「わたし、ふっかーつ!」
士郎のお見舞いの翌日、目が覚めるなりイリヤはがばりと身を起こした。
士郎とは今日から二人でネクロノミコンの探索をすると約束をしたのだ。これで気分が高揚しない方がおかしい。
「お兄ちゃんとふたりきり、うふふ…」
「…イリヤ、気持ち悪い」
「リズ、いたの!?」
「うん。あと、たぶん、シロウと二人きりにはなれないと思う。セイバーとバーサーカー、連れてくだろうし」
「あ」
サーヴァントのことを失念していた。
それに、よくよく考えれば、あの士郎のことだ。凛や桜にも連絡をして、彼女たちも探索に連れていくと言い出しかねない。
確かに、どこにネクロノミコンがあるのか、という調査だけであれば、危険は少ない。彼女たちを投入しても問題はないうえ、凛に至っては冬木のセカンドオーナーだ。彼女の助力があれば調査のスピードは速まるに違いない。
「んー…、そうだ。リズ、着替えるから出てってくれない?」
「わかった」
リーゼリットはこくんと頷くと、部屋を出た。
イリヤは手早く着替えると、自分の着替え類をかばんに詰め込んだ。
そして、かばんを肩にかけると、扉を開け放った。
「よし」
「よし、じゃありませんよ、お嬢様?」
「ふぇっ?」
目の前にいるのは、腰に手を当てたセラだった。
「そのような荷物を持ってどこに行くつもりですか、お嬢様」
「ちょっとシロウのお家に。ほら、ネクロノミコンを探さなくちゃいけないし」
「いつも何も持たずに行っていますよね?」
「…免許証とか」
「お嬢様?」
セラが眉間に皺を寄せてイリヤを睨む。
「とにかくセラ、留守は任せたわ」
「事態が事態です。エミヤシロウと会うなとは言いませんが、何時頃お戻りになるかははっきりしていただかないと」
「ネクロノミコンが手に入ったらは帰ってくるわよ」
「お嬢様!あのような男の家に泊まるというのですか!」
「あのような男とは失礼ね!お兄ちゃんはわたしの弟よ!」
言った後に、我ながら意味が分からないことを口走ったな、とイリヤは思った。
「とにかくセラ、主人の命令よ。留守は任せたわ。大体、主人の生命が関わっているのよ?なんでそれなのにそんなに聞きわけがないのかしら」
「それは…!」
「多分だけど、セラ、それ以上わたしを止めることはわたしだけじゃなくてお爺様の意思にも背くことになるわ」
「アハト翁の?」
「ええ。あのお爺様が第三魔法に失敗したわたしの延命になぜ助力するようなことを行ったのか、一度考えてみなさい」
「…」
セラが考え込んでいる間に、イリヤはそっとその場を抜け出した。
「バーサーカー?」
イリヤが小声で声をかけると、近くでその気配を感じることができた。霊体化しているが、きちんとイリヤの側にいる。
「いるのならいいわ。ちゃんとついていらっしゃい」
バーサーカーが頷いたような気がした。
「いらっしゃい、イリヤスフィール」
衛宮邸を訪問して、真っ先に歓迎してくれたのはセイバーだった。
逆に言うと、衛宮邸にはセイバーしかいなかった。
居間に座ってきょろきょろした後、イリヤは口を開いた。
「…お兄ちゃんは?」
「シロウとリンとサクラは学校です。ライダーはバイトらしいですね」
「あら、そうなの」
てっきり、士郎たちは学校を休んでネクロノミコンの探索に乗り出しているかと思っていたが、そうでもないらしい。
「シロウは昨日帰ってきてから早速探索に乗り出そうと主張したんですよ。でも、リンが許しませんでした。どのくらいかかるか分からないのだから、持久戦の構えで行くべきだって」
それもそうか、とイリヤは納得する。ネクロノミコンがどのくらい探せば見つかるかなど誰にも分からない。ひょっとすると数か月以上かかるかもしれないのだ。それなのに、日常を中断してしまうわけにはいかない。
「リンやサクラも協力することを承知してくれましたが、間桐の家は臓硯がボケてしまったため、知識の大部分が失われてしまい、役に立てないだろうとサクラが言っていました」
「あの妖怪爺さんの手を借りるなんてぞっとしないからそれでいいのよ」
間桐は元々魔術の家門としては衰退していたのだ。臓硯一人の力で辛うじて保っていたようなものだが、彼が急速に力を失った今、桜という養子の存在を除けば、魔術の家門としては価値がないものになってしまっている。
ネクロノミコンの探索に必要な者は人手ではなく知識だ。冬木の地に古くから根付いている遠坂と間桐の家はその行方を知る可能性が高いという意味で、強力な味方のはずだった。しかし、遠坂の現当主は幼いころに先代を亡くしたため、重要な知識を完全には受け継いでいないだろうし、間桐に至っては臓硯という人物が全てを握っていただろうから、彼が呆けてしまった以上、その知識を失っているだろう。
辛うじての希望は、間桐と異なり代替わりが存在する遠坂は文書の形で重要な情報を残している可能性があることだ。
ネクロノミコンの在り処。魔術師としては重大な関心を払わざるを得ず、いつ死ぬか分からない彼らからすればその知識を確実に次代に伝えるためにも何らかの文書でそれを残している可能性が高い。
「…セイバーはさ、ネクロノミコンがあるとしたらどこだと思う?」
「さぁ?円蔵山あたりなら説得力がありますが」
「確かに」
セイバーの直感スキルは高い。彼女自身からすればあてずっぽうで言ったことだろうが、一方で簡単に否定できるほどのものでもなかった。
円蔵山といえば、その中腹には柳洞寺を擁す冬木一の霊脈だ。さらに、円蔵山にある鍾乳洞には大聖杯が眠っている。
とはいえ、逆に言えばそれだけ注目され、人の手が入っている地だ。そこにあるとすれば、何らかのからくりが存在するだろう。
「…はやく帰ってこないかなぁ」
頬杖をついて、イリヤは独り言ちる。
ネクロノミコンの所在そのものにも心を奪われるあたり、自分は生粋の魔術師なのだなと思った。
夕方ごろになって、士郎と凜がそろって帰ってきた。桜は弓道部があるらしく、帰りが遅くなるらしい。
「さて、イリヤ、古文は読めるかしら?」
士郎と凜は一度遠坂邸に寄ったらしく、大量の書物を衛宮邸に持ち込んでいた。
そのすべてが、冬木の管理人としてあるいはそれ以前から、遠坂家が代々残してきた記録らしい。
「馬鹿にしないで、リン。わたしは魔術師として一流よ」
むっとしてイリヤは答えた。ドイツで生まれ育ったイリヤが現代日本語はともかく、古い日本語を読めるかどうかということは凛にとって当然の疑問だとは思うが、それはそれとしてできないと思われること自体、彼女のプライドを傷つけた。
「は?魔術師と古文、何の関係があるのよ」
「わたしが読めると望めば読めるのよ」
「…望めば理論をすっ飛ばして結果を具現する聖杯の器だったわね、あんた」
「そうよ。知らない言語を読む魔術理論なんて知るわけないけど、でも読めるわ。というわけで寄越しなさいな」
ぐぬぬ、と凜は唸っていたが、ほっと息をついて表情を和らげると、書物の一冊をイリヤに渡した。
「丁寧に扱いなさいよ。これは我が遠坂家と冬木の歴史そのものなのだから」
「分かっているわよ」
イリヤは書物を紐解いた。みみずがのたくったような文字は、当然イリヤがそのままで読めるようなものではない。だが、ほんの少しだけ魔力を乗せてやると、その意味が彼女の頭に吸い込まれるように浮かんでくる。
何年前の記述かは判然としないが、冬木の霊脈についての記述だった。霊脈そのものには興味がないので、斜め読みで読み進めていく。
ちらっと横にいる凜を見ると、彼女もみみずがのたくったような文字を読み進めていた。だが、彼女の読むスピードはイリヤほど早くない。
しばらく読み進めていると、不意にチャイムが鳴った。時間的にきっと桜が帰ってきたのだろう。
「一応玄関に出ます」
手持無沙汰だったセイバーが立ち上がって玄関に向かう。程なくして、桜と、さらにはライダー一緒に居間に戻ってきた。
「遅くなってごめんなさい。間桐の家に寄ってたから遅くなっちゃって」
「おかえり、桜。なんか収穫あった?」
凛がひょこっと顔を上げて桜に尋ねた。
「いいえ。お爺様は相変わらずとりとめのないことをしゃべっているし、間桐の書物庫にはめぼしいものはありませんでした。当然兄さんもそんなものは知るわけないと」
「でしょうね…」
桜は座りながらイリヤと凜が読んでいる書物に目を落として苦笑した。
「さすがに私ではこれは読めませんね…。ライダーは読める?」
「いえ、サクラ。管理人でもないのに読めるイリヤスフィールが異常かと」
「異常とは失礼ね」
さすがに聞き捨てならずイリヤも本から顔を上げた。
「大丈夫よ、一応新しいのも持ってきているから、そっちを読んでちょうだい」
「うわ、こんなにあるんですか…」
一瞬絶望めいた表情を浮かべた桜だが、ふるふると首を横に振ると、何かを決意するかのようにぐっと手を握った。
「イリヤさんのためですもんね。これくらい大丈夫です」
「決意はいいがその前に飯だ」
士郎が台拭き片手にイリヤたちのいる居間にやってくる。
「おおシロウ、ご飯ができたのですね!」
セイバーが目を輝かせている。いつものご飯でここまで幸せそうになれるセイバーは人生悩みなんてなさそうだなぁ、とイリヤは思う。もっとも、セイバーに尋ねたら失礼な、と言われそうであるが。
「腹が減っては戦はできぬ。ほらほら遠坂もイリヤもその本を片付けて」
「はーい」
楽しい夕餉の時間の始まりだ。