森のピアノと 作:さがせんせい
――ピアノに感情が乗っていくのが、よくわかる。
防音の建物だからこそ、夜でもピアノを弾ける環境に感謝しながら、紡がれていく音には、どうしようもなく、感情が乗り移っていく。
はずだった。
なのに、音が途中で途切れる。
「頑張るって、なんですか? かぁ……」
帰りに出会った、中学生の女の子。
放っておくのも忍びなくて話しかけたのだが、最初は警戒されたものだ。野生の蛇だって威嚇するんだから、人だって変わらない。
話しかけた手前、このまま帰るのも格好がつかない。なので、滝先生にもらったおもちゃのピアノを取り出して、少ない鍵盤でも弾けるように曲をアレンジしながら、隣で弾き続けた。
それが良かったのか、彼女が吹奏楽部だったことが幸いしたのか。
誤解も解いてもらえて、少しだけ話すことができた。話してみれば、甘え上手な猫みたいな子だったのは印象的だったけど、その実、それはどこか空虚なもので。
どことなく、上から目線でバカにされているような。
滝先生からもらったおもちゃのピアノを弾くと、その音や曲にも興味を示すのに遠慮や嫌悪が見え隠れする。なにより、別れる間際に言われた言葉が頭に残る。
「あれは絶対、なんか抱えてるよなぁ」
でも、余所見している暇は俺にはない。それはそれとして、わかっているけど、割り切れるかはまた別だ。
「なんて答えたら、良かったんだろうな……」
俺は自分が頑張るのに、疑問なんて持っていない。
そうすることが全部だったし、そうすることでしか、ここまで来れなかった。
俺だけじゃない。俺にピアノを、多くのことを教えてくれた阿字野先生だって必死だった。だから、俺にはやるという選択しかなかったんだ。
俺は、俺にはなるしかない道がある。
「でも、普通は違うのかもな」
俺は俺でしかない。あの子の気持ちも、過去もわかりはしない。
次に会ったとき、俺は彼女になにを言うのだろうか。
まだわからない未来。
自分に課せられているもの。
それらすべてを振り払うように、より深くピアノに集中することしか、いまの俺にはできなかった――。
翌日、朝になろうかという時間に音楽室に足を運ぶ。
どういう理由か、滝先生から音楽室の鍵を受け取ってしまったので、図らずも音楽室一番乗りだ。
「俺、ここの生徒じゃないんだけどな。滝先生公認とはいえ、なんだか不法侵入してる気分だ」
まだ朝練というには早いのか、生徒の足音は聞こえない。
「あ、ピアノ……」
音楽室に置いてある、グランドピアノ。
北宇治のみんなとは、まだ合わせることのない音色。
「少しくらいなら、いいよな」
鐘が鳴ったら終えればいい。どうせ音楽室でなら、他の教室へは音は響かないだろう。というか、こんな時間に人いるのかよ。
「流石に、弦が切れることもないよな」
軽く鍵を叩き、出していい力加減を確認する。
ついでに調律……は時間がないから、また今度な。
「さって、じゃあちょこっとばかり、付き合ってくれよ。最初はそうだな。おもちゃのピアノつながりで、こいつから」
あのときはディスプレイ用のおもちゃで、少ない鍵盤のみで弾いたっけ。
さあ、今度のアレンジは、制限なしで。
ただ、没頭するために。
楽しむために。
懐かしむために。
忘れず、俺の中に在るために。
手は、思い描いた通りに鍵を叩いていく。
コンクールとも、ショパンとも関係ない。ただ、楽しむだけの音。
「たんたんタヌキ?」
2曲目を弾き終えた直後。
すぐ近くで弾いていた曲を当てる声が届いた。
「……キミは、昨日の」
「たんたんタヌキ……」
そこにいたのは、俺を音楽室まで案内してくれた、オーボエの子だった。
うまく感情の読み取れない表情は相変わらずだが、彼女の方から話しかけてくるとは思わなかったから、意外だ。
「うん、正解。アレンジだからだけどね」
「1曲目は、わからなかった」
「あー……最初のも聞いてたんだ。最初のはね、待ちどおしい日曜日って曲。前に作った曲なんだけどね」
「そう」
それ以上は話すこともなく、彼女は持っていたオーボエの準備をしていく。
掴みどころがなければ、主張もない。それに、機能的というか、でもどこか見えない妄執を感じさせる。
外部者の俺と二人きりなのに、警戒してる様子が一切ない。それ特有の視線や態度を感じれない。
「本当に、変わった人ばかりだな、ここ」
いろいろな楽器に、それぞれの奏者。
そりゃ、何十人と集まれば、中には変わった人もいるよな。とはいえ、昨日だけで鮮烈な印象ばかりだ。まさか、3人も濃い人に会うことになるなんて。
「あ、一ノ瀬くんじゃないの。ほほう? 今日は随分と早いね」
鍵盤を空叩きしていると、今度はあすかさんだ。
「滝先生から了承もらって、音楽室で待たせてもらってたんです」
「そっかー。もしかして、ピアノ弾いてた?」
「え? ああ、弾いてましたよ。時間があれば調律でもしようかと思ったんですけど、さすがにそこまでの余裕はなかったですね」
いや、本当に時間さえあればなぁ。こうして弾いたときも、2箇所の音のズレがあったし。キーボードは使うけど、ピアノはあまり使ってないみたいだしなぁ。僅かなズレなら拾われることもないのか。
「一ノ瀬くんのピアノねぇ。なに弾いてたの?」
「たんたんタヌキ」
あすかさんの質問に答えたのは、俺ではなく、オーボエの準備をしていた子だった。
「おや、みぞれちゃん。聞いてたの?」
「はい、2曲だけ」
いや、2曲しか弾いてなんだけどね。というか、みぞれって言うのか。
「ふーん。もう1曲は?」
「待ちどおしい日曜日」
「……知らない曲だね。練習曲とかかな?」
「創作曲、みたいです」
俺の外で俺の話が進められていく。
「みぞれちゃんが興味持つなんてねぇ。そっかそっか。じゃあ、そのうち聞かせてねー」
会話は簡単に終わり、あすかさんも部活動の準備に入る。
あの人、興味失うのが早いのもあるけど、元から興味ないのに興味あるかのように見せてる面も絶対にあるよな。高校生なのに、どこか大人ぶっているというか。
小さい頃から大人の中で、嵐の中で生きてきたからこそ、感じ取れる人の側面というものもある。
「歪だ」
でも、それは俺も同じ。むしろ、彼女たちよりよっぽど酷いように映るんだろうな。
自分の中で納得させるよう、ピアノにも蓋をする。
多分、俺が突っ込んでいい話じゃない。
「あら、一ノ瀬くん。今日はもう来てるんだ」
しばらく、あすかさんを観察していたら、トランペットパートをまとめていた3年生の人に話しかけられた。確か、あすかさんとも楽しげに話していた人だ。
昨日の部活終わりに少しだけ話したが、名前は中世古香織さん、だったかな。
「滝先生に許可を貰えたので、1番乗りで来ました」
「そうなんだ? 北宇治のみんなにはもう慣れた?」
「そうですねぇ。まだ話していない人も多いですし、低音パートの人たちとしか練習もしてませんから、ぼちぼちですね」
応えると、なにかが琴線に触れたのか、小さく笑みを浮かべていた。
「ぼちぼちかぁ。あ、そうだった。あのね、昨日あのあと、滝先生と話したんだけど、今日はトランペットパートの練習に付き合ってもらうことになったから、先に教えておくね」
「そうなんですか? わかりました、よろしくお願いします」
「うん、こちらこそ。それで――ピアノ、弾いてたの?」
来る人、来る人がそれを聞いてくるな。ピアノ奏者ってことは昨日の時点で滝先生が話しているからいいけど、いまなんて鍵盤閉じて、ピアノ椅子に座ってるだけだぞ?
「みんな、そこは気にするんですね」
「ふふっ、もしかして、もう誰かに聞かれてた?」
「誰かというか、来た人全員になにかしら聞かれましたよ。3人だけですけど」
視線をその内の2人に送ると、目の前にいる香織さんがそちらを向き、納得したように頷いていた。
というか、最初の濃い2人で割と疲れた。野生動物たちの方が純粋でわかりやすい。
「あの2人が興味を示したんだ……あ、でもね。多分、みんな同じことを聞くと思うよ?」
「へ?」
「一ノ瀬くんは、あの滝先生が呼んできた人だからね。みんな、滝先生が認めている一ノ瀬くんの演奏が気になってるんだよ」
それは、初知りだった。
思えば、当然のことなんだろうけれど。これ、もしかして1回弾いた方が早いんじゃないのか?
「おー、すごいね一ノ瀬くん。香織の美貌にこれっぽっちも反応を示さないとは。やりますなぁ」
「ちょ、あすか!?」
会話の最中に、茶化すようにはいってきたあすかさん。
「ま、一ノ瀬くん、顔も綺麗だし、見慣れてるって感じかな?」
「はあ……」
さてさて、このよくわからない人たちが集う吹奏楽。
眼前ではじゃれあうかのごとく近距離でなにごとかを言い合う3年生や、俄然せずにオーボエと向き合う2年生。まばらに人も集まり始めて来たわけで。
「今日はどんな音に出会うんだかなぁ」
とりあえず、こっちに寄ってくる人の相手から、しないとダメかぁ……。