…気づけば、仄かに灯りがついている洞の中にいた。炎が揺らめくように影が揺らめくけれど、しかし、どこに松明が掲げられているというわけでもない。士郎とセイバー、それにバーサーカーも、突然放り込まれた空間の認識がまだ完全に追いついていないらしく、きょろきょろと辺りを見回していた。
「ここは…」
「…厄介な場所ね」
イリヤは士郎の言葉を受け継いだ。
禍々しいまでの生命の気配に充ちている。まるで聖杯が開きかけた時のよう。
ここは平行世界などというなまやさしいものではない。ここは異世界だ。どこでもあり、どこでもない場所。冬木と繋がったのは、偶然であり、しかし必然だったのだろう。
イリヤは目をこらえて視覚的に自分たちのいる空間を観察するとともに、魔術的に何かおかしなところがないかを探った。正体不明の仄かなあかりがあるほかは、大したことのない洞窟のようであった。ただ、一方向に道が伸びているようで、その先はいくつかに分岐しているらしい。
魔術的に何かおかしなところがあるかというと、ないわけがない。そもそも龍洞の中よりもマナが満ち満ちている。あまりにもその濃度が濃いせいで、十分な探知はできそうにない。
「進みましょう、イリヤスフィール。もとより退路は見当たりませんし」
そう、それこそが問題なのだ。
セイバーの言う通り、冬木に戻るための空間の断絶が見当たらない。しかし、臓硯はあれを双方向の通路だと言っていた。彼が嘘をついているわけではなければ、別のところに帰るための道ができているのだろう。
「そうね。セイバー、一番前を歩いてくれないかしら?バーサーカー、あなたは一番後ろを守りなさい。それでいいかしら、シロウ?」
これから何がいるのかわからない洞窟を歩くのだ。用心に越したことはない。
バーサーカーであれば後ろから不意打ちされても一撃で死ぬことはない。正確に言うと彼の法具の影響で蘇ることができる。一方で、一番前を歩くのはやはり生粋の剣士であるセイバーであることが望ましい。
「セイバーに危険なことをやらせるのか…?」
士郎は難色を示す。きっと、セイバーを危険な目に合わせるくらいなら自分も同じくらい危険に身をさらすとでもいうのだろう。彼の自己犠牲を顧みない精神は時に人を救うだろうが、今ここでは邪魔なだけだ。
「シロウ、わたしたちはネクロノミコンを手に入れたうえで全員が生きて帰る必要があるの。今アヴァロンを士郎が持っているのかセイバーが持っているのか、それをわたしは知らないわ。けれどね、いくら蘇生能力が強くても即死は死ぬの。それなら、シロウやわたしよりも危機回避に優れているセイバーに前を歩いてもらったほうが良いでしょ?」
「…すまん、イリヤの言う通りだ。つまらない意地を張るべきではないよな」
「まったくもう、しっかりしてよね、お兄ちゃん」
これできっと大丈夫だ。士郎もむやみやたらと死地に飛び込んだりはしないだろう。
何せ、彼はセイバーを守るためにバーサーカーの攻撃をその身に受けるような人物だ。目を離せばすぐに死地に飛び込みに行くと思われても仕方はあるまい。
イリヤは自分の髪を一本だけ抜いて、地面に落とした。迷わないように、魔力の痕跡を残しておくためだ。ヘンゼルとグレーテルの童話にあるパンくずのようなものである。
「じゃ、進みましょう。進まないと、何も始まらないんだから」
道は複雑に入り組んでいた。分岐したり合流したりということを繰り返し、何度か同じところに出てしまったこともある。
不思議なほどに何にも遭わない。きっと何かがいるはずなのに。どこかで彼らのことを監視し、探っているのだろうか。
「一体この洞窟はどうなってんだ」
士郎も変わり映えがしなく、しかし複雑で先が見通せない迷路のような洞窟に、少しいら立っているようだった。
迷路。迷路?
そう、まさしく迷路というのにふさわしい。行ったり来たりを繰り返しながら、だんだんと奥へ進むことができる。イリヤが来た道がわかるように痕跡を残していなければ、延々と同じところをさまよい続けていたかもしれない。
「何もいない。ですが、常に何か出てきそうで油断ができませんね」
セイバーも若干気疲れのようなものが見える。気を張り続けるというのは困難なことなのである。
「じゃあちょっと休憩しましょうか。その間に使い魔にでも近くを探らせるわ」
イリヤは適当な岩場に腰を掛けると、髪を二本抜いて使い魔の鳥を作った。
「
白い鳥は羽ばたいて、闇に消えていく。
「…というか、最初からそれを使って道を確認すればよかったかもな」
「あらシロウ、この程度で疲れたの?」
「俺が、というよりもイリヤが、だよ」
それに対してイリヤは反論できなかった。確かに、身体は丈夫ではないのだから。
五分ほど休憩しただろうか、不意に使い魔からの連絡が途絶えた。
「…何かいる」
顔をこわばらせて、イリヤは闇を見据える。
「…禍々しい気配を感じます」
セイバーが見えない剣を構え、バーサーカーはイリヤを守るように前に出る。
「
士郎は干将・莫耶を投影する。
何かが地を踏む音がする。それは地響きを立てるほど重たい音だった。
闇の中からぬらりと姿を現したのは、青白く醜い、楕円形をした塊であった。その塊はバーサーカーよりもはるかに大きい。それに肉のない足が無数に生えている。赤く濁った瞳が無数に身体から浮き出ており、それが瞬きもせずイリヤたちを見つめる。
背筋がぞっとする。あのような存在を見るべきではないと脳が警告する。しかし、その存在から目を離すことはできない。本能的に、あの巨大な蟲のような存在に恐怖を抱くと同時にそれから目を離すことが危険なことだとわかってしまう。
「あ、あ…」
しかし、イリヤはそれに留まらない。彼の巨大なる蟲が何者か、わかってしまったのだ。
本国のアインツベルンの城において、イリヤはクトゥルフ神話について少しばかり勉強したこともある。その時に、目の前の存在についての記述も読んだことがあったのだ。
あれはグレート・オールド・ワン。苗床を探し回る迷路の神。
「犯される…」
震えが止まらない。アレに出遭ってしまった人の末路を知っているから。
脳内に何かが反響する。それは重苦しい声だった。イリヤの知らない言語で話されているはずなのに、その意味が分かってしまう。
反射的にうなずきそうになる。もうこれ以上アレを見ていたくない。しかし、それに頷いたが最後、悲惨な末路を辿ってしまうのだ。
轟音がする。怒声が聞こえる。きっと士郎たちが戦い始めたのだろう。参加しなければ。けれど、身体が動かない。まるで人形の中に意識を入れられてしまったみたいに動かない。
あれは。あれは。アレは。
到底人間では叶わないような恐ろしい存在なのだから。