開かれた扉の先には、玉座に座るヒキガエルがいた。正確に言うと、顔がまるでヒキガエルのようだった、ぎょろぎょろとした目からは燐光が漏れ出ているかのようで、不気味である。胴体は毛深く、でっぷりと太っていた。
あれは、イリヤの記憶が正しければグレート・オールド・ワンの一柱。グレート・オールド・ワンの中ではまだましな部類であるといわれる。
イリヤはつかつかとその化け物の前に歩み出ると、スカートの両端を掴んで、優雅にお辞儀をした。
「お初にお目にかかります。グレート・オールド・ワン、ツァトゥグァ様」
「我を知っているのか、小娘」
くつくつと笑いながら、怪物は答える。
軽く後ろに手を振ることで、手出しは無用ということを士郎たちに伝える。士郎もバーサーカーもセイバーも、ツァトゥグァに注意を向けながらも、一見して平静を装っているようだった。
「汝らにとって幸いなことに、我は今腹が空いていない。もっとも、空いていたところで手出しはできんのだがなぁ」
ツァトゥグァと邂逅したときに重要なのは、彼の神の腹具合である。腹が減っていれば、容赦なく喰われてしまうが、腹が満ち足りていれば、比較的話が通じる相手として知れ渡っていた。
さて、どのようにこの神と対峙すれば情報を引き出せるだろうか。同時に、この神を怒らせないように細心の注意を払わなければいけない。今の戦力であれば、戦って負けることはないだろうが、退散させるまでにかなり消耗することは間違いない。
「わたくしどもに手出しができない、とは?」
「汝らがこの洞窟に侵入してしばらくしてから、お触れが回ったのだ。汝らに手を出してはならん、というな。本能で動いている迷宮の神やそういうことに頓着しない外なる神は無視したようであるがなぁ」
くっくっくっとツァトゥグァは嗤う。
グレート・オールド・ワンをも従わざるを得ない相手というのはそう多くはない。ひょっとすると、片手で足りてしまうかもしれない。そのような者の庇護を、イリヤは受けた覚えはないし、士郎にしても同様だろう。
それと同時に、道中に目立った敵は迷宮の神アイホートくらいしかいなかった理由に納得した。アブホースはたまたま遭遇しただけで、運が悪かったとしか言えないだろう。
そういえば、とイリヤは思い出す。ツァトゥグァといえば、信者に対してはそれなりに気前よく助けたり、魔術の知識を分け与えたりするということを聞いたことがあった。イリヤはツァトゥグァの信者ではないが、彼女たちの庇護命令がどこからか出ている状況を考えると、簡単な情報を教えてくれるかもしれない。
「…わたくしどもはネクロノミコンという魔術書を探しております。神よ、あなたは何かご存じではないでしょうか」
「ふん。先ほど
キャスタージル・ド・レェがここに既に来たということか。イリヤは嘆息する。結局、イリヤたちがここまで来られたのも、裏で彼が何らかの動きをしていたからなのかもしれない。
「汝らは道を間違えてはおらぬ。この先を進み、亡者の群れを突破せよ。その先に、その書物は存在する」
「ありがとうございます。ツァトゥグァ様」
イリヤはうやうやしく頭を下げる。こういった手合いには、敬意を表明することこそが肝要なのである。
「進むが良い、小娘よ。汝は大いなる存在の庇護を受けているゆえな」
そう言うと、ツァトゥグァはゆっくりと瞼を閉じた。
顔を上げると、イリヤは士郎たちの方に向き直る。
「さ、聞いてのとおりよ。進むわ。きっと、目的のものはすぐ近くにある」
イリヤはそう言うと、歩き始めた。終着点はもうすぐだということを信じて。
ツァトゥグァから指し示された道は延々とした一本道であった。仄かな灯りは段々と、暗緑色のそれに代わっていく。この灯りの色は、大聖杯の眠る龍洞のそれと酷似していた。
ついにこの洞窟の最深部にたどり着いたのだという直感があった。ついに目的のものが手に入るのだという高揚感が。
しかし、それと同時に、だからこそ気を引き締める必要があるとイリヤは自身を戒める。財宝には守護者が不可欠で、その何者かを倒さない限りは財宝を手に入れられることはないのだと。
一行は無言のまま突き進んでいく。
一本道の終わりは唐突だ。大きな空洞に出たのだった。よく見れば、大空洞の反対側に、同じくまた道が見える。
「慎重に進みましょう」
セイバーが見えない剣を構えながら、警戒して歩む。その後ろを、イリヤと士郎、さらにその後ろを守るようにバーサーカーが歩む。
…大空洞の中央部に差し掛かった時だった。大空洞の四方から、ずずずと、影のようなものが滲み出てくる。それらは地面に降り立つと、人型を形作った。
影のように掴みどころがないそれは。
「なるほど、ツァトゥグァが言っていた亡者の群れというのはこれね」
イリヤは一人で得心する。
あの影一体一体の力はさして強くない。だが、問題なのはその数だ。目算するだけでもすでに五十体ほどはいるし、さらにその数は増えていく。
「わたしたちが道を開きます!シロウとイリヤスフィールは先に進んでください!」
あるいはあの影は無限増殖すると思ったのか、セイバーはそのように提案する。
きっとそれが最善であろう。
「バーサーカー、あなたも道を開いた後はここに残りなさい。わたしがネクロノミコンを手に戻ってくるまで、ここを守りなさい」
バーサーカーは低く唸ると頷いた。最優のサーヴァント、セイバーと、最凶のサーヴァント、バーサーカーが組めば、どのような雑魚がどのくらい湧いて出ようと、防ぎきることができるに違いない。
「俺も…」
「あらシロウ。お姫様にたった一人でこの先を進ませる気?せめて
どうせ士郎は危なそうなところにいたがるのだ。しかし、この先が安全であるとは限らない。なにより、臓硯が予言した、遠坂の血を引く者が必ず発狂する仕掛けというものをまだ見てはいないではないか。
士郎は少しの間だけきょとんとすると、ふっと息を抜いた。さしずめ、イリヤが言及した騎士という言葉が誰を指すのか分からなかったに違いない。
「心得た。それでいいか、セイバー」
「ええ、もとよりそのつもりです。私とバーサーカーが共に戦えばこの程度の敵、かすり傷も負いません」
不敵に笑うセイバーに、士郎は一回頷くと、干将・莫耶の夫婦剣を投影する。
「さて、姫君を届けるのは騎士の役目。見事敵中突破してみせましょう」
セイバーがそう言うとともに、イリヤの身体がふわりと持ち上がった。バーサーカーが抱きかかえて肩に乗せたのだ。
「
イリヤの掛け声と共に三人は脱兎のごとく走り始める。
セイバーの剣技は洗練されていた。全く無駄のない動きで目前の敵を薙ぎ払い、道を切り開いていく。なるほど、剣の英霊にふさわしい芸術のような動きだ。
バーサーカーは切り払うというよりも、叩きつける、ねじ伏せるという表現がふさわしい。圧倒的な力の差で、相手をつぶしていくのだ。純粋な暴力とはかくも荒々しいものかと目を瞠る。
士郎はまるで剣舞を踊るかのよう。二本の剣の動きは滑らかな曲線を描き、見る者が息をするのも忘れるだろう。彼一代の剣術であり、彼以外に使えるものがいない殺人術だ。それは決して優雅なものとは言えないが、彼の一本気を反映するような、熱を帯びた剣舞だった。
…始まりがあれば終わりがある。英霊二騎と英霊未満一人が踏破するのにかかった時間はものの十秒。バーサーカーはそっとイリヤをさらに続く道の入り口に下ろすと、くるりと彼女に背を向け、いまだに増殖し続ける黒い影に対峙する。
「シロウ、イリヤスフィール。ここは何人たりとも通しません。安心して先を進んでください」
セイバーの背中が頼もしい。
「それじゃ、あとでね。武運を」
まるで遠足で別行動をする友人にかけるような気軽さで、イリヤはサーヴァントたちに声をかけた。