。

 私を守るべき弱者として見做したらしいカチューシャは、自身の抑えきれない好奇心を満たすためにあちらこちらへと顔を出す放浪癖に、哀れなノンナを引きずっていくことにしたらしかった。私はいじめっ子たちが近寄ってこないという身の安全と引き換えに、愛すべき角っこから茫漠たる荒野に引きずり出されたのだった。

 あれは何だろうこれは何だろうとうろつくとき、カチューシャは必ず私の手をがっしり握って離さなかった。子供が手をつないでいるというのはなんだか微笑ましくなる絵だろうが、正確には私は手首をがっしりと握りこまれていたのであって、そして常に半べそで引きずられていた。年上で勇敢であることを最大にして唯一のとりえとして誇っていたいじめっ子たちはこういうときばかり賢しい紳士ぶりを発揮しておとなしく道を開けてしまって酷く失望させられた。

 動き回って電池切れになるとカチューシャは必ず私を逃げられない角っこに押し込んでその前で丸くなった。閉じ込められているとさすがの私も思ったものだったが、しかしカチューシャ・バリケードは世間の荒波を徹底的にシャットアウトする完璧な防波堤だったし、実際カチューシャも親猫が子猫を守るようにそうしていたのだろう。

 こうして私は心中穏やかならぬ日々を送る羽目になったのだが、しかし言い換えればカチューシャのおかげで、時間的にも空間的にもそして心理的にも私の生活から空白という寂しさは失われていった。

 そしてカチューシャと小さな冒険を乗り越える段になっては、もはや私の中でカチューシャという存在はあまりにも大きくなって、当たり前の存在としてそのすぐそばにいることを甘受していた。

 そう、私は幼かった。幼く愚かだった。

 あれほどまでに失うことを恐れていたのに、カチューシャを失うことをまだ欠片も想像していなかっただなんて。

 幼稚園を卒園すると同時にカチューシャは私の生活から失われた。

 管区が微妙に違ったので別の小学校に通うことになったのだということを当時の私は全く理解できなくて、みんなが小学校という新しい環境とランドセルという未知のアイテムにきゃいきゃい笑っている間、ひとりカチューシャはどこかとぎゃんぎゃん泣いていた。カチューシャが私に与えてくれた影響は大きく、それが失われたショックは大きすぎた。

 もうダメだ。寂しさが襲ってくる。私は薄暗い顔で入学式を迎え、相変わらず泣き虫のまま学校生活を始めた。

 もしかするとカチューシャは本当に妖精か何かで、幼稚園の間しか見れない夢の中のお友達だったんだろうか。そんな風に思いはじめた頃、さすがに見かねた両親が、何の気なしに言った一言が私を目覚めさせた。

「そんなんじゃカチューシャちゃんに呆れられるわよ」

 全身に電撃のような衝撃が走った。

 そうだ。

 もしかしたらカチューシャは情けない私を見限ってしまったのではないだろうか。そう思うと私はたまらなく恐ろしかった。見捨てられるという恐怖が襲った。そうだ。カチューシャはあんなに偉大だった。鼻水を垂らしながらそれでも私を力強く引きずり、笑顔で励ましてくれた。私はずっとそれに甘えているだけだった。

 カチューシャの隣に立ちたい。

 その思いが私を立ち直らせてくれた。

 私は今までうつむいていた分を取り戻すように精力的に日々を過ごし、学校で教わる多くのことを積極的に学び取り、両親が期待する以上の多くを自ら獲得していった。すべてはカチューシャの為だった。カチューシャの隣に立って恥ずかしくないようにするためだった。そして二度とカチューシャを失わない為だった。

 私の思いが天に通じたのか、小さかった私の体はすくすくと無駄に育ち、小学校に通う六年の間で親が呆れるほど服を買いなおす羽目になった。クラスで一人だけ机のサイズが合わなくて特別に大きなものを準備してもらい、女子と見ればからかう事しか知らないようなやんちゃ盛りの男子たちに一人だけさん付けで呼ばれ、敗北主義者のような目つきをした上級生を見下ろし、肩ベルトの金具が弾け飛んだのでランドセルを手に提げて通学し、最終的に小柄な父の肩に手を置いて記念写真を撮って卒業式を迎えたのだった。

 なお在籍中最も多かった呼び方はノンナさんで、次点がノッポさん。男子たちの間ではザ・ノンナとか巨人とか口さがない呼び名もあったけれど、ランドセルの横についている金具をいじっているうちにうっかり捻じ曲げて破壊してしまった頃を機にそういう呼び方もなくなった。

 体の大きさはともかくとして、私の素行や成績は教師陣から高い評価を得た。毎朝誰よりも早く登校し、係の仕事や教師の手伝いもよくこなし、テストの点数は常に満点だったし、体育の授業ではハンディキャップがありすぎたので記録係など教師の手伝いをよくしていた。

 私はもう泣かなかった。涙が一滴こぼれるごとに、カチューシャが一歩遠くなるのだと自分に言い聞かせていたから。そしていつしか泣く必要もなくなった。自分への自信が、私から軟弱な恐怖を拭い去っていった。

 

 プラウダ高校に入学して、私は親元を離れることになった。自信をつけ、涙を流さなくなったとはいえ、これは寂しいものだった。身につけた自信にも若干揺らぐものがあった。同じ学校の子たちも進学するとはいえ、なにしろこれからは親の助けがないのだ。寮の部屋に帰ってもお帰りを言ってくれる人はいないのだ。

 だから入学式は新しい環境への期待よりも、緊張と不安とが勝っていた。結局体が大きくなっても、多少の自信をつけても、私の根っこは臆病者の小さなノンナのままなのだ。

 しかしその恐れは、彼女の姿を見つけることで全く完全に振り払われた。寧ろすっかり忘れてしまったといっていい。

 物理的に周囲よりもひとつ頭の抜けた私は、新入生の誰よりも早くその姿に気付けた。

 新入生代表として答辞を述べるため壇上に上がり、マイクに届かないので急遽木箱を用意してもらい、そのマイクさえ最大限低くして、それでもなお殆ど頭しか見えず、くすくすと笑われているその姿を、私はすぐに彼女だと見極めたのだった。

 カチューシャがそこにいたのだった。

 その瞬間から私はもうカチューシャのことしか見えていなかった。もう二度と会えないのではないだろうかと自分でも思い始めていたあの雪の妖精が、今そこに立っているのだった。すぐにも走り出して抱き着きたかった。その手を握り締めてカチューシャと呼びたかった。自分でもよく抑え切れたものだと思ったけれど、あとから同じクラスの子に、幼女が段に上がった途端挙動不審になったのでそういう人かと思ったと言われてショックだったが。

 全く覚えていない式が滞りなく終わり、生徒が解散していく中、私は脇目もふらずカチューシャに会いに行った。そして、そしてなんと言ったのだろうか。自分でもよくわからない。全く治らなかった口下手を恨みながら、久しぶりだとかなんとか挨拶を言ったような気がするのだが、よくわからない。

 しかし現実は厳しかった。

 あの日とまるで変わらないカチューシャと違って、私はすっかり様変わりしてしまった。馬鹿みたいに大きくなってしまっていた。なんだか目を眇めるようにして私を見上げて、カチューシャは小首を傾げながらこう言ったのだった。

「あんた、随分おっきいわね。頭が高いわ」

 素っ気ない物言いだった。

 私はすっかり忘れられてしまっていた。私は覚えていたのに、という思いがなかったわけではない。しかしそれ以上にただただ悲しかった。カチューシャの中の私は失われてしまったのだと思うと、目に見えない空白が私を襲ってくるようだった。それでも泣きださず耐えられたのは、私の中のカチューシャの思い出が、私の胸の中を埋めてくれていたからだった。

 これからだ、と私は心に決めた。これからカチューシャの傍にあろうと。

 私はカチューシャに、あなたについていきますとそう告げた。あんた違うクラスじゃないとカチューシャは小首を傾げてわかっていない様子だったけれど、私はそれでよかった。私はもうカチューシャから離れたくなかった。もうあの日のような、カチューシャを失うようなことはしたくなかった。

 その日からの私は私に使える時間の全てをカチューシャに注いだ。お昼休みは必ず昼食を共にしたし、休み時間の度に顔を出した。小さな体で困っていることがあればすぐに手助けし、望むものがあればすぐに手配した。そんな子分みたいなことしなくていいのよとカチューシャは言ったけれど、私はでは一の子分にしてくださいと求めた。カチューシャは困ったように呆れたように、それでも私を突き放すことはなかった。カチューシャにとって私はたいそう変な奴だったろう。しかしそれでも、私の献身に多少なりと信頼を置いてくれるようにはなった。新入生代表に選ばれるくらい優秀なカチューシャだったから、それにくっついている私は腰ぎんちゃくだとか色々言われはしたけれど、いっそカチューシャのお腰につけてもらえればと思うくらいには私は重症だった。尤も、クラスの子にさすがに幼女のストーカー始めたときは通報しようかと思ったと言われたときは凹んだが。

 やがて必修選択科目としてカチューシャが戦車道を選ぶと、私ももちろんそれに続いた。その頃になるとカチューシャはすっかり私を信頼してくれるようになっていた。どこに行くにも必ず私を連れて行ってくれた。私がカチューシャのお世話をしても自然に受け入れてくれるようになった。一年生が戦車の清掃や整備、砲弾運びといった細々とした雑用を言いつけられたときにカチューシャの分もしようとしたら、さすがにやりすぎだと怒られたが。もっとも、これは悪いことばかりではなかった。なんでも私という子分にやらせているように見えた暴君が、小さくて非力ながら自分の仕事は自分で片付けようとする姿は一年生たちの間に芽生え始めていた反感を少なからず尊敬に変えさせていたし、私とばかりつるんで交友関係の狭かったカチューシャもいろんな人と接する機会が増えた。私は自分のことばかりだったと遅まきながら気づくことができた。そしてそれを赦してくれていたカチューシャの寛大さにも。

 カチューシャを慕うものが増え、カチューシャがほかの生徒と交流するようになると、私がカチューシャといられる時間が減って寂しくなるかもしれないと最初は恐れたが、それは全く自分勝手で、そして馬鹿げた妄想だった。カチューシャは誰と話すときでも必ず私を傍においてくれたし、そしてカチューシャが気に入るような相手は必ず口下手な私も会話に引き入れようと気を使ってくれる娘たちばかりだった。北国の娘は余所者には口をつぐみがちだが、しかしみな素朴で気の優しい者たちばかりだった。聞きなれぬ訛りの強い声が、しかしいつしか心地よく感じられ始めていた。

 そうして満たされた環境の中、私はその油断の中でまたも喪失の恐怖を味わわされた。

 戦車の整備中、カチューシャが倒れたのだった。

 もしちっちゃな泣き虫ノンナのままだったら、私は何もできずおろおろするだけだっただろう。しかし私はカチューシャをすぐに抱き起し、頭を揺らさないように膝を枕に寝かせ、自分のジャケットをかぶせて暖を取り、傍で何事かと困惑していた生徒を呼びつけて医者を呼ばせた。医療の心得はなかったが、とにかく呼吸を確かめ、冷たい戦車の傍でカチューシャが凍えぬように守った。自分ではとにかく頭の中がカチューシャでいっぱいでとても冷静ではなかったのだが、あとになって人からてきぱきと指示を出してまるで落ち着いていたと言われて苦笑したものだった。私はカチューシャを失うかもと恐れて真っ青になっていたというのに。例のクラスの子もその姿を見ていて、ノンナがちょっとアレな人かと揶揄っていたけれど悪かったと頭を下げてくれた。カチューシャを守ろうと必死になる私を見て、考えを改めてくれたのだという。ノンナは真性のアレな人だと。今でもその人とは仲良くしている。

 医者はカチューシャを見ても慌てることがなかった。今思えば、カチューシャのご両親からいろいろと聞いていたのだろう。てきぱきと診察して、暖かなベッドに寝かせて、付き添っていた私に単なる疲労だよと言って宥めてくれた。新しい環境に張りつめていた緊張が緩んできたころだから、疲れが出てしまったのだろうと。

 そこで私は初めてカチューシャの体が少し普通の人と違うことを知ったのだった。ホルモンバランスとか体の成長がどうとか難しいことも言われたが、私にわかったのはカチューシャはあの豆タンクのような行動力とは裏腹に、熱も出しやすいし燃費も悪いし、すぐに疲れてしまう体だということだった。

 私はカチューシャのご両親と連絡を取り、彼女の体のことを詳しく伺い、お世話の仕方を学んだ。もうカチューシャを失いたくなかった。恐れが私を精力的に働かせた。今でも書いているカチューシャ日記は、このころ始めたものだった。その日の天気や気温、湿度を記載し、毎朝カチューシャを起こしに行っては体温を測り、医者に作ってもらったリストをもとに問診をし、食事のメニューや実際に食べられた量を記録し、昼寝をさせ、睡眠時間を計った。カチューシャは辟易して面倒くさい、嫌だと言ったが、私は例えカチューシャに嫌われても続けると宣言してそれを続けた。口では嫌がっても、私の必死さにか、カチューシャもあえて拒もうとはしなかった。強迫観念に襲われるようにしてのことだったとはいえ、カチューシャには本当に嫌な思いをさせたことだろう。同級生に生理の周期まで記録されるなんて、気持ちが悪かっただろうに。クラスの子にカチューシャ日記を見られたときは危うく携帯電話に手をかけられたけれど、護身とカチューシャの安全の為にコマンドサンボを習っていて良かった。ガチかよと恐れられたけれど、お話して誤解が解けたので良かった。

 戦車道は普通の女子にも過酷なところがある。体が大きく体力に自信のあった私でさえ時にはへこたれそうになるほどだ。砲弾一つ抱えるのさえ苦労するカチューシャにとって相当な負担だったのは確かだろう。だから私は一度、戦車道を止めないかと持ち掛けたことがあった。カチューシャを戦車などのせいで失いたくはなかったから。

 カチューシャは癇癪を起こして一度爆発したが、しかし雪道をぷりぷりとしばらく歩いて気持ちを落ち着かせて、それから改めて私に向き直ってくれた。

「ノンナ。ねえノンナ。きっとカチューシャは長生きしないわ」

「カチューシャ」

「すぐに死んじゃう訳じゃないわ。でもずっと元気に走り回れるわけじゃないと思う。色んなことを諦めないといけないと思うわ。今だって、背が低いからジェットコースターに乗れないんだもの。失礼しちゃう。誰だってなんでもできる訳じゃあない。でも、何にもできないままじゃあカチューシャは我慢できないの。確かにカチューシャが戦車に乗るのはいろいろと無理があるわ。操縦手をしたくてもペダルに足が届かないし、装填手をしたくても砲弾に潰されちゃう。砲主をするにはスコープに目が届かないし、車長はできるかもしれないけど、たくさん勉強しなきゃだわ。きっと大変で、泣き言を言ったり、癇癪起こしてノンナを怒鳴ったりもするわ」

 真っ白な雪道に足跡を刻みつけながら、カチューシャが私に向かって手を伸ばしたので、私は心得たものですぐに抱き上げて肩車しようとした。でもカチューシャはそれを拒んで、屈みこんだ私の肩に手をやって、あのきれいな歯並びを見せつけるようににっこり微笑んだのだった。

「でも戦車はいいものよ、ノンナ。荒れ道だって雪道だって、戦車はどんな道だって切り拓いていける。どこにだって行けるわ。どこにだって、ノンナを連れていけるし、ノンナに連れて行ってもらえるわ」

 だからそんな顔しないでと頬を撫でられて、ようやく私は自分の顔がすっかりこわばってしまっていることに気付いた。

 カチューシャは私から離れて、また雪道を二歩三歩と歩いた。のしのしと我が物顔で歩く様子は、幼い頃のあの日とまるで変わらなかった。

「それにね」

 そしてちらと振り返って笑う姿もまたあの日と同じく、私を安心させるような偉大な背中だった。

「カチューシャは豆タンクらしいわ。どこまでだって、ノンナを連れて行ってあげるんだから」

 私はとうとう折れて、諦めた。そしてカチューシャを抱き上げて肩車させると、小走りで歩きだしたのだった。

「ノンナ、ノンナ、今日のノンナはずいぶんほっぺがあったかいわ」

「寒いから、体が熱を作っているんですよ」

「ふふん」

 

 高校三年生の冬が終わる頃。私はまたもカチューシャを失う恐怖を味わった。

 二年生の夏に黒森峰から奪い取った、奪い取ってしまった優勝旗が、大洗女子学園に転校した西住みほさんの手に、ある意味で本来あるべきだった場所に収まり、カチューシャは一年間抱え続けていた居心地の悪さをようやく下すことができた。黒森峰を今度こそ正しいプラウダとして打ち倒すべく鍛え上げられた戦車隊はあえなく敗北してしまったが、しかしこの敗北は失うもの以上に得るものの大きな敗北だったように思う。全国大会を終え、カチューシャは引継ぎを見据えて多くのことを後輩たちに教え込もうとしている。指揮官の育成。タンカスロンへの挑戦。対大洗を見据えた新し戦術の考案。やることは多く、壁は高く、そして遣り甲斐があった。勿論私もまた、カチューシャを支え、その助けとなるべく奔走した。

 そして冬が終わる頃には、私たちはすっかり後輩たちに引継ぎを終え、あとは調整を繰り返しながら、引退していくはずだった。

 その雪が解ける前の頃合いに、私はカチューシャに呼び出された。

 いつもカチューシャの傍にいる私が、改めて呼び出されるというのは珍しいことだった。内密の話があるのだった。他の人には聞かせられない話があるのだった。そういったことは過去数えるほどしか経験がなかった。カチューシャが初めてを迎えたとき。当時の隊長に作戦を献策すべきかどうか相談された二年生の夏。大洗廃校の危機に、助けに行くことを告げられた時。今まではすべてがうまく進んだ。しかしこの時期に呼び出されたことに私は不安を覚えていた。

 そして不安は的中した。

 カチューシャの私室で向かい合って座った私に、カチューシャは驚くほど優しく微笑んで、手ずから紅茶を淹れてくれた。以前に戯れに淹れたときに出てきたような、葉も開ききっていない紅茶ではない。香り立つような一杯だった。

「いつもありがとう、ノンナ」

「いえ、そんなことは」

「そんなことあるのよ、ノンナ。カチューシャは偉大だけど、万能じゃないわ。ノンナがいてくれたから、ノンナが助けてくれたから、カチューシャはプラウダをここまで率いてこれた。カチューシャが熱を出した時も、困って二進も三進もいかなくなった時も、あと一押しが足りずに参っていた時も、みんなノンナが支えてくれたから助かった。ノンナが支えてくれたから、こんなチビの暴君が君臨できたのよ」

 だからありがとうノンナ、そう優しく微笑んでくれるカチューシャに、常であれば私は歓喜していたことだろう。だがその日の私は不安と緊張に固まっていた。怖かった。カチューシャの優しい物言いが、恐ろしかった。

「いいえ、いいえカチューシャ。助けられたのは私です。私なんです。だから、」

「ノンナ」

 微笑みが、恐ろしかった。

「今までありがとうノンナ。ノンナのおかげでカチューシャは歩いてこれた。だから、これからはもう、いいのよ」

 微笑むカチューシャの言うことが分からない。

「遣り切ったわ。全てが全て十全というわけではないけれど、でもカチューシャができることはみんなみんな、プラウダにしてあげられたわ。故郷に貢献できた。プラウダがカチューシャを愛してくれた分、カチューシャを生かしてくれた分、きっと返すことができたわ。来年はきっとカチューシャの育て上げた子たちが、プラウダをもっと強くしてくれる。それもみんな、ノンナが支えてくれたから。でも、もういいの。もういいのよ、ノンナ」

 聞きたくない。何も、何も聞きたくなどない。

「今までありがとう、ノンナ。これまでずいぶん面倒をかけたわ。もう春になるわ。春になったら卒業して、プラウダから出てどこへだって行けるわ。ノンナの好きなようにしていいのよ。今までずっとカチューシャのお世話をさせてごめんなさい。カチューシャのわがままを聞かせてごめんなさい」

 今までありがとう。

 優しく微笑んで、そう、そうだ。カチューシャは私にお別れを告げたのだった。

 半ば硬直した頭でそれだけ理解した私の狼狽ぶりたるや相当なものだったらしい。というのも、その時の私は全く頭の中が真っ白になっていて、何を言って何をやらかしたかに関してはさっぱり覚えていなかったのだ。だからこれは後になって、カチューシャが昔の笑い話として酒の肴に持ち出した話だ。

 私を心配させないようにとにっこり微笑んだカチューシャの前で、泣く子も黙るブリザードのノンナは突然真顔でぽろぽろ泣き出したらしかった。プラウダに来てから一度も泣いたことのない私が急に泣き出したものだから、笑顔で私を送り出そうとしてくれたカチューシャもさすがにびっくりしてしまったらしい。

「の、ノンナ?」

「わ、私を捨てないでカチューシャ!」

「え、ええ?」

「わ、私、私なんですカチューシャ! 助けられたのは私なんですカチューシャ! 子供の頃もプラウダに来てからも、カチューシャがいてくれたからやってこれたの! 嫌! 嫌よ! 嫌なの! カチューシャ! もうどこにも行かないで!」

「の、ノンナ、落ち着いて、ね?」

「私はもうカチューシャから離れたくない! お願いカチューシャ! 私を捨てないで!」

 全く赤面ものなのだけれど、このようにしてすっかり錯乱して捨てないでと叫びながら、香り付け用にと置いてあったブランデーの瓶を引っ掴んで一息に飲み干し、顔を真っ赤にしてカチューシャの小さな体に縋りついて喚いたらしかった。そうして錯乱したまま変にアルコールが回って、電池切れしたようにきゅうと倒れてしまったらしい。

「もう、泣き虫ノンナは変わらないのね」

 私が頭痛に顔をしかめながら目を覚ますと、カチューシャは呆れたようにそう笑った。

 カチューシャの力では私の図体は運びようがなかったようで、床の上にごろんと寝かせられて、冷えないようにと毛布が掛けられていた。記憶が曖昧ながら、自分が取り乱してカチューシャに縋りついたことを思い出して私はひどく狼狽したのだったが、カチューシャに優しく頭を抱きしめられてすっかり頭の中が真っ白になってしまった。

「もう、困った子だわ、泣き虫ノンナ」

 むずかる子供をなだめるみたいに小さく揺すりながら、カチューシャは私の髪にそっと口づけた。

「本当はね、ノンナ。あなたを自由にしてあげたかったの。カチューシャがノンナを手放したくないから、ずっと付き合ってもらっていたけれど、ノンナにもやりたいことや、進みたい道があるんじゃないかって思って」

「そんな、そんなのありません。私はカチューシャのお傍に居たいんです」

「嬉しいけれど、でも流石にここまでとは思わなかったわ」

 呆れて笑うような気配がすぐ傍に感じられて、私は首をすくめた。

「ねえノンナ。カチューシャもノンナが一緒にいてくれたら、とても心強いし、嬉しいわ」

「じゃあ」

「でも、ねえ、ノンナ。カチューシャたちはもう少し大人にならなくちゃいけないと思うわ」

「大人に?」

 カチューシャが困ったようにつぶやいた言葉の意味がうまくつかめず、私はカチューシャの腕の中で馬鹿みたいにオウム返しすることしかできなかった。

「例えば、そうね。カチューシャたちが卒業した後のプラウダが、黒森峰どころか初戦でアンツィオに圧倒されたら、ノンナはどう思うかしら」

「情けないことです。カチューシャの指導をまるで生かせないなんて。自己批判が必要です」

「そうね。自分で考えて動くことができなければ、カチューシャも安心して卒業できない。それと同じことなのよ、ノンナ」

「同じこと?」

「ノンナがカチューシャの傍にいてくれるというのは、とても嬉しいわ。でもノンナに頼り切って自分で何もできなくなってしまいたくはないし、同じように、ノンナがカチューシャなしで立てないようでも困るの」

 カチューシャが困ったように笑いながら告げる内容は、全く説得力があった。何しろ取り乱した直後だ。しかしそれでも私は素直に頷けなかった。確かに私は、カチューシャなしではもはや生きていけないかもしれない。しかし逆を言えば、カチューシャの為と思えばどんなつらい状況も克服できる筈だ。私の努力の全てはカチューシャの為だったし。私の喜びはカチューシャとともにあった。私の幸福とはカチューシャのことだ。

 そう告げるとカチューシャは怒っているような笑っているようななんだか不思議な表情で、もう、と私の頭を強く抱きしめて、ぽかりと叩いた。それから私の髪に顔を埋めて、ノンナってばかねととても優しい声でつぶやいたのだった。

「でも、ダメ。だめよノンナ。カチューシャもノンナもきちんと大人になって、一人で立てるようにならないと。カチューシャがいなくなっても、ノンナには元気でいて貰わないと」

「そんな、そんな、無理ですカチューシャ。カチューシャのいない世界で、私は生きていけません」

「もう、熱烈なんだか、ヘタレなんだか。そんなんじゃ、ノンナに後を任せられないわよ?」

「カチューシャがいなくなった後なんて、私には、私にはっ」

 いつだったかカチューシャが嘯いた言葉が思い出された。カチューシャは長生きはできないだろうと、彼女はそう言ったのだった。恐ろしかった。震えそうなほどに恐ろしかった。彼女のいない世界なんて、私には想像できなかった。プラウダの雪よりも白い、色のない世界しか見えない。

 しかし、カチューシャは偉大な人だった。

 弱い私に、それでも生きなければと思わせる力が、カチューシャの言葉にはあった。

「そんなんじゃ子供の面倒を任せられないわよ?」

「は」

「ノンナが自分で記録してたんじゃない。カチューシャはこんななりだけれど、もう子供が作れる体なのよ?」

 プラウダの雪よりも白く、私の頭の中は真っ白に吹き飛ばされた。

「うえあ、え、あ、ええっ?」

「カチューシャの傍にいたいっていうのは、嘘だったのかしら」

「う、うそなどでは」

「じゃあ、ちゃんと頼りにできるってことを、ノンナの言葉で証明してくれないと」

 こうして私は、ずっと言えずにいた告白の言葉を、後押しされて引きずり出されて、柔らかく受け止めてくれる準備を整えていただいた上で、ようやく噛みに噛みながら伝えることができたのだった。

「か、か、カチューシャっ」

「なあに、ノンナ?」

「わ、わた、わたしと、わたしと、その、」

「ええ」

「けっこんしてください……」

「気が早いわね。でも、喜んで」

 吐き出した一言分の空白に震える唇は、すぐに言葉ではない返事で満たされたのだった。

 

 高校を卒業し、あのプラウダの広大な艦を降り、私たちは同じ大学に入学した。選択の決定的な理由は戦車道が盛んであるというただそれだけだった。カチューシャはプラウダにたくさんのことを遺してきたが、しかしそれはカチューシャの中から失われたわけではなかった。教えた分だけ厚みを増した道を、カチューシャはまだ歩き足りないのだった。ボルシチの美味しい店も、香しい紅茶を扱う店も、冬の寒さを分かち合うに相応しい友人も、私たちは改めてこの大学で探さなければならなかった。未知と空白が私たちを待ち受けていた。しかし恐れるものはなかった。カチューシャの好奇心と行動力は、莫大な空白を早速埋め始めようとしていたのだから。

 私が恐れることはただただカチューシャを失うことだけだったのだから。

 大学生活中、私たちは一つの部屋を共同で借りた。カチューシャは急に寂しくなったとき誰かがいてくれると助かるものと言っていたけれど、それがカチューシャのことではなく泣き虫ノンナを思いやってのことは明白だった。事実、私は不安と寂しさをこの小さな部屋にずいぶん助けられた。

 戦車道のチームに入り、また一からやり直しとなっても、カチューシャは全くめげることがなかった。地吹雪のカチューシャとブリザードのノンナといえば、それなりに名が売れていたこともあって、私たちは小生意気な後輩の鼻っ柱を折ろうとする先輩戦車乗りに大いに遊ばれ、そして大いに学んだ。周りからは、大きな私がカチューシャをあれこれと支えているように見えた。しかし実際にはカチューシャのバイタリティこそが私に伝染して、以前よりもずっと活発に活動させた。カチューシャと通じ合ったということが、私を思いの外に強くさせた。久しぶりに会った例の友人も、プラウダの頃より明るくなった、強くなったと評価してくれた。プラウダの頃は女フランケンシュタインだったが、今はハリウッド版雪女みたいだと。どちらがどのように勝っているのかはよくわからないが。

 プラウダにいたころはそんなことは全く感じなかったのだが、いったんその枠組みから出ると、自分がどれだけ狭い視野を持っていたのかを思い知らされることも多々あった。自分の常識が所詮は学園艦の中だけの常識でしかなかったことを噛み締めた。戦車隊の頂点にあったときは、自分たちが世界の中心のようだとさえ思っていた。しかし艦を降りれば私たちは一人ひとり自分の足で立って歩く人間でしかない。かつては世界の王様のように思っていたカチューシャもまた、一人の小さな女の子でしかなかった。そしてそれは私を失望させることも幻滅させることもなかった。寧ろ私は一日ごとにカチューシャの新しい魅力を見出していくような思いだった。そしてカチューシャは新しいことに戸惑う私の手を引いて、いつかのように豆タンク宜しくどこまでだって進むのだ。

 戦車道を続けていれば、かつての戦友たちと再会することもあった。

 サンダースのケイは身軽な女で、バックパック一つ背負ってどこにでも顔を出した。そしてどこにでも顔見知りがいる顔の広い女だった。何一つ明確な肩書は持っていないのに、でも誰にだって言い分を通せるのだった。それは彼女が自由というものを愛していて、そしてその自由に伴う責任や義務をも同じように愛しているからだった。

 自由といえば継続の娘たちもあちこち放浪しているようだった。というよりは、ふらふらと落ち着かない一人を、追いかけて行っては世話を見ているようなもの好きな状況ではあるようだ。

 プラウダの後輩たちから手紙やメールが届くこともあった。ニーナやアリーナは小さい体でプラウダを力強く牽引して、粘り強い戦車隊を鍛えているそうだ。クラーラともたまに国際電話で相談することがある。ただし、カチューシャのいないときだけだ。今もカチューシャはロシア語がさっぱりで、クラーラと話すのは楽しくても、私がクラーラとロシア語で話しているのは気に食わないのだ。

 大洗の角谷会長は意外にも戦車道を続けていた。彼女はもともと戦車道を廃校阻止のための非常策として選んだと思っていたのだが。聞いてみれば、戦車にでも乗っていないと逃げられない相手が来年大学にやってくるらしい。そして戦車に乗っている限りやっぱり逃げられないと笑っていた。何しろ夢の中まで出てくるのだとか。

 アンツィオのアンチョビは、大学でも戦車道は続けているものの、戦車に乗っているより戦車隊の腹ペコどもに餌付けしている時間の方が長い気がするとぼやいていた。なにしろ胃袋をつかまれたアンツィオ生にいまだに姐さん、ドゥーチェと慕われているのだ。あれはもう孤独にはなれまい。

 驚いたのは聖グロリアーナのダージリンと知波単の西さんだった。この二人がお付き合いしているというのは在学中からの公然の秘密だったが、どうも先頃入籍したという話を聞いた。しかもいわゆるデキ婚であるらしかった。真面目そうなあの二人が、とカチューシャと二人顔を見合わせたものだった。

 ここは百年たっても変わらなさそうだと思っていた黒森峰も大いに変化があった。堅物ばかりと思われていた黒森峰では毎年ディアンドル姿の生徒たちが朗らかにビール祭りを開催し、書類一枚と戦車一両の重さが同じと言われたこの艦で、大歓声の中で戦車レースが行われ、そしてかつてその黒森峰を率いていた大将西住まほは卒業式の日に副官に迫ってノックアウトされたという妙な伝説を遺していた。実際のところ、今その彼女は副官の尻に敷かれている。

 全く、大学四年間は平和とは程遠い未知と衝撃ばかりの日々だった。

 まるで勢い良く燃える花火のように、激しく、鮮烈で、瞬く間に燃え尽きてしまいそうなほどに。

 そして今、大学を卒業した私は、病院でカチューシャの手を握っているのだった。

 

 白は、馴染み深い色だった。

 思い出の中の世界は、何時だって白に溢れていたように思う。

 何故ならば、白は彼女の色だったから。白は、カチューシャの色だったのだから。

 雪の色、プラウダの色、薔薇色の血色を透けさせる彼女の頬の色。何ものにも染められない、厳格で透徹した純白。

 けれど、いまカチューシャを包み込む白は、嫌な白だった。恐ろしい白だった。柔らかく、清潔で、誰も彼をも受け入れる優しい白は、私には死色の気配を思わせた。

「大丈夫よ、ノンナ。大丈夫」

 きっと彼女の胸の中だって、不安で一杯に違いないのだ。

 それでも小さな暴君は柔らかく微笑んで、震える私の手を握る。

「大丈夫よ、怖がりノンナ」

 私は何も答えられない。ただただ迫りくる時を押し返そうと、ぎゅうぎゅうとカチューシャの小さな手を握りしめて、ベッドに横たわる彼女の傍に居座ることしかできない。

 この白は嫌な白だ。

 カチューシャの纏う白い病衣も、カチューシャの横たわる白いベッドも、蛍光灯の白い光に照らされたこの白い部屋も、私は恐ろしくてたまらない。

 カチューシャを失う事を思うと、私は今にも死んでしまいそうだった。

 ああ。病院の白は、何時だって私にカチューシャを失う事を想像させた。

 私は今にも泣きそうだった。死んでしまいそうだった。世界の全てが終わってしまいそうに思えた。もしもカチューシャが死んでしまったら。そう考えるだけで私は無駄に大きな図体をがたがたと震わせて神に祈ることしかできなくなってしまう。

「もう、ノンナ。大丈夫だったら」

 カチューシャは呆れたように笑いながら私の手を撫で、頬に触れ、そしてつねった。

「あのねえ、ノンナ。ノンナがそんなに怖がってるから、笑われちゃうじゃない」

 暖かな病室で、看護師が確かにくすくすと微笑ましそうに笑っていた。

「初産ですとねえ、やっぱり皆さん不安がるんですよ。大抵旦那さんが怖がって、奥さんの方は逆にどんと構えているんですよ」

「変な話よね。産むのはカチューシャなのに」

「で、でもカチューシャ、やっぱり」

「今更やっぱりもさっぱりもないわ。生まれてくるんだから仕方がないわ」

「大丈夫ですよう。うちは体の小さな方の出産も何度もしてますから」

 医療の世界は日進月歩。女同士でもこうして子供ができるようになり、そして出産も随分スムーズになったとはいえ、やはり命を産み落とすのだ。これはずいぶん大変なことだ。大きく膨らんだカチューシャはまるで幸せが詰まっているとばかりに満足げだが、私は不安が詰まっているようで恐ろしくてたまらない。

 そしてそんな私がおかしいらしくて、やっぱりカチューシャも看護師も笑うのだ。

 結局、その後も兄弟姉妹が増える度に私は死にそうになっていたので、そのうち心臓発作か何かで私の方が先に倒れるかもしれない。長生きしないなどと嘯いていたカチューシャは相変わらずの豆タンクで、私もどうやらまだまだ死ぬには死ねなさそうだった。

 相変わらず私はカチューシャを失うことを恐れているが、それでも惚れた弱みというところか。愛情という鎖で牽引されて、豆タンクの後を今日も私はついていくのだ。




余話
「もうねえ、ノンナのへたれっぷりったらないわ。初めての時だって、カチューシャの小さい体にこんなものを入れるなんて壊してしまいますとか真っ青になっちゃって、もう宥めて賺して大変だったのよ」
「あらまあ。随分とムードのないお話ね」
「絹代から聞いてる話も随分ムードがないけどね」
「絹代も喜んでいますもの」
「お熱いことで」
「それにしても、そんなにあなたの体を思い遣っているのなら、攻守を逆転すればよかったのではなくて?」
「カチューシャもそう考えたのよ。でもねえ」
「でも?」
「カチューシャの中にノンナのが入らないなんて言う以上に、カチューシャのかなとこ(、、、、)をノンナにねじ込む方が無理があったわ」
「あらまあ」


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