西絹代が毎週日曜日に聖グロリアーナ女学院戦車道クラブハウスに訪れるようになって暫く。私はなんとかネタ切れの醜態を晒すこともなく、西の襲撃を凌いでいた。先日ちょっとした変化にと思って持ち出したチェス盤が、思いの外に功を奏したのだった。
「むむむ……まっ、」
「待ったは三度までよ、西さん」
「むー……負けました」
眉を寄せて盤面を睨む西。何かと調子を狂わせる西の笑みを黙らせられたのは特に嬉しい誤算だった。最初はにこにこと盤を眺める笑みが、追い詰められるにつれて余裕をなくし、長考が続くようになり、へにゃりと眉尻を下げた情けのない顔でおずおずと駒を置く姿など、なかなか悪くない優越感を感じさせてくれる。
「では今度はこちらで」
「ええ、お手柔らかに」
問題はこちらだ。この、将棋盤だ。
戦略眼を鍛える為と称してチェス・ボードを持ち出し、慣れぬチェスに覚束ない西をじわりじわりと嬲ってやった翌週、こちらなら手馴れておりますと持参してきたのが本榧性の柾目も美しい卓上将棋盤だった。素人目にも年季の入った高級品をしれっと持ってきて、扱いも気兼ねをしないぞんざいなもので、頬が引き攣りかけたのを覚えている。どうでもいいことだが私のチェス盤は前隊長に選別にと頂いたものだ。裏に値札のシールを剥がし忘れていたのをガムテープで剥がした記憶がある。
西はチェスこそまだ慣れないせいもあって私が勝ち越しているが、将棋に関しては圧倒的に上手だった。私が慣れていないからというのもあったが、西の打ち手は圧倒的な経験差を感じさせた。聞けば幼少の頃より、祖父の暇潰しの相手をしていたのだという。ルールを知っているという程度の私では歯が立たないはずだ。
因みに私のチェスの経験は聖グロリアーナ女学院に入学してからのものだ。期間こそ短くはあるが、私にチェスを教えてくれた前隊長アールグレイ様は趣味で通信対戦をなさる程度には通じていたし、今も良く対局してくれているアッサムは学内でも有数の打ち手で、優秀な打ち手に揉まれてきたとは自負している。またオレンジペコは覚えがよく、対局するとその成長の度合いがよく見えて、たまにひやりとさせられる。そう考えるとこの面子で安心して勝てるのはローズヒップだけだ。彼女はそもそも駒の役割を対局する毎に訪ねてくる問題児なので、果たして名を連ねていいのかは疑問だが。
まあその程度にはチェスに親しんでいる私だが、将棋はいまいちだ。いや、やっぱり西の腕がいいのだ。そうでなければここまで私が翻弄されるはずがない。幾ら何でも私がそこまで悲惨な腕前だとは考えづらいもの。恐るべし西。
まあ冗談はさておいても、西のボードゲームの腕前はなかなか予想外に唸らせられるものがあった。意外にも盤上では吶喊癖がまるで出ないのである。むしろじっくりじわじわと布陣を整え、最後の最後で逃げ道を封鎖して完封するという、時間がかかるが逃れ難い戦法で追い詰めてくる。将棋においてはにこにこ笑顔で真綿で絞めるかのようにじっくりと嬲られるし、チェスであってもこの牙を逃れるのは容易ではない。今のところ勝ち越してはいるが、何度かリザインを強いられたこともあるし、少なくない頻度で引き分けに持ち込まれる。あれ。私の立場不味いのでは。
いや、これも将棋に慣れるまでの事だ。今まで全然将棋なんてやったことがなかったから仕方がないのだ。将棋のノウハウをしっかりと身に付ければ、チェスでも後れを取ることなどなくなるだろう。第一なんだ、取った駒を自分で使えるようになるって。撃破した戦車を鹵獲して使えるようにするまでどれだけかかると思っているのだ。第一搭乗員が従わないだろう。なんでそうあっさりと裏切れるのだ。我が校にはそんな軽薄なものはいない。筈だ。最近、西が来る度に出迎えては黄色い悲鳴を上げる生徒が増えているが、まあ、あれは、そういうのではないからいい。いいったらいい。苛立たせられるが、それだけだ。
そうだ。西など、精々私を苛立たせる程度なのだ。
「王手です!」
「…………おやりになるわね」
訂正。かなり苛立たせてくれる。
「ああ、例の事だね。調べておいたとも」
情報処理学部第6課。グロリアーナ・インテリジェンス・シックス。GI6。様々な呼ばれ方をしているが、彼女たちこそが聖グロリアーナ女学院の秘密情報部。我が戦車隊も、度々その諜報能力を活用して協力してもらっている。
とはいえ、政治こそが力である聖グロリアーナ女学院においては、利益の重なる時だけ親しい友人であり、そうでないときにおいては寧ろ最も情報を隠さなければならない油断ならない相手だ。概ねにおいて協力的であり、下手に出て来はするが、戦車隊に不利な情報を束で握っている連中だ。
電話口では盗聴の恐れがあるなどと嘯く連中の為に足を運んだコーヒー・ハウスで待っていたのは、エージェント・シェイクスピアだ。彼女らはコードネームに作家の名を名乗る。個人的な調査を依頼するとき、私の相手をするのはいつも、あえて劇作家の名を名乗るエージェントだった。尤も、会う度に姿が違うので、それが変装なのか、それとも本当に違う相手なのかはわからない。
「生徒会長も考えがあるのだろうけれど、その考えがあった上で君への当て付けもしようというのだから、つくづく度し難い人だ」
「GI6は、コーヒー一杯が冷めてから本題に入るという流儀があったかしら?」
「やれやれ、相変わらずせっかちなことだ。わかった、わかりましたよ、メム」
エージェント・シェイクスピアは大仰に肩をすくめると、茶封筒に収めた書類を差し出してきた。内容は、西絹代に関する調査報告だ。
私は、人が勝手に決めた約束事を、決めてしまったことだからと唯々諾々と従う人間ではない。西絹代がわざわざ聖グロリアーナ女学院に単身乗り込んできたこと。生徒会長がそれを承認し、公式に受け入れ態勢を作ったこと。全てに裏があるはずなのだ。政治という怪物を前に、なるようになるなどと日和ったことは言っていられない。自ら介入し、己の望む方向へ進めなければならない。
「西絹代。知波単学園二年生。前隊長辻つつじが更迭され、現隊長として就任。なんてのはもうすでにご存じだね。もう少し深い所でいこうか。出身は東京都南区。ひゅう、驚き。なんと彼女、西家のご令嬢だ」
「西家?」
「まあ、驚くほど有名どころじゃないけどね。元華族だよ。男爵様だ。家族制度廃止後は商家に鞍替えしてるけど、商才があったのかね、紡績業なんかで利益を上げたみたいだ。今は複数業種に跨る企業の所有者だ。大企業という程じゃないけど、黙ってても懐に金が転がり込んでくるような上流階級だよ」
「上流階級、ね」
「そう、同じ戦車隊隊長でも格差ってのはあるねえ」
「…………生まれを蔑まれるような無様な指揮を晒す隊長は拝見したことがありませんわ」
「おー、怖い怖い。冗談だよ冗談。西家は議員も輩出したことがあるし、稽古事の一環として戦車道経験者も多い。とはいえあんまり尖った所はないな。趣味人が多いのか芸術面では偶に名前が上がるけど、実業面ではいまいちパッとしないな。知波単への献金なんかはなし。進学は完全に絹代嬢の趣味だね」
「趣味というと、戦車道の?」
「うん。彼女はバイクを始めとして乗り物好きらしくてね。それが高じて戦車道を学び始めて、戦車の盛んな知波単学園に進学したそうだ」
書類をとんとんと揃えながら、少し整理する。
西は上流階級出身。だが知波単学園への進学は戦車道目的という個人的な理由から。西家も娘の通っている学園艦という程度にしか認識していないようだ。となると今回の件に西家は絡んでいないと見ていいだろう。となると知波単学園として西を送り込んできたことになる。その理由はなんだ。
「先ほど言っていた会長の考えというのに、心当たりはありますの?」
「なくはないけどね。新しい戦車を仕入れようとしたり一々目障りな隊長様への当て付けとか」
「……全く。OG会も生徒会も、保守的に過ぎるわね。伝統を守る事と、伝統に固執することは別物だわ」
「ご説一々ご尤も。でもそういうのはお宅らの間でやって頂戴」
「コーヒーが冷めますわ。本題に入って頂戴」
「はいはい。まあ、現生徒会長はぱっとしないからね、評価を気にしてる。同じく古豪であり、そして今後の期待できる知波単学園との外交を深めて、親善試合なんかを組んで盛り上げていきたいんだろうね。そこに戦車道のご指導を、なんてお伺いがあったもんだから、大将これはチャンスとばかりに約束を取り付けたんだろう。戦車隊隊長同士で親しくなってしまえば、美談はいくらでも作れるからねえ」
「……はあ。まったく節操のない話ね。要するに新進気鋭の血統書付と、自分の飼い犬をお見合いさせて、悦に入りたいブリーダー様という訳ね」
「飼い犬がお高く止まって言う事を聞かないと来れば、その位はして上から目線を味わいたいんだろうさ」
頭の痛くなる話だ。西と親交を深めること自体は別に構わない。カチューシャや角谷杏とも親しくしているし、サンダースのケイだってそうだ。政治とはそういうものだ。『あなたの友に対しては、友情を保つために、よいことをしてあげなさい。また、あなたの敵に対しても、将来、あなたの友とするためにも、よいことをしてあげなさい』。フランクリンだ。
だが仕組まれているというのは気に食わない。気に食わないが、しかし手段は正しいし、現状をあえて変える程の事もない。そう判断するとわかっていてやっただろうと想像できるのがまた、腹立たしい。
コーヒーを飲み干し、席を立つ。下らない政治屋の話で耳を汚し、頭を疲れさせてしまった。紅茶で口直しをしたい。
短く挨拶して帰ろうとしたところで、ああ、そういえば、とエージェント・シェイクスピアはわざとらしく声を上げる。
「クラブハウスは、いまやティータイムの度に話に上がるそうだよ」
「…………戦車の腕の事ではなさそうね」
「あのダージリン様が、年下の騎士様と週末毎に逢瀬を重ねてるってね。もっと下世話なのだと、若いツバメを連れ込んだって、」
「失礼いたしますわ」
ダージリンが去った後、シェイクスピアを名乗るエージェントは冷めた珈琲を啜って唸った。
「生徒会長が当てつけてるってのはまあ、嘘じゃないんだけどね。何せ君は憧れのダージリン様だぜ。自分に素っ気ない高嶺の花に、面倒をかけてやろうなんていじらしいじゃあないか。とはいえ 、如何に美しいものでも行為によっては醜怪になる。腐った百合は雑草より酷い臭いを天地に放つ。会長様は遣り様が下手だね、全く」
独り言ち、エージェントはゆっくりと背もたれに身を預ける。戦車隊隊長との会談は疲れる。それが個人的依頼の話となれば尚更だ。彼女の機嫌を損ねれば、彼女が品よく引いても、彼女を慕うものは毒を孕むだろう。情報学部第6課はあくまで静かに居たいのだ。
「それにしても、百合か。同じ百合なら野に咲く百合の方が清々しくていい。ダージリン様はあれでひねくれてらっしゃるからねえ、西の若駒には複雑な所だろう。そして絹代嬢もあれはあれで考えなしじゃあない。恋の始まりは晴れたり曇ったりの4月のよう。果たしてダージリン様の空模様は如何程かねえ」
続く