Erlösung   作:まるあ

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ep14

 暗緑色に照らされた道をただひたすら歩く。セイバーたちの剣戟は段々と遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。

 イリヤと士郎は無言でひたすら歩みを進める。気を張っているというよりも、この奥におそらくあると思われるネクロノミコンを前に、何を話せばいいのかイリヤには分からなかったからだ。

 それでも、せっかく二人きりなのに、無言というのも悲しい話だ。何か話題はないかと、イリヤは必死に頭の中を探す。

「そういえばさ、お兄ちゃんはなんでイリヤのためにここまでしてくれるの?」

 その結果口をついて出た言葉がこれだった。

 言い出した瞬間から、自分は馬鹿だと思った。士郎の人助けに理由なんてない。ただ、彼は自分のことを顧みずに、人助けをする存在なのだから。それこそが衛宮士郎という人物なのだから。

「それは…」

 けれど、なぜか士郎は言いよどむ。普段なら、人助けに理由はいらない、とかイリヤが大切だから、とかそんなことを言うはずなのに、彼は何も言わない。

「お兄ちゃん…?」

「なんというか、うまく説明できないけど、イリヤと一緒にいたいから、かな…」

 イリヤの想定していない答えだった。ずっと一緒にいたいというのは、言ってみれば普通の願望だ。それゆえに、イリヤは違和感を感じた。一緒にいたいというのは、あくまでもいたいと思う本人に深く根差した欲求であって、士郎のようなひたすら利他的というか、自分を差し置いて他の人を助けるような人間が真っ先に言及する感情ではない。

 そう、彼にとって、ネクロノミコンの探索は、いや、イリヤを助けるという行為は、イリヤのためではなく、自分のために行っていることだということだ。

 その事実は、イリヤにはたまらなく愛おしい。士郎はついに、自分のためという欲求が芽生え、しかもその対象がイリヤなのだ。自分のためにイリヤを助けてくれる。そんな士郎がたまらなく愛おしかった。

 思わず士郎の腰に抱き着きたくなったけれど、ここは危険なダンジョンなのだ。そのような乱痴気騒ぎを起こすわけにはいかない。

 だから、代わりにイリヤは士郎の手を握る。

「大丈夫。お姉ちゃんがずっとずぅっとシロウの傍にいてあげるからね。嫌って言っても一生傍にいてあげる」

 士郎がイリヤの手を握り返した。ごつごつした男の人の手だ、とイリヤは思う。ちっちゃくて細い自分の手とは全然違う。

 この手で。彼は聖杯戦争を生き抜くという奇跡をなしたのだ。

「あのさ、イリヤ」

「なぁに、シロウ」

「俺、お前のことが好きだ」

「ほぇ?」

 びっくりして、変な声が出た。

 好き、と言ってもいろんな好きがある。友達として好き、家族として好き、恋人として好き。いろんな好きがあるけれど、このような状況で紡がれる好きという言葉は、たった一つの意味だろう。

「わたし、人間じゃないよ」

「そんなわけあるか。イリヤは人間だよ、俺が保証する」

 士郎の、イリヤの手を握る手が強くなった。

 聖杯の器として生まれて。父には裏切れて。戦うこと、憎むこと、そういったことしか教わらなかった人生だけど。今この瞬間は、そういったことを忘れることができる。

 たった一人の少女として、今この瞬間に幸せだと言うことができるだろう。

「わたしも好きだよ。だから心配しないで。シロウはわたしのもの。絶対手放さないんだから」

 今この光景を切嗣が見たらどう思うだろう。きっと複雑な表情をすることだろう。

 多分、切嗣はイリヤと士郎、それにイリヤの母親であるアイリスフィールをこの世の何よりも大切だと感じてくれているだろう。だから、士郎とイリヤが幸せになること、それ自体には喜んでくれるはずだ。ただ、自分の息子と娘がお互いを、となると親としては微妙な気持ちになるかもしれない。

「さて、そろそろ気を引き締めていかなきゃね」

 イリヤはそっと手を放す。

 少女としての時間はもうおしまい。魔術師としての自分に切り替える。

 士郎も、穏やかで、少しだけ気恥ずかしそうだった表情を改めて、真剣な表情を作っていた。

 この先にあるのが何かは分からない。けれど、立ちはだかるものはなんであれ、倒して、ネクロノミコンを手に入れなければならない。

 …死にたくない理由がまた一つ、増えてしまったのだから。

 

 洞窟を奥へ奥へと進んでいく。最深部は少し開けており、巨大な石組のアーチが奥へとつながる門のようだ。

 どこからともなく漂う香りに、イリヤは神経を尖らせる。まるで薔薇の香りのよう。

 …薔薇?

 イリヤが奇妙に思ったその時に、カタカタという音を鳴らして、現れた存在があった。

 窪んだ眼窩に目玉はなく、とこしえの闇を湛えているかのよう。赤い派手なスーツはおそらく彼にとってオシャレであるに違いない。左手に持つステッキには赤い大きな宝石が埋め込まれ、豊かな顎鬚は当然汚らしさではなく、むしろ高貴さを感じさせる。

「あれは…」

 イリヤは言葉を失った。

 なんと冒瀆的な光景だろう。あれは死者の魂だ。死者の魂を無理やり使役しているのだ。

 イリヤはあの魂と直接面識はない。だが、間違いなくイリヤは彼を知っている。それは知識として知っていた。

「なるほど、マキリがトオサカの娘を連れて行くのを拒んだわけだわ…」

 凛にせよ、桜にせよ、この光景を見たら色を失うだろう。高確率で気が狂ってしまうにちがいない。

「イリヤ、あれがなんだか分かるのか」

「分かるわ。第四次聖杯戦争についての資料の中に彼の写真もあったもの」

 彼は生前、第四次聖杯戦争のときにアーチャーのクラスのマスターであった。彼には娘が二人いて、一人は養子に出されたはずだ。

 宝石魔術の使い手で、火属性の魔術師。彼の全盛期であれば、聖杯の力が最も影響を及ぼす冬木においてのイリヤでさえも、遅れをとったかもしれない。

 あの躯の名前は遠坂時臣。遠坂凛と間桐桜の実の父親である。


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