ミューズの頑張り物語   作:月日星夜(木端妖精)

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2017年10月6日 名前修正

これまで:ミューズ・コーラフロート
これから:コーラフロート・S(スモール)・ミューズ

成長してもMやLやXLにはならない。


第四話 赤犬といっしょ!

 順を追って説明するのならば、正確には「次の日になってから本部へと向かった」、である。

 その一日をどこで過ごしたかと言えば、この世で最も過ごしたくないおうちナンバーワン間違いなしな赤犬さんちの和室である。

 

 見送りの際、ガープさんに「どこから来たのか」とか色々聞かれて、成り行きで帰る場所も身寄りもないと言ったらそうなった。

 所持金もないから宿をとる事はできず、海兵でもないから宿舎に泊めてもらう事もできない。この広いマリンフォード(……だったらしい。びっくりー)、居住区のどこかを探せば子供一人泊めてくれる親切な人は結構いそうなものだけど、そこまで手間はかけさせられない。身近な赤犬に白羽の矢が立つのは当然の流れだったのだろう。

 

 嫌なのか特に何も考えてないのかよくわからないいかつい顔で頷いた赤犬によって私は家へ招待され、熊の巣穴にでも放り込まれた気分になって一夜を過ごした。もちろん寝る時は一人。お風呂も一人。

 ヒノキ風呂とか初めて入ったよ。ヘンなにおいがした。あと、なんか浴室が寂しい。ちょっと焦げ目のついた洋服は自分で洗ってお庭に干させてもらって、代わりに子供用の浴衣的な和服を貸してもらった。

 

 広々とした和風屋敷のどこにも人の気配はなく寂しげで、夕刻になってふらっとやってきた老齢のお手伝いのおばあちゃんがご飯をこしらえていくのを見かけた。

 ……赤犬に家族はいないのだろうか? そうするとなんで私に合うサイズの和服があるのかわかんないんだけど、疑問を投げかける気にはとてもじゃないがなれなかった。

 

 卓袱台を挟んだ先の孤独な大将は、ずーっとおんなじ顔でご飯を食べていた。

 

 

 

 

「おう、来たか」

 

 翌日、大将赤犬に連れられてやってきました海軍本部。

 大口開けて「ひろい」「おおきい」と馬鹿みたいな感想しか言えなかったが、それだけ規模がでかかったのだ。当たり前よね、本部なんだから。でもこんなおおーきな建物見たのは初めてかなー。良くも悪くも普通の家屋しか見た事なかったから新鮮。サボさんとこにいた時はね、もっぱら後方待機だったからね。

 

 そして、ちょっぴり緊張。右手と右足が同時に出ちゃう。

 ああうん。ほんとに「ちょっぴり」だってば。嘘じゃないよ。かちこちになったりなんかしてないんだから。ううー。

 ロボット未満の歩きをしている間にいくつか階段を(のぼ)って、ガープさんのいるお部屋に辿り着いた。

 

「今茶ぁ淹れるから、ほれ、そこに座って待っとれ」

「失礼します」

「しっ、しちゅれ、しまぅ」

 

 流れ的にガープさんに促されたソファーに赤犬と一緒(!!)に座らなきゃいけないみたいだけど、足が震えてきたので遠慮したい。したいけど、文句言えない……。

 どうにか自分を奮い立たせて赤犬の隣へ座る。どこの家庭にあってもおかしくない感じの新緑色のソファーはふかふかで、しっかりとお尻と背中を受け止めてくれた。高級なんだろうなあ。あんまり私、価値とかわかんないけど。

 

 それでもって両手をついてお尻を持ち上げ、心持ち赤犬から遠ざけるようにずらす。

 この動作には細心の注意が必要だ。もしお隣さんの岩みたいなお顔を向けられたら私はきっとここで世界地図を描くことになるだろう。

 

 中将手ずから淹れて頂いたお茶を目の前のテーブルに置かれても、手を出す気にはなれなかった。

 それは失礼に当たっちゃうかもだけど、全然喉乾いてない……いやカラカラなんだけど、手を動かすのも(はばか)られるというか……。

 ああー、海軍ってかたっ苦しくて嫌い!

 真っ直ぐ海軍大嫌い。海兵(予定)のミューズだよ。

 

「どうじゃ? サカズキと一晩過ごして。窮屈だったじゃろ!」

 

 ドッカと向かいのソファーに座ったガープさんがバリバリせんべいを食べながら話しかけてくる。

 いや、あの、そういう事は本人の前で言わないで欲しいです……はぃ。

 というかぜ、ぜんぜん、ぜんぜんぜんそんな事は? ありませんでしたし、です。はい。

 

「せんべい食うか?」

「あぇっ、ぃや、……はい」

 

 笑いかけられながら手渡されたせんべいはおおぶりで、私の手の平よりおっきくて、醤油の香ばしい匂いを纏っていた。

 海苔のササクレ立った表面を眺めながら、恐る恐る口に入れる。

 ゆっくり力を入れて噛み砕き、零れかけた欠片を指で押しとどめて口の中へ入れた。じゅわっと唾液が出る。味、濃い。でもわかるのはそれくらい。欠片を零さないよう、唇を指でなぞってぺろりと舐めとる。

 

 二人の強者の重圧に挟まれているとそういう小さな動作でさえ体力を削って仕方ない。

 はやくこの状況終わってほしい。海兵になれさえすれば速攻で大将になって速攻で海賊に転向するから、はやくはやく……ガープさんが言ってた「他の者」って人達、きてー!

 

「失礼しますよ、っと。なんですガープさん、急に呼び出したりなんかして」

「それも大将を二人……おお~サカズキもいるじゃないですか、こりゃただごとじゃなさそうだ」

 

 来たわ。大将が倍ドン。

 オイオイオイ死ぬわ私。

 

 不意に扉を開けて姿を見せたのは馬鹿みたいに背が高い二人の男。

 誰もが知ってるだろう、海軍大将青雉と同じく黄猿だ。

 

 私はというと、二人をちらっと見てすぐ目を逸らした。

 いやいや、だっておかしいじゃん! なんで大将招集してるの?? バスターコールより酷くない??

 ていうかでかい。でかいよ。ここにいる人達みんなでかい。巨人の集落に迷い込んでしまった気分だ。そんなのが四人もいると部屋も狭く感じてくる。生きた心地がしない。

 

 そしてなんか空気が重い。

 強い奴らが集まってるからかと思ったけど、そういうのじゃなくて、こう、青いのと赤いのの間に剣呑な雰囲気がある気がして……間にいる私はぺしゃんこになりそうだよ。

 

「……で、そこで縮こまってるべっぴんさんはなんでしょ」

 

 それまでの圧力を感じさせないような軽い調子で問う青雉に、視線を感じて顔を上げれば、彼の眠たげな眼が私に当てられていた。

 わー、あのアイマスクいいなあ。あれがあれば私も安眠できそうだなー。それよりも永眠する方が先かな?

 ……なんててきとうな事を考えていないと訳もなく泣きそうになるので、必死にお気楽思考を保つよう努力する。

 

「うむ。お前らを呼んだのもその子に関する事で――」

 

 ガープさんの説明も右から左。ここに集まった男達の交わす会話の九割は私の頭の上を素通りしていった。

 私の簡単なプロフィール……六式全般が使える事や、実戦を経験していない事などを語っているのは聞こえた。

 そして新たに自己紹介をさせられたのも覚えている。

 体が勝手に動いて敬礼してはきはき喋ってたような気がした。

 ……声が上擦ってたかもしれないけれど、それは許してほしい。

 

 こういう時、どこか違う世界の誰かの記憶を持っていて良かったって思う。

 経験してないのにそういう経験があるからある程度対処できるし、予測もできる。

 この地獄絵図でも私はなんとかやってけそう。

 

 私が7歳であると告げた時の青雉と黄猿の反応は対照的だった。

 僅かに目を見開いて警戒感を滲ませ、面倒そうに溜め息を吐いた青雉。

 目を丸くして嬉しそうに口を開き、有望株だと私を評した黄猿。

 

 こそばゆいような、心苦しいような……面倒くさい存在でごめんね。

 でもこれ成り行きだから。私なんにも悪くないから。 

 

「わしゃあこいつをわしの下に置く事にした」

「! ……いやあ、じゃあ俺も……その子の上司に立候補するとしようか」

 

 たびたびガープさんから与えられるせんべいをガジガジ齧りつつ餌付けされる猫のような気分を味わっていれば、なんだか緊迫した雰囲気が戻ってきた。

 ……んんっ? 今なんかすごい恐ろしい決定が聞こえたような気がするんですけど!

 お隣さんの赤い人から、私を部下にするとかなんとか……ひええ! それ絶対厳しい奴じゃん!

 短い海兵生活を窮屈な思いで過ごしたくないよう。

 

 その点立候補してくれた青雉のところって良さそうだよね。サボっても許してくれそう。

 青雉のところに行こうかなー。

 でもそうすると、私の階級ってどうなるんだろう。やっぱり雑用から? やだよそれは。私、早いとこ月にも行かなきゃなんだから、ちんたら階級上げてる暇なんかないんだい。

 

「……どういうつもりじゃ」

「若すぎる芽が萎びるか染まるか見ているだけってのは酷でしょうよ……」

 

 睨み合う二人の大将。青雉の言葉には実感に似た何かが伴っていて、きっと過去、赤犬に『潰された』海兵は多いのだろう。悪意なく正義の下に……とか?

 ほらぁー、やっぱり赤犬の部隊って厳しいんだ!

 なんかそういうの見た記憶あるもんね。いや、「見た記憶」を見た記憶がある、か。ややこしい。見ただけだから実感が伴わないけど、わかることはわかるんだから!

 

「まあまあ。ボルサリーノ、お主はどうじゃ?」

「………………え? ああ、わっしですかい? ん~~……その子元から強いんでしょう? 鍛える手間がかからないってのは良いですねぇ。それに優しそうだし……くれるってんなら貰いますよォ」

「…………」

「…………」

「…………?」

 

 三人の間で火花が迸る。

 いや黄猿は特になんも考えてなさそう。

 というか途中から話聞かずにぼうっとしてた気がする。それでいいのか海軍大将。

 

「ああもう、これじゃあ話し合いにならんわい。よしミューズ、お前が入る場所はお前で決めろ」

「………………え? ああ、はい。……はい?」

 

 ん、やっべ、話聞いてなかった。

 なんだろ……みんなこっち見てる……そんなに見るなよい、照れるよい。惚れちゃいやだぜ、いくら私がかわいいからって。

 

「ま、気楽にな!」

 

 心の中だけでふざけながら恐縮していれば、再度ガープさんがさっきの言葉を伝えてくれた。

 いやあ、自分で決めろって言われても……誰を選んでも遺恨が残りそうで怖い。

 

 第一候補は青雉だ。ガープさんが私をこの三人のうち誰かに任せようと言い出すとガキの子守なんかしてられないぜとでも言いたげな顔をしていたのに、赤犬から庇ってくれたし、絶対良い人。

 

 けれど、私の目的……頂点まで(のぼ)り詰め、海賊になって月へ行き、ゴッドを仲間にして私の海賊団を作る大作戦を決行するには、赤犬が一番の近道だ。

 だって彼の言葉は「強い者には相応の地位を」だし、二等兵三等兵はすっ飛ばしていけそうな気がする。

 

 が、赤犬を選べばせっかく気にかけてくれた青雉の心遣いを叩き落とす事になるし、青雉を選べば赤犬の心情から外れた行いをしたとして敵視されそう。……そうでなくともこの二人はあんまり仲が良くないっぽいし、以降良い顔はされないだろう。なんという二律背反。7歳の子供にそんな選択迫るなんて酷くない? 中身は大人だけどさ。

 

 だったらここは発想の転換。この二人のどっちも選ばず、黄猿のおじきで決まり!

 ぼーっとしてて、のんびりしてて、でもめちゃくちゃ強くて、融通も利きそうな彼の部隊。直属の部下には桃太郎? 金太郎? 的な名前の覇気使いがいた覚えがあるから、覇気の強化にももってこい。

 ……あれ? その人ってまだ海軍じゃないんだっけ? うーん、細かい事まで思い出そうとするとちょっと厳しいところがあるな。記憶力は良い方だと思うんだけど。

 

 でも確実に階級鰻登りになるかはわからない。それが確かなのは赤犬のところだから、やっぱり赤犬のところに……いや怖いし、面倒見てくれそうな青雉のところ……いやいや二人の大将に挟まれるのはごめんだし、関係ないって顔してる黄猿のところで……それだと時間かかっちゃうんだってば!

 

 

 うーんうーんと頭を抱えて唸る事数十分。

 痛いくらいの無言の中にバリボリとせんべいを齧る音が混じって、やがてそれが空袋を探る手の音に変わった時、私は顔を上げた。

 

「わっ、私は、大将赤犬について行きます!」

 

 苦渋の決断だった。

 赤犬のところじゃ10時と3時におやつも食べられなさそうだし、体育会系っぽいし、そもそも赤犬は顔が怖い。

 でもこの決断は間違いじゃないと私は思う。

 だって、たぶんこれが一番私の夢に近づけるしね。

 

「おいおい……いや、生中な覚悟で言ってる訳じゃなさそうだ……」

「なんだい? サカズキのところに行っちゃうかァ……そいつは残念だねぇ」

 

 どんな言葉が降ってくるのだろうと気を付けの姿勢で待っていたのだけれど、二人が告げたのはそれだけだった。

 

「話は終わりですかい? じゃあ……わっしはもう出なきゃならんので、この辺で」

「おう、忙しいとこ無理矢理呼び出してすまんかったのう」

「いやあ、断りはしませんよ」

 

 朗らかな感じで黄猿が出ていくと、青雉も私から視線を外してポケットに手を突っ込み、一度大きく肩を上下させると、ガープさんへと顔を向けた。

 

「じゃあ俺も、サボるのに忙しいんでそろそろお暇するとしますよ」

「ぶわっはっは! おおそうじゃ、サボるのは忙しいな! わかるぞ」

 

 キリッとした顔で言う事ではない。

 ええ……中将と大将がこれでいいのかな。

 たぶん書類仕事が面倒とかそういうのだと思うけど……ああ、私がサボれるかなって思ったりしたのはあくまで所感だから。本気じゃないので、サボり魔と一緒にされるのは心外。

 

 そういうサボりとかに凄く厳しそうな赤犬はだんまりを貫いている。

 相手が同格だからか、それともあんまり仲の良くない青雉だからか、それはわからないけど、なんとなくイメージと違う気がした。噛みついたりするかと思ったんだけど……。

 まあ、ここで喧嘩されても私が困るだけなんだけどね。死因が喧嘩に巻き込まれたからとか末世までの恥だよ。

 

「よおし! 乗りかかった船は岸に着いた! 後はサカズキ、お前の仕事じゃ」

「ええ、わかっとります」

 

 ずんぐりと立ち上がった赤犬を横目で窺い、それから、この後の自分の行動を思索する。

 ……やっぱ考えるのはいいや、流れに任せよう。話は纏まったみたいだし、これでやっと息苦しいのも終わる。

 

 ここで待っているよう言いつけられたので、そわそわする体を落ち着けるようにソファーに沈めた。

 部屋を出ていく赤犬を見送り、しばらくして。

 ふと、私、自己紹介してばっかりで誰からも名前とか階級とか教えられてないな、と気が付いた。

 昨日別れたガープさんやさっきちょっと話しただけの青雉や黄猿はまだしも、一晩同じ屋根の下で過ごして今さっき直属の上司になったはずの赤犬まで名乗りもしないのはどういう事だろう。

 

 ……知ってるだろうから必要無いと判断されたのかな。それとも階級さえ知ってれば問題ないとか?

 階級の方なら遠くない内に知る事になるだろうし、その線が濃厚かな。

 私は彼らの事を知っているから、それがいつになったってなんの問題もないんだけどね。

 

「ところでミューズ、お主どこでサカズキの事を知った?」

 

 問題あったわ。もうすでに口にしちゃってたわ。

 

 なんかその辺で、と大焦りする内心を隠してなんでもないように答えれば、納得してもらえた。

 今の質問は特に私を探るようなものとかではなく、広報が上手くいってるのかを気まぐれで確認しただけらしい。

 大将はよく喧伝されてるからね、子供でも知ってておかしくない。

 しかし知識があるからってそれを口に出しちゃうとまずい場面もあるだろう……これからは言葉選びに気を付けなくちゃ。

 

 

 

 

 さて、雑用嫌さに赤犬を選んだ私は、すぐに後悔する事になった。

 その日の夕方、書類が作られて正式に海軍に登録された私は、真新しく小さな制服に着替えると、自分の階級も知らされないまま数多の海兵の中に放り込まれた。

 整列しろだの訓練場を走れだの、周りを窺えば何をすれば良いのかはわかるけれど、明確な指示が無かったからいまいち行動に自信が持てなくて周りに腫れものを触るみたいに扱われてしまった。

 

 だいたいみんな大人だし、そこに子供の、しかも華奢な女の子が来たとなればびっくりするだろうし、接し方もわからないよね。

 一般の子供にならそういう態度で向かえばいいだろうけど、私は彼らの同僚になった訳だし……そこのところは、赤犬が私を連れてきてなんにも言わずに置いていったのをみんな見てたから、疑いようがない。

 

 そして子供が訓練(主に走り込み)に混ざったり雑用仕事をしてても誰もおちょくったり馬鹿にしたりする様子はない。

 そういう事すると死ぬからだろうなあ、冗談抜きに。

 

 雑用は嫌だ、雑用は嫌だとスリザリンを嫌う男の子のように念じていた私だけど、久しく忘れていた体育の授業みたいな時間は結構楽しくて、その後に食堂で食べたマリンカレーは絶品だった。

 これだけでもう海軍に入って良かった! って思えちゃったくらい。優し気な同僚さんにクリームソーダも奢ってもらっちゃったし♡

 

 そうやって数日の間周りに合わせていれば自然と溶け込めるもので、苦労のくの字も不安のふの字もなく順風満帆。訓練は毛ほどもきつくない。

 男臭いし汗臭いしみんな必死というか決死というかで雰囲気はきついけど、人情が無いって訳でもなし、スポーツに力を入れた学校みたいな感じ。厳しい顧問の先生がいる、ね。

 

 訓練場でメニューをこなしていると不定期で赤犬がやってきて目を光らせるのはまさに青春。

 7歳の私が知らず、けれど知識と記憶の中にある輝かしい数年間を味わえるのは稀有な経験で楽しい。

 うーん、海兵エンジョイ勢。革命軍も良かったけど海軍もアットホームでいいね。

 

 なんて満喫する私だけれど、じゃあ何が私を後悔させたのかと言えば……海兵としてのお仕事が終わった後の話だ。

 

 海軍には女性の海兵ももちろんいる。赤犬の隊には見当たらないけど、食堂で見かけたし、廊下で挨拶もした。

 当然女性用の宿舎ってものもある。

 だというのに、私の帰る場所はあのお屋敷なのだった。赤犬の家。

 ガープさんに促されてここで過ごさせて貰っているんだけど、あれだよなあ。たぶんガープさんがなんか言ったんだろうなあ。

 

 真相は不明。だって赤犬はなんにも話してくれない。というか仕事の時間が合わない。

 

 夕焼け空もやや暗がりに覆われて、逢魔が時。ブラック気味な仕事をさっさと終わらせて元気に家路につくまでは気分も良いけど、誰もいない薄暗くて広い平屋に足を踏み入れれば、途端に気分はダウナーだ。

 

 海に出ていなければ夕飯時に赤犬は帰ってくる。その時間、お手伝いさんがやってきてご飯を作るまでは、私はこの家に一人きり。

 今生で独りぼっちは初めての経験かもしれない。いや、前世とかも経験した事はないけれど、寂しいのは確か。

 

 工作する気力もわかず、家を練り歩いて探検して、蔵で見つけた掃除用具を引っ張り出して廊下を雑巾がけしたり自主トレしたりして時間を潰す。

 赤犬が帰ってくれば小さな卓袱台を囲んで夕餉(ゆうげ)だ。苦手意識を持った相手とわざわざ二人で食べなくとも、と一度は思ったけど、ほら、なんか食べる時間合わせないとすっごい怒られそうな気がして……。

 いや、彼は何も言ってないんだけどね。私が勝手に合わせてるだけ。

 

 むむーん。会話がないのが辛い。

 沈黙は痛みだ。二人いる時でさえ独りぼっちに感じてしまう。

 けれど怖いので自分から話しかけようとは思わない美少女であった、まる。

 

 

 

 

 それからまた数日過ぎて、今日は赤犬はオフの日。

 大将にだってお休みはある。休む時はきっちり休むタイプらしい彼は、しかし今日も今日とて口をみっしり閉じている。

 初めてのお休みを貰った私は朝から彼の様子を窺っているのだけど、あくび一つせずむっつり顔で新聞を広げている。

 

 不必要な事は一切喋らないというか、むしろ必要な事さえ喋らずに新聞を読むか盆栽を弄るかしている赤犬。

 昭和時代のお父さんみたい。……この世界には「昭和」なんてものはないだろうけど。

 そうなると私はお堅いお父さんへの接し方を見失ってしまった思春期の娘かな。

 こんなかわいい娘を持てて幸せじゃないの。かいぐりしてくれてもいいんだよ?

 

 ……赤犬に頭を撫でられる想像をしてみたけど、私の頭がマグマに飲まれて妄想はすぐに幕を閉じてしまった。

 赤犬が私の頭に手を乗せる時は、たぶん私が彼の敵になった時で、トドメさされる感じなんじゃないかな。

 寒気がしてきた……海賊を目指す以上、そういうゲームオーバーもあり得る訳だよね。

 どうか現実になりませんように……というか私の目的がばれませんように!!

 くわばらくわばら……。

 

 

 

 

 大将赤犬は無口である。

 と言ったのは私だけど、それはちょっと違った。

 赤犬は目でものを言うのだ。

 

 具体的には、あれ。

 畳の上にお茶零しちゃった時に「おんどれ何してくれとんじゃあ……!」と睨んできたり、ご飯食べてる時に行儀悪くすると「その背骨今すぐ圧し折ったろかァ……!」と睨んできたり、うっかり縁側でお腹出して寝てたら「冷えるじゃろ……わしのマグマで温めちゃろうか……!」と見下ろしてきてたり。

 

 うーん、すっかり猫背が直ってしまった。粗相をすると怒鳴られそうだから、自主的にお行儀良くしてしまう。

 この短期間で廊下を歩く時に静々と歩く技法を身に着けてしまったし音を立てずにお味噌汁を飲めるようになった。

 あと凄いすげぇ嫌いだったナスのお漬物が食べられるようになった。

 お残ししたら命はないよなーと思って気合いで克服。はあ、こんなに頑張っても誰も褒めてはくれないのだ……ご飯を全部食べたら満面の笑みで頭を撫でてくれたお母さんはもういない。家事を手伝ったら褒めてくれるお父さんもいない。……寂しいなー。てんさげー。

 

 このユーウツを打ち砕くには、とにかく誰かと会話をしなくちゃ!

 そう思った矢先に私の階級が判明した。

 

 ミューズ軍曹。

 軍曹、である。それってどのくらい偉いの? と女性の将校を捕まえて聞いてみれば、階級はかなり下の方。

 なんだぁと残念に思ったのも束の間、これでも異例の昇進速度だ。

 

 だからみんな私に関わりづらくなってしまったみたいで、話しかけても目を逸らす者まで現れる始末。

 赤犬が直接連れてきて、一週間も経たずに数段飛びで昇進して……明らかに虎の子。はたまた赤犬の隠し子か。

 なんにせよ下手に触れれば火傷では済まない。いや、火ならまだ良い方だ。ミューズの背後にいるのは赤犬だ、マグマで骨まで焼き尽くされるやも。

 

 とかいう噂を聞いてがっくりと肩を落とした。

 なにそれー、酷い誤解だよ。たまたま昇進する機会が連続できて、たまたま赤犬が一緒にいただけじゃん。……大将がたまたま一緒にいるのがおかしいのか。

 でもなー、敬遠するような人間じゃないんだけどなー、私。めっちゃかわいいのに。だから昇進もはやいのー。みんなもかわいければぱぱっと階級あがるんじゃない?

 

 

 しかし話し相手が周りにいないんじゃ、鬱憤晴らしができないじゃないか。

 おかげで自主トレと屋敷の掃除にいっそう身が入った。うーん、地味なパワーアップ。コアラししょーも地味だと思える訓練が一番大事って言ってたよーな。……こんなんで強くなっても嬉しくなんかないぞ。

 飛ぶ斬撃を見た事あるか? 昨日手刀でやったよ。できちゃったよ。自分を追い込みすぎな気がする。

 

 ……この大海賊時代、上には上がいる。果てしなく空高くまで際限なしに。

 まあ、だから本当はどんな手段だって強くなれるのは大歓迎。パワーアップを実感するのは今のところ唯一の楽しみだし。それ以外に楽しみがないのがつらいのー。

 食堂にあるクリームソーダはめっちゃ美味しいけど、ぼっちでキメるクリソは味気が無くてしょうがない。

 記憶の中の誰かだって見知らぬ人と一緒に食べてるし、クリソは親しい人と笑い合いながら食べるのが一番オツなの。

 

 この際赤犬でもいいから一緒にクリームソーダ食べようよー。

 お家に帰って、私も赤犬を見習って目で訴えてみるも、一瞥もしてもらえずに終わった。

 うーん、ひょっとして私って女性的な魅力が皆無?

 ……ふて寝しよ。

 

 そうそう、六式もパワーアップしたのだ。

 でも「生命帰還」は覚えられてないよ。

 だってもうこれ以上体、削れる部分無いしね!

 抉れるぞ、胸。

 

 

 

 

「出動じゃあ、ついて来い」

「はっ! ただちに!」

 

 着慣れてきた軍服に袖を通し、ちょっとキツめの制帽をかぶると、非常に珍しい事に赤犬が話しかけてきた。

 この怖い物言いにはとりあえず決め顔で「ただちに!」って答えときゃあ怖い顔されずに済むのだ。学習したよミューズは。

 

 出動……本部へ行くぞって声かけではないだろう。……ああ、船に乗れってこと?

 それ以上何も言わず、正義のコートを翻して家を出る赤犬を追って本部へ。招集されていた海兵に紛れ込んで大将赤犬の指揮する軍艦へ乗り込む。簡単に言ってるけど、航海は数日にも及ぶのが基本だ。手続きだってあるのに、直前に言うんだからもー! もおーう!

 

 船が海に出れば、座学で習った通り船乗り知識を総動員して持ち場で忙しくしつつ、大将が出張るほどの何かがあるのか……と戦慄していたのだけど、なんのことはない、今回の出動はただの巡航だった。訓練の一環でもあるのだろう。そして大将が定期的に海に出るならそれは海賊への牽制になるし、治安向上にも繋がる。

 

 青々とした海。晴れ渡る空。偉大なる航路(グランドライン)は今日も雄大。この景色、私の海賊船の上から見たかったな、初めては。

 夢を胸に宿した時の私は、まさか自分が海兵になって軍艦の上から海を眺める事になるだなんてちっとも予想していなかった。

 人生って不思議だね。だから誰かの記憶があっても生きるのが楽しいんだ。

 

 潮風に晒した自慢の金髪を撫でつける。

 だいぶん短くした柔らかい髪。……私の決意。

 決意なんて言っても格好良い事は一つもないんだけど。

 

 チャームポイントの三つ編みが無くなっちゃってるのは、あれ。海軍に入ってすぐ、邪魔な三つ編みを切るよう赤犬に言われたのだ。

 正確には目で促された、が正しいか。会話はなかった。

 

 何度か私の三つ編みに彼の視線を感じた事があって、ある日に卓袱台の上に()(ばさみ)があったから、ああ、鬱陶しいって思われたのかなって。

 縁側に広げられたままの新聞はそこで髪切れとかそういう意味なんだろうと判断して、新聞紙の上に正座して三つ編みを切り落とした。

 

 ……お母さんと同じ髪型。いつも、編まなきゃだめよって言われてて、気に入ってたけど……。

 未練、だよね。

 死んだ家族への未練は、これからの夢の足枷になる気がした。

 だから断ち切った。その機会を用意してもらわなければ思いつきもしなかっただろう自分の心の弱さを確認しながら、鋏を握りしめた。

 

 ブツブツと断たれていく髪の毛一本一本の断末魔は、お母さんやお父さんに甘えていたいって泣く子供の私の悲鳴だった。

 ……これからの私に、それは必要ない。

 そして、こうやって区切りをつけて生きていくのは、肉親を失った誰しもが通る道。

 私の場合は、それがちょっとだけ遅かったのだ。

 

 軽くなった頭を振るとぱらぱらと短い毛が落ちる。

 これで私は本当に一人。もう繋がりも思い出も私の下には残っていない。

 

 ……なんて黄昏ていた私は、背後から近づいてきた赤犬の「何をしちょる」という怒気を孕んだ声にびっしり固まって、それから全部私の思い込みだった事を知ってふて寝した。

 まさか新聞紙とか鋏とか置きっぱなしにしてるだけだとは思わなかったんだもん……そういう意味なんだって読み取っちゃうのも仕方ないでしょ。

 急な呼び出しで片付ける暇もなかったらしく、不機嫌に新聞紙を叩いて髪の毛を庭に落とす赤犬を柱の陰からそっと窺いつつ膨れる私であった。

 

 ……はぁ。まあ、これで新生ミューズ。ナマの私の第一歩。

 新しい自分に乾杯。

 誓いと決意と出発のクリームソーダは、少し涙の味がした。

 

 

 

 

「各員配置につけ! 海賊船だ!!」

 

 美少女の涙に酔いしれ……もとい回想に浸っていれば、周囲が慌ただしくなってきた。

 傍を駆け抜けていく同僚を見送って、甲板の方へ移動する。

 波の向こうにいかにもな海賊船が数隻。軍艦は見えているだろうに逃げるでもなく向かってきている。

 それを眺める赤犬は、腕を組んで静観の構え。

 代わりに副官の人が声を張り上げて指示を出している。

 

 こういう時一番上の人はどっしり構えてなきゃいけない決まりでもあるのか、それとも別の思惑か、船と船が近づき、先に軍艦の射程距離へと入ってきた海賊船に砲弾が飛んでいく。

 降伏勧告とかそういうのは一切なかった。火薬の破裂音なんかに気を取られてその時は全然気にしなかったけど、後で考えてみるとそれっておかしいよなあって思った。

 

 向こうもこちらを射程内に捉えたのか、海面に現れる水の柱の隙間からどんどん鉄の塊を飛ばしてくる。

 その一つが真っ直ぐこの甲板へやってくるのを見つけて、けれど私は一切動揺せず赤犬を見た。

 ちゃちな砲弾など赤犬が撃ち落してくれるだろう。だから、結構迫力があって怖いなーと思ったあれは脅威ですらなくて……。

 

 そんな風に高を括っていた私は、どうにも赤犬が動きを見せないのに困惑した。

 放物線を描いて落ちてくる砲弾。赤犬は目もくれず、海賊船に視線を注いでいる。

 気のせいかややへの字口になっているような顔を注視していれば、不意に赤犬が私を見た。

 

「!」

 

 意図を察するより早く床を蹴って飛び上がる。階段を駆け上がるように瞬時に何度も空気を踏みつけ、空へと舞い上がった。月歩。からの~……蹴り!

 ガイン! 大きく硬質な音が使用した右足の芯まで響く。

 武装色を纏わせるまでもなく、されどこの場で破壊せずあくまで弾くに留められるよう加減すれば、上手い具合に砲弾を横の方の海へと逸らす事ができた。

 

 遠くに響く水音と共に甲板へ戻る。

 赤犬はもう私を見てはいなかったけど、ようやっと私がこの船に呼ばれた理由がわかった。

 

 力を見られてるんだ。

 

 それは他の海兵同様。されど唯一違うのは、同僚たちはこの戦いが初めてではないだろうけれど、私はこれが初の実戦であること。

 私に戦いの空気を知る機会をくれた……と解釈してもいいだろう。

 

 また砲弾が飛んでくる。赤犬は動かない。空を飛んで蹴り飛ばす。

 二度あれば自分の考えに確信が持てる。向こうで火の手を上げる海賊船を眺めながら、今回のお仕事の目的を把握した私は、それからも何度か砲弾を弾く事に専念した。

 

 赤犬が初めて動きを見せたのは、海賊船団のうちの一隻が逃走を図った時だった。

 

「"大噴火"!」

 

 その右腕をマグマと化し、振り抜くとともに大質量を放つ。

 名前の通り火山の噴火のような攻撃を受ければ、船なんてひとたまりもない。

 火達磨になって海の藻屑と消えていく船に、残った海賊船達は大慌てだ。

 この軍艦にまさか大将が乗っているとは思わなかった、とかかな。とにかく騒然とした様子が遠目にわかって、それから、もう逃げる事も捨てて特攻してきた。

 

 ちょっと困ってしまった。

 向こうはもう砲弾を撃ってこないから私にやれる事はない。持ち場を離れると怒られそうだし……。

 そして赤犬はまた動かずだんまりになってしまったので、どんどん近づいてくる船を見守るしかない。

 

 もちろんこちらの船も動いたり砲撃したりしてるんだけど、結局一つ残ったのがぶつかってきた。

 揺れと敵が乗り込んでくる事に動揺しつつ、指示を待つ。

 死ね海軍! と薄汚れた海賊達が飛び込んでくる。この場に集う海兵達も銃や剣など武器を持って海賊どもに乗り込まれないよう応戦する。

 

「一人も逃がすな! 徹底的に殲滅せよ!!」

 

 雄叫びや怒号の中に、赤犬の馬鹿でかい声が通り抜ける。

 彼の考えはあんまりわからないけど、こうして敵を引き寄せたのは確実に全員を殺すためなのだろうか。

 捕らえるって選択肢はないのかな。

 

「大将首! 俺様が貰ったぁ!」

 

 なんとか前線で海賊達を押し留める海兵に私も加わろうかと悩んでいれば、なんだかいかにも船長さんらしき人が凄い跳躍力で赤犬にまっしぐらしてきた。

 手にした剣をぎらりと輝かせ、宣言通り赤犬の首をばっさり両断。

 

 ……鉄が溶けて嫌な臭いが漂った。

 

「え……」

 

 刀身を殆ど残していない剣を鼻水垂らして見つめる推定船長さんは、赤犬が無造作に振るった腕で吹き飛ばされて……うわこっちに来た!

 ちょうど私の目の前、足元に転がる船長さんは白目を剥いて気絶している。

 うーん、弱い。軍艦に向かって来たのはただの蛮勇か。能力者でもないみたいだし……。

 

 というか、この人ただ殴られただけで死んで無いみたい。赤犬が一人も逃さず生かさずすると思ったのは勘違いだったかな。そこまで冷酷ではなかったか。

 じゃ、私の役目は船長さんをふん縛る事だね。縄……は無いからとりあえず押さえつけて無力化して、と。いやもう気絶してるからあんまり意味ないけど、教科書通り教科書通り。

 あ、海賊さん達が「船長がやられたー」「船長を取り返せー」「船長を助け出せー」って騒いでる。結構慕われてるんだ。カリスマ……私も部下に慕われる船長になりたいなあ。

 

 でもこうなったらおしまいだよね。私も逃げる時はちゃんと逃げよう。勝てない戦いに向かっていくときは、自分の魂を賭ける時だけでいい。

 なんもかんも海賊になったあとの話だから、海兵の今は関係ないんだけども。

 

「何をもたもたしとる。早うとどめを刺さんかい」

「へっ?」

 

 おっきな背中に膝を乗せて、海賊さんの後ろ頭をぼーっと眺めていれば、すぐ近くに赤犬の声。

 見れば、目の前に仁王立ちする怖い人の姿が。

 ……えーと、今なんて言ったんだろうこの人。トドメを刺せ? ……え?

 

「えっ、ぃや……え?」

「殺せ言うとるんじゃ。できんのか」

「ぇあっ、そ、ころ……なんて、だっ……て、もう捕まえて」

「ごちゃごちゃ言わんでさっさとせんか!」

「うあ、は、はい! はい! ただちに!」

 

 上から怒鳴られると体中が竦みあがって、命令に従う以外の道が勝手に閉ざされてしまった。

 咄嗟に持ち上げた右腕は今までの訓練で積み上げてきた技を使うために人差し指をたてて船長さんの背へ狙いを定めている。

 でも、でも、この指を撃ち出すなんて……そ、そうしたらこの人が死んじゃう。

 

「船長ぉー!! 今助けます!!!」

「クソ海軍が! 退けやァ!!」

 

 見開いたままの目の外側に、必死な声が聞こえた。

 遠くから聞こえる声と、傍に立つ赤犬からの圧力に、帽子の中が蒸れるくらいに汗が滲む。

 ……はっきりわかるくらい、顔を伝うものもあった。

 

 船員達の支え。絆。この人の人生。すべてをたった一本の指で奪う。

 

 ただひたすら怖かった。名前もわからない感情が溢れてしまいそうになるのが。

 人を殺すのを忌避しているのか、人殺しになるのが嫌なのかわからないけど、とにかく嫌で嫌で逃げ出したくて、でもきっとそうすれば赤犬が私を殺すだろう。

 

 私が生きるためにはこの船長さんの命を奪うしかない。もたもたしてはいられない。ぐつぐつと煮えたぎる音が耳元でする。

 

 

 ……人が死ぬって、もっと遠い世界のお話だと思ってたんだけどな。

 だってほら、お父さんやお母さんが死んじゃって、私がそれを知った時、怖くなって、寂しくなって、世界が遠退いて、くらくらして、たくさんたくさん涙を流して泣いた。

 

 そういう事が起こるのが死ってやつでしょ。

 そう簡単に起こっていいものじゃないよね。そう簡単に奪っていいものじゃないよね、命って。

 

 海賊だよ。海賊だけど、なにも殺さなくたって……海兵は海賊を捕まえるのがお仕事だって先輩も言ってたんだから、やんなくたって良いはずなのに。

 

「やれ」

 

 静かに告げられた言葉に、私はぎゅっと目をつぶって、首を振った。溢れた涙が焼けるくらいの温度でまぶたを濡らす。

 ぴくり、赤犬が身動ぎした。それから、大きく動く気配がして……。

 

指銃(シガン)

 

 銃弾が人体を撃ち抜くような派手な音が響く。

 私の指の中で反響して、骨を伝って体中で暴れ回って、どこに出ていくこともなく体の中へと消えていく。

 人差し指がその大きな背中へ埋まっていく様を、私は目を開けて見届ける事にした。

 私は……(おれ)も海賊になるんだから。

 同じ海賊の末路から……自分のする事から目を逸らしたりなんかしたくない。

 

「海賊は」

 

 けれど、私は後悔した。

 人の命をこの手で奪う瞬間は目に焼き付いて離れなくなってしまったし、肉を脂肪を繊維を割って進む指の感触はよりはっきりと脳に刻まれた。この感触は、向こう半年は指からとれないだろう。

 

「海賊になった時点で更生不可能。牢獄に引き渡すまでもない」

 

 ……でも目を閉じたままこの人を殺してたら、私、絶対に海賊にはなれないだろうなって、そんな予感がした。

 だからやっぱり、私は後悔してない。目を開けてて良かった。

 おかげで気分は最悪だけど、ちょっぴり心が強くなれた気がする。

 

(ごめんね)

 

 そう胸の中だけで呟いたのは、この人に向けてなのか、切り離そうとしている弱い自分への手向けなのか曖昧で、零れ落ちた涙は赤い血に混じってドス黒く染まってしまった。

 

 なんか、世界が変になっちゃったみたい。

 変になっても、何もかも続いていくんだけど。


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