プリンセス・プリンシパル PROFESSOR(完結) 作:ファルメール
「よし、出発しよう」
メイフェア校のガレージにてドロシー、アンジェ、ちせ、プロフェッサー。今回の任務に参加する4名がスパイ服に着替えて集まっていた。プリンセスとベアトリスは、今回はお留守番だ。6人はチームであるが、二人は今回の任務には不向きであると判断されたのだ。
愛車を前に立って、ドロシーはじっとプロフェッサーを見詰めた。
「整備は大丈夫か?」
<完璧以上に。我ながら会心の仕上がりよ>
プロフェッサーはそう答えると、キーを投げ渡した。ドロシーは腕だけを軽く振るように動かしてそれをキャッチする。
プロフェッサーはドロシーの隣、助手席へとどっかり腰を下ろした。
<いくつか、新しい機能を組み込んである。目的地に着くまでに、走りながら説明する>
「……大丈夫なんだろうな?」
少しだけ、ドロシーの視線が疑わしげなものに変わった。
アンジェにCボール、ちせに刀、ベアトリスの声に、プリンセスの立場にプロフェッサーの電気。チームの面々はそれぞれが『得物』を持っている。それは彼女たち一人一人のストロングポイントであり、命を預けるものだ。
ドロシーにとってのそれは車。それに、妙なギミックを組み込まれるのは良い気分ではないだろう。
プロフェッサーは、居心地が悪そうに体を動かした。ガスマスクに覆われていて顔は見えないが、不愉快そうに思っているのが仕草から見て取れる。
<私は科学者であると同時に技術屋でもあり、プライドがある。納得の行かない作品を、ユーザーに提供したりはしない>
「……分かった。信じよう」
ドロシーは頷くと、ドライバーシートに腰を下ろした。アンジェとちせも、後部座席にそれぞれ乗り込む。
ドロシーは、差し込んだキーを回した。
エンジンがかかる。しかし、この一連の動作だけでもドロシーが今まで乗ったどんな車よりもずっと滑らかだった。名ドライバーであるドロシーは、音を聞けばエンジンの善し悪しが分かる。エンジン音を聞いただけで、プロフェッサーが愛車を今までよりずっと素晴らしい物に仕上げた事を認めざるを得なかった。
「じゃ、行くぞ」
<待った>
横合いからプロフェッサーの声が掛った。
「何だ?」
折角、良い車を思うさま乗り回そうと思っていた所で腰を折られる形になって、ドロシーはあからさまに不機嫌な表情になった。
<シートベルトをしっかり締めて>
「シートベルト?」
プロフェッサーは頷いて、助手席に付けられたシートベルトを使って体を固定した。
「任務では、すぐに車に乗り降り出来る方が良い」
これはアンジェのコメントだった。
ドロシーもちせも、ベルトを締める気配は見えない。
<……>
プロフェッサーは肩を竦めた。諦めたように手を振って、ドロシーに「出して良いぞ」と合図する。
ドロシーは今度こそ機嫌を良くして、アクセルを思い切り踏み込んだ。
「ウオ!?」
愛車は信じられない程の加速を見せて、ドロシーの体はシートに押し潰されそうになった。アンジェもちせも同じだった。
反射的にブレーキを踏む。するとドロシーの体は前に投げ出されて、フロントガラスにおでこを強打する憂き目に遭った。アンジェとちせは車から放り出されそうになって、必死で車体を掴んで辛うじて体を固定した。シートベルトを締めているプロフェッサーだけが(マスクで見えないが恐らくは)平気な顔をしている。
3人は顔を見合わせて、いそいそとシートベルトを締めた。
その上でドロシーは今度は、恐る恐るアクセルを踏む。
軽く踏んだだけだが、しかしそれでも愛車は今まで経験した事が無いスピードを発揮して景色が流れていく。
「プロフェッサー!! あんたエンジンにどんな改造をしたんだ!?」
<凡人には分からないレベルで、とだけ答えておく>
「聞くんじゃなかった」
ドロシーはそう吐き捨てたが、しかし車を転がし始めて2分も過ぎる頃になると、初めて自転車に乗れた子供のような興奮が不満に取って代わったようだった。
「こ、こいつは凄いじゃじゃ馬だな!!」
<そうだろうそうだろう>
速度メーターは、あっという間に時速130キロを差した。プロフェッサーは、くぐもった声に悦びの感情が滲んでいる。
「煙が出ないな?」
「それに、エンジン音も静かね」
後部座席の二人のコメントを受けてプロフェッサーは<良い着眼点ね>と振り返った。
<エンジンをこれまでの蒸気機関から、私が開発した水素エンジンに交換している>
「水素エンジン?」
聞き慣れないキーワードを、ドロシーが鸚鵡返しする。
<……この前、ドロシーに水素貯蔵合金を見せただろう? あれは、このエンジンを開発する為の部品だったのよ>
「あぁ」
ドロシーは初任務で、プロフェッサーが見せてくれた研究成果を思い出した。
<……簡単に言うと、エンジンタンクには燃料ではなく水を入れる。これは海水でも可。それを電気分解して水素と酸素を抽出し……その水素を内蔵された水素貯蔵合金に蓄積し、燃料に必要な分だけをその都度抽出する。水素は燃料としてそのまま使うには危険すぎるが、これによって爆発のリスクを回避する>
「……?」
「……?」
ドロシーとちせは、知らない国の言葉かさもなければインチキ宗教の呪文を聞いているように首を傾げる。
「水素と酸素の混合気体は、引火しやすいんじゃないの? バックファイアの危険は?」
<あぁ、とても良い質問だ。アンジェ>
上機嫌に、プロフェッサーが答えた。
<確かに、その点は天才である私をして難問だった。しかし、それも解決済み。気体水素を80気圧に加圧して一気にシリンダー内に送り込む事で、バックファイアを完全に封じ込める事に成功した。流石は私>
「なら、安心ね」
<だが、水素エンジンの素晴らしさ・完璧さはそれだけではない。この車は、他の車や機関車のように二酸化炭素や排煙を撒き散らさない。水素を燃やして走るこの車が出すのは……>
プロフェッサーはそう言って、シートの下に手を入れるとボトルを取り出した。中には、無色透明な液体が詰められている。
<これだ>
ぽいと投げ渡されたボトルをちせが受け取った。
蓋を開けて、油断無く匂いを嗅いだりしてみるが……刺激臭や腐敗臭などはしない。
「……」
意を決して、ぺろりと舐めてみる。
「水、じゃな……これは」
「……それも、信じられないぐらいに綺麗ね」
これにはアンジェも、目を丸くする。
<どうかな、ドロシー? 今の気分は?>
と、プロフェッサー。
「え?」
<最高時速260キロ、最大出力280馬力。燃料は海水を使えるから無限大。そしてこれが一番重要だが……ゼロ・エミッション(排ガスゼロ)。つまり……>
プロフェッサーは空を見上げた。空には煙と雲がかかっていて、星は見えない。ぼんやりと霞んだ月の光がうっすら見えるだけだ。
<ロンドンの空をこんな風にしている煙を出さないという事だ>
「……この車一台だけでも、共和国は豪邸と一生豪遊して暮らせるだけの金を払ってでも買い取るでしょうね」
<まぁ、当然の評価だな>
これはアンジェとプロフェッサーのやり取りである。
「……」
一方でちせは、別の所に目が向いているようだった。
シュコーッ……シュコーッ……
いつもプロフェッサーが発している呼吸音が耳に届いて、彼女ははっとした顔になった。
「そうか、お主は……このエンジンは……だからか?」
要領を得ない言葉だったが、プロフェッサーには伝わっているようだった。彼女は深く頷く。
<あぁ……私は生まれつき肺が悪いから、マスク無しでは外を歩けない……私だけではなく、今のロンドンでは肺を病む者は多く、そして空にはいつも煙が雲を作っている……だが、このエンジンが実用化されればどうなる? エネルギー問題も環境問題も、一気に解決する>
そう言った後でプロフェッサーは<私は天才だから、私の理論では解析出来ない粒子が撒き散らされて十年も経つと一気に大気中の酸素と結合して無酸素状態を作り出すなんてオチも無いぞ>と付け加えた。
<いずれ蒸気機関は駆逐されて、何万いや……何百万という水素自動車が世界中を走り回る日が来る……澄んだ空の下を……分かるか、ドロシー? この車の後を、無数の水素自動車が走るんだ。あなたは今、変革の魁……変わる時代の最先端に立っている。その感想はいかがかな?>
「……う、だ」
<?>
「最高だよ、プロフェッサー!!」
<他にも組み込んだ機能は色々あるが……それは追々、解説していこうか>
興奮したドロシーが、アクセルを思い切り踏み締める。
プロフェッサーに改造された車は、風を撒いてロンドンの夜を駆けていった。