森のピアノと 作:さがせんせい
あのあと、みんなの要望を聞きながら結構な曲数を弾くことになった。
「ん〜楽しかったぁ」
大きく伸びをし、音楽室で弾いていた時間を思い出す。
最初は優子とみぞれが聞いていただけだったのが、弾き終えてみれば、部員のほぼ全員から拍手までされてしまった。
たんたんタヌキのアレンジを弾いただけだけど、楽しんでほしいっていう思いは伝わったんだろう。
まあ、そのあとがリクエストに応えていく時間になったのは、ちょっと大変だったけど。
「俺のピアノ……」
それはきっと、森のピアノが根底にあって。
「北宇治はもうすぐ、次の関西大会なんだよな」
俺よりも早く、北宇治のみんなは本番を迎える。
今日聞いた演奏でも、完成度は高かった。まだ京都府大会が終わったばかりなのに、変化していた。
「俺も、もっとうまくならないとな。ショパンコンクールまでに、もっと」
阿字野とジャンも、ギリギリ仕上がるかどうかと言っていたっけ。
現役時代は日本国内の音楽コンクールで賞を勝ち取り続けた阿字野と、世界的ピアニストのジャンが、揃ってそう言っているんだ。
俺に、練習をしない選択なんてない。
けれど、ピアノを弾いてばかりいても、掴めないものだってあることを知っている。かけがえのない、俺の先生が長年教えてくれたことだから。
「やっぱり、森っぽい場所は必要だよな」
だからこうして、落ち着ける場所に来ている。
月明かりだけが俺を照らす、木に囲まれた中。ここにいると、森のピアノを思い出す。それからの、阿字野との出会いや、教わったこと。そして――森のピアノが、俺の中にしかなくなった日のこと。
「森のピアノは、もう俺の中に、しっかりと」
寝転がりながら夜空を見つつ、手だけは鍵盤がなくても、思いのままに、空中で曲を弾く。
昨日、今日と一人でいる時間があまりなかったからか、こうした時間があると落ち着ける。
「コンクールか……」
かける思いは人それぞれで。北宇治のみんなを見ていても、色々あるんだと感じる。
この先にあるショパンコンクールにも、そうした人はいるだろう。それでも、今回は俺も負けられない。
阿字野との約束。
俺個人の契約。
「はあ……」
やることは多いし、まだ掴めてない部分もある。
この前のジャンのコンサートでの演奏を聞いて、わかったこともあった。それでも足りないのは、曲を理解して、俺の中にあるシミュレーションを繰り返し修正していく必要がある。
「ほんと、余裕ないんだな」
伸び伸びと音を出すには、その余裕のなさは不必要なんだけどなぁ。
いま欲しいのは、苦しい音じゃない。
「俺の音……ピアノ……世界中に、か」
弾く手を止めて、月明かりに手をかざす。
こうした時間は、やっと勝ち取ったもので。いまの時間は、多分、俺の人生の中で、楽しい時間なんだと思う。でも、この時間が続くのは、ショパンコンクールが終わるまで。
「阿字野……俺は――」
一ノ瀬さんの演奏は、私たち吹奏楽部員全体に衝撃をもたらした。
「たった2回の演奏で合わせるって、ピアニストってそれが普通なの?」
「普通じゃないです! 一ノ瀬さんは、凄いピアニストなんだと思います。緑、手は挙げれませんでしたが、1度目の演奏でも、確かにそれを感じました。逆に、2度目では一体感を感じましたよ。あれだけのピアニストは、そう簡単にはいないはずです」
部活の帰り道、低音パートの仲間でもあり、友達でもある葉月ちゃんと緑ちゃんが、今日の演奏についてを語っていた。
葉月ちゃんが一ノ瀬さんのピアノを聞いたのは、部活動後のピアノだけだったから、余計に気になるのかもしれない。
「ねえねえ、久美子と高坂さんは? どう感じたの?」
その話は、私と麗奈にも飛び火していく。
「私は、よくわからなくなったかも……一ノ瀬さんのピアノを聞いてると、落ち着かなかったかな」
正直なところ、1度目の演奏は私の中では襲いかかってくるような印象を受けてしまった。
なにしろ、吹くのを途中で止めてしまった人がいたくらいなのだ。同じように感じた人はいたと思う。
「え〜……高坂さんは?」
「私は――コンクール前に一ノ瀬さんのピアノを聞けて良かった。荒削りだし大胆なピアノだったけど、切なくて、まるごと包み込まれているみたいだった。鎧塚先輩みたいな完璧な演奏じゃないけど、少しも完璧じゃないのに、凄く響くの。なんだか、聞いていると愛おしくなる」
絶賛だった。
常に自信に溢れた麗奈が、他人をここまで褒めるのも珍しい。
「逆に、2回目の演奏はどこか窮屈そうだった。私だけかもしれないけど、1回目の演奏の方が、ピアノの良さは出ていたと思う」
「でも、演奏めちゃくちゃになってたよ?」
「うん、だから吹奏楽の合奏としては、2回目が正解で、正確なんだと思う。優等生のピアノなら、絶対に2回目」
麗奈はそう言いながらも、個人としては1度目の演奏の方が気に入っているらしい。
「麗奈ちゃんは、1度目の演奏が好きなんですね」
緑ちゃんは納得したように、小さな手を合わせながら顔を綻ばせる。
あすか先輩も、多分支持するなら1度目の演奏なんだろうなぁ。あと、滝先生の質問に手を挙げていた最後の一人である、鎧塚先輩も。
「コンクールまで時間ないけど、今日一ノ瀬さんのピアノを聞けたのは、北宇治にとってプラスだと思うよ」
「あ、それは緑も思います! 感情込めて音を奏でるって、どういうことかわかった気がします。一ノ瀬さんの音って、緑が聞いてきた音の中で最も感情や情景が流れ込んでくるので」
「えーなにそれ! もう〜私も聞きたかったなぁ」
「一ノ瀬さん、言ったら弾いてくれると思うよ? さっきも優子先輩と鎧塚先輩が話しかけてたとき、弾いてくれてたし」
「あー、たんたんタヌキね」
「それは聞いた! すっごいよねぇ。あんなにかっこよく弾かれたらわかんないよ」
一ノ瀬さんの、アレンジされた演奏には最初、なんの曲だかわからない人が多かった。
なんだっけ? 聞いたことある。といった感想は漏れていたんだけど、あすか先輩が曲名を言うまでわかる人はいなかったのだ。
いや、正確には、一ノ瀬さんにリクエストした人がいたんだけど。
「緑、一ノ瀬さんのピアノ好きですよ。感情が溢れ出してきて、細かいミスなんて気にならない骨太なピアノです!」
「これからは休憩時間中に弾いてくれるって言っていたし、なにかリクエストしてみようかなー」
そうして、今日の話をしながら、まずは緑ちゃんが。
次に、葉月ちゃんがわかれていく。
残ったのは、私と麗奈の二人。
「一ノ瀬さんの奏でる音……」
「麗奈?」
二人になってから、麗奈の声は真剣なものに変わっていた。
「あの音は、特別だった……」
絞り出すように出した声は、少しだけ震えていて。
「特別……」
「久美子、どこまで練習したら、あんな風に吹けるようになるんだろう」
「わからない。でも、一ノ瀬さんもきっと、凄い練習しているんだよね。じゃなきゃ、急に合わせられるわけないよ。アレンジだって、弾き慣れてたし」
「そう思う。でも、それだけじゃあの演奏はできない。きっと、一ノ瀬さんにも色々あるんだろうね」
私にはわからなかった音。
麗奈と、あすか先輩。それから鎧塚先輩に、緑ちゃん。
もしかしたら、他にもわかった人はいたのかもしれない。
「もっと、うまくなりたいね」
「なる。絶対に」
一ノ瀬さんが北宇治に与えた衝撃は計り知れない。
北宇治のトランペットパートのエースでさえ、これなのだ。きっと、明日からの練習は更に激化する。
それなのに、いまだどこか不安が拭えないのは、なぜなんだろう……。