森のピアノと 作:さがせんせい
あれよこれよと話は進み、気づいてみれば、阿字野が行ってこいと言うものだから、北宇治の合宿にまで付いて来てしまった。
滝先生にも、いいカンフル剤になるから是非、と言われてしまった。
過去、色々と言われてきたが、まさかカンフル剤扱いされる日が来るとは思いもしなかった。
けれど、悪いことじゃない。
「送り迎え付きとか、格段に楽だなぁ」
基本、自力で行って、自力で帰ってばかりだったからな。
こうして待ってれば目的地というのも、悪くない。
なんてことを、バスに揺られながら考えてしまう。
「バイクもいいけど、ゆったりした時間もありだなぁ。今度、阿字野と旅行にでも行くかー」
「阿字野?」
「先生だよ、俺の」
誰からの質問だったのかはわからず、適当に答えておく。
「前に言ってた、森のピアノは?」
「それは俺の原点。いまのピアノを形作ってくれた、俺を育ててくれたピアノかな」
「へー。一ノ瀬はピアノに育てられたわけね」
また質問が飛んでくる。
さっきは後ろから。今度は前の席からだ。
「ちょっと、いま私が話してるんですけど!」
「えー? 一ノ瀬はあんたのものじゃないでしょー。それとも、思春期真っ只中の優子ちゃんは、嫉妬ですか〜?」
「ちーがーいーまーすー!!」
ぎゃあぎゃあ、わいわいと。
俺が座る列を挟み、元気な声がバスの中で響く。
「だいたい、なんで毎回私が話してるときに絡んでくるのよ!」
「あんたこそ、どうして私が話してるときに同じように話してるかなぁ」
何日か通っているだけでもわかるけど、言い争っている優子と夏紀。この二人は喧嘩するほど仲がいい関係なんだろう。
もっとも、本人たちは否定するだろうし、そう簡単に言い表せるものでもないんだろうけど。
しばらく言い合いを眺めていると、後ろの席から手が伸びてくる。
「……あめ、食べる?」
突き出された手に乗っているのは、青い包装紙に包まれた飴玉。そして、こちらを見るみぞれの顔。依然として、その顔にこれといった表情が浮かぶことはない。
とはいえ、好き勝手やっているといえば、彼女もだ。
「おう、ありがとう」
主張が薄いのかと思えば、気づくと一人で好きなように動いている節がある。
それでも個を感じないことに疑問はあるものの、この子もどこか歪なんだろうなぁ。どこか、友人でもあり、ピアノストでもある雨宮と似たところがある。
いや、考えごとをしている阿字野の方が近いのか? 二度と掴めないものの、それでも掴みたくて……。
「解決するといいよなー」
「……?」
意味はわからなかったのか、小さな動作ではあったが、首を傾げられてしまった。
無意識に、なにかを求めているんだろうか?
「みぞれは、音を出すときになにを考えているんだ?」
もらったソーダ味のあめを口に入れながら、気になっていたことを聞く。
彼女の演奏は、完璧なピアノを弾く雨宮とよく似ていた。違うことは、雨宮の音を聞いているとかっこいいと思えるのに、みぞれの音は、空虚で寂しい。
「なにも」
期待していた答えは、彼女からは聞こえなかった。
「なにも……わからない」
「――……そっか」
楽しいのか、つまらないのか。
それすらも、いまの彼女は感じていないのかもしれない。
「俺はさ、ピアノを弾くときは色々考えてるぜ?」
「いろいろ?」
「うん、いろいろ。誰に聞かせたいとか、ショパンの望む速度でだとか、これまで関わってきた人たちのこと。阿字野が教えてくれたこと」
「どう弾くか、じゃないんだ」
「もちろんそれも考えてるさ。でも、どう弾くかなんて、そのうちわかってくるし。ステージは生きてるから、その場その場で弾くしかないんだよ」
練習でどれだけ考えて、自分の思うように弾けたって、実際に弾かないといけないのは本番だ。
その日のコンディション、俺以外の演奏者、ステージを見に来た人たち。
多くの影響を受ける本番では、これまでやってきたことだけでなく、その日その日の判断も必要なんだ。
「変なの……」
「いや、その言い方は酷いなぁ」
「……ごめんなさい」
「あ、いや。責めてるわけじゃなくてさ。うん、少しわかりづらい言い方だった」
無機質な声の中、少しだけ紛れた不安げな感情。
ちゃんと接してみると、みぞれもしっかりと感情が出ているのか? わかりづらいだけで、森にいた多くの動物のように、接し方が違うだけなのかもしれない。
「わかんないことを、わからないままにしないために、だよな」
もう少し、踏み込んでみる勇気も必要だ。
「あれ? みぞれと一ノ瀬、仲良くなったの?」
夏紀との言い合いに負け越している優子が切り上げ、みぞれへと声をかける。
「……?」
しかし、みぞれはまたも首を傾げ、優子が訝しげな視線を俺に向ける。
前にも理不尽に向けられたなー、この目。
「ぷぷぷ。相手にされてないでやんの〜」
「なんですってぇ!?」
わかりやすい挑発に乗った優子が、またも大声を上げる。
「もう少し静かにしなさいよねぇ」
さすがに騒ぎすぎたのか、あすかさんが二人を注意する。
優しげな顔だが、声が冷え切っていたので次はないだろう。
「まったく、いつもいつも邪魔ばっかりして」
仕方ないといった様子で座席に座り込む優子と、楽しげな顔を見せながら静かに腰を下ろす夏紀。
対照的な二人だが、これがいつもの北宇治なんだろう。
離れた位置に座る久美子が「うわーいつも通りだなぁ」とつぶやいていたから、みんな見慣れたものらしい。
「そういえば一ノ瀬、さっきあんたの先生のこと話してたわよね?」
思い出したように、優子が身を乗り出してくる。
「んー? 阿字野のことか?」
「そう! その人! どんな人なわけ?」
まさか阿字野に食いつく人がいるなんてな。
「それは――」
「みんな、もう着くから、降りる準備しておいてね!」
今度は部長の声がバスの中に響く。
「また後で聞くから」
「りょーかい」
もっとも、俺の荷物はそう多いわけじゃない。
みんなは楽器や楽譜なんかがあるけど、俺は今回、おもちゃのピアノくらいしか、特別な荷物はない。
ピアノ以外の楽器にも不慣れなので、楽器を運ぶことも少なく、手持ち無沙汰のままバスから降り、練習場へと向かう。
「さすがに、ピアノはないよなぁ」
あくまで練習場所なだけで、ピアノがそう堂々と置かれているはずもない。
せめてキーボードくらい……。
「あ、吹部の方で持ってきてるかな? あとで滝先生に確認してみよう」
おもちゃのピアノじゃ限界があるし、なにより弾きたいときに鳴らしたい音がない! なんてことになりかねない。
部活の時間中はシミュレーション。
帰ってからは、ショパンの思想、長い歴史を感じながら弾き続け。
「夏休みで良かったな」
「おや、学生らしい言葉ですね」
つい漏らした言葉に反応があったので振り返ってみれば、滝先生が笑みを浮かべながら立っていた。
「どうですか、何日か経ちましたが、吹奏楽部での日々は」
「毎日、多くの音が聞こえてきて楽しいです。自分の音ばかりじゃなく、他の音を気にかけたり、誰がなにを考えて吹いているのかわかってくるので、発見が多いです」
「それは良かった。なにも教えれないままでは、阿字野先生に怒られてしまいますからね」
「あはは……先生は怒らないと思いますよ。それに、僕にプラスになるからこそ、動いてくれたんですし」
阿字野の行動理念からして、そこだけは揺るがない。
これまで教わってきたことで無駄になったことなんて、ひとつもないんだから。
「いい先生をお持ちになりましたね。では、しっかり学びましょう。キミは時間を無駄にはしていないでしょうけど、より拾えるものが多くあるように。そして、我々がキミから多くを学ぶために」
「はい!」
滝先生に続いて部屋に入ると、既に合奏のできる状態でみんなが待っていた。
「みなさん、すぐに練習といきたいところですが、まずはみなさんに紹介したい人がいます」
滝先生の言葉に続いて、2人の男女が入ってくる。
みんなの声を聞く限り、男性の方は既に知られているらしく、女性に関心が集まっている。
「今日から木管楽器を指導してくださる、新山聡美先生です」
滝先生の隣まで来ると、滝先生が紹介する。
「新山聡美といいます。よろしく」
綺麗な女性ということと、木管楽器の指導ということで、一部の生徒たちがざわめく。
「新山先生は若いですが優秀です。指示には従うように」
「滝先生にそう言ってもらえると嬉しいです」
見つめ合い二人のせいか、滝先生の彼女説が早くも広まっていく。
麗奈の目が死んだ魚のような目をしていたが、あれはどういう意味だったんだろうか?
「あら、そこにいるのって……」
「ねぇ、僕も気になっていたんだよ。滝くん、彼、この前M響とピアノ弾いてたよね?」
などと周りを見ていれば、滝先生を挟んで、新山先生たちの反対側に立っていた俺に話が向いていた。
「双方に紹介がまだでしたね。一ノ瀬くん、こちら、夏休みの間練習を見てくれている、パーカッションのプロでもある、橋本先生です」
「はしもっちゃんと呼んでくれていいよ〜。キミ、この前のJAPANソリスト・コンクールで、初めてソリスト賞に選ばれてたよね? 演奏聞いたのはコンクール曲とM響とのセッションだけなんだけど、一緒に演奏してみたいと思ったよ」
「ありがとうございます。ピアニストとして、光栄です」
差し出された手を握り返すと、ほどよい力加減で握り返された。
「うん、初めて聞くピアノだっただけに、僕もう興奮しちゃってさぁ。ピアノコンクールに聞きにきてくれって友人が言うもんだから付き合いで行ったんだけど、行って正解だったよ。あ、よければ、あとで弾いてよ。キーボードしかないけど」
「十分です!」
「お、言うねぇ。プロの前でその自信! いいね、いいねぇ」
橋本先生との会話の中で出てきた単語がみんなに聞こえたのか、新山先生が来たときと同じようにざわめく音が広がっていく。
「ん? もしかして、言ってなかったのかい?」
「一ノ瀬くんのことは、深く話していませんので。個人の問題もありますから、話していいラインは一ノ瀬くん本人に任せようと思っていましたから」
「あら〜、それは失敬」
「いえ、だいじょうぶです。コンクール結果なら、隠すことじゃないですから。探せば簡単に出てくる内容ですしね」
そうして、思わぬ出会いはあったものの、指導者が増えた北宇治の練習は、さらに質が上がっていく。