森のピアノと 作:さがせんせい
色々な楽器のパート練に参加させてもらい、たまにチューニングやタンギング、拍取りなんかで少しキーボードで弾いたりして練習にも加えてもらっていた。
チューナーなんかの機器は使ってこなかったけど、M響の人たちが使っていたのを少し見ていたので用途は知っていた。
「まあ、こうしてしっかり見るのは初めてなんだけど」
合奏練習の休憩時間中に優子が使用しているのを後ろから眺めながら、チューニングが終わるのを待つ。
やがて音が合ったのか、チューナーをしまってしまう。
「演奏中ずっとつけてるわけじゃないんだな」
「まあね。そういう練習をするとこもあるけど、うちはあまりやらないわね。それより、あんまりジロジロ見られると集中できないんだけど」
「そう? でも本場は俺一人じゃなくてもっと大勢の人に注目されるし、審査員なんてもっとよく見てくるんじゃないか? ああ、でも見るよりは聴くだから少し違うかな」
「あんたねぇ……こんな近くで見られてたら気になるのは普通でしょうが」
目を吊り上げてさも睨んでますといった表情を向ける優子。
そんなに嫌だっただろうか?
「悪かったって。ほら、昼の弁当のおかずやるから、機嫌直せって」
「……はあ、いいわよ。というか、いつも思ってたんだけど、あんたもしかして自炊してるわけ?」
「してるよ。なんだかんだで一人暮らし始めて結構経つしな」
優子との会話中に生活のことを話したら、他のメンバーが釣れてしまった。
「一ノ瀬くん、もう一人暮らししてるの?」
香織さんが驚いた様子で会話に入ってきて、俺の代わりに優子が嬉しそうに答える。
「はい。一ノ瀬、結構前から一人暮らしをしているみたいで、こっちでも部屋を借りてるらしいですよ」
「へぇ……凄いね」
高校生で一人暮らしって、そう多くはないもんなぁ。
でも、俺にとっては生きることに関しては慣れたものというか……正直、暮らしじたいは一人の方が快適だ。時間も自由だし、なにかを忘れていても責められることはない。
なにより、安全だ。
俺の生きてきた環境って、比べられるとひどいもんだしなぁ。これは言わないというより、言えない問題だし、黙っておこう。
「一人暮らしかぁ。大変そうだけど、私もそういったこと考えないとなぁ」
香織さんは今年度で高校を卒業するから、割と間近に迫った話でもあるんだよな。大学入ってすぐに一人暮らしをする必要はないけど、考えてしまうこともあるんだろう。
「一人暮らしって、大変じゃないの?」
「大変ですよ。阿字野にはよく、料理について小言を言われますし、他の人たちからも結構色々と突っ込まれますからね。あとは……俺の家はないですけど、人の集まり場所にされたりはあるみたいですよ」
香織さんの質問に答えると、彼女は笑顔を浮かべて頷いていた。真剣に聞いているのか、楽しんでいるやら。
うちに来るとしたら、先生である阿字野か、親であるレイちゃんくらいのものだろう。
以前、年齢も性別も偽ってバイトをしていた事があったが、彼女たちから俺の情報が出回ることもないし、M響の人たちも家にまでは来ない。
うん、やっぱり他に心当たりのある人はいないか。
「そういえば一ノ瀬、あんたのことで気になってたことがあって、悪いけど、少しだけ調べたんだけど……」
なんて話をしていれば、こちらを見上げる優子が、少し不安げに声をかけてくる。
「ふむ……それで?」
「あ、うん……あのさ、あんた橋本先生が知ってたり、滝先生が一目置いていたりするじゃない? だから橋本先生の言ってたコンクールを調べたのよ」
はしもっちゃんが言っていたとすると、M響のときだな。それなら一切問題ないやつだ。
「ふむふむ……」
「悪いとは思ったのよ? でも、やっぱり気になって」
「なるほど、なるほど」
「真面目に聞いてる? とにかく、それで結果も見たけど、初のソリスト賞って発表されていたけど、つまりあんたはプロと一緒に演奏したことがあるってことよね?」
もちろん真面目に聞いているのだが、受け答えはお気に召さなかったらしい。
ついでに、調べればわかることだけど、いままでこの北宇治の吹奏楽部では話題に上がらなかったことが話題に上がった。
「本当だよ。ソリスト賞をもらって、M響の楽団と一緒に演奏したし、北宇治に来る前も何度か演奏させてもらってる」
とはいえ、既に公開されている情報なだけに、隠すことはなにもない。
優子がなにを気にして調べたのかはわからないけど、そう怒る事でもないらしい。
一番懸念するべきことがバレたわけじゃないので、こっちとしては一安心、かな? いやー、俺の出生とかだったら危なかったなー。
「それで、優子の知りたかったことはわかったのか?」
「うん、ありがとう。ねえ、一ノ瀬。ひとつ聞きたいんだけど、M響は、あんたのピアノと合わせたんだよね」
「もちろん」
「それは……あんたのピアノ? それとも、優等生のピアノ? 弾いたんでしょ、プロの一員として」
どこまでも真剣な瞳に、適当を言うことを妨げられる。
本当に知りたかったことは、訪ねたかったことは、こっちか。
どう作用したのかまではわからないけど、2日目のピアノに、夜に弾いたピアノ。それらが影響を与えちまったらしいことは俺にも理解できた。これが滝先生の期待通りなのか、はたまた、阿字野が俺に課した課題なのか。
「…………弾いたのは、俺のピアノだったよ。それでもって、めちゃくちゃいい演奏になった」
どう答えればいいのかわからず、悩んだ末に、事実と思ったことを偽りなく伝えた。
「そっか……そうだよ、ね。あんたのピアノにも合わせられるんだ……そっか。ありがとね、話してくれて」
すぐに顔を背けてしまったので、その表情は窺えなかった。
握られた拳がきつく締められていたので、それ以上、この場で俺が声を発することはしなかったけれど。
この後の合奏では、俺がすることはないし、みぞれのこともあるので、この日初めて、俺は合奏練習への参加をやめ、広い校内を歩いて回ることにした。
滝先生からは簡単に許可が出て、はしもっちゃんたちからは、代わりにしっかり見ておくからとまで言われてしまったほどだ。
「任せておけば、安心ではあるけどさ」
さて、思ったよりも緑が多く、そして広い学校だ。
せっかくだし、ゆっくり見て回るかな。俺にも、新しい発見があるかもしれないし。
なんて意気揚々よ歩き出した矢先。
「……フルート?」
おかしいな。
いまは音楽室での合奏練習と、別チームのもなかも合奏をしているはずだ。
それに、言い方は悪いが、このレベルで選考から漏れるはずがない。もし吹奏楽部の一員なら、いまは音楽室にいるはずだ。
「はしもっちゃんや新山先生みたいに、他にも外部講師でも来てるのか?」
だとしても、いま単独の演奏が聞こえるのはおかしいよな。
どこからか聞こえて来る音に耳を澄ませながら、そんなことを考えるものの、内情を知らないのだから打ち止めだ。
「にしてもこの音……」
自信を感じるし、どこか自分を大きく見せたいという感情が乗っているような気がしてならない。
音に嫌味があるわけでもなく、雑に吹いているわけでもないから、音としてはいい音をしているんだけど、なんだろう。この音は、主張がはっきりとしていない。
芯がないというか、少しふらついているというか……気のせいか? 演奏者自身に、なにか悩みや迷いでもあるんだろうか?
しばらく聴いていると、俺が感じた音の他に、楽しさや、美しさなども感じるときが出てきた。
「音が澄んでいるんだな。だから、よく響くし、綺麗だ」
失礼な話になるが、吹部の奏者と比べても、この音を奏でている人の方が奏者としてのレベルは上だ。
「もったいないな」
もちろん、どこで吹くのかは個人の自由だし、北宇治の生徒という保証もない。それでも、これだけ吹けるなら、吹部に入ってくれれば、北宇治の演奏がよくなるのは間違いないんだけどな。
もちろん、俺の感じたことが気のせいであればって前提があるけどさ。
「俺が音に敏感になってるだけならいいんだけど」
と、一曲吹き終えたのか、それ以上の演奏はしないのか。午前中、それ以上フルートの音が響くことはなかった。
昼休憩の間に優子にもそれとなく聞いてみたが、引き出せた反応は微妙な表情をし沈黙を保つ彼女の姿のみであり、それ以上聞き込んでくるなという無言の圧力を感じたので、深くは突っ込むことはしなかったのだ。
ちなみに、弁当のおかずは徴収されたのだが、「あんた、その顔でこの腕で、本当に男なわけ? 女の方が幸せじゃない?」などと言われたのだが納得いかない。
香織さんからも、「いいなぁ、一ノ瀬くん。これならいいお嫁さんになれるね」と揶揄われた。彼女も人を弄ったりするのは意外だったが、普段見ないような面が観れたのでいいことにしよう。
そうして人との繋がりを感じながら、今日も部活が終わり、
「一ノ瀬くん、今日もいいピアノだねぇ。キミが弾いてくれるとお客さんが増えるから嬉しいよ。もっと遊んでくれていいからね」
いまは初日に寄った喫茶店で仲良くなったマスターの好意と打算に甘え、店にあるピアノを弾かせてもらっている。
ショパンばかりだけど、それでも人は増えるのだ。
「うわぁ、ねえ夏紀。この喫茶店から流れてくるピアノの音、すっごく上手だよ。誰か弾いてるのかな?」
「希美……あれ、この音どこかで」
いまも女性の2人組が来店し、ピアノから少し離れた席に腰を下ろすのが視界の端に映った。
夏服の制服だけは確認できたのだが、あれは北宇治の生徒だな。
なんてことを思いながら、再びピアノに没頭する。
それからしばらく弾いていたのだが、ふと、先ほど来た女子生徒が持っていた荷物のひとつが気になり、そちらを見やる。
「「あっ」」
瞬間、席に座っていたうちの1人と、声が重なる。
「夏紀?」
「一ノ瀬……うわぁ、聞いたことあるなって思ってたけど、そうかあんたかぁ……はあ、どうしたものか」
額に手を当て、ため息を吐く夏紀。
人の顔を見てすぐの行動がこれとは、些か失礼ではないか?
「となると、連れは吹部の……あれ? 部員じゃないな」
けれど、隣の席に楽器ケースが置かれているので、無関係ではなさそうだな。けど、夏紀とは明らかに楽器が違う。演奏面で教わることでもあったのだろうか?
「それ、なんの楽器?」
「あ、キミがピアノ弾いてた人? これはねー、フルートだよ!」
初めて会ったにも関わらず、人懐っこい笑みを浮かべながら答えてきた、ポニーテールの女の子。
はきはきとした声に、勝気そうな顔立ちから、快活な雰囲気を感じさせる子だ。
夏紀もポニーテールだし、被るなぁ。でも雰囲気違うし、見分けは簡単につくんだけどさ。
「ん? フルート?」
「そう、フルート。知ってる?」
「ああ、もちろん知ってるけど……あの、もしかして昼間北宇治のどこかで吹いてた?」
「よく知ってるね! うんうん、吹いてたよー。あ、もしかして聞こえてた? ……でもキミ、北宇治の生徒じゃないような?」
この人が、昼間の演奏者だったのか。
というか、自己紹介もまだだっけ。
「会っちゃったもんは仕方ないか。希美、こいつは一ノ瀬海。今年顧問になった滝先生が連れてきた外部の生徒だよ」
説明しようとすると、先に夏紀の方から話してくれた。
「というわけで、夏の間は吹奏楽部にお邪魔させてもらってるんだよ」
「へえ〜。他の学校から呼ばれるなんてすごいね! あ、私は傘木希美ね。で、貴方楽器は? どこのパートなの?」
「希美、ストップ。それに一ノ瀬はピアノ奏者だよ」
印象通りというか、ぐいぐい来るタイプのようだ。
わかりやすくて、話しやすいから楽でいいんだけどね。こういった人の方が気楽に話せるし。
「あーピアノか。道理でさっきまでいい演奏してたわけだ」
「お、それは嬉しいね。で、俺からもひとつ聞きたいんだけど、希美のフルート、綺麗な音だったけど、吹奏楽部には入る気ないの?」
「――っ」
質問した直後、2人が俯いてしまった。
これは、なにかやらかしたんだろうか?
元気っ子といった様子だった希美でさえ、どこか辛そうだ。
「……ねえ、一ノ瀬」
それに変わってなのか、夏紀の方から声をかけてくる。
「なんだ?」
「……あんたなら、相談にのってくれる?」