森のピアノと 作:さがせんせい
これで今年も生きていけそうです。
滝先生が来てから、吹奏楽部は大きく変わった。
けれど、府大会のあと、部は更に変わったように見える。
「一ノ瀬海くん、かぁ……」
滝先生が呼び寄せた、私たちよりひとつ年下の男の子。
綺麗な顔立ちに、最初は女の子なのかと思ったけど、話してみれば、確かに男の子だとわかった。違ったのは、話していても視線が必ず目に向いていることだろう。そこだけは、他の男の子とは違っていた。
とはいえ、来て2日目で、どんどんレベルを上げている北宇治の吹奏楽部の演奏に、アレンジを加えてピアノで合わせてきた規格外な子だった。
ここは、やはり滝先生が連れてきただけはあると部員のみんなを納得させたものだ。
最初の一曲で演奏が崩れたときは、とんでもない子かとも思ったけれど、音が減り、あすかや高坂さんなどの音と共に吹いていると、そのピアノはどこまでも音が響くようで、楽器が減ってしまったオケなのに、いつもより上手に吹けている気がした。
あのピアノは、きっと特別だ。どれだけ練習したら、どれだけ恵まれたら、あの領域に辿り着けるんだろう。
そのことだけが、私の中に残った感想。
「うぅー……一ノ瀬くんは普通の子だと思ったのに」
「まあまあ。一ノ瀬くん、とってもいい子だよ?」
「それはわかってるけどぉ……わかってるんだけどさぁ」
目の前で机にうなだれる晴香を宥める。
本人のことは別として、きっと演奏面で言いたいことがあるんだろう。
私たちが一ノ瀬くんとピアノを合わせたのは、いまだ2回きり。
合宿の際中は演奏を聴いて、他の先生方と同じように意見を出してくれていたんだけど、その指摘は思いの外的確で、同じ高校生でも差があるものだと思い知らされた。
「香織は、一ノ瀬くんの演奏どう思う?」
「んー……綺麗な音だったかな。最初のピアノは特に」
「はあ……香織もそっち側かぁ」
晴香は一度上げた顔を、再び机へと戻してしまう。
「もう、どうしたの?」
「私たちはどんどんうまくなってる。それがわかる……けど、あの日聴いた一ノ瀬くんの演奏が、どうしても頭から離れない。あんなピアノ弾かれたら、あんな表現力を見せつけられたら、わからなくなるよ」
吹奏楽とピアノは違う。
そう言うのは簡単だったけれど、どうしてもその一言が出てこなかった。
「……一ノ瀬くん、高校生なんだよね」
「そうだね」
「なら、どうして北宇治に来てるんだろう……よくわからないのは、少し怖い」
滝先生は、一ノ瀬くんのことについては特に説明をしてくれない。
唯一話があったのは、彼がピアノ奏者であることだけ。
一ノ瀬くんもまた、ピアノや音楽に関しては聞かれればすぐに応えてくれるが、自分のこととなると、当たり障りのないことばかり話しているような気がする。
あの子のピアノはよく見えるのに、あの子自身が見えてこない。そんなところだろうか?
「休憩中だからって、緩みすぎじゃないの〜?」
そうして晴香を宥めつつ、自分の中に湧いた疑問を紐解こうとしていると、ユーフォニアムを持ったあすかが教室に入ってくる。
「あすか」
「あすかぁ……」
最近見ていなかった弱気な晴香を見てか、あすかの目が吊り上がったような気がした。
「ほーら、部長が暗い顔をしないの」
「わひゃってふ!」
両の頬を摘まれながら抵抗する晴香を笑いながら見届けたあすかは、すぐに手を離して晴香を解放する。
「まったく。手がかかるのは後輩だけでいいんだけどな」
「あすか?」
「ううん、なんでもない。じゃあ、個人練行ってくるから」
声をかける間もなく、あすかは教室を出て行く。
あの日、滝先生の質問にしっかりと手を挙げていたのは、3人だけだった。
そのうちの一人であるあすかは、一ノ瀬くんをどう見ているんだろう。
「香織〜」
隣にいる彼女にも聞いてみようかと思った矢先、それより早く、向こう側から声をかけられる。
「はいはい。それよりもいいの?」
「なにが?」
「なにって、部活のスケジュール、まだ詰めきれてないところがあるんでしょう?」
「あっ! あすか、ちょっと待って!」
思い出したのか、晴香はあすかが出て行った方向へと早足に駆けて行く。
けれど、焦っていたのか、プリントと筆記用具は置き去りだ。
「もう、しょうがないんだから」
机に広げられたそれらをひとつにまとめると、私も二人を追うように、教室を後にした。
一ノ瀬の夜のリサイタルを聞いてから、みぞれの様子がおかしいことにはすぐに気づいた。
「まさか、黄前まで事情を知っているとは思わなかったけど……」
けど、あの子は多分、知っているからといって、悪い方向に話を進めるタイプには見えない。あるとすれば夏紀と希美かと思っていたが、部活に復帰したいらしい希美がみぞれに近づく気配はいまのところなかった。
みぞれと希美のことをあいつが知れば、ロクに動けなくなるのは見えてる。
部活を1年のときにやめ、なにも告げることなくみぞれを置いていった彼女に、悪気がなかったわけじゃない。端から見ていても、希美が限界に来ていたことはわかっていたし、あのまま残っていても、彼女にはつらい日々が続いていただろう。
なにより、少々勝手が過ぎるのではないか、という個人的な気持ちがないわけでもない。だからこそ、自分はこの問題に首を突っ込むべきではないのだ。
「なんとかできるならなんとかしてるわよ……」
その方法が思いつかないから、無理に動かないだけだ。より詳しく言うのなら、動けないのだ。
みぞれと希美の間では、たぶん本人たちも気づかないうちにズレが生じている。それすら気づかないのだから、会って話す機会を作るだけではダメかもしれない。
「でも……」
みぞれの世界は希美しかいないわけじゃない。
いつか、彼女以外の人がみぞれに手を伸ばすかもしれない。
自分のように、みぞれの側に立つ人が現れるかもしれない。
「もしも、それがあいつなら――」
現に、あいつの音を聞いて、みぞれの音にも変化があった。
『……月明かりと、森……あと、湖?』
夜のリサイタルを聞いていなければ、決して気づけない変化。
みぞれは一ノ瀬のピアノに、なにかを感じている。この1年、誰からの干渉も受け付けなかったみぞれが、だ。
希美でも自分でもない。いきなり来た一ノ瀬が、みぞれの心を開きかけている?
「もし本当にそうなら、このまま……あいつがみぞれの側に立ってくれればいいのに」
あの子は一人では立てない。
側で寄る辺となり、支えてあげないと。
友達として、みぞれのことは大切に思っている。けど、あの子の心の隙間を埋めるには、きっと一人では足りないのだろう。この1年を通して、それが薄っすらとわかってしまう。
だから、一ノ瀬にも……いや、あいつはいつまでも北宇治にいるわけじゃない。同じ高校生なのだから、夏休みが終われば元の高校に戻るだろう。
「なに、弱気になってるのよ。バカじゃないの……」
当然のことだった。
いっそのこと、一ノ瀬が北宇治に転校してくればいいのだ。部員のみんなとも仲が良くなってきているし、先生方からの受けもいい。現在通っている高校での成績も良いって梨子から聞いているし、北宇治の生徒になるのになんの障害もないはず。
そう、理不尽な思いを止められはしなかった。
それほどに、みぞれの心に触れられる存在は貴重なんだから。だからこそ、一緒にみぞれを支えてくれたらと思ってしまう。同時に、そんなことはさせられないとも感じている。
あれだけの技術と感性、視野は一朝一夕で身につくものではない。
なにより、一ノ瀬のもつピアノへの想い……まだ出会って日が浅いのに、ひしひしと伝わって来る、ピアノにかける想い。
毎日のように血の滲むような努力の末に掴み取ったのだろうあいつの演奏を聴かされたら、なにも家なくなる。。だからこそ、あいつの道の邪魔をしてはいけない。
今日思ってしまったことは、明日には忘れていよう。
でなければ、あいつさえ巻き込んでしまいかねないのだから――。
一ノ瀬……一ノ瀬海。
よくわからないけど、少しだけ気になったのは、あの音のせい。
人の心に無遠慮に入ってくるピアノの音。でも、それが嫌なんてことはなくて、むしろ心地よかった……。
わからなくなる。
私とは真逆のような人なのに、奏でる音は、どこまでも自由で、どこまでも響く音のように思えた。
あの音は、私を解き放つような、そんな……でも、私には無理。
綺麗で、心地いい音なのに、聞いているとどうしても不安になる。
「どうして……」
側にいてくれないの?
最後まで声に出なかった言葉が、自分の中に沈んでいく……。
どうして、私だけ――。