聖グロリアーナ女学院の場合 Side A
夢を見た。
やけに鮮明で、色濃く記憶に残る夢だった。
無声映画のように、カタカタとフィルムの回る音だけが響く暗闇の中で、切り取られた情景が繰り返し繰り返し映し出されていた。
現実感の乏しい劇場の堅い椅子に浅く腰掛けて、私はそれから目を逸らすこともできず、席を立つこともできず、ポップコーンの一つも手に取れず、退屈さすら覚え始めた変わり映えのしない映像を見つめ続けていた。
これは何の罰だろうか。こんな嫌がらせを受ける様な事を私はしただろうか。何の拷問だこれは。情報学部第6課の書類に記載されていない淑女達による、招待状を持たない客人達を持て成す『茶会』においては、或いはこんな戯れも催されるのかもしれないが。
ほんの十秒程度の映像が、先程から何度繰り返されただろうか。
すっかり見飽きてしまって、退屈で仕方がなく、ひねりも毒気もユーモアも感じられないそれにはほとほとうんざりさせられていた。
しかし、それでも私は目を離せないでいた。
銀幕には彼女の姿があった。
艶やかな黒髪に凛々しい眉。すっと通った鼻筋に、ピンと伸びたしなやかな背筋。普段健やかな笑顔ばかりを浮かべるそのかんばせは、繰り返される映像の中、今まで一度として見たことのない表情に染まっていた。
果てしない連鎖の中、西絹代は泣いていた。
溢れる涙は抑えられることもなくほろりほろほろとすべらかなまなじりを落ちて行き、きっと結ばれた唇はわなわなとふるえ、怒りの為か悲しみの為か僅か紅潮した頬は林檎のようだ。爆ぜるように鋭く唇が開き、何事か怒鳴りつけでもしたらしいけれど、私の耳に届くのはただただカタカタと回るフィルムの音だけだった。
そして素早く振り上げられた右手は、流れるようにまっすぐに振るわれ、カメラが虚しく空を見上げた。それはきっと、頬を張られたのだと思う。聞こえはしないけれど、それでも、激しく揺れる映像から察して余りある程の威力だったことは想像に難くない。
絹代が。彼女が暴力を振るうのを見たのは、それが初めてだった。いつも凛として、まるで歌劇の主人公の様な彼女が、泣いているのも、激情に駆られて手を上げるのも、まるで想像できなかった。私の想像を超えた映像が、私の夢の中でカタカタと回っている。
私は銀幕から目を離せなかった。
良く冷えた夜半過ぎに跳ねるように起きだして、駆け足気味に跳ね回る動悸を抑える最中も、部屋に降りた闇の中にあの映像が映り続けた。
カタカタと回り続ける情景に、とくとくと跳ね回り続ける心臓に、ぐるぐると駆け回り続ける思考に、私は一晩中狂わされたのだった。
当然の如く、翌日の私は全くもって使い物にならなかった。
清々しい陽気に恵まれた土曜日の授業を、初めての戦場で狭苦しい塹壕に押し込められ、先程まで下世話な話で盛り上がっていた同僚が両隣で鉛玉と運命的な出会いを果たし、茹ですぎたベイクドビーンズみたいな脳漿をばら撒いているのを直視してしまいながらも、自分の命だけは助かりたくて何を狙っているのかも定かではない小銃を振り回す新兵のような眼つきで、ひたすらに眠気と戦わなくてはならなかった。
物憂げに解れ髪を直しながら、気分が優れませんのと保健室に籠ることもできた。一度ならずそうしようかとも思った。結局放課後まで、起き抜けの部屋の前に内側を曝け出した猫でも転がっていたのを目撃して朝食前でよかったと思いながら塵取りを探すような、そんな澱み切った目付きで過ごしたのは、誉れ高きダージリンの名を授かったこの私が、この程度の事で欠席するなどと言うことは、意地が許さなかったというプライドの問題でもあった。そして同時に、例え保健室で仮眠を取ろうとしても、瞼の裏の暗闇にあの情景がエンドレスで繰り返されるだろうことが確信されていたからだった。
放課後になる頃にはすっかり私は体力を消耗しきり、頭も全く回らない状態だった。それでも鋼を打つように何度も焼かれ何度も折られ何度も打たれた私の精神と頭脳は、戦車道の練習において、日頃と遜色のない指揮が出来たと思う。後日、真昼にウィル・オー・ウィスプでも見かけて、生死の狭間に肝の据わった決死の戦車兵の如き鬼気迫る様子であったと聞いたから、あまり正常ではなかったようだが。
そこまでして練習後の茶会に臨んだのは、やはり先述のプライドもあったが、なにより絹代の顔を見ないでは済まないと思ったからだった。夢は所詮夢だ。例えどれだけ心が乱されたとしても夢に過ぎない。現実の、あの屈託のない笑顔を見さえすれば、夢は現実に駆逐されるはずだ。
絹代はあれ以来、つまり、彼女が随分と久しぶりに吶喊癖を炸裂させ、誉れ高きダージリンの名を授かったこの私の喉元に告白という刃を突き付けたあの一件以来、開き直ったように日曜だけでなく他にも暇さえ見つければ足繁く通うようになっていた。特に今までと同じ日曜日と、その前日の土曜日はほとんど確実に顔を見せていた。祝日も同じくだ。
知波単学園公認でもなかったのに、交通費はどうしていたのかと聞けば、ああ、あれは私物のヘリです、小遣いで飛ばしてきましたなどと言うものだから、くらりと来た。その潔い笑顔にではない、金銭感覚の致命的な差異にだ。
今までは千葉銘菓を皆さんでどうぞと土産にしていたものだが、最近ではそれに加えて毎度のように薔薇の花を携えてくるようになった。それも私の好む青薔薇である。何処で手に入れてくるものか、毎度一輪だけをそっと携えてきて、百輪を数える前にきっと振り向かせてみせますと笑うのだ。
そう、私は未だに絹代に返事を返せていないままだった。あの後、返事どころか声一つ出せなくなった私を前に、耳まで真っ赤にした絹代は、また来ます、また逢いに来ますとだけ残して帰って行った。
その後の一週間を私がどれだけ煩悶として過ごしたか。よく懐いてくれているとは思っていたが、まさかあんな思いを抱いているとは全く思ってもいなかったのだ。私は何と返事を返したものか、またどう扱ってよいものかずっと考えていた。考えていたというより考えようとしていた。しかしそうしようとする度に私の頭の中は真っ白になってしまい、何一つとして浮かんでこないのだった。
そうして迎えた一週間後、絹代は何事もなかったかのようにやってきて、先週は大変失礼をいたしましたと深々と頭を下げた。それから、貴女を好きなことは本当なので、これっぱかりはどうにも撤回のしようがございませんので、そのことについても申し訳ないと頭を下げられた。
「返事をせかすつもりはありませんが、事此処に至っては私も退けません。なんとしても振り向いて頂くのでよしなにお願いいたします」
と大真面目に告げられて、何だか決闘でも申し込まれたような気分で、私は曖昧に頷くことしかできなかった。その上、薔薇を一輪渡されることと、その際に改めて好きですと告げられる他は、全く何事もなかったかのように今迄通りな物で、私の中に萌しかけていた覚悟も何だかすっかりしぼんでしまって、ずるずると怠惰に過ごしてしまった。
そんな誠意のない私が絹代の笑顔を求めるというのは全く不実極まりないとは思うのだが、寝不足で回らない頭にはもうそんなことはどうでもよかった。
茶会に訪れた絹代の笑顔は、実際私の心を平手打ちし続ける幻影を、すっと掻き消してくれる朗らかさがあった。それと同時に張りつめていた心も弛んでしまって、うつらうつらとしかけるのを、眠気を催す会議中に鍛えられた鉄面皮でどうにか誤魔化している状態だった。
「ダージリン様はとても人気があるからこそ、そのような――」
「しかしダージリン殿に限って――」
「乙女はありそうでなさそうは話の方が――」
夢うつつ、というが、実際その時の私は半分眠っていて、もう半分は何とか起きているといった状態で、絹代やアッサム、オレンジペコの楽しげに談笑する声が、それとなく聞こえてくるばかりで、内容の方はさっぱり頭に入ってきていなかった。辛うじてローズヒップが鳴らすティーカップとソーサーのかちゃかちゃ言う音だけが尖って聞えるばかりだった。
日差しは暖かで、風は涼しく、柔らかな紅茶の香りが立ち上り、耳には絹代の柔らかな声。このまま眠りに落ちたらどれほど気持ちがよいだろうか。
そんな、すっかりと気の抜けた状態だったから、私は悪夢を経験することになったのだった。
「だ、ダージリン殿はまさかそんなことはなさっていませんよね?」
絹代が情けなく眉尻を下げ、こちらを見つめている。それまでは向かいの席に座っていたのに、あれ以来アッサムが気を利かせてか私をからかってか、絹代はいつも私の左隣に座るようになっていた。ぼんやりした頭で見つめると、以前よりずっと距離が近くて絹代がよく見える。髪は艶やかで、風に揺れるとさらさらと流れて、とても柔らかそうだ。戦車道をしているからか体幹は鍛えられているけれど、少女から大人になろうとしている確かな柔らかさがそこにはあって、少女でも大人でもない、乙女の危うく、アンバランスな魅力があった。不安げに揺れる瞳はまるで私を試しているようだ。
眠気で霞がかかったような頭では、私は何を考えることもできず、ただぽろりと零れ落ちた言葉を、止める術を持たなかった。
「絹代、貴女とても抱き心地が良さそうね。今夜は私の部屋に来ない?」
時間が停まったような沈黙が、伝統ある聖グロリアーナ女学院の格式ある戦車道クラブハウス中庭をそっと包んだ。
オレンジペコの動揺とアッサムの困惑、ローズヒップの沈黙、それに絹代から発せられた凄まじい気迫に、私はびくりと覚醒した。
はっきりと開いた眼の先には、絹代の泣く姿があった。
溢れる涙は抑えられることもなくほろりほろほろとすべらかなまなじりを落ちて行き、きっと結ばれた唇はわなわなとふるえ、怒りの為か悲しみの為か僅か紅潮した頬は林檎のようだ。
ああ、それは、その情景は、夢の中で、目覚めてからも、終わることなき繰り返しで見せつけられた、あの情景ではないか。
だとすれば、その先は、知っている。知っているが、体が動かない。阿呆にでもなったように、私は茫然とその涙を見つめていた。
爆ぜるように鋭く唇が開き、あの夢の中では聞えなかった叫びが、絹代から放たれた。
「は、破廉恥ですッ! 最低ですッ!」
衝撃は、夢以上だった。次の瞬間には私は頬に鋭い熱を感じると共に真っ青な空を見上げていた。一瞬の浮遊感の後、遠ざかる空。ごつんと後頭部に衝撃を覚え、それでも私はただただ呆然と空を仰いでいた。椅子ごと倒れたのだと気付いたのは、その脇を早足で駆けていく絹代の足が見えたからだった。
オレンジペコが慌てたように私と絹代の名を叫ぶ中、私はゆっくりと立ち上がり、椅子を起こすや、そこに静かに腰掛けた。
「アッサム」
「はい」
突然の事態に大きく動揺することもない、頼りになる副官に、私は、誉れ高きダージリンの名を授かったこの私は、正直に居眠りしていて全く話を聞いておらず、寝ぼけて妙な事を言ったことを告白し、その上で何があったのかを尋ねた。それがダージリンの名に相応しくない醜態であることは自覚していたが、後輩を泣かせて、どうして泣かせたのかもわからないなどと言うのは、私自身の沽券にかかわる問題だった。
呆れたようにアッサムは、順を追って説明してくれた。
私が学院の様々な方面から人気がある、エルダーシスターである事。多くの生徒が憧れ、恋に恋する少女たちがいつも熱い視線を向けている事。そんないたいけな少女達を、私がそっと可愛がっているという噂話が出る程の人気ぶりなのだと絹代に言って聞かせたらしい。悪趣味なジョークだ。
西様がいらっしゃるまでは、週末毎にダージリン様の私室に招かれる少女の姿が見られたそうですなどとまで言ったらしい。それは主に貴女とオレンジペコと、時折ローズヒップなどにまとまった指示やお説教をすることがあったから呼びつけただけだろうに、この魔女め。
とにかく、純真な絹代にそんな、私が女をとっかえひっかえしているドン・ファンみたいな奴だと吹き込んだらしい。それで慌てて絹代が私に問い詰めたら、タイミング悪くすっかり眠りに落ちそうになっていい抱き枕でもないだろうかとうつらうつらしていた私は、あんな最悪な切り返しをしてしまったとこういう事らしい。
「ダージリン様は『ケダモノ』ですの?」
意味は分かっていないのだろうが。ローズヒップにまで突き刺さるようなことを言われて死にたくなった。
「……はあ、かったりぃ」
「へ?」
「ダージリン様、お国言葉が」
「ん、んん」
さて、どうするか。
今すぐにでも走り出して絹代を追いかけたいが、伝統ある聖グロリアーナ女学院の格式ある戦車隊隊長を務める誉れ高きダージリンの名を頂いた私が、そんなみっともない真似は出来ない。この身は常に優雅でなければならないのだ。しかし絹代を放置しては置けない。絹代は敏い子だから、落ち着きさえすれば私があんなことを言ったのには何かわけがあると察してくれるだろうけれど、今この瞬間きっと傷ついている。傷付いた少女を放っておけるほど私は酷薄ではないし、なにより自分に恋する女の子を泣かせて何も思わずにいられるほど枯れ切ってはいないのだ。
私は心配げに見つめるオレンジペコに心配するなと笑いかけ、それからアッサムに、あくまでも優雅に振る舞い、尋ねるのだった。
「アッサム。少々気疲れのすることもあったから、少しロードワークに出ようと思いますの。『いいコース』を教えて貰えないかしら?」
「個人的な依頼は高くつきますわよ?」
「後輩に張り倒される戦車隊隊長の画は巷では手に入らないわよ?」
「お釣りはどうなさいますか?」
「サービスで示していただけるかしら」
私は席を立ち、カップをソーサーに置いた。
オレンジペコがそっとタオルを寄越してくる。
「まずはお着替えですね」
「……あら。そうね。動きやすい服に着替えなくては」
今更になってから、腹に零した紅茶の熱さが感じられてきて、私はようやくに自分の動揺を悟るのだった。