Erlösung   作:まるあ

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ep7

 龍洞の中は光苔が生えているためか、視界を失うことはない。うすぼんやりとした緑色の光に包まれている。

 いや、これは本物の光苔ではないのだろうとイリヤは思いなおす。確か、セラが以前、光苔は自ら発光しているわけではないと話していたことを思い出したのだ。

 魔術で作り出された、光苔の亜種といったところだろう。人造人間(ホムンクルス)を作り出せるアインツベルンがこの奥にある大聖杯を作り出したのだ。道しるべとしてこれくらいの灯りを用意すること造作もないことだっただろう。

 四人の魔術師と四騎のサーヴァントは無言だった。ただ、神経を尖らせて歩みを進める。

 イリヤはもっぱら、空間にひずみがないかを精査しながら歩いていた、龍洞には大聖杯がある関係で、第五次聖杯戦争以降も何度か訪れたことがある。しかし、その時にはネクロノミコンなど、影も形もなかったのだ。だから、あるとすれば、それは魔術で巧妙に隠されているか、別の空間に魔術でつながっているか、そのくらいしか思いつかない。

「…そろそろ最深部、大聖杯に出るわ」

 凛のつぶやきは、小さな声だったのにも関わらず、洞の中を反響する。

 やはりネクロノミコンがあるとすれば最深部、大聖杯の眠る場所か―。イリヤはそう結論付けた。道中、何ら怪しいものを感じなかった。そもそも、そのような重要なアイテムの手掛かりが道中に転がっていては興醒めする。

 そもそも、キャスターの予言が的外れである可能性も十分に存在するが。

 ―視界が開けた。龍洞最深部、大聖杯の眠る地。

 大聖杯が起動していないときのこの場所は、静かなものであった。禍々しい感覚は全く存在せず、ただただうすぼんやりとした光に包まれた、空洞だった。

 からん、という音がした。杖のつく音だと認識するのには、一秒ほど時間が必要だった。

 誰かがいる。先客がいる。イリヤたちが身構え、空洞の奥へと視線をこらす。

 先客を認識したとき、桜が息をのむ気配が聞こえた。そう、そんなはずはない。彼がこんなところにいるはずがないのだ。

「若人たちよ、よく来たな…。儂らの思い出の土地へ。歓迎というよりも遺憾の気持ちのほうが強いがな」

 くつくつと笑うその老人は、間桐家の当主、間桐臓硯だった。

「お爺様…」

 桜は困惑しているようだった。しかし、きっとこの場を収められるのは彼女を置いて他にいないだろう。

「なんじゃ、桜」

「失礼ですが、お爺様はボケていたはずです」

 孫娘だとしても、失礼極まりない言葉すぎる。

「ほっほっほ。なんじゃ、そのことか。確かに儂は呆けておった。そのことに誤りはない。じゃが、それはあくまでも家庭円満のためじゃ」

 自分の末裔を容赦なく蟲蔵に放り込むような妖怪翁が家庭円満など言っても信用ないことこの上ないとイリヤは思う。それならば、アハト翁が家庭円満を言ったほうが、まだ説得力があるというものだ。

 まったく、魔術師というものは親としてはロクでもない者が多い。アハト翁は厳密には魔術師といえるのかは知らないけれど。

「間桐のパワーバランスは桜に傾いておる。慎二なんぞは小物じゃ。あいつはいてもいなくても桜の覇権を邪魔することはない。じゃが、儂は違う。儂が元気に間桐の中を指図していたら、いずれ桜と戦争していたかもしれん。ゆえに、家庭円満として、儂が呆けることにしたのじゃ。こうすることで、桜は間桐の実質的な当主としての地位を手に入れ、儂は安楽な地位を手にするはずじゃった」

 臓硯はぎろりとイリヤを睨んだ。

「アインツベルンの小娘がネクロノミコンの話題を持ち込まなければな」

 別にネクロノミコンがあろうがなかろうが、臓硯には関係ないだろうとイリヤは思う。というよりも、あればあったで、間桐にも管理権が存在するのだから、閲覧したければ閲覧すればいいし、興味がないのであれば関わらなければいいのだ。なぜそこで非難がましくにらまれなければならないのかがわからない。

「儂の精神が大切な時にも呆けていては困るからの。もとに戻るための方法を用意しておいたのじゃ。ネクロノミコンという単語は、自動的にそれを起動し、儂はこうして痴呆から帰還したのじゃよ」

「なによ、それでわたしに文句言うのは筋違いでしょ。呆けたければまた呆ければいいじゃない。これ以上なんか言うならバーサーカーけしかけちゃうよ?」

「ふん、アインツベルンの小娘よ。貴様は何もわかっとらん」

 馬鹿にするような口調に、イリヤは思わずバーサーカーで目の前の老人をひねりつぶした衝動にかられたが、目前にいる老人を攻撃したところで何ら意味がないから、ぐっと我慢した。

「儂はな、忠告しに来たのじゃ。桜、それに遠坂の小娘も、お主らがこの先に進むのはやめよ」

「…はい?」

 臓硯の言葉に反応したのは凛だった。

「何よそれ。百歩譲って桜に関しては孫娘可愛さに忠告しているとしましょう。なんで私も入ってんのよ」

「簡単じゃ。遠坂の血を引く者が見てはならぬものがこの奥の奥の奥底に、あるからじゃ。悪いことは言わん。お主ら二人は帰れ。アインツベルンと衛宮だけでも戦力としては十分じゃろうて」

 くつくつと臓硯は笑う。本当に充分だと思っているのか、単に揶揄しているのか、きっと揶揄しているのだろう。

 だが、それにしても、遠坂の地を引く者は足を踏み入れてはならない、ということがイリヤにはきにかかった。確かに、遠坂は古くからこの地に根付いた家系だ。それゆえになにがしかの制約でもあるのだろうか。

「…マキリ」

 イリヤが老人の名前を呼ぶ。

「なんじゃ」

「マキリはネクロノミコンを望まないの?」

「いいや、望むとも。アレは禁忌の魔術書。この冬木では聖杯の次に根源に近い存在じゃろう。アレを望まぬ魔術師などどこにおる」

「それならば、なぜ」

「簡単じゃ。桜が発狂すれば冬木全てが飲まれる。それは儂として望むことではない。そして、お主らがこの先を進み、ネクロノミコンへと到達しようとしたとき、必ずや桜が、そして遠坂の小娘も、発狂するじゃろう」

「詳しいことは言えないの?」

「言えぬ。古き約定でな。交わした者はすでに儂以外この世におらぬが、しかし約定は約定じゃ」

「そう」

 イリヤは凛と桜のほうを向き直った。

「二人は残りなさい。あのお爺さんは嘘はついていないはず。彼はここに大聖杯を作り上げた人物の一人で、彼の言葉は重い。そして、彼の中には確かにリンとサクラが発狂するという確信があって、同時に、わたしとシロウだけでもネクロノミコンを取ってこれるという希望があるんだと思う」

「そんな…ッ」

「うるさいわね、トオサカ。これはもとよりアインツベルンとエミヤの問題。トオサカとマキリの両家のご尽力には感謝するけど、これ以上は首を突っ込むなって言ってるの。安心なさい、無事ネクロノミコンを見つけた際には、約定通り四家で共同管理となすわ」

「そんなのだめです!」

 叫んだのは、桜だった。

「先輩も、イリヤさんも、危ないことをするんですよね?もう置いてけぼりは嫌なんです。私だって魔術師なんだから…」

「桜」

 たしなめるように名前を呼んだのは、臓硯だった。

「お主や遠坂の小娘にやるべきことがないとは誰も言っておらん。もとより、部外の―教会や魔術協会の介入を防ぐためにはここで二手に分かれる必要があるのじゃ」

「どういうことよ」

「遠坂の小娘は威勢がいいのう…。これから儂はネクロノミコンへと至る道を教えて進ぜよう。だが、それは道を開くということ。それは一方通行ではなく、当然双方向に行き来ができる。お主らがその道に入れるように、その奥に住まう化け物も道を通れるのじゃ。お主らは冬木に戻って、出てきた化け物を掃討しなければならぬ」

「それはつまり、サーヴァントだけを送り込むということもできないということね」

「そうじゃな。いかに魔術師といえど人間だけではさすがに荷が勝ちすぎるじゃろうて」

「…わかった」

 凛はうなずくと、桜に向き直る。

「そういうことらしいから、今回は妖怪爺の言うことを聞いておきましょう。私たちが行くと発狂するという真偽はともかく、どうせだれかこっちで動かなくちゃいけないみたいだし」

「姉さん…」

 桜はちらりとイリヤと士郎に視線を送ったが、やがて表情を引き締めてうなずいた。

「分かりました。お爺様に従います」

「それで安心じゃ。さて、それでは道の開け方を教えてやろう」

 かくしゃくとした動きで、臓硯は大聖杯の術式の、その真ん中に向かった。イリヤと士郎、それに二人のサーヴァントは、彼についていく。そして、二人の魔術師と二騎のサーヴァントが大聖杯の中央にたどり着いたところで、臓硯はその外見とは裏腹に、朗々とした声を上げた。

「汝門にして鍵。我は汝の扉を開かん。我は銀の鍵を持つもの。我は久遠の知識を探求せしもの。我は神々の副王の玉座へと至らんとするもの。汝我が道を開け。その理を此処に現せ。我はこの世の理を手に入れんとするものなり…!」

 ぼうっという音がして、空間に亀裂が走ったかと思うと、それが徐々に開いていく。そして、それは人一人が通れる大きさになった。

「元々は大聖杯を降臨させる儀式の際に、第二魔法の使い手、宝石翁ゼルレッチが間違ってつないでしまった空間よ。そのままパスを消すももったいないということで、つないだままにしておるのじゃ」

 詠唱を終えた臓硯は少し声を荒げながら、親切にも説明してくれた。

「さあ行け。あの世界にこちらの人間がいる限り、その亀裂は閉じん。退路は確保されておる。狂気と破壊の世界へと行くがよい」

 イリヤは士郎の顔を見た。彼はとっくに決意を固めており、ゆるぎない瞳で、一回だけ頷いた。彼の決意に安心して、イリヤはその亀裂に足を踏み入れた。

 -吸い込まれるようだった。

 


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