森のピアノと 作:さがせんせい
音楽室でしばらく待っていると、滝先生が部長に連れられてやってきた。
「すいません、少し遅れてしまいました。それでは、早速始めましょうか」
指揮者台の上に立ち、楽譜を広げた滝先生が、部員に指示を出す。
俺はそれをピアノ椅子から眺めているのをやめ、彼の側まで近づく。
「おや、一ノ瀬くん。どうかしましたか?」
「演奏中についてですが、どこかで聞いていた方がいいでしょうか? それとも、音楽室から出ていた方がいいですか?」
「ああ、そういえば言っていませんでしたね。全体合奏中は、私の後ろか、ピアノの近くで聞いていてください。椅子は余っているものを好きに使っていいですからね」
「わかりました。ありがとうございます。それでは、ピアノの近くで聞くことにします」
決まれば早いもので、ピアノのすぐ側にパイプ椅子を設置し、そこから演奏を聴くことにする。
奏者でもなく、観客でもない。けれど、奏者側からの立ち位置で。
なんだか、特等席で聞いている気分になる。
「と、そうでした。一ノ瀬くん、我々の演奏する曲のことは聞いていますか?」
「はい、府大会の演奏は聞きに行きましたし、僕の先生から一通りの譜面はもらってます」
関西大会の練習に参加させてもらうのだから、当然の義務として京都府大会の演奏は阿字野と聞きにいっている。ジャンも来たがっていたが、そのときは予定が合わなかったんだよなぁ。
電話越しだったけど、合わせることになるかもしれない子たちの演奏は聞いておいて損はないよ。と言っていたっけ。
「流石ですね。それなら安心です。では、1度合わせてみましょうか」
ジャンの言葉を思い出していると、滝先生からそんな提案をされた。吹奏楽部の面々も、顧問の突然の誘いに驚いている。
驚いていないのは、あすかさんと、みぞれだけか?
「一ノ瀬くん、どうでしょう?」
向けられる瞳には、あなたならできるでしょう? という信頼が見て取れた。
「阿字野は俺のことをどう話したんだよ……」
「私も父づてですが、オケコンでなら無類ない才能を有している、と聞いています。一ノ瀬くんの先生から、事前に練習風景と演奏の録音を送っていただきましたが、正直、聞いたときは驚きましたよ」
笑みを浮かべながら言われるが、北宇治の吹奏楽部の糧になるだろう、なんて意図も見える。
阿字野がいつの練習を送ったのかはわからないけど、下手にやったら怒られそうだな。でも、ピアノが弾ける。こんなにも早く、ピアノが弾ける!
「あの、先生。一ノ瀬くんはまだ参加2日目です。それでいきなりピアノを組み込むなんて、そんなこと!」
「そうでしょうか?」
「え……?」
まずいと思ったのか、部長が意見するが、滝先生はものともしない。
これには、他の部員も動揺を隠せていない。
「本番で弾いてきた回数も、練習量も、彼はあなたたちよりもずっと多い。私も多くを知るわけではありませんが、一ノ瀬くんがこの程度の無茶振りを退けられないわけがありません」
部員全員の視線が、俺へと刺さる。
「うへぇ……」
演奏中なら気にならない視線も、こうした場では結構くる。
興味、期待、不安、不信。
多くの感情を向けられているのがわかる。この先、ショパンコンクールで向けられることになる感情だ。だからこそ、逃げてはいられない。もとより、ピアノから逃げるなんてありえない。
「一ノ瀬くん、どうしますか?」
見計らったように、再度投げかけられる。
「――やります」
「そうですか。わかりました、それでは始めましょう」
言われるがままに、鍵盤の蓋を開ける。
「アレンジして、好きに合わせていただいて構いません。本来ならコンクールの場ではできない演奏なので、一ノ瀬くんの好きなように弾いてください。私が彼らに教えたいのは、そこですから。ですから、あなたの解釈通りの、一ノ瀬くんのピアノでお願いします」
「わかりました」
ここ最近で合わせたのは、M響とだっけ。
指揮者もつとめる世界的ピアニスト、ジャン=ジャック・セローの指揮のもと、ピアノ協奏曲第3番を弾いたんだ。サイコーに緊張したけど、サイコーに気持ち良かった時間。
もう1度、あれ以上の演奏をしたい。
それ以上に、演奏をしたい!
「みなさんが不安なのはわかります。まとまりつつある演奏に、不協和音が生じるかもしれない。来たばかりの彼が、私たちと1度も合わせたことのない音が演奏を壊すかもしれない。コンクール前のこの大事なときに、とも思っていることでしょう。けれど、私は全国に行くには彼の演奏を聴くべきだと判断しました。同時に、合わせてみるべきだとも」
「……わかりました。みんな、やろう!」
滝先生の言葉に、不承不承ながらも納得を示し、部員のやる気を盛り上げようとする部長。
俺は人を纏めるようなことはしたことがないが、あの立ち位置は大変そうだな。
「ま、一ノ瀬のピアノが気になってたのは事実だしな」
「仕方ないわね。やってやるわよ!」
「一ノ瀬さんのピアノ、楽しみです!」
「森のピアノってどんな感じなんだろうねぇ」
昨日、今日と参加させてもらったパートから声が鳴る。
「ピアノが入るなんて、ちょっと面白そう」
「うまく演奏に入れるといいんだけど……」
まだパート練に参加していないパートの人たちからは否定的な声や、心配の声も聞こえる。
不安なら、俺にだってあることだし、仕方ない。
「最初から受け入れられてる方が稀だよな」
手をほぐしながら、事前に力を抜いておけばよかったかなぁと思う。
滝先生は思ったより攻める性質のようだ。
それぞれが演奏の準備をし、俺も鍵盤に手を添える。
「なにがあったとしても、1度通します。全員、最後まで演奏を止めずに」
始まる前の程よい緊張感。この短い時間は、ジャンの言葉を思い出す。M響との初舞台。ジャンが指揮をしたコンチェルト。
集中だ。
全神経を集中して。最大なる集中を……みんなを、信じて!
タクトが振られ、最初の1音で落ち着いた。この曲は、京都府大会で聞いてから、何度も共演をシミュレーションしてきた曲だ。
でも、実際に合わせるとシミュレーションとは違って。
指揮は以前として変わらないのに、先走る音、ワンテンポのズレ。曲にまとまりがなくなっていく。
確かに聞き取れる、俺に合わせる道を示してくれる音は3つだけ。しだいにばらけていく音が、減っていく音量が、耳に残る。
これはもう、曲じゃない――。
「みなさん、お疲れ様でした。一ノ瀬くんも、ありがとうございます」
「これで、良かったんですか?」
「良い、とは?」
一ノ瀬さんが、私には理解できない質問をすると、滝先生は更に質問を重ねる。
「あー……コンクール前なのに、合わせるための演奏じゃなく、僕個人の合わせたいシミュレーション通りに弾きましたが、だいじょうぶですか?」
だいじょうぶではない。
最後まで演奏を続けるといった滝先生の言葉通り、確かに演奏は最後まで続いた。
けれど、いまのは曲じゃなかった。
一ノ瀬さんの演奏は技術も、表現も、正直に言って高校生のレベルを遥かに超えていた。私たちの演奏にも、きっと合っていたはずなんだ……。
「いやー、凄かったね」
「あすか先輩……」
「演奏壊滅って、こういう感じなんだね」
あすか先輩はおどけた様子で話しかけてくるが、最後まで吹ききっていた。
ピアノは、恐らく私たちのほとんどの部員の予想よりもうまかった。なのに、一緒に吹いていると、とてもちぐはぐな感じがした。
演奏中も、焦りが先行し、演奏を続けるのが辛いと思うほどに。
挑みかかってくるのだ。
落ち着こうとしても、何度冷静に吹こうとしても、ピアノに耳を取られてワンテンポ遅れる。テンポが速る。
不安感が押し寄せる……追いかけられるような感覚に支配される。
あの、噛みつかれるような感じは一体、なんだったのだろう……吹ききってなお、感覚がよみがえる。
「ねえ、黄前ちゃん」
「――なんですか?」
「一ノ瀬くんのピアノ、三日月感あったよね」
「はい?」
あすか先輩の感想に、私は間抜けな返事をしてしまった。だって、私にはそんなもの、まるで感じれなかったから。
「あれれ〜わからなかった? うーん……まあ、滝先生のやり方って、一歩間違えると崩壊しかねないもんね。仕方ないか」
私の反応に満足しなかったのか、再び前を向き、滝先生と一ノ瀬さんに視線を向けるあすか先輩。
三日月……感じなかったよね。
それよりも、段々と減っていく音の方が気になった。
周りを見てみれば、みんな疲れた顔をしていた。
対照的なのは、麗奈だ。まるで楽しくて仕方がない、けれど楽しく遊べないこどものような……ああ、これは後で色々爆発しそう。
「さて、一ノ瀬くん。いま、なにをイメージして弾いていましたか?」
彼女がなにを思っているのか知りたくもあったが、滝先生の声に、思考が途切れる。
つられるまま前へと視線が動く。
「三日月です。あとは、満天の星空に、僕個人の解釈で、月明かりに照らされた森に連れて行きたいと思ったんです」
「なるほど。解釈の差異はありましたが、素晴らしい表現力でした。みなさんの中で、演奏中に、一ノ瀬くんのいった景色が見えた人はいますか?」
続いて、私たち部員へと質問が移る。
誰もが、周りの人と、どう感じたのかを聞き合う中。しっかりと挙げられた手は、3人だけだった。
「……そうですね。では一ノ瀬くん。もう1度、お願いできますか?」
その言葉の意味はすぐにわかった。
周りが騒がしくなるのがわかった。誰かが息を呑む音も聞こえる。
「わかりました。なら次は――」
一ノ瀬さんは首を縦に振り、なにかに納得したように弾く姿勢をとった。
否定の声は上がらない。私は先ほどの演奏を思い出しながら、不安ながらに楽器を構える。
タクトが振られ、次いで演奏が始まる。
また同じことが繰り返されるのかと思ったけど、今度は、さっきとはまるで違った。
ピアノは軽やかに流れ、私たちの演奏とひとつになっていく。
いい感じ……曲になった! オケとしっかり噛み合ったピアノだ。
2度目の演奏はそのまま、全員がいつも通りの演奏をこなし、最後まで曲を保ったまま終わった。
「はい、いいでしょう。みなさん、急な演奏で混乱もあったと思いますが、演奏力を高め、表現力、変化への対応力をつけるにはいい経験になったと思います。それで、最後に質問なのですが、1度目と2度目。みなさんは、どちらのピアノにより表現力があったように感じましたか?」
滝先生の質問に隠された意図を知らぬまま、私たちは皆、思い思いに手を挙げた――。