ドイツ本国のアインツベルン城は常冬だった。吹雪に閉ざされた、おとぎ話の中のお城みたいで、そう思えばロマンチックを感じる。
アインツベルンの森を歩いているのは、衛宮士郎という未熟な魔術師と、そのサーヴァント、セイバーである。常冬の城へ向かうのは、姫君を助けるためだと言えばまさにおとぎ話であるが、実態としては、人間と呼べるか怪しい老翁に殴り込みにいくのだ。あまりにも華がない話である。
遠坂凛や間桐桜といった魔術師たちはドイツに来ることは叶わなかった。冬木の聖杯戦争の御三家が戦争を起こすわけにはいかない、という凛の判断だった。遠坂や間桐、アインツベルンが問題を起こした場合、冬木に対して魔術協会が介入してくるだろう。それを凛は避けたかったのだ。
凛のサーヴァントであるアーチャーはドイツに行きたがっている節があったが、凛がそれを押しとどめた。なぜなら、凛の使い魔は外から見れば凛と同じ。彼がどのような想いを抱いていたとしても、アインツベルンの城に殴り込みに行くことはできないのだ。
「代わりと言ってはなんだが」
旅立ちの前に、アーチャーはそう言って、士郎の左腕を撫でたかと思うと、人差し指と中指を突き立てる。
「ッ…。何するんだよ」
「なに、魔術回路をより効率的に使えるようにチューニングしてやっただけだ」
そっとアーチャーは目を閉じた。
「…イリヤを頼む」
「任せておけ」
アーチャーがイリヤスフィール・フォン・アインツベルンという存在をどのように思っているのか、士郎にはわからない。けれど、士郎にとっても、あるいはきっとかつてのアーチャーにとっても、妖精のようなあの少女は、家族というのにふさわしい存在だった。それは、大河や桜を家族と呼ぶのとはまた少しニュアンスが異なる。出会いが殺戮だったとしても、イリヤは士郎の姉妹なのだ。
…そのようなことを思い出しながら、士郎は目の前の巨大な西洋の城に相対する。あれがアインツベルン城。千年以上を閲する魔術の貴族の本拠地で、今なお第三魔法を通じて影響力を保持する、錬金術の大家。
「行くか、セイバー」
干将・莫耶の宝剣を両手に持って、士郎は自らのサーヴァントに声をかける。
「行きましょう、シロウ。孫娘の危機です。あの翁にも手を貸してもらいましょう」
不敵に笑って、セイバーは魔力を鎧う。
一歩一歩、踏みしめるように雪の上を歩いた。足跡は、すぐに降り注ぐ雪にかき消されていく。
「待ってろよ、イリヤ…」
士郎は口の中で、大切な人の名前を呼んだ。
「エミヤシロウ様、そしてその従者のセイバー様でございますね?お待ちしておりました」
アインツベルンの城にたどり着いた士郎たちは、きっと魔術の攻撃を受けるだろうと思っていたのに、事態は真逆に進んでおり、あっけに取られていた。
セラによく似た、しかし、彼女と比べて目が虚ろなホムンクルスが丁重に士郎たちを出迎えた。
「アハト翁がお待ちです。どうぞこちらへ」
士郎はセイバーと顔を合わせる。まったく予想もしていなかった展開だ。
「罠だと思うか?」
士郎は小声でセイバーに尋ねる。
「罠だとしてもついていくしかないでしょう」
セイバーの言葉に、士郎は頷いた。彼女の言う通りで、向こうに敵対心が見えない以上、ここで暴れるわけにもいかないのだ。別に暴れるために来たわけではなく、話し合いで済むのであればそれでよい。
連れていかれたのは礼拝堂のようなところであった。扉を閉じると、士郎たちを連れてきたホムンクルスのメイドはどこぞへといなくなってしまった。
礼拝堂の中央、神父が説教するところには、真っ白な衣に身を包んだ老翁が立っていた。その雰囲気は神々しいとまで言えるほどで、ただならぬ気配を感じる。
「よくぞ参られた。エミヤキリツグの息子、エミヤシロウ、及びセイバーアルトリア・ペンドラゴンよ」
老翁は厳かに言葉を紡ぐ。士郎は思わず気を飲まれそうになる。
「私がアインツベルンの当主、ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルン。現在いるすべてのアインツベルンの父にして祖。第三魔法を求めるものだ」
目の間にいる翁は決して人ではない。魔術で作られた、いわばゴーレムのようなものだと言われている。彼はその八代目で、ゆえにドイツ語で八を意味するアハト翁と呼ばれている。彼の目的は単純で、アインツベルンの彼岸、すなわち第三魔法を達成することだ。
しかし、それを踏まえてなお、士郎は思わず物怖じしてしまいそうになる。アハト翁は長い時を閲してきた威厳のようなものをまとっている。それは、若輩の士郎には決して抗しやすいものではない。
「俺が何者かわかっているなら、俺たちが何で来たかもわかっているな」
「無論。我が娘、イリヤスフィールの件であろう。アインツベルンの最高傑作、しかし、同時に失敗作…」
士郎は腹が立った。イリヤは一人の少女で、士郎の家族だ。それを失敗作と決めつける目の前の翁に対して、言ってやりたいことはごまんとある。しかし、今は交渉の場だ。感情に任せて行動すべきではないと自らに言い聞かせる。
「分かっているなら教えてくれ。どうやったらイリヤは長生きできるんだ?」
「そもそも設計思想として、彼女は長生きできるようには作られていない。それは肉体の構造の問題だ。多すぎる魔力は肉体を滅ぼす」
アハト翁は無感動に言葉をつなぐ。
「このままではアインツベルンの悲願は達成されえぬ。なれば私も、イリヤスフィールも、すべてのアインツベルンは存在価値を失う。なれば、長生きなどどうして必要だろうか?アインツベルンは滅びの時を迎えるのだ」
淡々と言うアハト翁に、いい加減腹が立って、士郎が何か言い返そうとしたその時だった。
「翁よ!あなたは間違っている!」
大声でそう告げたのは、騎士王だった。彼女は高らかに、咆哮するように、言葉を紡ぎだす。
「私の知っているアインツベルンは第三魔法のための道具ではない!アイリスフィールはその短い人生を、愛する人共に必死に生きた!そして、その人のために彼女の持てる全てを奉げた!素晴らしい生命の讃歌だ!イリヤスフィールも、その生命の瞬きは燃え上がる炎のようで、今を必死に楽しく生きている。それを、それを、たかが第三魔法ごときで否定するのか!?」
「たかがとは痴れ者が。思い上がるな騎士王」
激昂するせいばーとは対照的に、アハト翁は静かだった。
「我らアインツベルンは二千年もの間、第三魔法を再現することにすべてを注いできた。我らの思想が正しいことを証明するため、遠い過去にいたアインツベルンの師を慕うがために、我らはこの営為を続けてきたのだ。我らにはもうこれしか残されていない。すべてのアインツベルンは第三魔法のために生まれ、そして死んでいった。我らのその営為をたかが、だと?驕りも甚だしい。アインツベルンの存在意義はただ一つ。第三魔法の再現のみだ」
静かな中に、アハト翁は怒りを潜めていた。セイバーの言葉は、二千年にもわたるアインツベルンの営為を丸々と否定するものだった。そして、それはアハト翁は決して許せなかったに違いない。
「多くの魔術師が第三魔法の再現という悲願の前に死んだ。多くのホムンクルスがそのための犠牲になった。それを軽々しく否定するな。我らの生きざまは我らが決める。王といえど口をはさんでよいことではない」
「そうだとしても!それをイリヤスフィールに押し付けるなと言っているのだ、翁よ。第三魔法を追い求めるにせよ、諦めるにせよ、それは私の預かり知るところではない。だが、どちらにせよ、イリヤスフィールが生きる道くらいは示してよいのではないか。彼女から父と母を奪い、生きる楽しみの代わりに人を憎むことを教えた、せめてもの贖罪を行うべきではないのか」
「ふん、実直な騎士王と話しても話にならん」
小ばかにするようにアハト翁は鼻を鳴らすと、士郎の方に向き直る。
「エミヤシロウよ、お前の父親は冷徹であるが道理を弁えたな男であった。お主はどうかな」
「…イリヤを助けたい。そのための代償はなんだ」
「騎士王とは異なり道理を弁えておるようだ。覚えておけ、ブリテンの王よ。高説を語り理想を示すだけでは人はついてこない。何かを要求するときには、等価交換が世の原則なのだ」
セイバーは何も答えない。経過はどうであれ、アハト翁がやっとイリヤを助ける気になったと思ったのだろう。下手に何か言ってアハト翁の機嫌を損ねるよりは、礼儀正しく沈黙を通したほうが良いと思ったに違いない。
「我らアインツベルンがお主に臨むのはただ一つ。エミヤシロウよ、イリヤスフィールとともに第三魔法を目指すがよい」
「第三魔法を目指す…?」
「そうだ。共に第三魔法を手にすべく歩め。イリヤスフィールの代で叶わぬことなのであれば、その祈りを次代へ繋げ。それがアインツベルンの望み。我らが悲願を達成するとしたら、固有結界を持ち、英霊となる可能性をも秘めたお主がイリヤスフィールと共に歩む以外他にない」
感情が浮かばない、能面のような翁の顔に、ほんの少しだけ、何らかの感情が浮かんだような気がした。それは、いったい何だったのだろう、と士郎は思う。
彼は本当に第三魔法だけを望んでいるのだろうか。そんな疑問がふと士郎の頭に浮かぶ。
「拒否したくば拒否すればよい。その時にはたとえここでアインツベルンが滅びるとしても、決してイリヤスフィールの救済の方法は教えぬ。元より、お主がそのような生半可な覚悟でここに来たのだとしたら…あれは何があろうと救済されぬ」
イリヤスフィールの救済。そうだ、士郎はそのために、わざわざこの雪深い城にまでたどり着いたのだ。
「…わかった。約束しよう。俺はイリヤと共に第三魔法を目指そう」
「その言葉は血よりも重い。盟約を違えることは決して許さぬ。それでも良いな?」
士郎はこくりと頷く。
アハト翁は満足げに両腕を広げた。
「アインツベルンの悲願への望みはここにつながれた。我らもその誠意に対し、誠意をもって答えよう。イリヤスフィールの救済の鍵は冬木にある」
「冬木に?」
「そうだ。冬木のいずくかに眠る
老翁はそこで言葉を区切る。
「新たな身体を用意しておく。そこに意識を移し替えれば、いったんは問題を先送りすることができよう」
「ネクロノミコン…」
士郎は小さな声でつぶやく。聞いたことのないその音の並びは、どこか禍々しいものに感じた。
「道は険しいだろう。だが、受難が厳しければ厳しいほど、その祈りは大きく花開くのだ」
アハト翁の声は託宣のように礼拝堂の中に響き渡った。