1941年4月1日 ベルリン
1941年。
第二次世界大戦の戦況的には転換期であり、ドイツ軍凋落のはじまりとなる年が開けてからしばらくの時が経過した。
しかしベルリンは戦火に見舞われる事無く、ある程度の緊張感はあるものの、戦場はどこか遠くのことのような空気が漂っていた。それは夜であっても変わらない。若者は口々に威勢の良い事を酔った勢いで吐き出し、老齢な者達は第一次世界大戦後から続く苦渋の日々に愚痴を漏らす。そして目端の効くものだけが口をつぐみ、周りを見渡しているのだ。
そんなベルリンの場末にあるBAR「グラズヘイム」は、別の意味で騒がしかった。
テーブル席で、そのベーコンとイノシシのジビエ、とくに量的に珍しいタンは俺のものだと競い合うように食べる常連の男性客二人。
カウンター席に、キャベツの酢漬けとキジのモモ肉のクリーム煮を食べつつ、大ジョッキ片手に管を巻くベアトリス様。
外とは一風変わった空気ではありますが、本日もBARグラズヘイムは開店しております。
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「ここで寝てしまうと風邪を引いてしまいますよ」
時間でいえば20時頃。
よほどおつかれだったのでしょう。
声を掛けるも夢の中。私は店の奥から持ってきた薄手のタオルケットを、カウンターで眠ってしまっているベアトリス様の肩に掛けます。
先程まで元気よく愚痴っておられたベアトリス様ですが、私が材料を取りに奥に入り出て来るまでの数分で、すっかり寝入ってしまったようです。
アルコールが入り若干赤みがさした頬。年相応の張りのある肌に柔らかそうな唇。ポニーテールでまとめた金髪は軍の激務を耐えぬいたとは思えないほどの艶を保っている。元気が良すぎることが人によってはマイナス点でしょうが、十二分に魅力的ではあります。
しいていえば、もう人間の気配が無くなってしまったことでしょうか。
「ああ、ここだ」
そんな観察をしていますと、扉に取り付けた鐘の音に乗って一人の男性の声が出入り口から聞こえてきました。
視線を送ると、久しぶりとなるお姿。
「いらっしゃいませ。ロートス様」
「ひさしぶりでいいのかな? バーテンダー。前に来たのって結構前だったはずだけど、覚えていてくれたんだな」
「珍しいことではございません。店を預かる者の基本ですよ。それにこの店は小さく新規のお客様は少ないので」
「ここの店、すごく旨いのになんで客が少ないのかなっと、ミハエルお前も入ってこいよ」
久しぶりにご来店いただいたロートス様は、外に声を掛けると一人の大柄な、いかにも軍人という御仁を招き入れるのでした。
ロートス様よりも身長が高いことに加え、軍服の上からもわかるほど、ガッチリとした筋肉を感じさせる体格。無精髭に口をつぐんだ形で作られた皺は、寡黙な軍人という雰囲気を醸し出しております。
柔和な雰囲気を持つロートス様とは真逆な魅力を持つ御方ですね。
「こいつはミハエル。今の相棒だ」
「いらっしゃいませ。手前のカウンターをどうぞ」
ミハエルと呼ばれた方が軽く会釈をされる。たったそれだけの行動ですが、屈強の軍人を感じさせるのは、ブレない体幹とムダのない動きだからでしょうか。
私は手前のカウンターにご案内する。まあ、奥のカウンターには眠りこけている女性が嫌でも目につきますので、お二人は何も言わず席に座られます。
それにしても同僚ということは、同じ西方戦線で戦う戦友というところでしょうか。
「何になさいますか?」
「ミハエルは何にする? どれもうまかったぜ」
「まかせる」
「まかせるって、おまえがいつも飲んでるのって牛乳か、一番安いビール一辺倒だろ。ここはそんな店じゃねえよ」
ロートス様はそういうとメニューとにらめっこをはじめますが、ビールのカテゴリに絞ったとしても他の店では見ないような銘柄が多数並ぶので迷っておられるようですね。
中には全部自分で決めたいという趣向の方もいらっしゃいますが、ロートス様はそのへんに拘りが無い方なのは、以前来店された時に確認させていただいております。
なにより「おすすめは?」の一言はけして恥ずかしいことではございません。その日の仕入れ状況は店の人間にしかわかりません。外の看板と店の黒板におすすめを書いてはいますが、聞かれたら答えるレベルのものもございます。
「ビールとそれに合うつまみということで、こちらで見繕いましょうか?」
「じゃあそれで」
ロートス様は助かったとばかりに表情を明るくされ、同意の言葉を返していただきました。お隣に座られているミハエル様は表情こそ変わりませんが、目尻が若干下がっていますね。とてもわかりにくいですが楽しんでいるご様子と判断できます。
先程のお話では普段からビールを飲んでいるとのことですので、定番から攻めてみましょうか。
「ヴァルシュタイナーピルスナーにございます」
泡立つ琥珀。ドイツ南方ではポピュラーなビール。甘さと若干の苦味が、とても飲みやすく、常温でも冷やしても美味しい一品。
「乾杯」
ロートス様はジョッキを持ち上げると、同僚の方は静かにジョッキを打ち鳴らす。そして半分ほどを一気に飲み干してしまう。味わうというよりも喉越しを楽しむ飲み方といったところでしょうか。
豪快な飲み方で、いつも牛乳を飲むですか。ふと浮かぶのはある戦闘機乗りというか爆撃機乗りのお客様。あの方は細身ですが、猛禽類のような強烈な印象を相手に与える御方でしたね。対して同僚の方を例えるなら、揺るがず見るものを圧倒する巨大な山といったところでしょうか。
そんなことを考えていると、お出しするべき料理のイメージが固まってきました。
厚切りのベーコンに、ソーセージ、ブロッコリー、パプリカや玉ねぎ、セロリなどを大きめにカットし、小さな鉄板に乗せ火を通します。そして大ぶりのチーズの固まりを別の鍋で白ワインを混ぜながら溶かし、火を通した食材の上から掛けます。
そして鉄板ごと木製の台に乗せ、お二人の前に置きます。
「
肉や野菜の焼ける芳ばしい香りに混ざる濃厚なチーズの存在感。フォークで食材を一つ持ち上げれば、溶けたチーズは食材に絡まり、小さな鉄板に広がります。ベーコンの油と溶けたチーズが交わり、ピザなどにも通じる香りに変化し、より一層食欲を掻き立てます。
しかし一度口に入れば、食材の味はチーズに負ける事無い。セロリはさっぱりとした味だが、大地の香りが広がる。ソーセージやベーコンはより一層甘く、そして複雑な味わいとなり舌の上で踊る。
「ここってBARだよな。なんで食べ物が旨いんだよ」
ロートス様が、ポツリとつぶやかれる。その言葉に、批判的な色は一切なく、純粋なツッコミのようなものでしょう。
対する同僚の方は残ったビールを一気に飲み干し、空となったジョッキをカウンターに勢い良く置かれます。私はこれをお代りと判断し、もう一杯同じものをお出しさせていただく。
「食べ物が旨いんじゃない。ビールをうまくするための食べ物だ」
「はい。もちろん単品で美味しいと感じていただけるように研鑽を積んでおりますが、この店の料理の本質は、お酒をより一層引き立てるためのものにございます」
「へ~」
「そういえば、今回の帰省は休暇ですか?」
「一応休暇だな。報告やらなんやら任務もあるけど一週間ちょっとはこっちの予定」
「で、あればシュべーゲリン様にご連絡されては? なかなか連絡が取れないと零されておいででしたよ」
「そういえば、手紙とか来てたっけ」
ロートス様はふと思い出したようにつぶやかれますが、どうやら受け取った手紙の返信はされていなかったご様子。聞けばシュべーゲリン様は結構な回数出されていたようですが。
しかしそんなやり取りを静かに聞いていた同僚の方が、若干表情を崩される。
「なんだ。あの手紙は故郷に残した女からのものだったのか」
「べつにそんなんじゃねえよ。ただ、昔の同僚ってだけだ」
「昔の同僚ってだけで、定期的に手紙をよこしてくるようなヤツなんぞいないぞ」
「まあ、そうなんだけどさ」
ロートス様は焦ったように声を上げられ、同僚の方はニヤリと笑う。きっと休暇が終わってからも、このネタで定期的に使われることでしょう。
「本当にアンナはそんなんじゃねえよ」
そういうとロートス様は残っていたベーコンを口に放り込むと、恥ずかしいのか顔を横に向けてしまいます。
まあ、口では否定されていますが、何度も店に運ばれ、デートだなんだと定期的に言われれば どんな朴念仁も「これはデートなんじゃないか? じゃあ俺と彼女は付き合っているのか?」と気づくもの。それでも気がつかないのは、本当の意味で人の話を聞かないラノベ主人公という呪いを受けた人種だけでしょう。
もっともロートス様も口では否定されていますが、シュべーゲリン様を大事に思われているのは事実のようですね。そして踏み込まないのは、自分が戦場で死ぬ可能性が高いと考えているからでしょうか。
「前線は多大なストレスを抱える現場だ。加えて男が中心の世界だから、そっちに走る輩も多い。てっきりおまえもその気があるのかとおもっていたぞ」
「そんなわけないだろ。そういうお前だって女っ気ないだろ。ミハエル」
「俺は筋トレをしてストレスを発散している。なにも問題ない」
「あの毎日限界までやってるトレーニングはストレス発散だったのかよ」
とはいえ、話題は尽きぬご様子。
「お代りと、ウィンナーシュニッツェルにございます」
そこでビールを追加と合わせて準備したのは、ウィーン風のカツレツとも言えるウィンナーシュニッツェル。
「サクッとした歯ごたえと豚肉の油。良い」
「さっきのも良かったけど、前線だと揚げる料理や蒸す料理はないからな」
さすが体が資本の男性軍人。またたく間に消えて行きます。そのような勢いで数々の料理、さらに追加でワインも一本開けた頃、お二人のペースも落ちついてきました。
その時、ロートス様は若干赤い顔をされながらも疑問が口に登ります。
「なあ、バーテンダー」
「はい?」
「なんで、俺たち戦ってるんだろう」
もし外で聞かれれば、特に軍人であるロートス様の立場上、不味いこととなるでしょう。もっとも店にいるのは、同僚の方といまだ夢の中のベアトリス様と私のみ。常連達は少し前に帰っていきましたので、他に聞く人もいません。
「いやさ、おれは守りたいと思ってコレしか浮かばなかった。良いことなのか悪いことなのか。他のヤツらはどうなのかなってふとおもうんだ」
「シュべーゲリン様と初めてお越しになった時も同じような事をおっしゃっておいででしたね」
「そっか。こっちに戻ってくると、気が緩むのかな」
「その疑問には、私よりも適任の方がいらっしゃるようですが?」
洗い終わったグラスを拭きながら同僚の方に視線を送りますが、ロートス様は気が付かず、話題が続きます。
ちょうどその時、来客を告げる鐘がなりました。私はグラスを置き、お二人に耳を傾けつつ軽く来店された方に頭をさげ、開いている席にお客様をご案内します。
「守りたいナニカのために戦う。その戦いに正義も嘘もない。結果の評価を決めるのはいつも生き残った人間だ」
「ミハエル」
「お前の考えは尊い。お前の考えを無理に善悪に置き換える必要などない。そんなものに囚われず、守りたいものを守ればいい」
今のロートス様が求められているのは、世間一般の倫理観からくる正論などではなく、背を押してくれる一言。それも家族や恋人、仲間など近しい存在からの言葉。どうやら同僚の方もそれに気付かれたのでしょう、なかなか男前な言葉を口にされておいでです。
しかし、そんな友の語らいに同意の言葉を送る男性が一人。
「そう。闘争に善も悪も存在しない」
「ハイドリヒ様」
仕事の帰りなのだろうか、軍服を纏った金髪の美丈夫。ゲシュタポ長官という肩書を持つハイドリヒ様が、ちょうどロートス様達とは一席開けたカウンター席に付いたところでした。
「バーテンダー。私がこの店でまだ飲んでいないワインを。後は任せる」
「かしこまりました」
私が、ワインと料理の準備をはじめます。しかし先程お呼びした名前で、すでにお二方はハイドリヒ様の立場をご理解してしまったのでしょう。表情が固くなられます。
もちろんハイドリヒ様もその当たりの機微を読み取られたのでしょう。
「ここにいるのはラインハルト・オイゲン・ハイドリヒという、ただのバーの客だ。外の立場を振りかざすような無粋なことなどせぬよ」
しかし、こんな言葉で緊張感が取れるならば、物事に悩むようなことはないでしょう。いままでの方々と同様に、お二人の警戒の色が解けることはございません。
「本当のことですよ。うちの常連二人がハイドリヒ様の後ろのテーブル席で、酔った勢いで現政府批判をしても、翌日いつも通りに飲みにきていましたから」
「酒の席の戯言を、バーの外に持ち出しはせぬ。それだけのことだ。もしそうするならそこのバーテンダーを縛り上げたほうが、よほど有意義な情報源となるだろう」
ハイドリヒ様は私の方を見て一瞬だけ殺気ともとれる強い意志を乗せられます。しかし昔取った杵柄。この御方の底知れぬ本気ならいざしらず、お遊び程度で動揺してはバーテンダー失格です。
「この通りです。最近はワインに少々凝っておられる一人のお客様ですよ」
「なに。以前カールにワインの味について語られてな。存外知らぬことが多いと気が付かされたのだよ。ならば嗜むのも一興ではないか」
私は、
ドイツの古い白ワイン。比較的寒い地方で磨き上げられたソレは、フルーティーな甘みが特長。しかし甘みの質は若さによるものではなく熟成されたものであり、甘さに隠れるように僅かな酸味がさっぱりとした後味を演出してくれます。
「
お二人もさすがに毒を抜かれたのでしょう、緊張感が消えてなくなったようです。そして、そんなお二人のご様子を肴に、優雅にワインを傾けるラインハルト様。
「卿は戦うことは悪であると感じているのかね。戦わぬことで愛するものが失われるとするならばどうだ」
「いい事とは思わないが、あんたの言う通り悪ではないとおもう」
「そうだ。戦いにおいて総てが平等ということはない。しかし、その存在を互いにベットしている以上は対等だ。ゆえに善悪は存在せん」
ハイドリヒ様の表情には一切の迷いはありません。その言葉こそ真実と確信されているのでしょう。
対するお二人は、若干渋い顔をされておいでです。もちろん思い当たる所があるのでしょうが、倫理観がそれを否定するのでしょう。
「じゃあ、あんたはなんのために戦うんだ?」
「私は総てを愛している。そして私の愛は破壊の慕情であり、闘争は人に刻まれた性だ。故に全身全霊を持って戦うのみ。もっとも今は全力を出そうにも出来ぬ相談だがな」
「おれは、そこまで割り切れそうにない」
愛ゆえに戦う。
結果が第二次世界大戦。三千世界に地獄を生み出す大儀式となっているのだから皮肉すぎる。
そんなお言葉は、お二人の表情からありありと読み取ることができます。しかし真剣な語らいも、美味しい酒のスパイスです。しかしこのままでは、後味がよろしくありません。
「少々暗い雰囲気になってしまいましたね。ではこんなワインなどいかがでしょう」
私は気分を変えるため、あるボトルを取り出し四つのワイングラスに注ぎます。
「これは?」
「名前は
皆様、初めて口にされるのでしょう。軽く回しゆっくりと香りと味を楽しまれます。
「ワイン本来の味を保持しつつ、まるで蜂蜜のような甘さ。色も透き通る黄金であり飲む芸術品といったところか」
「はい。ハイドリヒ様。もし買うことができれば1万マルクは下らぬ一品です。私の経験からでは、戦うことを評価することはできません。しかしながら身の丈に合った言葉で表現するならば、文化に貴賎はありません。今は敵味方に別れようとも、この味を互いに楽しめるという一点においては対等であり共有できるのですから」
普段しないのですが、私も残った小さなワイングラスを手に取ります。
「故に、願わくば早く戦いが終わり、またこのようなお酒を楽しめる時があらんことを」
そして、ゆっくりとグラスを掲げます。
掲げたワインは室内の灯りを纏い輝きます。そしてゆっくりと喉の奥に消えていき、残り香は、まるで霞のように消えていきます。
「そういえば、名を聞いていなかったな」
甘いデザートワインの余韻を楽しんでいると、ふとハイドリヒ様がお二人に名を問われます。名乗ったのに相手の名も知らぬということを避けるための社交辞令的なものでしょう。
「ロートス……。ロートス、ライヒハート」
「ミハエル」
名を聞いたハイドリヒ様は、グラスを置きゆっくりとした仕草で右手を形の良い顎に置き、ふと呟く。
「確か西方方面に所属するリストに名があったな。そして、卿があのライヒハートか」
「落ちこぼれだけどな」
ロートス様は肩をすくませなら答えます。
口ぶりからすると、ハイドリヒ様は全軍の名前と配属が記憶でもされているのでしょうか。どこのトレーズ閣下なのでしょうかね。
しかしハイドリヒ様には別の物が見えているのでしょうか。
「そんなに卑下することはない。私の目からすれば、当代よりもよほど適正があると思うが……。先程の話を聞く限り皮肉でしかないか」
「それも含めて才能が無かったのさ」
「あれ……?」
男らの語らいが続く中、ふと女性の寝ぼけた声が響く。見れば半ば目が閉じているが、ベアトリス様が目を覚まされたようです。
ほらダメですよ、うら若い女性なのですから。涎をそのままにしてはいけませんよ。
私は熱めのおしぼりを取り出すと、ベアトリス様の顔を軽くぬぐわせていただく。対するベアトリス様は目を閉じ、気持ちよさそうにされるがまま。
一通り拭き、目が覚めたのだろう。
「ハイドリヒ卿?」
「ふむ准尉、体力は十分に回復したのかね」
「え……?!」
「なにを驚くことがある。私がこの店に来ることは卿も知っているだろう? たまたま今日だったというだけにすぎぬ」
「え~~~~~~~~~~」
ハイドリヒ様もわざとなのか、的はずれな返答をされておいでですが、対するベアトリス様は、驚きのあまり席から立ち上がり、若干女性としてはどうかとおもうリアクションをとられます。
私は床におちたタオルケットを拾いあげ、奥の部屋にほうりこみます。
先程までの男同士の友好にシリアスな語らい。しかし最後はギャグですか。
こんな感じではございますが、BARグラズヘイムはいつも通りベルリンの片隅にて、皆様のおこしをお待ちしております。
冬コミについては活動報告に書きました。