目の前にいる切嗣は、イリヤの記憶よりもやつれていた。それが、聖杯の泥のせいだということを、イリヤは知っていた。それはイリヤの記憶ではなく小聖杯としての記憶だった。
恋焦がれるほどの殺意。イリヤの、切嗣に対して思う気持ちを一言でいうと、そうなるだろう。
口では賢しげに気持ちの区切りがついたといくらでも言えよう。だが、当然そんなものはついているはずがない。切嗣の墓石を目の前にして湧き上がった、赦せないという感情は、あの時の何倍もの濃度で湧き上がってくる。
「…今更何よ。十年、遅いわ」
それでも。問答無用で殺すのではなく。少しだけ、話してもいいかな、と思うあたり、自分は甘い。
話してから殺すことはできるが、殺してからでは話せない。
「…僕は君を取り返したかった。でも、何を言っても言い訳にしかならないね」
ごめん、と彼は小さく呟く。
当然、それでイリヤの気持ちが晴れるわけがない。
「なんでわたしたちを選んでくれなかったの。なんで、わたしたちより、見ず知らずの人の方が大切だったの。なんで…」
静かにイリヤは問いかけた。
衛宮切嗣という人物は、五十億の人類を救うために、たった二人を犠牲にした英雄、正義の味方である。その二人というのが、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンと、その母アイリスフィール・フォン・アインツベルンである。
「なんで!わたしは痛い目に遭わなきゃいけなかったの!何が聖杯の器よ。わたしはそんなものいらなかった。ただ、キリツグと、お母様がいれば良かったのに…!」
いつの間にか、イリヤの言葉は熱を帯びていた。幼い日の絶望がよみがえる。アハト翁に、キリツグはアインツベルンを、お前を裏切ったと冷酷に告げられた日のことを。
「…ごめん」
切嗣は目を伏せて、謝罪の言葉を口にする。
「わたしは絶対キリツグを赦さない。絶対、ぜーったい赦してあげないんだから!だから、謝っても無駄よ」
そう、今切嗣を責めても、もう堂々巡りにしかならない。もう彼は死んでいるのだから。
目の前にいる切嗣が幻覚なのか、幽霊なのか、はたまた平行世界の切嗣なのか、そんなことはイリヤには分からない。けれど、それでも、堂々巡りではなくて、別のことを話したかった。
そのあとで、殺すか否かを決めよう。
「…そうだね、僕に対する焦がれるような殺意。それこそが今の君を形作っている。それを簡単に否定することは、自己否定に他ならない」
切嗣は諦観の言葉を口にする。きっと、彼は娘に愛されることを、とうに諦めてしまったのだろう。そして、それに足ることを、彼はイリヤにしてしまっている。
「キリツグはさ、わたしたちを裏切った後、何をしてたの?」
「子供を一人、養子にしてね。育児…といっても何をしたわけでもないけどね。それと、ドイツに娘に会いに。会わせてもらえなかったけど」
「正義の味方はやめちゃったの?」
「…ああ。正義の味方は期間限定。大人はもうなれないんだ」
「そ」
沈黙が続く。沈黙に耐えきれなくなったのか、切嗣は懐から煙草を取り出した。
「吸っても?」
「どうぞ」
切嗣は煙草を口にくわえると、ライターを取り出して火をつけた。しばらく煙草を吸った後、ゆったりと長く煙を吐く。
「…イリヤに会えたら、いろいろ話したいことがあったんだが、実際に会ったら忘れてしまったな」
「わたしも、キリツグに会えたらどんな方法で殺してやろうかずっと考えてたのに、どうやって殺すのがいいと思ったか、忘れちゃった」
首だけにしてしばらくお城のエントランスに飾ったり、ぬいぐるみに精神を映してばらばらにしたり、ハラキリとカイシャクを実演させてみたり、いろいろ考えたのだ。でも、その方法がいちばん楽しそうか、ということは忘れてしまった。
もともと、イリヤには願いはない。聖杯戦争に参加した理由も、冬木にいるはずの切嗣とその養子の士郎を殺すためだ。自分を助けてくれなかった父親と、自分から父親を奪った子供。どうやって殺すのがいちばん楽しいか、考えない日はなかった。
けれど、それをとうに忘れてしまっていた。きっと、士郎との日々が楽しかったからだろう。
士郎。そういえば、切嗣がアインツベルンを裏切らなければ、彼と会うことはなかった。
「そうだ、忘れないうちに、一つだけ、野暮用を済ませなくちゃいけない」
切嗣は煙草をもみ消した。
「僕はあくまで根源の中に書かれている記録から再構成された、衛宮切嗣という幻影にすぎない。僕の存在意義は根源のメッセンジャーであり、根源、すなわち偉大なる神、全にして一、一にして全、神々の副王、アカシック・レコードそのものからの伝言を伝えるためだけに生まれた存在にすぎない」
…ああ。きっとこの世界は根源に限りなく近いところにあるのだ。きっと、窓の外の吹雪の向こう側に、根源の渦が揺蕩うのだろう。
「根源は君がいずれ自身に到達し、第六法を習得することを望んでいる。その日こそ、人類が一段階上の存在へと滅亡していく日だと」
「…わたしはそんなものには興味ないわ。根源への道は、全てわたしが閉じてあげる」
「…賢明な判断だよ、イリヤ」
「何よりわたしは今幸せなの。なのに、人類に滅亡されても困るわ」
それは、イリヤの本音だった。せっかく、士郎に好きと言ってもらえたのに、それをむざむざと手放すようなことはしない。
「幸せ…か。良かった…」
切嗣の声が震える。はっとして、イリヤは彼の顔を見る。心なしか、目が潤んでいるようだった。
ああそうか。この切嗣が例え根源の渦によって生み出された紛いものだったとしても。きっと、ここにいる切嗣は本物なのだ。その人に関するすべての記録から再構成された偽物は、しかし、どこが本物と異なるのだろう。
そして、切嗣は、きっと、死の直前まで、イリヤのことを大切に想っていてくれていたに違いない。自身が置いてきてしまった娘を。何よりもその人生に、どんなに可能性が低くても、幸あれと。
「…ねぇキリツグ」
「なんだい、イリヤ」
「わたしね、大切な人ができたの」
切嗣が息をのむ。だが、穏やかな表情を浮かべて、笑った。
「そうか。どんな人だい」
「まっすぐで、誰よりも人のために生きる人。正義の味方なんて、見果てぬ夢を抱いて、ずっと努力できる人。イリヤのことを、かけがえのない存在だって、思ってくれる人」
「…そうか。僕は果報者だ。子供が二人ともいっぺんに幸せになるなんて」
「そうよ。見てなさい、キリツグ。誰よりも、キリツグよりも、シロウを幸せにしてみせるのだから。あなたが彼に与えた枷を、わたしが取り払ってあげるのだから」
イリヤはいたずらっぽく笑う。
イリヤの心の中に、温かなものが流れた。家族のことを話すのが、こんなにも幸せなことだなんて。
「…そろそろお別れの時間だ。会えて嬉しかったよ、イリヤ」
「わたしも、キリツグ」
「…君が強く望めば、悠久の時の向こうで、また僕と会うこともあるかもしれないね。君は…魔法使いになるのだから」
一体何を根拠に、イリヤが魔法使いになるというのだろう。けれど、切嗣の言葉は、どうしようもない真実なのかもしれない、とイリヤは思う。
だから。さよならではなく。
「それじゃあ、またね…お父様」
切嗣は驚いたように目を瞠ったが、すぐに穏やかな表情に戻って、そっと両腕を広げた。
その胸に、イリヤは飛び込んだ。
煙草と硝煙の匂いが鼻を刺激する。これが、イリヤの父の匂いだった。
「愛してるよ、イリヤ。これだけは、お父さんの本当の気持ちだ」
「わたしも、愛してる」
来た時と同じように、白色の閃光がイリヤの視界を閉ざした。
その中で、一瞬だけ、玉虫色の球体の集積を見たような気がした。それは、ほんの少しだけ、自らに到達しないと誓ったイリヤを責めつつ、しかし、ネクロノミコンを手に入れたことを祝福するように蠕動していた。
ああそうか。あれが根源の渦の正体か…。イリヤは束の間の夢を見せてくれたことをそれに感謝しつつ、意識を手放した。