…巨大な石組のアーチを潜り抜け、到達したのおは小さな部屋だった。
暗緑色の光に包まれたその小さな部屋には特筆すべきことは何もない・
見渡しても特に何もない、岩屋である。ただ一転、台座の上に一冊の本が置いてあるのを除いて。
「シロウ。念のため言っておくけど、触っちゃだめよ」
「ああ、心得ている」
最後の最後に士郎が興味本位でこの本を触り、発狂してしまうことをイリヤは恐れたのだった。ここまできて、すべてを失うことには耐えられない。
その本は真黒な表紙に金色の文字で「Necronomicon」と書かれていた。
確かに存在したのだ。冬木のネクロノミコンは。
イリヤははやる気持ちを抑えて、そっとその本を手にする。ずっしりとした重みに思わずくらりとした。
…ああ、この本は持つだけで呪われるのだ。
それだけで、この本が本物だと、禁呪、禁忌、宇宙の真理、そういったもので満ち満ちている恐ろしい本だということが分かる。
「シロウ…、ついに手に入れたわ」
感動のあまり声が震える。今わが手に真理があるのだ。これに感動しない魔術師などどこにいよう。
「おめでとう」
士郎は優しく微笑んでいる。
あとは冬木に持ち帰って、この本を読み解くだけである。それで、きっと、イリヤの寿命の問題は解決するのだ。ただの少女のように、生を謳歌することができる。
イリヤはネクロノミコンの表紙をめくった。前書きはラテン語で書かれていた。
これでもイリヤはドイツ貴族の家系で、しかも錬金術を生業としているのだ。ラテン語くらい、魔術に頼らずとも読むことができる。
イリヤは食い入るように前書きを読み始めた。
…この本の成立は既に
プラハの優れた魔導士である■■がこの本を残す。これは彼が命と引き換えにアカシック・レコードからネクロノミコンの記録を読み取ったものである。
彼は魔法使いではなく、また、銀の鍵を用いることもなくアカシック・レコードにたどり着いた稀有の人物である。彼の業績は偉大である。プラハの錬金術は彼によって一世代早く進化した。しかし、魔法の域にたどり着くことなくアカシック・レコードに至ってしまったのはこの世の理を曲げることであり、銀の鍵を用いずにアカシック・レコードに至ったのは彼の副王の怒りを買う行為であった。
ここでは詳しくはそこに言及しない。
彼はこの記録を残してこの世を去った。往来で突然頭から見えない怪物に喰われてしまったのだ!私は彼の遺志をついで、記録を本の体裁にまとめ、ここにネクロノミコンの完全版として後世に伝える。
そもそも、ネクロノミコンとは何か。異教の地、ウマイヤ朝時代、アラビアの狂える詩人、アブドゥル・アルハザードによって書き記されたアル=アジフという書物がキリスト教の地に渡ることによって成立した書物である。古今の魔術書の中で最も質が高く、狂気に満ち、それゆえに様々な魔術師の道しるべとなった。当然、その道の行き着く先は狂気、地獄であることは言を俟たない。
しかし、東ローマ帝国の総主教によって禁書指定を受け、その後、ローマ教皇によっても禁書処分を受けることになる。この東西キリスト教世界による禁書処分により、ネクロノミコンはほとんどが失われてしまった。
現在、この本以外で残るネクロノミコンは、公式で確認されているもので五冊。それも、すべて質が悪く完全に知識を伝えているとは言い難い。ここに、■■と私は完全なるネクロノミコンを残すことにする。これにより、狂える知識を、宇宙の真理を、いつの日か多くの魔術師が手にし、根源への道への第一歩とせんことを。
そして遥か遠いいつの日か、全人類の救済という不可能を、魔法の形で成就する狂人が現れんことを。
1725年、キエフにて。マキリ・ゾォルケンがこれを記す
…追記。この本は人類にはまだ早すぎたようである。封印するのが適当であろう。カエサルのものはカエサルに。
「あんのクソ蟲ジジイ…」
思わずイリヤは毒づいてしまった。あの蟲爺さんはまるで他人事のように語りながら、しかし、このネクロノミコンの当事者だったのである。
「どうしたイリヤ?」
「どうしたもこうしたもないわ。早く地上に帰ってマキリのジジイをとっちめてやらないと気が済まない」
封印するなら封印するで、せめて間桐の家の地下深くに封印してくれればついでに蟲蔵に火を放ってあのいけ好かない蟲どもも一掃できて一石二鳥だったのに。
ぱたんとネクロノミコンを閉じて士郎の方を振り返ろうとしたその時だった。ネクロノミコンが一人でに光りだしたのだ。
「なっ…」
イリヤの視界は白に包まれた。
…閃光が収まったころには、イリヤは見慣れた部屋にいた。
「これは…」
ドイツ本国のイリヤの寝室だ。窓の外は吹雪が吹いていて何も見えない。天蓋付きのベッド以外何があるわけでもない、ぬくもりもない、殺風景な部屋だった。
「やぁイリヤ、久しぶりだね」
それなのに。たった一人だけ、この世界にイリヤ以外の人間がいる。
彼の目は虚ろで、でも慈愛に満ちていて、聖人のよう。ぼさぼさの髪、無精ひげ、よれよれの黒いコートは煙草と硝煙の匂いが染みついている。
「そん、な…」
十年間、片時も忘れることがなかった相手。 十年間、ずっと怨み続けてきた相手。
母を、イリヤを、
「イリヤがどう思うか、僕には分からない。けれど、お父さんはイリヤにまた会えて嬉しいよ」
イリヤの父、士郎の義父、衛宮切嗣がそこには立っていた。